20 &The beginning of a Gazer




 十年後。




 西の果て、リル渓谷けいこくを越えた先に水と丘の大地がある。海と陸を隔てる大瀑布だいばくふ轟々ごうごうと吐きだす白い煙は、寒い時期になると氷の雨に変わるらしい。その畔にひっそりと、時を忘れたとりでが佇んでいた。外壁に絡まれる太いふたや、色褪いろあせせた煉瓦れんがの街並みを見て、口さがない者は幽鬼の古城と呼ぶ。だが実際、古臭いのは間違いないと住民たちも認めざるをえない。食堂の窓硝子まどがらすは、どこもかしこも割れている。


「あれ、誰が割ったんだ?」


 ウルカは盤上遊戯エピタフの駒を弄びながら、ぽつりと疑問を口にした。


 どの硝子も、十字窓の右下だけが破損している。春のうららかな温もりも、吹き込んでくる北風のせいで台無しだ。卓を挟んだ正面の男が、新聞紙をめくるついでに視線を投げた。無精ひげを撫で、次に短く刈り込んだ白髪を指で摘み、記憶を探る。


「オレがここにサキュバスを連れ込んで、マルガリタに殺されかけた話はしたっけ?」


「さあな、お前の話をまともに聞いている奴がいるのか? 忘れてくれ、戯言ざれごとを聞く気分じゃない」


「まあ、そういうことがあった。で、そのサキュバスにも同じ質問をされたわけだ。オレは、なんて答えたと思う?」


「黙れクソ野郎」


「違う違う。そんなんだから、おたくはいつまでも干物女なんだよ。オレはこうささやいた、なにも考えられないくらいメチャクチャにしてやるさ、ってな。どうよ、この殺し文句?」


「聞こえなかったか、黙れクソ野郎」


「カァ、ウルカちゃんは朝からご機嫌ナナメでちゅねぇ。可愛いお弟子が心配で、夜も眠れないんでちゅか? なんだったら、オレが最高の夢に導いてやろうか? しとね、共にしちゃう?」


「これが最後の警告だ、黙れクソ野郎」


 けっきょく窓を割ったのは誰なんだ――と溜息を吐きながら、ウルカは卓上に肘をついた。外へ繋がる扉に視線を移しても、緑の葉が結えているほかに目新しい景色はない。


「……それにしても遅い」


 この砦においては武装の必要がなく、ウルカは麻布の服と黒い下履き姿で過ごしていた。腰に剣は帯びているが、これは彼女の習慣に過ぎない。例えば目の前にいる初老の闇祓やみばらいは丸腰どころか、たまに全裸で歩いている。


「やはり私も同行すべきだった」


「えええ? あのよぉ、さすがに過保護すぎるだろ。あいつが可哀想だぜ。しかも任務の前に、大喧嘩おおげんかしたんだって? べつに仕事くらい好きに受けさせてやれよ」


「この古臭い砦に、お前と二人きりなのが耐えられないだけだ」


「あ、なんだと⁉ おたく、そんなに押し倒されたいのか――と、へへ、どうやら大人の甘い時間は終わりみたいね」


 初老の闇祓いが、窓の外を指差した。


 割れた硝子を、白い毛並みの尾が過ぎる。


 少し間を空けて、食堂の扉が開いた。あるいは古城の正面玄関だが、呼び方は誰も気にしない。ウルカは視線を明後日の方向に逸らして、なんでもない風に腕を組んだ。


 そこに、涼しげな男の声が届く。


「ただいま」


 黒髪の青年だ。


 年は二十代のはじめくらいで、中肉中背。精悍せいかんな顔つきには一歩足りず、どこかあどけなさを残している。焦げ茶色の瞳が物憂ものうげに見えるのは、長い睫毛のせいだろうか。黒い旅装に身を包み、腰に帯びた長剣の柄ではみどりの宝石が揺れている。ブーツに染みついた泥は、この辺りの色ではない。


 彼――ユウリスは食堂の二人を認めて、静かに声を伸ばした。


「二人だけか。珍しいな、ウルカとパーヴァルが同じ席についているのは」


 ウルカは軽く鼻を鳴らし、パーヴァルと呼ばれた初老の闇祓いは肩を竦めた。差し込む日差しに、三人は影を落とさない。


 物音を立てない白狼をかたわらに伴いながら、ユウリスは二人に近づいた。


「裏切り者は始末した。パーヴァル、名前の確認は任せる」


「なんだよ、自分で行かないのか?」


石碑せきひは苦手だ。わざわざバレスに寄り道させた借りを返せ」


「お! おおお、行ってくれたか。で、どうだったら、オレの愛するルッカは、いつなら旦那の目を盗めるって⁉」


「あんたの名前を出してすぐに、腐った卵と魚の目玉を投げつけられた。それがなにかの暗号でないなら、諦めろ」


「いや、待て、そういう愛情表現あるかもなぁ。腐った卵が意味するのは、ただれた関係。魚の目玉は、あああ、そう、とにかく抱かれたいの合図じゃねぇか?」


 好きにしてくれ、と呆れて、ユウリスは手の平を返した。それから一向に顔を向けようとしないウルカを一瞥いちべつして、なにか声をかけようとするが、上手い言葉は浮かばない。彼女の肩を軽く叩いて、背を向ける。


「上にいる」


 クラウ、と短く呼びかけて、ユウリスは白狼と共に古城の奥に消えた。


 パーヴァルが下唇を突き出し、不貞腐れているウルカに首を伸ばす。


「過保護ちゃん、可愛いボクちゃんが帰ってきまちたよぉ?」


 螺旋階段らせんかいだんの途中で、ユウリスは耳をつんざくような悲鳴を聞いた。振り向かずとも、声の主はパーヴァルだとわかる。彼は基本的に、古城の女性陣とそりが合わない。


「相変わらずだな」


 ユウリスと白狼は目線を交わして笑い合い、そのまま石の段差を登り続けた。やがて世界中の雨を集めたかのような、大瀑布の合唱が鼓膜を震わせる。終点の扉を開くと、冷たい白煙はくえんに襲われた。


「今日の風は東向きか。蒸し風呂を用意するのが楽でいい」


 軽口を叩くユウリスとは対照的に、暑さが苦手なクラウはあからさまに顔をしかめた。一寸先も見えない気体の幕を越えて、古城の屋上を北に回る。大陸最大の滝が吐き出す息吹を回避すると、夜色の髪と白い毛並みは水浴びをしたかのように濡れていた。


 ふたりはへいふちに佇んで、風と日差しに身を任せる。


「ユウリス」


 ただ無為むいに時をむだけの時間に、やがて新たな声が加わる。


 亜麻色の髪から水滴を滴らせたウルカが、ユウリスの隣に並んだ。二人は数年前に背が並び、いまは青年のほうが少しだけ高い。それを彼女は不満に思うわけでもないが、ときおり寂しさのような懐かしさを覚える。


「私になにか、言うことがあるんじゃないか?」


 彼女が不機嫌な理由は、ユウリスも十二分に承知している。


 パーヴァルから打診された裏切り者の始末という仕事に、ウルカは消極的だった。だが他の闇祓いに言わせれば、一人前の≪ゲイザー≫は自分で仕事を選ぶ。いつまでも師の操り人形でいては成長しないと諭され、今回は彼らの助言に従った。それが師弟関係していかんけいひびを入れる結果になったとしても、後悔はない。


「ただいま」


「なに?」


「なにか言うことはあるかと、そう自分で聞いたんだろう。だから、ただいまと言ったんだ。まだ、挨拶を返してもらっていない」


 特別に冗談めかしたつもりはないが、ウルカはこれみよがしな舌打ちを響かせた。


「生意気だぞ」


 素直に謝るべきだろうか――ユウリスは逡巡しゅんじゅんして、けっきょくはやめた。仲間たちのうれいも一理ある。いつまでも師に甘えていては、先に進めない。しかし今回は、彼女が先に折れた。


 珍しいことだと、クラウが静かに目を見開く。


 …………。


「私も言い過ぎた。だが、次は相談しろ。生贄いけにえの選定を受けたとしても、師弟の縁が切れたわけじゃない。まだまだ修行は続けるから、そのつもりで準備をしておけ」


 ああ、とユウリスは短く首肯しゅこうした。弟子の不遜ふそんな態度に、ウルカが眉間にしわを寄せる。クラウは素知らぬ顔で、寝そべりはじめた。


 師の前髪から垂れる雫を指先で拭って、彼は小さく笑んだ。


「ウルカ」


「せっかく私のほうから歩みよってやったというのに。最近、調子に乗りすぎだぞ。パーヴァルの影響か? あいつはいま、鼻の骨を砕かれて悶絶している。同じ目に遭いたくなければ――」


「ウルカ」


 なんだ、と今度は声に出さず、ウルカは唇を尖らせた。余裕のある弟子の表情が、妙に胸をざわつかせる。そんな師の想いなど露知つゆしらず、ユウリスは涼やかに繰り返した。


「ただいま」


「……ああ、おかえり」


 西の果て、リル渓谷を越えた先に水と丘の大地がある。世のあらゆる災厄を封じたトゥアハ・デ・ダナーンの世界にあって、一切の穢れなき女神の聖域。怪物の血を焼き、人心の悪意を除く、闇祓いたちの故郷。海と陸を隔てる大瀑布を背負い、その白煙に包まれた砦を、人々はディアン・ケヒトと呼んだ。




 第一章 『白狼と少年』 完

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