18 邪竜の後継者

「最初から、生き残ろうとは思っていなかった」


 擦れた声で、キーリィは呟いた。


「ほんとうは君かアルフレドを邪竜に変えて、僕は生贄いけにえになっても……いや、これは嘘だな。みっともなく、生きようとしたかもしれない。だから、この結末は少しだけ悔しいよ」


 荒れ果てた墓地の真ん中に倒れこんだ彼には、もはや指先ひとつ動かす力も残されていない。二つの月はかすみ、東から広がる薄明が星々に休息をもたらす。妖精郷ようせいきょう狭間はざまの世界へ還り、イルミンズールは消えていた。


 風はすこやかで、心地よく冷たい。


「人間は、しぶとい。どれだけ破壊の限りを尽くしても、幾千幾万いくせんいくまんの命を奪っても、やがては大きな力にくじかれる。それは闇祓やみばらいであり、軍隊であり、あるいは円卓の騎士、そして僕にとっては君だった」


 すでにキーリィの目は光を映していない。


 彼のうつろな眼差しから顔を背けて、傍らに佇むユウリスは周囲に視線を巡らせた。赤紫の毒が、オリバー大森林の墓地を満たしている。崩壊した邪竜の亡骸なきがら怨嗟えんさの沼となり、神秘の霊場をけがしていた。土をくさらせ、草花を焼く水溜まりに、ダーインスレイヴも浮かんでいる。


 彼方から、ウルカの声がした。


「ユウリス!」


 彼女だけではない。共に死闘を生き抜いた者たちが、ユウリスを認めて駆け寄ってくる。オリバー大森林の手前には生き残った者たちが避難しており、溢れていた怪物の姿もない。


 キーリィは頬の筋力も自由にならない状態で、無理やり唇の端を歪めた。


「僕は負けていない。これから君たちに勝ち続ける。ブリギットは終わりだ。永遠に呪われろ」


 ブリギットの呪い。


 言い回しに差はあれども、ユウリスは同じ台詞をなんども耳にしていた。夏の終わりから今日に至るまで、道行く誰かが口癖のように漏らす不吉な噂。あるいは妄言。


 ――ブリギットは呪われている。


「キーリィ、なにをするつもりだ?」


 問いかけても、素直に答えてくれないだろう。そんなユウリスの予想に反して、キーリィは弾んだ声を返した。秘密を話したくてうずうずしている子供が、はじめて禁を破るときのように、その表情は晴れやかだ。


「なにを? 言っただろう、なにをしようと、誰を殺そうと、勝ちはない。なら、どうするか……答えは簡単だ。戦いを永遠に続ければいい」


 永遠に勝ち続ける、勝ちのない戦い。矛盾をはらんだ言葉を自覚もせず、キーリィはうわ言のように続けた。息も絶え絶えだが、その声色は充足感に満ちている。


「この僕が、なんのための市民に寄り添ったと思う? どうして下水道の連中に目をかけた? 病院を建て、選挙で勝ちを譲り、人気を得たことに、なんの理由もないと思っているのか?」


 ユウリスは無意識に、足元を見た。戦いの最中に手から零れ落ちた短剣が、すぐそばに転がっている。多くの感情にさいまれる少年を嘲笑あざわらうかのように、キーリィは呪詛の完成を告げた。


「絶望だよ、ユウリス。ここまでの騒ぎになれば、旧下水道の棄民を隠し切るのは不可能だ。その事実を隠していた公爵は、跡取りのアルフレドに殺された。もうレイン家に、かつての栄光はない」


 死すべき市民が多ければ多いほど、憎しみは募る。だが死すべき権力者は、最低限で構わない。生き残った住民たちの怨嗟を受け止めてもらうためには、為政者たちが必要なのだ。


 その対立が、次の惨劇に繋がるのだから。


「市長と教会も同罪だ。すべての民が権力者を、さらには隣人を疑うだろう。分断と迫害、殺戮さつりくに満ちた新しい時代の幕開けだ」


 短剣を拾い上げたユウリスは、キーリィの腹にまたがって腰を下ろした。少年の重みを感じても、彼は恍惚こうこつと語り続ける。


「そして僕自身が最後の一押しだ。民に寄り添い、人気者だったキーリィ・ガブリフは最悪の殺戮者さつりくしゃだった。これを隠せはしないぞ。これまでと、この夜、すべての出来事に僕の関与していたことを示す証拠と権力者たちの癒着ゆちゃく横領おうりょうを示す資料が、夜明けと共に山のようにばら撒かれる」


 議員の立場を利用した、最後の一手。


 今回の邪竜騒動は、かつての大洪水を超える未曾有の事変だ。


 そんな危機を迎えたブリギットという都市で、街を牛耳ぎゅうじる三大勢力の権威が失墜すれば、疑心と義憤が暴動を生み、恐怖と失望が新たなる闇を生む。


「絶望だ、ああ、これこそが絶望だ」


 統治者であるレイン家の失態によって、秩序は崩壊するだろう。

 ひた隠しにされていた地下住民の存在は、新たな火種だ。

 行政府である市の癒着や裏金問題は、街の再生を妨げる。

 人々の拠りどころであった教会の醜聞は、次の異教徒狩りにつながるはずだ。


「そして、僕も……」


 信頼を集めていた若手議員の非道。

 それが明るみになれば、もはや人々の心に寄る辺はない。


「僕は、みんなの絶望になりたかったのさ。寄せられた信頼のすべてを裏切り、抱かれた希望をあまねく打ち砕く。なあ、ユウリス。僕にすがってきた市民は、どんな気持ちになって、どんな顔をするかな?」


 病院の設立に涙を流した老人は、生き残っているだろうか。親身に商売の相談に乗った屋台の店主に、早く自分の本性を突きつけてやりたい。このブリギットに、哀しみと失望、怒りと虚無を与えて、キーリィ・ガブリフという闇を刻みつける。


 それが絶望であり、呪いだ。


「市民が元の生活を取り戻すのに、何年かかるだろうか。復興は早いだろう。まわしい記憶も、おそらくは十年と続かない。いつの間にか何事もなかったかのように日常は繰り返す」


 かつて、都市が大洪水から立ち直ったのと同じように。


 しかし闇は失われない。


「だが僕のように、たった一人、たった一人でも憎しみと恨みに支配された者が残れば、それでいい。次の復讐者は、必ず生まれる!」


 家を潰された嘆き、身内や愛する者の喪失――絶望が憎悪を育み、二人目のキーリィ・ガブリフは新たな災厄をもたらすだろう。その惨劇が再び誰かに阻まれたとしても、連鎖は止まらない。


 ブリギットが血涙と黒煙に包まれるたび、怨嗟えんさの輪は循環する。


「それが僕の呪詛。果てのない旅路の、永遠に辿り着くことのない最終地点」


「キーリィ、お前を生かしておけば多くの人が傷つく」


 柄を両手で握り、ユウリスは短剣を振り上げた。ウルカの怒号とイライザの悲痛な叫びが、朝陽を反射した刃の行く末を迷わせる。


 キーリィは笑みを絶やさず、満足そうに目を細めた。


「たった一つだけ、僕にも誤算があった」


 ――ブリギットは呪われている。


「あの言葉だけは僕の企てじゃない。不安と不満が入り混じり、街の人々が自発的に生みだした呪詛だ」


 その言葉に、いつの間にか呪詛の張本人であるキーリィ自身も呑みこまれてた。


「嬉しいじゃないか、ユウリス。この想い、この渇望かつぼうが、永劫の復讐となるのだから!」


「そうはさせない、ブリギットは必ず守り抜く。お前が教えてくれたんだ、キーリィ。人は絶望から目を背けて、希望を追い求める。そうして生まれた心の隙間につけ込むのは、難しいことじゃない」


「なにができる? いや、もうなにもできない! 他の誰に否定されようとも、君だけには認めてほしい! 友よ、この想いを分かち合おう! 僕という邪竜の後継者が、ブリギットにかけた呪いを――」


「違う、お前じゃない」


 彼の言葉を静かにさえぎり、ユウリスは大きく息を吸い込んだ。その場の勢いではなく、憎しみや義憤でもなく、信念と矜持きょうじを抱いて運命を決する。


「俺が、邪竜の後継者だ」


 そしてユウリスは、キーリィ・ガブリフの左胸に刃を突き立てた。肉を貫く感触に指が強張り、血飛沫ちしぶきが頬を濡らす。次の瞬間、乱暴に肩を掴まれた。振り向くと、顔色を失くしたウルカが唇を震わせている。


「ユウリス、なにがあった?」


「ウルカ、みんなも……」


 師の後ろに、見慣れた顔が集結していた。


 まぶたを閉じてぐったりとしたカーミラは、イライザに抱かれている。

 その傍らに寄り添うクラウ。


 ウィッカの盟主マーサと、教会のミュラー司教、キャロット市長。

 道場のアーネストとネイナ。

 隻腕せきわんのアーデン将軍。


 ヘイゼルとアナスタシアだけは、どこにも姿がない。


 事切れたキーリィを一瞥いちべつして、ユウリスは短剣の柄から指を引きがした。


「敵は倒した」


 乱れそうになる呼吸を抑えながら、ゆっくりとひざを伸ばす。その場にいる全員を見渡して言葉を探すが、しかし上手い文句は浮かばない。


 刑に服するべき男を、私情で殺したとがは受けるべきだろうか?


 いや、とユウリスは首を横に振り、毅然きぜんと口を開く。


「伝えなきゃいけないことがある。キーリィ・ガブリフの呪詛を、みんなの力で止めるんだ」


 ユウリスは努めて簡潔に、キーリィ・ガブリフの陰謀を説明した。邪竜は滅びたが、真の戦いはこれから始まる。すでに日は昇りはじめており、猶予はない。


 反応はさまざまだが、真っ先に場をまとめたのはイライザだった。


「とにかくいちばんの懸念は暴動ね。この混乱で物資も医療も不足しているわ。地下住民の件も含めて、略奪りゃくだつや私刑が横行すれば手がつけられない。どんなかたちで醜聞しゅうぶんかれるにしろ、人の多い場所が狙われるはずよ。警察と領邦軍を総動員して、治安維持に務めましょう」


 しかしキャロット市長とアーデン将軍に具体的な指示がだされる前に、それだけじゃ足りない、とユウリスは首を横に振った。


「街の方針は、イライザたちが考えればいい。問題はキーリィ・ガブリフの残した呪詛だ。レイン家、市長や司教、みんなが信用されなくなれば、ブリギットはもっと悪い方向に進んでしまう。それを変えなきゃいけない」


 イライザは大きな溜息を吐いて、腕の中で眠るカーミラを片手で抱えなおした。公爵代理として、レイン家の長姉として、ひとりの人間として、ほんの刹那に巡る数え切れない葛藤が巡る。それらぜんぶを呑み込んで、彼女はすすだらけの金髪を掻きあげた。


「なにか考えがあるの、ユウリス?」


「キーリィ・ガブリフを英雄にする」


 間髪を容れずに応えたユウリスに、動揺が広がる。キャロット市長は驚きのあまり跳び上がり、着地の拍子に足を捻挫した。なにか言いたげに顔をしかめるウルカだが、けっきょく口は開かない。


 イライザが先を促した。


「あんたのことだから、冗談で言ってるわけじゃないんでしょうね」


「邪竜を倒したキーリィ・ガブリフは、名誉の戦死を遂げた。街に出回る資料は、真の黒幕が用意したでっちあげ。そういうことにして、街の人たちが抱える鬱憤うっぷんや憎しみを、用意した別の悪役――新たな邪竜の後継者に向ける」


 この作戦は、キーリィが企んだ陰謀と聖オリバーの真実に着想を得ていた。人々から得た信頼を逆手に取り、絶望と憎悪をあおろうとした大いなる呪詛。しかし彼も、いまはまだ人気の若手議員だ。今度は、それを利用する。


 誰よりも早くユウリスの意図を察したのは、ミュラー司教だった。


「英雄の死と犠牲は憎しみよりも哀しみを与え、やがて希望に変わる。耳の痛い話ですが、聖オリバーの再来ですね。しかし……」


 ミュラー司教は言葉を切り、その場に集う他の面々を見回した。誰もが気づきながら、誰一人として口にしない最後の問題がある。あるいは察しの良いイライザは腕を組んで沈痛そうに視線を落として、ウルカは小さく舌打ちした。


 日差しがオリバー大森林の西側を越え、墓地に届く。


 心配そうに指を舐めるクラウの頭を撫でながら、ユウリスは決然と宣言した。


「そして、新たな黒幕は誰か。このブリギットで誰よりも知名度があって、街を蹂躙じゅうりんする十分な理由がある人物――邪竜の後継者は、忌み子のユウリス。俺しかいない」

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