20 &The beginning of a Gazer
十年後。
西の果て、リル
「あれ、誰が割ったんだ?」
ウルカは
どの硝子も、十字窓の右下だけが破損している。春の
「オレがここにサキュバスを連れ込んで、マルガリタに殺されかけた話はしたっけ?」
「さあな、お前の話をまともに聞いている奴がいるのか? 忘れてくれ、
「まあ、そういうことがあった。で、そのサキュバスにも同じ質問をされたわけだ。オレは、なんて答えたと思う?」
「黙れクソ野郎」
「違う違う。そんなんだから、おたくはいつまでも干物女なんだよ。オレはこう
「聞こえなかったか、黙れクソ野郎」
「カァ、ウルカちゃんは朝からご機嫌ナナメでちゅねぇ。可愛いお弟子が心配で、夜も眠れないんでちゅか? なんだったら、オレが最高の夢に導いてやろうか?
「これが最後の警告だ、黙れクソ野郎」
けっきょく窓を割ったのは誰なんだ――と溜息を吐きながら、ウルカは卓上に肘をついた。外へ繋がる扉に視線を移しても、緑の葉が結えているほかに目新しい景色はない。
「……それにしても遅い」
この砦においては武装の必要がなく、ウルカは麻布の服と黒い下履き姿で過ごしていた。腰に剣は帯びているが、これは彼女の習慣に過ぎない。例えば目の前にいる初老の
「やはり私も同行すべきだった」
「えええ? あのよぉ、さすがに過保護すぎるだろ。あいつが可哀想だぜ。しかも任務の前に、
「この古臭い砦に、お前と二人きりなのが耐えられないだけだ」
「あ、なんだと⁉ おたく、そんなに押し倒されたいのか――と、へへ、どうやら大人の甘い時間は終わりみたいね」
初老の闇祓いが、窓の外を指差した。
割れた硝子を、白い毛並みの尾が過ぎる。
少し間を空けて、食堂の扉が開いた。あるいは古城の正面玄関だが、呼び方は誰も気にしない。ウルカは視線を明後日の方向に逸らして、なんでもない風に腕を組んだ。
そこに、涼しげな男の声が届く。
「ただいま」
黒髪の青年だ。
年は二十代のはじめくらいで、中肉中背。
彼――ユウリスは食堂の二人を認めて、静かに声を伸ばした。
「二人だけか。珍しいな、ウルカとパーヴァルが同じ席についているのは」
ウルカは軽く鼻を鳴らし、パーヴァルと呼ばれた初老の闇祓いは肩を竦めた。差し込む日差しに、三人は影を落とさない。
物音を立てない白狼を
「裏切り者は始末した。パーヴァル、名前の確認は任せる」
「なんだよ、自分で行かないのか?」
「
「お! おおお、行ってくれたか。で、どうだったら、オレの愛するルッカは、いつなら旦那の目を盗めるって⁉」
「あんたの名前を出してすぐに、腐った卵と魚の目玉を投げつけられた。それがなにかの暗号でないなら、諦めろ」
「いや、待て、そういう愛情表現あるかもなぁ。腐った卵が意味するのは、
好きにしてくれ、と呆れて、ユウリスは手の平を返した。それから一向に顔を向けようとしないウルカを
「上にいる」
クラウ、と短く呼びかけて、ユウリスは白狼と共に古城の奥に消えた。
パーヴァルが下唇を突き出し、不貞腐れているウルカに首を伸ばす。
「過保護ちゃん、可愛いボクちゃんが帰ってきまちたよぉ?」
「相変わらずだな」
ユウリスと白狼は目線を交わして笑い合い、そのまま石の段差を登り続けた。やがて世界中の雨を集めたかのような、大瀑布の合唱が鼓膜を震わせる。終点の扉を開くと、冷たい
「今日の風は東向きか。蒸し風呂を用意するのが楽でいい」
軽口を叩くユウリスとは対照的に、暑さが苦手なクラウはあからさまに顔をしかめた。一寸先も見えない気体の幕を越えて、古城の屋上を北に回る。大陸最大の滝が吐き出す息吹を回避すると、夜色の髪と白い毛並みは水浴びをしたかのように濡れていた。
ふたりは
「ユウリス」
ただ
亜麻色の髪から水滴を滴らせたウルカが、ユウリスの隣に並んだ。二人は数年前に背が並び、いまは青年のほうが少しだけ高い。それを彼女は不満に思うわけでもないが、ときおり寂しさのような懐かしさを覚える。
「私になにか、言うことがあるんじゃないか?」
彼女が不機嫌な理由は、ユウリスも十二分に承知している。
パーヴァルから打診された裏切り者の始末という仕事に、ウルカは消極的だった。だが他の闇祓いに言わせれば、一人前の≪ゲイザー≫は自分で仕事を選ぶ。いつまでも師の操り人形でいては成長しないと諭され、今回は彼らの助言に従った。それが
「ただいま」
「なに?」
「なにか言うことはあるかと、そう自分で聞いたんだろう。だから、ただいまと言ったんだ。まだ、挨拶を返してもらっていない」
特別に冗談めかしたつもりはないが、ウルカはこれみよがしな舌打ちを響かせた。
「生意気だぞ」
素直に謝るべきだろうか――ユウリスは
珍しいことだと、クラウが静かに目を見開く。
…………。
「私も言い過ぎた。だが、次は相談しろ。
ああ、とユウリスは短く
師の前髪から垂れる雫を指先で拭って、彼は小さく笑んだ。
「ウルカ」
「せっかく私のほうから歩みよってやったというのに。最近、調子に乗りすぎだぞ。パーヴァルの影響か? あいつはいま、鼻の骨を砕かれて悶絶している。同じ目に遭いたくなければ――」
「ウルカ」
なんだ、と今度は声に出さず、ウルカは唇を尖らせた。余裕のある弟子の表情が、妙に胸をざわつかせる。そんな師の想いなど
「ただいま」
「……ああ、おかえり」
西の果て、リル渓谷を越えた先に水と丘の大地がある。世のあらゆる災厄を封じたトゥアハ・デ・ダナーンの世界にあって、一切の穢れなき女神の聖域。怪物の血を焼き、人心の悪意を除く、闇祓いたちの故郷。海と陸を隔てる大瀑布を背負い、その白煙に包まれた砦を、人々はディアン・ケヒトと呼んだ。
第一章 『白狼と少年』 完
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