05 残された子供たち

「行かなきゃ」


 ヘイゼルがさらわれた、助けなければ。父を失った悲しみを振り切るように踏みだした足は、しかしすぐに止まる。屋敷を去ろうとしたユウリスの前に、イライザが佇んでいた。誰もが見惚れる壮麗な金色の髪はすすまみれ、肌にも細かい傷と火傷の痕が見受けられる。魔女の装備らしい黒いローブだけが、不自然なつやを残して風に揺れていた。


「イライザ、俺は……」


 なにを続けようとしたわけでもなかったが、ユウリスの唇は彼女の指先に塞がれた。不意に、ブリギット大聖堂の鐘が鳴る。アルフレドを使用人に預けたアーデン将軍が、槍の柄で煉瓦れんが破片はへんを砕いた。


「二つ目の鐘だ。たった、二つ! 地震と怪物の発生から、それしか経っていやがらねぇ! それでこのザマたぁ、なんてこった!」


 いまも火の手が上がり続けるブリギットを一瞥したイライザは、次に家族、さらに瓦礫の山と化した屋敷に視線を巡らせた。レイン家の長姉が、頬をふくらませて大きく息を吐く。そして毅然きぜんと胸を張り、朗々と声を響かせた。


「ブリギットの盟主セオドア・レインは身罷みまかられた。次代の王と定められたアルフレドは、現在その職責を果たせる状態ではない。よって公爵の座を一時的に、継承けいしょう権第二位の私、イライザ・レインが引き継ぐ。お母様――は、それどころじゃないわね。継承権第三位ドロシー。継承権第四位エドガー。継承権第六位ユウリス。これを承認なさい」


 名を呼ばれたユウリスは、すぐに義姉あねの爵位継承を認めた。


 しかしドロシーとエドガーは、母の手を握ったまま応えない。イライザは大股で双子に歩み寄り、二人の頬を容赦なくひっぱたいた。


「家族のことは後になさい。私たちはセオドア・レイン公爵の子供よ。ブリギットを治める一族としての責務を果たさなければいけない。もういちど、言うわ。私を――」


「あたしはそんなの、どうだっていいよ」


「ドロシー、いまなんて?」


「あたしはそんなの、どうだっていいって言ったんだよ!」


 叫んで、ドロシーはイライザに掴みかかった。腕を伸ばして長姉の髪を引っ張り、さらに手へかじりつく。エドガーが慌てて二人の間に割って入るが、けっきょくは三人での殴り合い、爪を立てての乱戦が勃発ぼっぱつした。


 あまりの剣幕と騒々しさに、意識を失っていたグレースの瞼が動く。


「貴方たち……イライザ、ドロシー、エドガー」


 しかし意識を取り戻した母の声はか細く、罵りあう兄弟姉妹には届かない。ドロシーは大粒の涙と鼻水に塗れた顔を拭いもせず、どれだけ頬を叩かれてもイライザに歯向かうことをやめなかった。


「こんなのおかしいじゃん! お父様、死んじゃったんだよ! お母様は怪我をして、家はめちゃくちゃで、ぜんぶ、ぜんぶなくなって、それなのに、なんでイライザは平気なの?」


 フォースラヴィルから戻ったドロシーは、母に叱られることを恐れていた。運が良ければ父がとりなしてくれるかもしれないと、そんな淡い期待を抱いていたのも認める。けれど、そんな妄想が現実になる日は二度とやってこない。


「公爵なんか、なりたい奴が勝手になればいいじゃん! どうだっていいよ、そんなの! もう、イヤだよ。こんなの、イヤだよ!」


 友達には、舞台役者となった日の出来事を自慢するつもりだった。みんなから羨ましがってもらえたら、きっと良い気分で感謝祭を遊び倒せる。それはドロシーにとって夢や希望ではなく、ただのあるべき日常の延長だ。しかし変わらない日々、永遠の故郷は、もうどこにもない。


「公爵になんかなって、次はイライザが死んじゃったらイヤじゃん。もう、ほんと、あたし、どうしたらいいか、わかんないよ。ねえ、助けてよ、イライザ。他のみんなじゃなくて、あたしを、助けてよ……」


 最も苛烈に反抗したドロシーが、真っ先に膝をついた。俯く妹を睨みつけて、イライザが猛然と腕を伸ばす。その軌道に、エドガーが割り込んだ。


 普段は温厚な三男が、いまは怯むことなく長姉に首を振る。


「なんなんだよ、二人とも! 勝手なことばかり言って! 父さんが死んだぞ! 母さんも死ぬ! みんなみんな、死んじゃうかもしれないんだ! なのに、なんで喧嘩なんかするんだ! おかしいよ! おかしいだろう!? おかしいんだよ!」


 イライザの姿勢は正しいと、エドガーも頭では理解している。いまこそ公爵家の子として、ブリギットに身を捧げるべき時だ。それでも感情は追いつかない。


「僕は、みんなが好きなんだ。ドロシーもユウリスも、イライザもアルフレドも、ヘイゼルも、父さんも母さんも、みんな、みんな好きなんだ。その家族が一人死んだんだぞ」


 エドガーはただ、この家が好きだった。


 騒がしくも愛しい、双子の妹。手の掛からない末妹。怖くて理不尽だけれど、頼りになる姉。いつも無駄に偉そうな嫡男の兄。意外と付き合いやすくて、恥ずかしい相談までしてしまった腹違いの長兄。立派な父。口うるさい上に、厳しいばかりの母。


 一人一人の顔を思い浮かべるだけで、いまは目頭にたぎる熱が止まらない。


「ちょっとくらい、悲しんだっていいじゃないか。イライザも悲しんでよ。みんながバラバラになるみたいで、僕だって、もう、わけわかんないんだ。なんでアルフレドが父さんを刺すんだよ。なんでユウリスが身代わりになるんだよ。なんで、イライザが公爵になるんだよ。家より、家族より大事なものなんか、僕はいらないよ」


 絞りだすようなドロシーとエドガーの苦悶に向き合いながら、イライザは唇を引き結んだ。何度も鼻の穴を膨らませて、激情と冷静の狭間に心を揺らす。周囲で舞い上がる砂礫されきは、彼女の魔力が暴発している証だ。百年に一度の才媛と呼ばれはしても、まだ十六歳の乙女に過ぎない――それでもレイン家の長姉は双子の胸倉を掴んで、ぐっと引き寄せた。


「聞きなさい、ドロシー、エドガー。いま、この瞬間も街で人が死んでいる。それは見知らぬ誰かかもしれないし、あんたたちの友達や、その家族かもしれない。私たちが悲しんでいる間にも、領邦軍や警官隊は戦っているのよ。ブリギットのために、自分の大切な人のために、命を賭けて。あんたたちに、同じことをしろって言ってるんじゃない。ただ、それを私に任せなさい。レイン家の子として、公爵の地位に名を連ねる継承者として、課せられた役目も果たせないのなら、私はあんたたちを見損なうわ」


 双子はハッと息を呑んだ。


 二人が見上げた先のイライザは、目を真っ赤に腫らしていた。悲しみは、家族全員を蝕んでいる。それでも彼女の強い自制心は、頬を伝う涙のひとつ、瞳の揺らぎすらも許しはしない。常に羨望せんぼうと期待の眼差しを背負い、求められる以上の成果を示し続けてきたレイン家の長姉が、決然けつぜんと告げる。


「私が、絶対になんとかする。あんたたちの目の前にいるのは、イライザ・レインよ。なんだって上手くやるし、失敗なんかありえない。私が動いて無理なら、ブリギットは終わり。そうしたらいさぎよく、みんなで逃げればいいわ。そうよね、お母様?」


 驚いたドロシーがエドガーの肩を、グレースの両手が抱いた。背後から愛しい双子の子供に身を寄せた母の第一声は、恨み言だ。


「エドガー、まだ私は死んでいませんよ。ドロシーも、いい加減に言葉遣いをどうにかなさい」


 グレースは無残に焼けただれたドレスの上から、ぎゅっと左胸を鷲掴わしづかんだ。背中の火傷に使用人たちの手が触れるたび、意識が飛んでしまいそうな激痛に襲われる。しかしまだ、ここで倒れるわけにはいかない。無念の内に命を落とした夫のために、その遺志を継ごうとする娘のために、彼女は唇を震わせた。


「イライザ。イライザ・レイン。私の娘、気高い子。セオドア・レインの伴侶はんりょとして……っ、……貴女の、一時的な爵位継承と、権限の移譲を認めます。やれますね?」


「ええ、お母様。私の愛するブリギットを、これ以上は誰の好きにもさせないわ」


「貴女は昔から、やると決めたらとことん突き進む子だったわね。子育てには一番苦労したけれど、誇らしいわ。ドロシー、エドガー、家族のために泣いてくれてありがとう。でもいまは、イライザを信じなさい」


 さあ、とグレースは双子の背中を押した。


 二人は立ち上がり、先にエドガーが口を開く。不安も、恐怖も消えない。ただ、少しだけ安心もした。誰も、家族がどうでもいいとは思っていない。同時に、恥ずかしくもある。フォースラヴィルの旅で成長した自分を、もっと見せつけたかった。だが、それはいまからでも遅くはない。


「継承権第四位エドガー・レインの名において、イライザ・レインの爵位継承を認めるよ。イライザ、わがまま言ってごめん。ちゃんと、帰ってきてね?」


「当たり前よ。暇なら、私の化粧品を探しておきなさい。ダグザから取り寄せたばかりで、まだ箱も開けてないのがあるのよ。鉄の箱に入っているはずだから、たぶん燃えていないわ」


「それは自分で探してよ。僕も家と、ブリギットのためにできることをする。どう考えても、イライザの私物を探すよりはやりがいがあるからね。ドロシーも、そうだろう?」


 涙と鼻水を拭ったドロシーは、べえ、と舌を伸ばした。急に物分りがよくなったエドガーは裏切り者で、母は怪我をして耄碌もうろくしたに違いない。だから自分は絶対にほだされないと心に誓って、少女は大きく息を吸い込んだ。そして大嫌いなイライザを正面に見据えて、びしっと人差し指を向ける。


「クラインのお店で服、買って!」


 イライザは思わず、ん、と眉をひそめた。唐突に飛び出した名前は、中央区の繁華街に暖簾のれんを構える高級服飾店だ。クリスチャン・クラインという有名なデザイナーのブランドを専門に扱っており、着ているだけで注目の的になれる。


 ドロシーは、さらに続けた。


「エドガーには絵の具と画用紙、あと新しい筆。旅に出るユウリスには馬車がいいと思う。野宿だと背中が痛くなるから、寝台しんだいが置けるくらいの大きくて、かっこいいやつ。ヘイゼルとアルフレドにも、なんか適当に」


「ドロシー、あんた、もしかして公爵の地位を認めるかわりに、私に物をねだろうっていうの?」


「そうよ。公爵になったら、お金持ちでしょ。いま言ったのぜんぶ、あたしとイライザの二人で買いにいくから。もう、決まり。約束してくれないなら、また泣いちゃうから」


 つらいことがあったら、その百倍は楽しいことを見つけようというのがドロシーの信条だ。沈んだままの心で、この夜は越えられない。エドガーと同じように、約束がほしかった。いっしょに買い物へ行くから、イライザは無事でいなくてはならない。ご褒美が待っていれば、きっと家族のみんなも絶望の先に光を見出みいだせる。


「わかったら、さっさとこの状況なんとかしてよ。あたし、第何位だっけ? 三位? そのドロシー・レインが、イライザを公爵にしてあげる。ほんっと、もう、みんな帰ってこなかったら許さないからね! あんたもよ、ユウリ――ねえ、ユウリスは?」


 どれだけ流しても枯れない涙を袖口で拭いながら、ドロシーは周囲を見渡した。先ほどまで離れた場所に佇んでいたはずの長兄は姿を消しており、アーデン将軍もいない。イライザは神妙な顔つきで、煉獄れんごくに落ちた街並みを見据えた。


 エドガーに支えられたグレースが、震える指先を虚空にさまよわせる。


「……ユウリス」


 呟きは深い後悔と自責の念に満ちて、やがて嗚咽おえつに変わった。

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