17 夢見るように水は眠り

 ビッグ一座の演劇は、一幕が半鐘はんしょうほどの時間で終わる。舞台は全五幕。第一幕は昼過ぎからはじまり、鐘一つ分の休憩を挟んで次の芝居がはじまるという塩梅あんばいだ。


 フォースラヴィルは娯楽が少ないせいもあり、あれだけ余所者よそものを排除しようとしていた村の人々も、序幕から大勢が会場に詰めかけた。あるいは人狼の脅威が消えて、観光客を遠ざける原因がなくなったのが理由かもしれない。


「晴れてよかったね。雨天中止で開催がずれ込んだら、ブリギットの感謝祭には間に合わないところだった」


 第四幕までを終えたユウリスは、すっかり住み慣れてしまった小屋の寝台で大きく腕を伸ばした。


 すでに夜のとばりが落ち、世界は紅い満月の光に妖しく照らされている。


 湖の前に設けられた会場は、最後の第五幕を待ち侘びる村人たちで埋め尽くされていた。


「エドガー、本当に一度も舞台に上がらなくていいの? 俺がやっている冬の妖精は台詞がないから、代わろうと思えば代われると思うけど」


「いや、僕はいいよ。観客でいるほうが面白いことに気づいた。もうさ、オスロット警部補が……ああ、だめ、腹がねじきれそう」


 同じように寝台でくつろいでいるエドガーが、日中の演目を思い出して腹を抱えた。椅子に腰掛けているドロシーも、意地悪そうに唇の端をつり上げる。


「あれね。ほんとは脅かさなきゃいけないのに、サヤにだけ優しいんだもん。お客さんたちも笑ってたよ。農場主が、春の妖精にだけなんか優しいって」


 ユウリスの膝の上に座っているサヤが、きょとんと首を傾げる。それがまた可笑しくて、双子は顔を見合わせて吹きだした。


 壁際に寄りかかっているオスロットが、顔を真っ赤にして鼻を鳴らす。


「な、なにを馬鹿なことを! 私は手など抜いておらんわ! あれは、そう、春の妖精の魔術にかかったふりをしたまでよ。即興の芝居をしたというわけだ!」


「オスロットおじちゃん、あたし、まじゅつ、つかえないよ?」


「ぬ、ぬううううううううううううううう⁉︎ い、いや、サヤは、その、なんというのか、可愛いという魔術をだな……」


 その瞬間、小屋は揺れんばかりの爆笑に包まれた。卓の前で果物をかじっていたウルカが、なにか嫌味を口にしたようだが誰の耳にも届かない。


 そこに戸を叩く音が加わり、恐ろしい悪魔にふんしたラポリが顔を覗かせた。


「なんか楽しそうだね。でも、それは打ち上げまでとっておこう。そろそろ五幕の開演時間だ。みんな舞台袖まで来てくれるかな?」


 一同は頷いて、それぞれ支度をはじめた。


 エドガーを除く四人の子供たちは白いローブを身に纏い、それぞれの季節に相当する意匠の仮面を被っている。他にも小道具があり、サヤは草花のかんむり、ボックは太陽を模した靴、ドロシーは紅葉をあしらったケープ、ユウリスは白い杖だ。


 弟子の晴れ姿を改めて眺めたウルカは、意地悪そうに唇の端をつり上げた。


「妖精の啓示を受けた者が、妖精の扮装とは皮肉が利いている」


「それ、≪リッチ≫の工房でも言っていたよね。どういう意味?」


「人間には理解できない妖精の思惑。あるいは妖精に翻弄される運命を揶揄やゆする言葉だ。私は未だに、オリバー大森林におけるプークの意図がわからない。お前は騒動の中心に置かれ、闇祓いの力に目覚めた。そしていまも不可解な事件に関わり続けている。星刻せいこくの導きというのは簡単だが、なにか意味があるようにも思える」


「なにそれ、すっごい嫌な脅し」


 仮面の下で苦虫を潰したような顔をするユウリスの肩に、後ろから硬い衝撃がはしった。ごめん、と声を上げたのはエドガーだ。振り向くと、義弟おとうとが大きな布に包まれた薄い板を運んでいる。ちょうど、その角が当たったようだ。


「エドガー、それ例の絵?」


「うん、ついさっき仕上げたんだ。最後はテリーさんにも少し手伝ってもらえたし、いい出来だと思うよ。舞台が終わったら、チャドェンさんに見せるつもり。よかったらユウリスもついてきてよ」


「いや、エドガーひとりで行きなよ。俺がついていくと、ドロシーもいっしょに来たがるだろうから」


 二人は笑いあって、小屋を後にした。


 サヤとドロシー、ボックは、すでにラポリと共に会場へと歩き出している。最後に出番が終わったオスロットと、大道具係のウルカが私服で後に続いた。


 湖畔こはんの草原には花がちらほらと咲き誇り、肌寒さも感じない。


「ユウリス」


 舞台に向かう途中、ユウリスはウッドロウに呼び止められた。


 老人の傍らにはチャドェンもいる。人狼として恐れられていた彼だが、銀の鎖による拘束を受けていない。それどころかきものが落ちたように、晴れやかな顔で佇んでいた。


 ボックは父親の存在に気がついておらず、サヤたちと談笑しながら遠ざかっていく。


 子供たちの引率はオスロットが引き受け、弟子と共に残ったウルカが腕を組んで目を細めた。


「調子はどうだ、チャドェン。今夜は紅い満月と蒼い新月――魔神バロールの力が最も強くなり、同時に女神ダヌの加護が薄れる日だ。人狼化の兆候が現れるとしたら、そろそろだろう」


「いえ、まったく身体に違和感はありません。これまでは紅い月の光が強い夜は、妙に喉が乾くような感覚に襲われていました。でも、いまはまったくそんなこともなく……≪ゲイザー≫のお二人には、本当に感謝しています。ボックの舞台も見ることができて、本当に幸せです」


「夜が明けるまで、お前は私が見張る。それで人狼化の兆しが現れなければ、治療薬は完成したとみていいだろう。私は怪物が嫌いだ。≪ライカンスロープ≫だろうと、なんだろうとな。だが協力には感謝する」


 愛想のないウルカの謝意にも、チャドェンは照れ臭さそうに笑みを浮かべた。ボックと離れ離れになる辛さを微塵も感じさせないのは、彼なりの配慮なのかもしれない。


 そこで険しい顔のウッドロウが、つまらなそうに息を吐いた。


「人狼を退治するまではよかったが、余計な荷物を背負わせてくれたものじゃ。おまけに報酬までふっかけおって。明日にはフォースラヴィルを発つという話じゃったな。せいせいするわ」


 ウッドロウは一息に悪態を吐き散らかすと、チャドェンを連れて会場のほうへ立ち去った。相変わらずの祖父に苦笑したのもつかの間、ユウリスは神妙な顔つきで目を細めた。


「おじいさまの言う通りだ。俺たちは明日、フォースラヴィルに発つ。だからチャドェンさんのことは、今夜決めるよ」


「まずは決めるだけでいい。あとは私が手配を済ませる。だが考え抜いても決められなければ、そう言え。迷いも、また答えのひとつだ」


 闇祓やみばらいの師弟していは頷き合うと、遅れた時間を取り戻すように会場へ足を急がせた。


 湖の畔に設けられた野ざらしの劇場に、酒を持ち込んだ大人たちの歓声と指笛が木霊する。合流した第五幕の演者たちは、木の板で仕切られた即席の舞台裏で円陣を組んだ。力強くとどろいた演者たちの雄叫びに、驚いた森の鳥たちが空に羽ばたく。


 はじめに泉の妖精に扮した主演女優のダイアナが姿を見せると、割れんばかりの拍手喝采はくしゅかっさいが湧いた。


「これよりご覧入れるのは、舞台『夢見るように水は眠り』の第五幕。妖精と悪魔が繰り広げる饗宴きょうえんの行方を、どうぞご堪能ください」


 そして舞台の幕が上がる。ダイアナは台座で眠りに就き、悪魔役のラポリが舞台袖から勢いよく飛び出した。役者が登場するたびに村人たちが熱狂的にはやし立てるので、演技も自然と熱が入る。


「ぐへへへへ! 邪魔者がいない紅い夜。蒼い月のいない紅い夜。人間食べる紅い夜。邪悪な魔神がこんばんは。オレサマ、悪魔。バロールのしもべ!」


 場を盛り上げてくれるのは、観客だけではない。


 フォースラヴィルの趣味人たちが楽器をかき鳴らし、その幻想的な調べに誘われて、小さな妖精たちが舞台に踊り出た。最初に口を開くのは、春の妖精に扮したサヤだ。


「あくまさま、あくまさま、どうぞこちらへおいでください」


 たどたどしくも懸命な姿が年配客の心を掴み、サヤちゃん、と応援する声がそこかしこから生まれる。声援に応えて律儀に手を振るサヤに、舞台の途中だと野暮な突っ込みをする者はいない。それは心ない野次を飛ばしそうな酔っ払いを、観客の一員となったオスロットが睨みつけているからでもある。


 次に存在感を示すのは、ボックが扮する夏の妖精だ。


「悪魔さま、悪魔さま、どうか僕たちを食べないで!」


 年甲斐もなくはしゃいだ拍手をしたチャドェンは、感極まって涙を流した。そのかたわらで、ウッドロウが面倒臭そうに肩を竦める。無感動な眼差しに孫の晴れ舞台を喜ぶ色はないが、それでも昼の第一幕から観劇は欠かしていない。


 続いてドロシーが扮する秋の妖精が、澄んだ美声を響かせた。


「悪魔さま、悪魔さま、ご馳走とお酒がございます!」


 エドガーも布に包まれた肖像画しょうぞうがを抱えながら、双子の片割れに惜しみない拍手を送った。悪戯な秋の妖精に扮したドロシーは、台本にない突飛な行動でサヤとボックを驚かせている。


 最後の登場は冬の妖精に扮したユウリスだ。ほとんど台詞はなく、動きで感情を表現しなくてはならない。


「……、……!」


 悪魔を宴に招こうと、必死で腕を動かす仕草にウルカは口元を緩ませた。


 意識はチャドェンに割いているが、いまのところ異常はない。念のために予備の治療薬も用意したが、出番はなさそうだ。弟子の滑稽こっけいな演技をからかうためにも、いまは舞台に集中しよう――しかし闇祓いの女傑じょけつは、不意に邪悪な鼓動を耳にした。


 聴覚ではなく、長い経験でつちかった第六感が捉える怪物の気配。


「チャドェン……いや、違う」


 ウルカはぎょっとして、舞台に視線を注いだ。仮面越しに表情は見えないが、ユウリスも違和感を覚えているようで動きが硬い。


 舞台は進行している。


 宴に招かれた悪魔が、満腹になったふりをして妖精を油断させる場面だ。


「もう食べられない。でもアレは妖精の料理じゃなかったぞ。オレサマをだますとは、いい度胸だ。どれどれ、今度こそあいつらを食べてやろう。さあ、寝たふりだ。ぐーすか、ぐーすか!」


「ねているわ」


「…………寝て、いる……うう、うううう」


「え、あ、わ、わたしが持っている、この魔法の薬を飲ませましょう!」

 

 途中で途切れてしまった前の台詞を、ドロシーは慌てて取りつくろった。ユウリスも演技を続けるが、白い杖を握る手が震える。刹那に起き上がった悪魔が、両手を広げて妖精たちに襲いかかった。


「ぐへへへへ! 騙されたな、妖精ども。お前たちを食べてやろう。美味しく楽しく食べてやろう。焼こうか煮ようか潰そうか。まずは、お前からだ!」


 台本通りなら、逃げ遅れるのはサヤが演じる春の妖精だ。しかし悪魔の前に、夏の妖精に扮したボックが立ちはだかる。ラポリは目を丸くして動きを止めた。


 サヤもきょとんと立ち尽くし、ドロシーは舞台がめちゃくちゃだといわんばかりに仮面の奥で顔をしかめている。


 チャドェンが呆然と、息子に呼びかけた。


「……ボック?」


「おと、おとおおおおおおおお、あああああああああああああああ!」


 およそ人の声帯とはかけ離れた獣の絶叫を響かせながら、ボックは頭上に浮かぶ紅い月を仰いだ。咄嗟とっさに動いたユウリスが、ラポリを場外に突き飛ばす。さらに腰の剣に手をかけて踏み出そうとするウルカの腕を、ウッドロウが掴んだ。


「今はいかん。まだ村の連中は演技だと思っておる。混乱が起きれば、守りきれまい」


 ボックの身体が大きくふくれ上がり、妖精の衣装が弾け跳んだ。


 その体躯たいくは大人ほどに成長し、全身が灰色の体毛に覆われていく。仮面の下から狼のあごが突き出し、ユウリスを捉えるのは爛々らんらんと輝く金色の瞳。白い煙となって吐き出されるのは、荒々しい獣の呼吸。


「ふぅ、ふぅ、ふしゅううううう、シャアアアアアアアアアアアアアア!」


 威嚇いかくと共に放たれる、邪悪な波動。小道具の杖を構えたユウリスは、乾いた呟きをこぼした。


「≪ライカン、スロープ≫……!」


 客席から歓声が上がった。ボックの人狼化を、村人たちは芝居の演出だと信じ込んでいる。大道具に魔術師の女がいるらしいぞ、そいつが変身させたのか、と無責任な誰かが興奮気味に捲くし立てると、危険を感じていた少数の観客も胸を撫で下ろした。


 そんな彼らを、≪ライカンスロープ≫の獰猛どうもうな視界が捉える。膝を曲げ、一足飛びで人々に襲い掛かろうとする怪物。


 危険を察したユウリスが、破邪の力に呼びかける。


「闇祓いの作法に従い――!」


 体内から湧きあがる、清廉せいれんなる調伏ちょうぷくの波動。全身が蒼白の光に包まれ、瞳は群青に塗り変わる。


 ぎょっとして振り向いた≪ライカンスロープ≫の鼻先に、ユウリスは素早く杖を突き出した。破邪の輝きを纏った杖に顔面を突かれた怪物が、よだれを撒き散らしながら苦悶にあえぐ。


「ボック!」


 思わず飛び出そうとしたチャドェンを、やはりウッドロウが押し留めた。しかし父親として息子の危急は見逃せない。制止を振り切ってボックの元へ駆けつけようとする彼を、ウルカが鋭い視線でたしなめる。


「やめておけ、お前が行くのは逆効果だ。ユウリスの負担が増える」


「なら、このまま息子が退治されるのを見過ごせというのですか? そんなことはできない。人狼の病が子供に引き継がれることはないと、貴女が言ったのに!」


「それに関しては弁明のしようがない。これは私の知識にない事例だ。しかし解決の手段はある。万が一のために、治療薬の予備を用意しておいた。これをボックに飲ませれば、あるいは――」


 体勢を立て直した≪ライカンスロープ≫が、闇祓いの少年に牙を剥いた。破邪の光をまとう杖と、邪悪な波動を宿した怪物の爪がぶつかり合う。


 舞台を縦横無尽に動き回る活劇は、人々を大いに魅了した。息の詰まるような攻防に、拍手喝采が鳴り止まない。


 歯痒はがゆそうに舌打ちしたウルカが、治療薬の小瓶こびんを握り締めて歩き出す。


「ウッドロウ、お前の言う通りだ。この状況で混乱が起きれば、少なからず死を招くだろう。チャドェンを見張っておけ、余計な手出しはさせるなよ。ユウリスなら、舞台の上で決着をつけることができるはずだ」


 舞台では事態が呑み込めないラポリが、芝居を続けるダイアナを守るように立ち居地を変えていた。


 闇祓いの力を脅威に感じた≪ライカンスロープ≫は、ユウリスに狙いを定めている。


 そこに袖から顔を覗かせたオスロットが、こっそりとサヤに呼びかけた。


「サヤ、サヤ、こっちへ来るんだ。それはいかん。近づいてはならんぞ!」


「でも、まだ……」


 芝居は続いている。


 村人たちの熱狂が物語る勘違いに、サヤは気がついていた。混乱を広げないよう、演技を続けながら人狼と対決するユウリス。初めて本物の怪物を目にしたドロシーは、怯えるばかりで棒立ちだ。


 自分だけ逃げるわけにはいかないと、少女は祈るように両手を組んだ。


「おにいちゃん、がんばって」


 しかし破邪の力を用いても、杖が武器では話しにならない。演技の小道具など、所詮は樫の木を削って作られた棒切れだ。≪ライカンスロープ≫の爪が一閃し、杖の上半分が宙を舞う。


 その瞬間、サヤは決意した。小さな手でドロシーの袖を強引に引っ張り、無理やり屈ませて耳元に囁きかける。


「あたしが、おにいちゃんにぶきをわたす。ドロシーおねえちゃん、ここ、おねがい!」


「え、あ、サヤ、ちゃん?」


 ドロシーの戸惑いを無視して、サヤは大きく息を吸い込んだ。幼い両手を目一杯に広げ、春の妖精が客席に呼びかける。


「だれか、だれか、ぶきをください。おに……ふゆのようせいをたすける、ぶきをもっているひと、いませんか?」


 観客たちの間にざわめきが広がった。それは動揺ではなく、自分たちも芝居に参加できるという興奮の色だ。武器はないか、と叫ぶ声が、そこかしこから上がる。


 遅れてサヤの意図を察したドロシーが、ぐっと両手を握り締めてのどを震わせた。


「悪魔の呪いによって、夏の妖精は邪悪な怪物に変身した。いま戦う力を持つ者は、冬の妖精しかいない。みんな、助けて。冬の妖精を、助けて!」


 しかし村人たちが都合よく武器を持参しているような奇跡はない。


 舞台の端で右往左往するラポリの尻を、寝そべったままのダイアナが容赦なくひっぱたいた。


「どうしよう、ボク、知らない間に呪いをかけちゃったみたいだ」


「そんなわけないでしょ、馬鹿ラポリ。でも、あの子たちがなんとかしてくれるみたい。私たちは、信じて舞台を続けるわよ――って、あれ、農場主が出てきちゃったけど?」


 とうとう痺れを切らしたオスロットが、舞台袖から半身を乗り出した。


「これを使えい!」


 手にした自慢の愛剣を振りかぶり、ユウリスへと投げ渡した。その光景に観客席からは、なんで農場主が出て来るんだ、と野次が上がる。


 ざわっと広がる疑問の波を、ドロシーが慌てて取り繕った。


「なんと農場主が駆けつけた。もう妖精は食べないと心を入れ替え、悪魔を退治するためにはるばるやってきたのです!」


 観客たちが一斉に笑い転げ、顔を真っ赤にしたオスロットは再び顔を引っ込める。そんな農場主の登場で、潮目しおめが変わった。


 見事に剣を受け取ったユウリスの手で、白銀の刃が引き抜かれる。


「銀の刃なら……!」


 苦手とする銀の武器を前にして、≪ライカンスロープ≫がたたらを踏んだ。闇祓いの輝きが、異形の放つよこしまな波動に拮抗する。


「ごめん、ボック。ウルカの薬が届くまでの辛抱だから」


 沈痛そうな呟きは、仮面の奥に消える。


 ユウリスは低い姿勢で肉薄し、下弦から鋭く剣を振り抜いた。その軌道に薙がれた怪物の爪を力任せに弾き、さらに刃を返す。銀の残像が消えぬ間に、突き上げる柄――全身の筋力を総動員して放った衝撃が、≪ライカンスロープ≫の顎に突き刺さる。


「はあああああああああああああ!」

「グウウウウウウウウウオオオオ⁉︎」


 骨の砕ける感触、飛び散る涎。


 悲鳴を上げる人狼に観客たちの視線が釘付けになるなか、舞台袖に辿り着いたウルカがサヤを呼ぶ。


「サヤ、この小瓶をユウリスに渡せ。人狼化の治療薬だ。これを飲ませれば、ボックは元に戻る」


「わかった!」


 サヤに切り札の妙薬を引き継いだウルカは、幕外に残って剣の柄に手をかけた。いざとなれば、多少の混乱と犠牲は覚悟で飛び込む腹積りだ。


 子供たちに後を託すしかないオスロットが、歯痒そうに地団駄を踏む。


「私たちにできることは、他に何もないのか。というか、なんでサヤに渡す必要がある。ドロシーお嬢様のほうが年上だろうが!」


「サヤのほうが怪物に慣れている。オスロット、お前はウッドロウを手伝え。ここは私が預かる」


「貴様はどうするつもりだ、ゲーザー」


「いざとなれば、ユウリスに代わって私が人狼の首を斬る」


「なぜ最初から、そうせんのだ?」


「私も、弟子に本気で嫌われたくはない」


 そこでふと、ウルカは子供の数が合わないことに気がついた。


「エドガーはどうした?」


「ん、お、ああ、そういわれると、おらんのう。こんなときにどこへいったんだ、あの小僧め!」


 観客たちの歓声が、さらに熱を帯びる。闇祓いの刃に押され、不利を悟った≪ライカンスロープ≫がついに踵を返した。場外へ逃げようとする兆しを察知したユウリスが、その背に驚異的な加速で追いすがる。


「逃がすわけにはいかない!」


 跳躍した人狼の眼前に、ユウリスが回りこんだ。威力を最小限に抑えた破邪の刃を、横薙ぎに払う。空中で交錯する怪物の爪と、闇祓いの剣――力負けした≪ライカンスロープ≫が、舞台の上に落下する。


 その隙を見逃さず、サヤと共に機会を伺っていたドロシーが大きく両手を広げた。


「冬の妖精、聞いて。春の妖精が、女神ダヌより聖なる泉の加護を承った。この薬を飲ませれば、悪魔の呪いは解けるはず!」


 着地したユウリスに、サヤが駆け寄る。


 しかし次の瞬間、≪ライカンスロープ≫がおぞましい唸り声を上げて飛び起きた。同時に放たれた怪物の咆哮ほうこうが聴覚を麻痺させ、三半規管さんはんきかんを狂わせる。


 村中に響き渡る、異形の雄叫び。


 観客席からも悲鳴が上がり、チャドェンと共に膝をついたウッドロウが呻く。


「これは、いかん!」


「おにい、ちゃん……」


 治療薬の小瓶を握り締めたまま、サヤが転倒した。怒りに我を忘れた≪ライカンスロープ≫の爪が、足元の少女に矛先を向ける。ユウリスは咄嗟に、剣を投擲した。しかし目の回るような気持ち悪さで、まともな狙いはつけられない。


 それでも本能的に銀の刃を忌諱きいする人狼は、思わず動きを止める。


 闇祓いの少年はよろけながらも、足を前に踏みだした。


「サヤ!」


 異形の毛先にも掠らなかったオスロットの剣が、舞台の端に転がる。それは気にせず、ユウリスは無我夢中で≪ライカンスロープ≫に突進した。しかし全身に纏う破邪の光も、武器がなければ焼け石に水でしかない。


 少年の後頭部を、怪物の豪腕が鷲掴んだ。その頭蓋骨を粉砕せんと指先に暴虐の力が込もり、紅い月夜に怨嗟に満ちた獣の慟哭が響き渡る。


「フゥ、フゥ、シャアアアアアアアアアアアアアアアアアア!」


 弟子の危機に、ウルカが腰の剣を抜き放つ。そして舞台に踏み込もうとした刹那、反対側の袖にエドガーが現れた。うずくまりながら目を剥いたドロシーは、双子の片割れが抱える一枚の絵画に息を呑んだ。


「エドガー、それって……」

「ボック!」


 エドガーは、手にした絵を大きく掲げた。


 そこに描かれているのは、ある親子の肖像だ。椅子に腰掛けるチャドェンと、その傍らで腕を組むボック。優しく頬笑む父と、勇ましく胸を張る息子。


 筆を執ったのは駆け出しの画家だが、振るわれた彩管には魂が込められている。


「せっかく完成したんだ! お父さんと二人で、ゆっくり眺めてよ」


 その絵を目にした瞬間、≪ライカンスロープ≫の手から力が抜けた。床に落とされたユウリスが、歯を食い縛って膝をのばす。


 サヤに寄り添っていたドロシーは、義兄あにが立ち上がるのを認めると、さっとオスロットの剣を拾い上げた。


「ユウリス、あとは任せて平気?」


「頭痛と眩暈で吐きそう。でも、大丈夫」


 ドロシーから受け取った銀の剣を、ユウリスは水平に構えた。≪ライカンスロープ≫が牙を剥いて威嚇いかくするが、恐れはない。全身の毛穴から蒼白の粒子が湧き、きらめきは天に昇る。紅い月の光を遮り、周辺に清廉な輝きが満ちた。


 武器を納めたウルカが、ふん、と小気味良さそうに鼻を鳴らし、師弟の声が重なる。


「闇祓いの作法に従い――」

「闇祓いの作法に従い――」


 ユウリスの放つ清廉な光芒こうぼうが、ウルカの力に共鳴して増幅する。破邪の灯火は苦しむ人々を癒し、さらに≪ライカンスロープ≫の内に眠るボックの心へ波及した。


 闇祓いの少年が悠然と唱える。


「≪ゲイザー≫は怪物の血を焼き、人心の闇を祓う。その狭間に生きる≪ライカンスロープ≫を、俺は見捨てない。帰ろう、ボック。君が戻りたい場所に、君自身の意思で」


 怪物のたたえる金色の瞳が、熱を帯びて揺れた。灰色の体毛に覆われた膝が崩れ、弱々しい嗚咽おえつが漏れる。


 闇祓いの作法を駆使するユウリスの傍らに、サヤが立ち並んだ。視線を交わした二人が、笑顔で頷きあう。


 そして春の妖精が手ずから小瓶を差し出し、人狼の口に神秘の霊薬を流し込んだ。少女の柔らかな声が、春風に乗る。


「あくまよ、さりなさい!」


 そして≪ライカンスロープ≫は邪悪な鼓動を手放し、人間の子供に姿を還した。もはや熱狂も歓声もない。


 奇跡の目撃者となった人々は、ただ膝をついて神に祈りを捧げた。

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