05 残された子供たち
「行かなきゃ」
ヘイゼルが
「イライザ、俺は……」
なにを続けようとしたわけでもなかったが、ユウリスの唇は彼女の指先に塞がれた。不意に、ブリギット大聖堂の鐘が鳴る。アルフレドを使用人に預けたアーデン将軍が、槍の柄で
「二つ目の鐘だ。たった、二つ! 地震と怪物の発生から、それしか経っていやがらねぇ! それでこのザマたぁ、なんてこった!」
いまも火の手が上がり続けるブリギットを一瞥したイライザは、次に家族、さらに瓦礫の山と化した屋敷に視線を巡らせた。レイン家の長姉が、頬を
「ブリギットの盟主セオドア・レインは
名を呼ばれたユウリスは、すぐに
しかしドロシーとエドガーは、母の手を握ったまま応えない。イライザは大股で双子に歩み寄り、二人の頬を容赦なくひっぱたいた。
「家族のことは後になさい。私たちはセオドア・レイン公爵の子供よ。ブリギットを治める一族としての責務を果たさなければいけない。もういちど、言うわ。私を――」
「あたしはそんなの、どうだっていいよ」
「ドロシー、いまなんて?」
「あたしはそんなの、どうだっていいって言ったんだよ!」
叫んで、ドロシーはイライザに掴みかかった。腕を伸ばして長姉の髪を引っ張り、さらに手へかじりつく。エドガーが慌てて二人の間に割って入るが、けっきょくは三人での殴り合い、爪を立てての乱戦が
あまりの剣幕と騒々しさに、意識を失っていたグレースの瞼が動く。
「貴方たち……イライザ、ドロシー、エドガー」
しかし意識を取り戻した母の声はか細く、罵りあう兄弟姉妹には届かない。ドロシーは大粒の涙と鼻水に塗れた顔を拭いもせず、どれだけ頬を叩かれてもイライザに歯向かうことをやめなかった。
「こんなのおかしいじゃん! お父様、死んじゃったんだよ! お母様は怪我をして、家はめちゃくちゃで、ぜんぶ、ぜんぶなくなって、それなのに、なんでイライザは平気なの?」
フォースラヴィルから戻ったドロシーは、母に叱られることを恐れていた。運が良ければ父がとりなしてくれるかもしれないと、そんな淡い期待を抱いていたのも認める。けれど、そんな妄想が現実になる日は二度とやってこない。
「公爵なんか、なりたい奴が勝手になればいいじゃん! どうだっていいよ、そんなの! もう、イヤだよ。こんなの、イヤだよ!」
友達には、舞台役者となった日の出来事を自慢するつもりだった。みんなから羨ましがってもらえたら、きっと良い気分で感謝祭を遊び倒せる。それはドロシーにとって夢や希望ではなく、ただのあるべき日常の延長だ。しかし変わらない日々、永遠の故郷は、もうどこにもない。
「公爵になんかなって、次はイライザが死んじゃったらイヤじゃん。もう、ほんと、あたし、どうしたらいいか、わかんないよ。ねえ、助けてよ、イライザ。他のみんなじゃなくて、あたしを、助けてよ……」
最も苛烈に反抗したドロシーが、真っ先に膝をついた。俯く妹を睨みつけて、イライザが猛然と腕を伸ばす。その軌道に、エドガーが割り込んだ。
普段は温厚な三男が、いまは怯むことなく長姉に首を振る。
「なんなんだよ、二人とも! 勝手なことばかり言って! 父さんが死んだぞ! 母さんも死ぬ! みんなみんな、死んじゃうかもしれないんだ! なのに、なんで喧嘩なんかするんだ! おかしいよ! おかしいだろう!? おかしいんだよ!」
イライザの姿勢は正しいと、エドガーも頭では理解している。いまこそ公爵家の子として、ブリギットに身を捧げるべき時だ。それでも感情は追いつかない。
「僕は、みんなが好きなんだ。ドロシーもユウリスも、イライザもアルフレドも、ヘイゼルも、父さんも母さんも、みんな、みんな好きなんだ。その家族が一人死んだんだぞ」
エドガーはただ、この家が好きだった。
騒がしくも愛しい、双子の妹。手の掛からない末妹。怖くて理不尽だけれど、頼りになる姉。いつも無駄に偉そうな嫡男の兄。意外と付き合いやすくて、恥ずかしい相談までしてしまった腹違いの長兄。立派な父。口うるさい上に、厳しいばかりの母。
一人一人の顔を思い浮かべるだけで、いまは目頭に
「ちょっとくらい、悲しんだっていいじゃないか。イライザも悲しんでよ。みんながバラバラになるみたいで、僕だって、もう、わけわかんないんだ。なんでアルフレドが父さんを刺すんだよ。なんでユウリスが身代わりになるんだよ。なんで、イライザが公爵になるんだよ。家より、家族より大事なものなんか、僕はいらないよ」
絞りだすようなドロシーとエドガーの苦悶に向き合いながら、イライザは唇を引き結んだ。何度も鼻の穴を膨らませて、激情と冷静の狭間に心を揺らす。周囲で舞い上がる
「聞きなさい、ドロシー、エドガー。いま、この瞬間も街で人が死んでいる。それは見知らぬ誰かかもしれないし、あんたたちの友達や、その家族かもしれない。私たちが悲しんでいる間にも、領邦軍や警官隊は戦っているのよ。ブリギットのために、自分の大切な人のために、命を賭けて。あんたたちに、同じことをしろって言ってるんじゃない。ただ、それを私に任せなさい。レイン家の子として、公爵の地位に名を連ねる継承者として、課せられた役目も果たせないのなら、私はあんたたちを見損なうわ」
双子はハッと息を呑んだ。
二人が見上げた先のイライザは、目を真っ赤に腫らしていた。悲しみは、家族全員を蝕んでいる。それでも彼女の強い自制心は、頬を伝う涙のひとつ、瞳の揺らぎすらも許しはしない。常に
「私が、絶対になんとかする。あんたたちの目の前にいるのは、イライザ・レインよ。なんだって上手くやるし、失敗なんかありえない。私が動いて無理なら、ブリギットは終わり。そうしたら
驚いたドロシーがエドガーの肩を、グレースの両手が抱いた。背後から愛しい双子の子供に身を寄せた母の第一声は、恨み言だ。
「エドガー、まだ私は死んでいませんよ。ドロシーも、いい加減に言葉遣いをどうにかなさい」
グレースは無残に焼け
「イライザ。イライザ・レイン。私の娘、気高い子。セオドア・レインの
「ええ、お母様。私の愛するブリギットを、これ以上は誰の好きにもさせないわ」
「貴女は昔から、やると決めたらとことん突き進む子だったわね。子育てには一番苦労したけれど、誇らしいわ。ドロシー、エドガー、家族のために泣いてくれてありがとう。でもいまは、イライザを信じなさい」
さあ、とグレースは双子の背中を押した。
二人は立ち上がり、先にエドガーが口を開く。不安も、恐怖も消えない。ただ、少しだけ安心もした。誰も、家族がどうでもいいとは思っていない。同時に、恥ずかしくもある。フォースラヴィルの旅で成長した自分を、もっと見せつけたかった。だが、それはいまからでも遅くはない。
「継承権第四位エドガー・レインの名において、イライザ・レインの爵位継承を認めるよ。イライザ、わがまま言ってごめん。ちゃんと、帰ってきてね?」
「当たり前よ。暇なら、私の化粧品を探しておきなさい。ダグザから取り寄せたばかりで、まだ箱も開けてないのがあるのよ。鉄の箱に入っているはずだから、たぶん燃えていないわ」
「それは自分で探してよ。僕も家と、ブリギットのためにできることをする。どう考えても、イライザの私物を探すよりはやりがいがあるからね。ドロシーも、そうだろう?」
涙と鼻水を拭ったドロシーは、べえ、と舌を伸ばした。急に物分りがよくなったエドガーは裏切り者で、母は怪我をして
「クラインのお店で服、買って!」
イライザは思わず、ん、と眉をひそめた。唐突に飛び出した名前は、中央区の繁華街に
ドロシーは、さらに続けた。
「エドガーには絵の具と画用紙、あと新しい筆。旅に出るユウリスには馬車がいいと思う。野宿だと背中が痛くなるから、
「ドロシー、あんた、もしかして公爵の地位を認めるかわりに、私に物をねだろうっていうの?」
「そうよ。公爵になったら、お金持ちでしょ。いま言ったのぜんぶ、あたしとイライザの二人で買いにいくから。もう、決まり。約束してくれないなら、また泣いちゃうから」
つらいことがあったら、その百倍は楽しいことを見つけようというのがドロシーの信条だ。沈んだままの心で、この夜は越えられない。エドガーと同じように、約束がほしかった。いっしょに買い物へ行くから、イライザは無事でいなくてはならない。ご褒美が待っていれば、きっと家族のみんなも絶望の先に光を
「わかったら、さっさとこの状況なんとかしてよ。あたし、第何位だっけ? 三位? そのドロシー・レインが、イライザを公爵にしてあげる。ほんっと、もう、みんな帰ってこなかったら許さないからね! あんたもよ、ユウリ――ねえ、ユウリスは?」
どれだけ流しても枯れない涙を袖口で拭いながら、ドロシーは周囲を見渡した。先ほどまで離れた場所に佇んでいたはずの長兄は姿を消しており、アーデン将軍もいない。イライザは神妙な顔つきで、
エドガーに支えられたグレースが、震える指先を虚空にさまよわせる。
「……ユウリス」
呟きは深い後悔と自責の念に満ちて、やがて
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