04 セオドア・レイン

「さあ、ダーインスレイヴの元へ!」


 アルフレドとリジィが、ハサンの一人を連れて二階へと歩きはじめる。


 全身を蝕む痛みに苛まれながら、ユウリスは父の言葉を思い出していた。


 なぜ、ハサンの一味は誰も殺さないのか?

 それどころかアルフレドに、ダーインスレイヴへの道案内を促している。


 ならば領主たるセオドアを屋敷に呼んだ意味は、なんだというのだろう。この期に及んでも暗殺者たちは、地べたにつくばる自分たちを誰一人として手にかけようとしない。


「なにか……」


 なにかが、おかしい。行動と目的が噛み合っていない。そんな漠然とした不安。苦痛よりも鋭く胸を突き刺すのは、ウィッカの盟主たる魔女アリスレイユの予言だ。


 ――レイン家の三人が死ぬ。


「ある、ふれど……アルフレド! 闇祓いの、作法に、従い――!」


 義弟おとうとに手を出したら、ただでは済まさない。


 ユウリスは無我夢中で、破邪の力を発現した。清廉な蒼白の波動が少年の身体を越え、屋敷中に波及する。調伏の輝きによって周囲をさまよう≪スペクター≫の群れは消失し、≪シャイターン≫の攻勢が削がれた。


「いい気概だぜ、ユウリス坊っちゃん!」


 雄叫びを響かせたアーデン将軍が、豪気に槍を振るう。


 イライザも障壁を消し、攻勢に転じた。光の鞭を放ち、同時に弟と父に声を張り上げる。


「ユウリス、お父様、アルフレドをお願い! ここは私と、アーデン将軍で!」


 妖霊ようれいが吹かせる黒い風を、イライザの生み出した光の鞭が絡め取る。

 アーデン将軍は鬼気迫る踏み込みで、≪シャイターン≫の本体である褐色かっしょくの少女に狙いを定めた。


 ユウリスとセオドアは一階の攻防に背を向け、階段を駆け上がる。


「父上、ダーインスレイヴは!?」


「私の書斎だ! だが金庫にはイライザが魔術で封印を施している! そう簡単には開けられん!」


 二人が廊下に躍り出た瞬間、書斎から男の悲痛な叫び声が上がった。次いで、開け放たれたままの扉から漂う不気味な黒煙。それは気体ではなく、魔力の残りだ。


 ユウリスは本能的に、金庫の封印が破られたのだと察した。


 先ほどの≪シャイターン≫召喚を見る限り、ハサンの一味は任務達成のために命を惜しまない。強力な魔術も、妖霊を使役できるような術者が命を賭せば破れるだろうと。


 セオドアが声を震わせ、真っ先に駆け出した。


「アルフレドッ!」


 荒れ果てた書斎に、アルフレドとリジィが佇んでいた。散乱する羊皮紙と調度品に紛れて、全身が焼け爛れた暗殺者の遺体が横たわっている。その傍らに転がるのは空の金庫と、扉の開かれた魔力封じの箱。


 部屋に駆け込んだセオドアが、息子の無事に安堵する。しかし一息遅れて到着したユウリスは、みなぎる殺意の気配を感じて表情を強張こわばらせた。


「父上、離れて!」


 魔力封じの箱に隠されていた女神の至宝――ダーインスレイヴは、抜き身の状態でアルフレドの手に握られていた。その隣で、リジィが囁く。


「ブリギットは誰のもの?」


 血走ったアルフレドの瞳が、迷わずセオドアを捉えた。乾いて罅割れた唇が、意味のない絶叫を上げる。溢れんばかりの殺意を察して、父を庇おうと踏みだすユウリス。しかし、途端に身体が動かなくなる。ダーインスレイヴの効果は、すでに目標を定めていた。


「アルフレド、駄目だ!」


 ダーインスレイヴは別名をブリギットの剣、あるいは必殺の剣とも呼ばれている。排除したい対象の命を確実に奪うという、おそるべき女神の至宝。その魔性は持ち主の心に潜む憎悪をあおり、秘められた負の願望を叶える。


 解放された権能に慈悲はない。


 周囲の人間が阻もうとしても、ユウリスのように動きは封じられてしまう。殺意の誘惑に支配されたアルフレドが、切っ先を掲げて踏みだした。


「ブリギットは、僕のものだ!」


 ユウリスは闇祓いの作法を唱えるが、破邪の力すら女神の祝福には抗えない。


 セオドアは死に囚われ、呆然と息子の瞳に滾る怒りを見ていた。そしてすべてを諦めたように瞼を閉じ、ゆっくりと両腕を伸ばす。


「アルフレド」

「うわあああああああああああああああああ!」


 父の腹部を突き刺す、アルフレドの刃。


 そのまま二人は廊下にもつれ、どちらからともなく床に座り込んだ。


「次の公爵こうしゃくは僕なんだ……僕なんだ、僕なんだ、僕なんだ、僕なんだ! ユウリスじゃない、僕なんだ! あんなにがんばったのに、どうして僕を見てくれないんだ、父上!」


 アルフレドは全身を震わせ、泣き喚いた。リジィは立ち尽くすばかりで動かない。ようやく金縛りから解き放たれたユウリスは、なにもかもが手遅れであることを悟って唇を引き結んだ。


 階段からいくつもの足音が木霊する。続々と姿を見せるのはグレース、ドロシー、エドガー、そして≪シャイターン≫の始末を終えたイライザとアーデン将軍。


 セオドアは力を失くした腕で、ただ息子を抱きしめていた。


「アルフレド。我が、息子よ。お前を愛している。誰よりも、心から、愛して――」


 必殺の剣は、末期の別れすら満足に許しはしない。


 セオドアの姿は、瞬く間に塵になる。無慈悲な権能は、亡骸なきがらも残さない。ようやく父の想いに触れたアルフレドの慟哭が、ただ虚しく響き渡る。


 刹那、アーデン将軍がえた。


「オオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!」


 グレースの制止を振り切り、槍を構えて一直線にアルフレドへ前へ進む。漲る殺意を、隠そうともしていない。ユウリスは咄嗟とっさに義弟の手からダーインスレイヴを奪い取り、その進路を塞いだ。


「俺が殺した!」


 驚いた顔で、アルフレドが視線を上げた。その瞳は正気を取り戻し、悲嘆と後悔に満ちている。


「なんで……?」


 ユウリスは不思議と、ダーインスレイヴの誘惑に呑まれはしなかった。憎む相手の顔すら浮かばないほど、心に開いた穴は大きい。


 そんなことには構わず、アーデン将軍が凶暴な獣の形相で槍を振り上げた。


「ふざけるんじゃねえ、俺は見た! セオドアの旦那を、アルフレドが刺した! そこを退け! このクソガキをぶっ殺してやる!」


「それは駄目だ、アーデン将軍! 父上は、死んだ! もう、死んだんだ!」 


 レイン家の三人が死ぬ――可愛らしい預言者の声が、耳のなかで木霊こだまする。誰かが犠牲になると、わかっていたはずなのに。未来を知りながら悲劇を未然に防げず、みすみす父を死に追いやったのは自分だと、ユウリスは悔恨かいこんの念で奥歯を噛み締めた。


「いまここでアルフレドまで失ったら、ブリギットは本当に崩壊してしまう! 父は! セオドア・レインは! 命と生涯を賭して、この街を守ろうとした。それをよりにもよって父上の盟友だった貴方が、簡単に壊すような真似をしないで!」


 激情に揺れるユウリスは、何度も声を詰まらせた。目頭を焦がす強烈な悲しみは、気を抜けば立ち直れないほどの喪失感に変わってしまいそうだ。


 ドロシーとエドガーは、身を寄せ合って涙を流した。崩れ落ちて項垂れるグレースに、イライザが寄り添う。


 戦慄わななくアーデン将軍の槍が、行き場を失って床に突き立った。


「クソったれ! なんだってユウリス坊ちゃんのせいにする必要がある? こいつはなにもかも、あのハサンとかいう連中のたばかりなんだろうが!」


「はっきりとした根拠はない。わからないけど、嫌な予感がする。これまで起きたことのすべてがキーリィ・ガブリフの企みだったとしても、辻褄つじつまの合わないことが多すぎる。だからいまは、俺が殺した――そうしておいたほうがいい」


 茫然自失のまま座り込むアルフレドからは、癖のある刺激臭が漂っている。憎悪の化身に変貌し、父であるセオドアを刺したのはダーインスレイヴの誘惑ばかりが原因ではない。ユウリスは、その正体を知っている。


「ハサンの一味は、麻薬で人の心を操る。きっとずっと前から、仕組まれていたんだ」


 これまで義弟おとうとから同じ匂いを嗅いだ覚えはなかった。おそらくは家人に感づかれないような微量を、継続的に施していたのだ。


 いまにして振り返れば、アルフレドの素行が急に悪くなったのが契機であったように思える。秋の収穫祭から春の感謝祭に到る今日まで、ハサンの一味、あるいはキーリィ・ガブリフは、レイン家の嫡男ちゃくなんにゆっくりと怨讐おんしゅうの念を植えつけていたのかもしれない。


「アルフレドがおかしくなってから、いつもいっしょにいたのはリジィだ。彼女もキーリィに利用されていた……リジィ?」


 そこでユウリスはふと、書斎に目を向けた。他者の気配に敏感なミアハの感覚が無意識に作用し――刹那、室内の窓が枠ごと外側から破壊された。同時に飛び込んでくる、新たなハサン。動かないリジィの背中で、悪意が笑う。


「ハサンの気配に気づくとは、勘のいいガキだ」


 白装束に包まれた腕が放り投げたのは、導火線が迸る丸い爆弾だ。


 刹那、アーデン将軍の槍がはしり、尋常ではない威力で床を切り裂いた。せめて爆発の直撃を避けようと、家人を下へ逃がそうという算段だ。その目論見通りに廊下は瓦解し、一階へ落下するレイン家の面々。その中で轟音と火、大きな振動が屋敷を包んだ。


 燃えるブリギットに殉じるように、レイン公爵邸もついえる。


 木造の二階建て。一国の主が住処とするには質素で、素朴な佇まいの屋敷。都市を見渡せるタラの丘から、星を覆うほどの黒煙が空に昇る。


 たったひとつの爆発で、すべては壊れた。


 はりが砕け、支柱が折れ、屋根と壁が倒壊する。散乱する家具、服と装飾品、本や書類、どうということはない妖精の置物、なにもかもが、崩れた建物と共に瓦礫と化した。


 漂う煤に紛れて、ハサンが酷薄に告げる。


「キーリィ・ガブリフから伝言だ。ユウリス・レインはスクーン石の元へ来い。妹のヘイゼル・レインは、我々が預かっている。リジィ・オルキン、そしてダーインスレイヴも!」


 ユウリスはハッとして、灰燼のなかで目を見開いた。視界の利かない暗闇。耳鳴りばかりで平衡感覚も失われ、上下も判然としない。鼻腔びこうにまとわりつく、焦げた匂い。まるで冥府に落ちたかのような闇に抗い、必死で腕を動かした。


「――――ッ!」


 圧し掛かる木片を押しのけ、ユウリスは立ち上がった。頬を、冷たい雫が打つ。破裂した浴室の水道管から飛沫が上がり、丘を濡らしていた。優しい雨のおかげで火の勢いは弱まり、延焼は免れている。


 風が吹き、黒い霧は晴れた。


 ハサンの姿は、すでにない。


 庭では爆発に巻き込まれた馬が荷車と共に倒れ、事切れていた。


「みんなは……?」


 ユウリスのそばで、屋敷の残骸ざんがいが動いた。裂帛の気合と共に身体を持ち上げたアーデン将軍の腕には、アルフレドが抱えられている。しかしまぶたは閉ざされ、顔色も悪い。


「アルフレド!」


「安心しな、ユウリス坊ちゃん。アルフレド――二代目は、気絶しているだけだ。クソッたれ、助けちまった……ああ、クソ、クソ、クソ!」


 言葉とは裏腹に、すでにアーデン将軍の憤りはアルフレドから離れていた。主人である公爵を守りきれなかった武人の嘆きが、ただ行き場もなく吐き散らされる。


 少し離れた場所からは、ドロシーとエドガーの叫び声。双子を守ったのは、母のグレースだった。公爵夫人は背中にひどい裂傷を負っており、惨劇さんげきを生き延びた使用人たちが血相を変えて手当てにかかっている。


 ユウリスは遅れて、自分の手からダーインスレイヴが失われていることに気がついた。


「ハサンの一味に奪われた……?」


 先ほど聞こえた声から察するに、爆発の最中に奪取されたのだろう。あるいは無意識に手放したものを、暗殺者が拾っただけかもしれない。どちらにせよ、それはユウリスにとって幸運だった。み子の噂を偽装した義母を目の前にして、殺意を誘発するダーインスレイヴは毒でしかない。


「行かなきゃ」

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