18 時を越える悪意

 公演は盛況のまま幕を閉じた。


 一時は葬式と見紛ごうほどの厳粛げんしゅくな雰囲気に包まれもしたが、そんな状況を笑いに変えたのはラポリだ。台本にない即興芝居で観客を沸かせると、そのまま強引に終演にもっていった。


 おかげで本来は妖精たちだけで披露ひろうするはずだった歌と踊りに、なぜか悪魔が加わることになったが――それはそれで面白かったと、ユウリスは夜明けの湖を眺めながら頬笑んだ。誰もいなくなった舞台で胡坐あぐらき、うん、と両腕を伸ばす。


「このやりきった感じ、なんか久々だな」


 火竜の子供を親元へ送り届けた冒険や、馬上槍試合で優勝した日を思い出す。


 オリバー大森林の戦いや、市庁舎の攻防も同じかもしれない。


 そこで、ふと義弟おとうとの顔が脳裏を過ぎる。アルフレドの不良問題は、まだ解決していない。あるいは義姉あね義妹いもうと。特に末の妹であるヘイゼルは、厄介な問題を抱えていた。


「ヘイゼルはヘイゼルだって話だけれど……」


 レイン家の長姉にして魔女でもあるイライザによれば、ヘイゼルはミアハの人形と呼ばれる邪悪な存在の片鱗へんりんを隠し持っているらしい。


 しかし二人で当人に問いただしても、末の妹は知らぬ存ぜぬを繰り返すばかりだ。そして実際に確たる証拠は見つからず、目に見えた脅威もない。


 しばらくは様子を見ることにしようと決まったのは、ユウリスがフォースラヴィルへ出発する数日前の話だ。


「一ヶ月以上もブリギットを留守にしちゃったけど、向こうは大丈夫かな」


「なんだ、そろそろ故郷が恋しくなってきたか?」


 振り返るまでもなく、声の主はウルカだとわかった。東の空から上る太陽と入れ替わるように、紅い月が色を失くしていく。


 ユウリスは逸る気持ちを抑えながら、一番の心配事を問いかけた。


「ボックの容態は?」


「身体に異常はない。経過観察は必要だが、人狼の治療薬は効くだろう。安心しろ、お前が追わせた怪我もたいしたことはない。傷痕きずあとは、やがて消える」


 そう、と短く返して、ユウリスは膝を抱えた。湖面が波紋を広げ、何かが跳ねる音がする。小さな影は魚のようだが、未だにフォッシーとの再会を諦めてはいない。


「けっきょく人狼化の病って、なんだったんだろう」


 人狼の病に対して、大多数の人間は免疫を持ち得ているという。不幸な例外が生まれたとしても、子供には遺伝しない――少なくともウルカは、そう語っていた。


「でもチャドェンとボックの親子は、≪ライカンスロープ≫になってしまった。それは二人が人狼の病に感染していたからだよね?」


「本当に例外中の例外、疫病の突然変異と片付けたいところだが、実際は違うだろう。チャドェンがいつから人狼の病に侵されていたのかは定かではないが、≪ライカンスロープ≫化がはじまってからボックを儲けたのだとしたら、そこに関連性が見いだせるかもしれない」


「≪リッチ≫の工房が関係している可能性は?」


「それも十分にある。森の工房では、人狼化の秘儀も研究されていた。資料を見た限りでは不完全に終わっていたようだが、実際に≪リッチ≫が誕生していることからも、可能性は排除できない。あるいは何かの理由で、魔神バロールの力が強まっているのか」


「イルミンズールが枯れようとしているのも、関係がある?」


「可能性としては考慮すべきだが、どうだろうな。世界樹はトゥアハ・デ・ダナーンのくさびであり、二つの月のどちらに与するものでもない。女神ダヌも魔神バロールも、均しく恩恵に与っている。イルミンズールの枯渇こかつは神々の再臨さいりんを促すが、その場合は魔神と同様に女神の力も増してしかるべきだ。その均衡きんこうすら崩れようとしているのなら、人狼化はフォースラヴィルに留まらないかもしれない」


 この場所以外でも、リコス親子のような悲劇が起きているかもしれない。それを想像するだけで、ユウリスの胸は杭を打たれたかのように痛んだ。


 仲睦まじい、互いを思いやる親子。自分が持ち得なかった理想の家族。温かな絆が、偶然の病で壊れる様など見たくはない。


「ボックのことを、ずっと考えていたんだ」


「ユウリス、状況が変わった。今回の件は、やはり私が預かる。お前は、もう関わるな」


「それはできない。畜舎で人を殺したのは、ボックの可能性もあるんだよね?」


 二人の親子。二体の≪ライカンスロープ≫。チャドェンは息子の人狼化に気がついていなかった。ボックの発症時期が不明な以上、殺人の容疑者も考え直さなければならない。


 いや、とユウリスは都合の良い考えを掻き消した。


「チャドェンさんは、ずっと人を殺してこなかった。その言葉を信じるなら、殺人の犯人は――」


「それは誰にもわからない」


「嘘をつかないで、ウルカ。俺たちには、その手段がある。裏狐うらぎつねの霊薬を使えばいい」


 ユウリスとオスロットが共闘した夜のあと、ウルカは裏狐の霊薬で≪ライカンスロープ≫の正体を突き止めた。故に畜舎で対峙した人狼は、間違いなくチャドェンだ。


 それと同じように殺害現場に残った魔力の痕跡を霊薬で追えば、殺人犯の正体はおのずと判明するだろうと。


「裏狐の霊薬、森の工房で予備を作っていたよね?」


「もう無い」


「無いって、そんなわけ……いや、そっか。さすがウルカだ。もう、ここに来る前に使ってきたんだね。結果は?」


 ユウリスは一度も、ウルカに顔を向けなかった。


 無機質に、淡々と感情を抑える。命の価値に向き合うのであれば、その天秤を恣意しい的に傾けてはいけない。顔も知らない蓄農場の男と、交流のあった親子――どちらか片方に哀憐あいれんの情をかけてしまえば、裁定の公平さは失われてしまう。


「教えて、ウルカ」


「先に断っておくが、調査は途中で断念した。殺人から日が経ちすぎていたせいで、追えるほどの魔力の痕跡が残っていなかったからだ。だから犯人がボックだという証拠もない」


「でも、状況的には……」


「チャドェンが牢に入ってから、家畜と人は襲われていない。ボックの変身には、不透明な部分が多すぎる。あるいは人狼化の頻度が低いだけという可能性もあるが、あくまで推論だ。ユウリス、ここで答えはでない」


 それが師の優しい嘘なのか、あるいは真実なのか、ユウリスには判断がつかなかった。


 いっそフォッシーが現れて、フォースラヴィルを襲ったらどうなるのだろう。人狼の災禍さいかなどすみに追いやられ、すべての悪意は湖の怪獣に向くかもしれない。


 しかし、それは欺瞞ぎまんだ。


 妄想を排した闇祓いの少年は、空に視線を投げた。白んだ空が色づきはじめ、蒼穹そうきゅうの彼方に見知らぬ鳥が飛んでいる。


「≪ゲイザー≫の在り方が、こんなに重いなんて考えもしなかった。神学校で昔、メイウェザー神父が言っていたんだ――法が整備された国で、個人が罪の在り方を決めてしまったら、秩序は失われてしまうって。俺はただ、法律は大切なんだなって思うだけだった。まさか自分が、その司法と同じ判断をする立場になるなんて想像もしていなかったから」


 ウルカはチャドェンとボックの行く末を、ユウリスに託した。


 未熟な闇祓いの少年は、その意味を考える。頭から離れないのは、かつて遭遇した火竜を巡る騒動だ。未だに最期の裁定を思い出して、悩むことがある。あのとき密室で押し通した矜持は、はたして正しかったのだろうか。


 きっと答えは、永遠に見つからない。


「考え続けることが戦いだって……本当に難しいね。亡くなった人の家族にも話を聞いたんだ。≪ライカンスロープ≫は退治されたことになっているから、もちろん詳しい事情は話さなかったけど。もし犯人を裁く権利が自分にあったら、どうしたいかって」


 ≪ライカンスロープ≫に殺された男の妻は、意外にも安易に怪物の死を願わなかった。なにがあっても夫は戻ってはこない。そんなことを考えても無駄だ。虚ろな目の奥に恐怖をたたえながら、そう答えた夫人の姿が、ユウリスの脳裏から離れない。


「あのとき、夫人は怖がっていた。あれは≪ライカンスロープ≫の復讐を恐れていたんじゃないと思う。自分が誰かを憎んでしまうことに、怯えていたように見えたんだ」


 そう感じられたのは、つい最近まで、あるいは現在もユウリス自身が同じ葛藤を抱えているからかもしれない。


 そんな弟子の話が一息ついたのを見計らい、ウルカは思慮深く目を細めた。


「わかっているとは思うが、万人が納得できる正しさなど存在しない。盗みや殺人を犯して捕まれば、罰を受ける。しかし同じ窃盗や殺人でも程度によって判決は変わり、最終的な判断は人間が行うしかない」


「いくら法律があっても、裁判官の心証ひとつで量刑が変わるってこと? それは、しょうがないんじゃないかな」


「そう、仕方のないことだ。判例を積み上げながら社会の枠組みは明文化され、罪と罰が誰に対しても平等な仕組みであろうと、いまもなお進化を続けている。これが法律だ。まさに文明の象徴といえるが、それでも完璧ではない」


「誰に対しても平等であろうとする仕組みなら、反発するほうがおかしいんじゃないの?」


「そうだな……例えば、ある男が殺人を犯したとする。教会法では、殺人の罪は縛り首だ。しかし男は、どんな病も癒せるという治療薬を開発することができる。その精製は、彼にしかできない。法に照らせば、男は死ぬ。だが生かせば、病で苦しむ多くの人が助かるかもしれない。ユウリス、正しさはどちらにある?」


「それは……正しい答えはないと思う。でも、決めなければいけない。チャドェンとボックの問題も、同じだって言いたいの?」


 そうだ、とウルカは頷いた。


 法律に事細かな例外は記されていない。仮に似た事例があったとしても、最後の判断を下すのは人間だ。千差万別の価値観のなかで、そのときに選ばれた者が道を示さなければならない。


「司法に委ねるというのも、一つの決断だ。だが警察に身柄が渡った時点で、殺人犯として起訴されるのは目に見えている。そうなればよくて絞首刑、悪ければ見世物の処刑台送りだ。どちらにせよ死はまぬがれない。人狼化の特異例として、治療薬の研究に貢献できる機会は失われるだろう」


「殺された命に報いるか、より多くの人を救うために目をつむるか……ウルカは情に流されるな、心に従えって言ったけれど、それは矛盾むじゅんだと思う」


「ああ、だが≪ゲイザー≫とは、成り立ちからして矛盾をはらんだ存在だ。光と闇の狭間はざまに立つ者でありながら、けっきょくは女神ダヌに肩入れしている。命の調和を見守るとうたいはしても、実際は怪物ばかりをほふる狩人でしかない」


「でも同じ≪ゲイザー≫だって、俺とウルカの考えかたは違う。そこに正しさがない以上、対立したらぶつかりあうしかない。当たって、当たり続けて、どちらかが諦めるか、互いにり減って妥協ができるまで」


「地下迷宮の戦いを言っているなら、その通りだ。これから先も、あれを繰り返すしかない。だが刻限だ。最後に、もう一度だけ聞こう。ユウリス、答えをだせるか?」


 湖畔こはんの湿った空気を肺一杯に吸い込んで、ユウリスは世界の果てに意識を向けた。対岸にある森を越えて、空と大地の彼方を見る――そんな幻想でも、心は澄み渡るような清々しさを覚えた。そして気負いなく頷く。


「本当は答え、もう決めてたんだ」


 ユウリスは半分の強がりを口にして、ウルカに顔を向けた。師の顔は普段と変わらず、どこか不機嫌そうだ。いや、眼差しは少しだけ柔らかいかもしれない。彼女は軽く相槌を返したきり、その決断を聞こうとはしなかった。


「さっさと教えろって言わないの?」


「少し焦らすさ。日が完全に昇っても不安にならないようなら、その意思を認めてやる」


「うわ、ウルカってぶれないよね」


 口を尖らせて再び顔を背けるユウリスの姿に、ウルカは重い息を吐いた。この少年と出会ってから、よくぞここまで多くの事件に遭遇したものだと思う。一年前には想像もしていなかった騒がしい毎日が、いまは少しだけ面白い。


 特に意味はなく、ウルカは弟子の後頭部を殴りつけた。そして予想通りに上がる不機嫌そうな声が、どうしようもなく心地良い。


「なに⁉︎ いま俺、なんで殴られたの?」


「その声が聞きたかったからだ」


「え……」


 ウルカは本気でどうかしている――ユウリスは追及するのも怖くなって、げんなりとした顔で口を閉ざした。しかし奇妙な沈黙も、長くは続かない。


 二つの足音が近づいてくる。


 闇祓いの師弟していが同時に視線を向けた先に、サイモンとウッドロウの姿があった。


「サイモンと、それにおじいさま?」


 ウッドロウは応えず、代わりにサイモンが片手を上げる。司祭は隣国のヌアザに渡り、森で発見した工房の魔術師について調査していた。その帰還は、ブリギットを恐怖に陥れた≪リッチ≫の正体に繋がるはずだ。


 立ち上がったユウリスは、緊張気味に喉を鳴らした。


 そしてウルカが報告を促す。


「サイモン、成果は?」


「工房の魔術師は、魔力波形がヌアザに登録されていたよ。魔術師の名はリカルド・フォスター。五十年前、ブリギット軍で宮廷魔術師の資格を得た男のようだ。記録を見る限り、かなり優秀な魔術師だったらしい。教会の分類では、秘匿ひとく級の扱いを受けている」


 秘匿級という聞き慣れない肩書きも気になるが、ユウリスは思わず眉を寄せていた。


 リカルド・フォスターという名前は、これまで一度も耳にした覚えがない。


 ウルカも同様で、つまらなそうに鼻を鳴らしている。その男が≪リッチ≫の正体だったとしても、ブリギットに脅威をもたらしている黒幕の手がかりになるかどうかは怪しい。


 そんな師弟の落胆には気がつかず、サイモンは興奮気味に続けた。


「ただリカルドはブリギットを襲った大洪水の三年後に軍を退役したっきり、痕跡が途切れていた。そこで僕は、ウッドロウ様を頼ることを思いついたんだ。宮廷魔術師のことならば、当事の領主に聞けばいいと。僕の推測は当たっていた。やはりウッドロウ様は、リカルド・フォスターをご存知だったよ」


 熱のこもったサイモンとは裏腹に、ウッドロウは硬い表情で小さく頷くだけだった。深いしわが刻まれた相貌そうぼうに、感情の色は伺えない。


 年老いた前公爵は、誰の目からも逃れるように湖の彼方へ視線を投げた。乾いた唇からこぼれる声が、過去と現在を繋ぐ。


「リカルドは、当事のブリギット軍でも指折りの魔術師じゃった。だが大洪水の折に妻を亡くし、軍を退役したと聞いておる。その後のことは、わしも詳しくは知らん」


 三十四年前、ブリギットは運河の氾濫はんらんによって未曾有みぞうの災害に見舞われた。


 当事の領主であったウッドロウ・レインは民の困窮こんきゅうを見捨て、いち早く隣国ヌアザに退避した悪辣あくらつな王として知られている。


 ユウリスは、祖父の言い回しに奇妙な違和感を覚えた。それはまるで、死因は大洪水ではない、と示しているように聞こえる。


「おじいさま、教えてください。リカルドの妻は、大洪水の被害者なのですか?」


 いいや、とウッドロウは首を振った。重い足取りで湖の縁まで踏み出す老人の動きは、泥に足でも取られているかのように重々しい。


 ユウリスは胸の内を掻き乱す、黒い予感に襲われた。大洪水には、もう一つの闇がある。災害から派生した、醜い人の暗部。


 かつてブリギットを納めていた王が、その胸騒ぎを釘で打ちつける。


「リカルドの妻は、名をジュンという。彼女は、異教徒狩りで殺されたと聞いておる」


 それを聞いたサイモンは神妙な顔つきで祈りを捧げ、ウルカが複雑そうに目を細めた。ユウリスは手の届かない場所にいる妖精の友人に想いを馳せ、無意識に胸元へ手を添える。


 大洪水の折、その混乱に乗じて多くの異教徒が殺害された。ダーナ神教の信徒か、それ以外の信仰を崇めているか。たったそれだけの違いで奪われた命があったことを、ユウリスは最近になって知ったばかりだ。


「おじいさま、ジュンさんはどんな神をあがめていたのですか?」


「妻のジュンはブレグ村の出身でな、この辺りでは昔から鳥の神が崇められておった。祈ることで天候をやすんじ、自然災害から人々を守るという教えじゃ」


 ユウリスとウルカは視線を交わして、頷きあった。ブレグ村を訪れた際、たしかに鳥の意匠いしょうを目にしている。あれが古い神の証だったのかと得心しながら、今度は別の疑問が湧いた。


「でもブレグ村には、ダーナ神教の礼拝堂がありますよね?」


「ウンディゴ病が流行った折、村はヌアザから援助を受けた。それが縁となって建立こんりゅうされたのが、サイモンの住んでおる礼拝堂じゃ。いまでは改宗が進み、大半がダヌ神の信奉者になったがのう。それでも古い神を崇めておったり、あるいは両方に祈りを捧げる者もおる」


「亡くなったジュンさんは、鳥の神を信奉したままリカルドと結婚したんですね?」


「ジュンは、古い信仰を捨てられなんだ。むしろリカルドのほうが、妻に合わせて改宗したほどじゃ。何度も言うが、詳しくは知らん。異教徒狩りが横行していた時分、わしはヌアザに避難しておった」


 民を見捨てた、保身の王。そうののしられていた時代を振り返っても、ウッドロウの声に後悔の色はない。


 あれから三十年以上の月日が流れた。


 老いた身にとっては、もはや遠い過去の出来事だ。時のきざはしを上り続けた男の声は、まるで他人の物語をそらんじるように空虚だった。


「あやつは妻を亡くした後、軍を退役した。わしはブリギットに戻ってから一度だけ、部下にリカルドを見に行かせたことがある。たしか見舞金は受け取ったと、そんな報告を受けたのを覚えておるわい」


「その後、リカルドは?」


「知らんな。そんなものはリカルドのせがれに聞けばよかろう。息子のほうは、たまに噂で名前を聞く。ブリギットで上手くやっておるとな」


 リカルド・フォスターの息子。


 眉間に深い皺を寄せたユウリスは、小さく首を傾げた。フォスターという姓の人物に心当たりはない。


 ウルカは別のことを考えているのか、どこか上の空だ。


 いまいち話が噛み合っていない様子に、サイモンが助け舟を出す。


「ウッドロウ様、彼らは心当たりがないようです。リカルド・フォスターの息子は、いまもブリギットに?」


「わからんで当然じゃ。姓が変わっておる。さっきも言ったがリカルドは、ジュンの信仰を受け入れた。それが理由かどうかは知らんが、婿入りしたのじゃ。結婚後も軍では旧姓を名乗り続けておったから、ヌアザの登録も変わっておらんのじゃろう。フォスター家にあやつの籍はない」


 意地の悪い言い回しに辟易へきえきとして、ユウリスとサイモンが同時に顔をしかめる。


 すると沈黙を貫いていたウルカが、不意に前へ踏みだした。そのままウッドロウに詰め寄り、冷淡な眼差しで答えを促す。


「言え、リカルド・フォスターの息子は誰だ?」


「口の利き方がなっておらんのう、ディアン・ケヒトの怪物め。リカルドが新たに得た姓は、ガブリフ。息子の名は、そう、たしか……キーリィ。キーリィ・ガブリフじゃ」


 キーリィ・ガブリフ。


 その瞬間、ユウリスは鈍器で頭を殴られたかのような衝撃を受けた。事情を知らないサイモンが、その名前は聞いたことがあります、と呑気に手を叩く。


 ウルカは苦虫を潰したような顔で、苛立たしげに舌打ちを響かせた。


「≪リッチ≫の呪詛じゅそを浴びて、それでも生き長らえた理由を、もっと疑うべきだった。市庁舎を占拠した手際にしろ、内部犯の芽は十分に見えていたが……くそっ、サイモン・ウォロウィッツの居場所を探り当てたのも、あの議員だったな。私とユウリスを、ブリギットから引き離すのが目的か?」


 いや、とユウリスは即座に否定した。キーリィに出立の正確な日取りは伝えていない。闇祓いの師弟をブリギットから遠ざけるという企みにしては、不確定要素が多過ぎる。


 外套をひるがえしたウルカは、矢継ぎ早に指示を飛ばした。


「どちらにしろ嫌な予感がする。ユウリス、子供たちに支度したくを急がせろ。日が高くなる前に出発する。サイモン、お前はいっしょに来い。これから用意する書簡を、バレスからブリギットに飛ばせ。宛先はレイン公爵だ。私はオスロットに状況を共有する」


 颯爽さっそうと歩きだすウルカに、理解が追いつかないままサイモンが続く。ユウリスも頭の整理はつかないが、じっと待っていることもできない。


 しかし舞台を下りた少年を、ウッドロウが呼び止める。


「待て、ユウリス。そちらに事情に首を突っ込むもりはない。面倒は御免ごめんじゃ。しかしリコス親子の処遇を聞いておらん」


 ユウリスは足を止めて、最初にウルカを見た。師は立ち止まって振り返るが、なに言わない。ただ日が完全に昇ったのを認めると、好きにやってみろ、と視線で肯定してくれた。


 正答のない問いかけ。


 他人の人生を決める一瞬。


 そのすべてを背負って、闇祓いの少年は口を開いた。


「罪を犯した者に対して与えられる死は、遺族にとって一つの救いになると思う。でも加害者を同じように殺したとしても、残された人たちの心から悲しみが消えるわけじゃない」


 遺族の傷は、永遠に癒えないかもしれない。あるいは加害者の死を、一つの区切りにできるのだろうか。村を襲った≪ライカンスロープ≫が本当は誰だったのかという問題も含めて、そこに明確な答えはない。


あがないは、未来に繋げることができると信じる。後悔や憎悪にまみれた道に希望はないと思うから、少しでも今日より良い明日が来るように」


 北から流れる風は冷たく、開いたばかりの花弁は震えるように揺れる。それでも湖畔に咲いた鮮やかな色彩には、みつを求めてちょうが舞っていた。


 冬の終わりと春の訪れを同時に感じながら、≪ゲイザー≫ユウリス・レインが裁定を下す。


「だから俺は、俺の答えは――」


 レイン家の一行が帰路について間もなく、フォースラヴィルの宿に管理人募集の札がかかった。チャドェンとボックの行方を知る村人はいない。サイモンが手配した馬車はヌアザへ旅立ち、それっきり戻ることはなかった。

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