16 ドロシーの不満

 水と森は本来、魔性ましょうの潜む世界だ。


 ヴァハの樹海とフォースラヴィルにも、当然のように人外の伝承が残されていた。それはハッグと呼ばれる妖精で、醜い老婆の姿をしている。森の洞窟を住処すみかにしており、迷い込んだ人間を食べてしまうらしい。あるいは浮遊するほうきまたがり、夜の湖を自在に飛び回ることもあるという。


「カーミラは魔女の印象を悪くするためにでっちあげられた妖精じゃないかって言っていたけれど……ハッグは図鑑にも載ってるんだよな」


 深夜のこはん畔で、ユウリスは周囲を見回した。


 日が暮れて急に気温が下がり、吐く息は白い。


 雲を透過する二つの月明かりだけが、闇を仄かに和らげている。村の明かりも落ちて、影梟かげふくろうの低い鳴き声が響き渡る世界――見通しの良い場所ではあるが、魔女の妖精ならば頭上から急に襲いかかってくるかもしれない。念のため、腰には短剣を携帯している。


「さっさと終わらせよう」


 気を取り直したユウリスは、冷たい湖に両腕を突っ込んだ。


 指先から全身に伝播する、ぞわっとした悪寒の半分は未知への恐怖かもしれない。いま水中からフォッシーが現れたら、きっと瞬く間に手を食われてしまうだろう。それとも全身を一気に丸呑みだろうか。じゃぶじゃぶと飛沫を上げる音が湖底の怪物を刺激しないように祈りながら、休まずに手を動かし続ける。


「まあ、ウルカも邪悪な気配はないって言っていたし、大丈夫……大丈夫」


 自分に何度も言い聞かせて、水底をさらう。指先がなにかを引っ掛ける度に腕を上げるが、布切ればかりで目的の物は見当たらない。


「おかしいな、この辺りだと思うんだけど……もしかして流されたかな」


「ユウリス」


「え? あ、うわああああ⁉︎」


 背後からの声に慌てたユウリスは、無理な体勢で振り向こうとしたばかりに膝を滑らせた。まるで喜劇のように身体が宙を舞い、顔面から真っ逆さまに湖へ落ちる――寸前、ドロシーの片手が義兄あにえりを掴んだ。


「もう、なんなの⁉︎ あたしに驚きすぎじゃない⁉︎」


「その声は、ドロシーか……って、鼻、水についてるから! そのまま引き上げて!」


「世話が焼けるアニキだなあ」


 なんとか極寒の水浴びを免れたユウリスは、大きく安堵の息を吐いて座り込んだ。そんな義兄の黒髪をばしっと手ではたいたドロシーが、大きく鼻の穴を膨らませる。


「ちょっと気をつけてよね。なんか、あたしが落としたみたいになるじゃん。まったく、ユウリスってけっこうドジなんだから」


 ドロシーは寒さから逃れるように、厚手のローブに手を引っこめた。寒そうに鼻水をすする義妹いもうとを見上げて、ユウリスが肩をすくめる。


「急に後ろから声かけるからだよ。こういうときは横から来て、横から」


「あんた、気配察知みたいなのができるんじゃなかったっけ?」


「いま、ちょっと考え事してた。それで、なに?」


「なにっていうか、ユウリスがこんな時間に小屋を抜け出すから、気になっただけ。それにしても寒っ! で、あんたこそ夜中になにやってんの?」


 そこで言葉を詰まらせたユウリスは、気まずそうに視線を逸らした。ひとつを答えれば、次の疑問が湧く。その一つ一つを明かしていけば、家族の絆にひびが入るような事実を語らなければならない。それは嫌だった。だから嘘をつく。


「ドロシーには関係ないよ。闇祓いの話だ、ウルカに口止めされている」


「へえ、そう……じゃあこれ、いらない?」


 ドロシーは不機嫌そうに鼻を鳴らすと、返答に窮した義兄の前に屈み込んだ。そしてローブの内側から取り出した青いストールを揺らすと、今度はにんまりと白い歯を見せて笑った。


 それはまさしく、ユウリスが探し求めていた義母ははの襟巻きにほかならない。


「あ、ドロシー、それ⁉︎」


「せっかく拾って、しかも繕ってまであげたのに、そういう言い方か。闇祓いがどうとか嘘つくんだね。なーんか、イヤな感じ。ちょっとは仲良くなれたかなと思ったのに、ユウリスってそういう奴だったんだ。あーあ、拾って損した」


 ユウリスは今度こそ言い訳もなく、ごめん、と力なく項垂うなだれた。そんな義兄の手に、ドロシーが押し付けるようにストールを握らせる。


 雲が風に流され、視界を明るくするのは蒼い月光。紅い天体は未だ、天の衣に身を隠している。


「よくわかんないけどさ、お母様となにかあったんでしょ。いいよ、話さなくて。ユウリスは理由もなく貰い物を捨てるような奴じゃないもんね。忌み子とか、なんか大変なんだろうなって勝手に思っとく」


「これ、どうして?」


「ああ、あたし、人が起きると自分も起きちゃうことあってさ。あの日も、そう――何日か前に、オスロットと二人で話してたじゃん。その、けっこう深刻な感じで? なんか目が覚めちゃった」


「見てたのか」


「窓からね。だからあのときユウリスが、お母様のストールを湖に捨てたのも知ってる。ごめんね、もっと早く言えばよかった」


 盗み見ていたのを恥じるように俯く義妹の髪を、ユウリスがそっと撫でる。気にしていない、と言外に伝えると、ドロシーは顔を上げてはにかんだ。


「そのあと人狼騒ぎで、ユウリスが怪我とかしちゃったのが悪いんだからね。あのまま放置しておいたら、ストールが流されちゃうかなって心配で、あたしが拾っておいてあげたの。でも枝に引っかかって破れるし、直すのも大変だったんだから!」


 ユウリスは改めて、手の中のストールを眺めた。編み物に詳しくない自分は、修繕された箇所の見分けもつかない。それくらい丁寧に直してくれたのだとわかると、胸が温かくなる。


「ドロシーは、俺がこれを探しにくるってわかっていたの?」


「そんなん知るわけないじゃん。でも、そうなったらいいなって思った。あのまま放置されてたら、ユウリスは家が嫌いになったってことだから。あたしはいいけど、ヘイゼルが哀しむとイライザの機嫌が悪くなるし。ウソ、あたしもよくない。せっかく仲良くなったし、ちゃんと兄妹でいたいじゃん……って、なに言わせんのよ!」


 ドロシーの手刀が素早く放たれ、ユウリスの頭を叩く。それから二人はどちらからともなく肩を揺らし、飽きるまで笑い続けた。


 夜の恐ろしい冷たさも、その明るさを前にすればすっかり薄れてしまう。けっきょく彼女は最後まで、ストールを捨てた理由を尋ねなかった。


 湖を正面にして、二人並んで胡坐あぐらく。まとったばかりの青いストールが、強い風に煽られた。


 水面も揺れるが、フォッシーが現れる気配はない。


「そういえばユウリス、エドガーと二人で出かけてたでしょ。あいつ、なんか悩んでる?」


「ただの雑談だよ。気になるなら本人に聞けば?」


「もう聞いた。なんでもないってさ。でも隠したってわかるんだから。うじうじしちゃってさ。あたしじゃなくてユウリスを頼るとか、なんか癪なんだけど」


「双子だから?」


 ユウリスの問いかけに、ドロシーは唇を尖らせて呻いた。


「うーん、ちょい違うかも」


 なにが気に入らないのかは、彼女自身にも判然としない。家族という括りでいえば、ユウリスも兄弟姉妹のひとりだ。双子という繋がりは特別でも、それだけが理由ではないと思う。


「わかんないけどさ……なんか、悔しい。いちいち理由とか、考えないし。あと、仲間外れにされてるみたいでムカつく」


「それ、エドガーに言ったら?」


「絶対に言わない。ユウリスみたいに、なんでも口にするのって恥ずかしいんだから。ああ、もうヤメヤメ。この話、おーわり。気分転換に、台詞の読み合わせしよ。こんなこともあろうかと、ストールといっしょに台本も持ってきちゃった。最後の第五幕、まだちょっと不安なんだ」


「え、俺、台詞ないし」


「そんなん知ってる。あたし以外のとこ、ぜんぶ読んでよ。台詞の練習。未来の大女優が踏み出す最初の舞台なんだから、失敗できないの。ほら、紅い月も出てきた。明るさもバッチリ!」


 懐から取り出した羊皮紙を広げて、ドロシーは喉を鳴らした。嫌そうに顔を歪めたユウリスも、首に巻いたストールの温かさを感じれば断れない。


 台詞の読み合わせをはじめる前に、未来の大女優はぽつりと問いかけた。


「ユウリス、一個だけ教えて。エドガーは、がんばってるんだよね?」


「うん、夢に向かって進んでる」


 それだけ聞ければ、ドロシーにとっては十分だった。それぞれの夢を、いっしょに追いかけてきた双子の弟――エドガーがいてくれたから、自分も走り続けることができた。そこでふと気がつく。なにが気に食わなかったのか、その理由に。


「知らない間に、先を越されちゃいそうで怖かったのかな」


「え?」


「なんでもない。よし、ここからは徹夜のつもりでよろしくね。あたしも負けてらんないから!」


 勇ましく宣言するドロシーの姿に、これではユウリスも嫌とはいえない。仕方ないなと諦めて、羊皮紙に目を通した。台詞合わせの稽古にも参加していないので、後半部分の脚本に目を通すのは初めてに近い。


「へえ、最後ってこんな感じなんだ」




 題名 夢見るように水は眠り


 場所 フォースラヴィル


 人物 泉の妖精 疫病を癒す妖精 演者 ダイアナ・キャスパー


    春の妖精 草花の冠を頂いた優しい妖精 演者 サヤ

    夏の妖精 太陽の靴を履いた陽気な妖精 演者 ボック・リコス

    秋の妖精 紅葉の衣を纏った悪戯な妖精 演者 ドロシー・レイン

    冬の妖精 純白の杖を握った寡黙な妖精 演者 ユウリス・レイン


    農場主 妖精を食べる恐ろしい男 演者 ジェイムズ・オスロット


    悪魔 村を襲う恐ろしい怪物 演者 ラポリ・クス


 裏方 脚本 ビッグ一座

    美術 テリー

       エドガー・レイン

    道具 アムサン

       ウルカ


 協力 演奏 フォースラヴィル有志楽団

    支援 ウッドロウ・レイン




 あらすじ 第一幕~第四幕


 第一幕 悪魔がもたらす疫病によって苦しめられていたフォースラヴィルの人々は、心優しい泉の妖精によって救われた。しかし泉の妖精が眠に就く紅い満月の夜だけは、森の奥深くに封印された悪魔も復活してしまう。そんなフォースラヴィルに、旅をするよにんの妖精が現れた。


 第二幕 村の窮状を聞いた妖精たちは、泉の妖精と協力して復活した悪魔を偽の宴に招いて退治しようと画策する。しかし準備は失敗ばかり。なんとごにんの妖精のうちひとりが邪魔をしていたのだ。寡黙な冬の妖精が疑われてしまい、ごにんの絆に皹が入る。


 第三幕 春の妖精は冬の妖精の無実を信じて、裏切り者を炙りだすための罠をしかける。邪魔者は秋の妖精だった。みんなが困る顔をして喜ぶ秋の妖精を、春の妖精が叱りつける。裏切り者は判明したが、ごにんの絆は壊れたままだ。仲直りをしてほしい夏の妖精は、大好物の蜂蜜入りミルクを求めて危険な農場に飛び込んでしまう。


 第四幕 恐ろしい農場主に捕まった夏の妖精を助けるために、泉の妖精、春と秋と冬の妖精は結束した。農場主を騙しながら、よにんの妖精は夏の妖精を助けだす。しかし農場主は犬を放ち、ごにんに戻った妖精は絶体絶命。冬の妖精の勇気ある行動で、危機を脱する。ごにんは恐ろしい農場主を倒して、みんなで蜂蜜入りミルクを美味しく食べた。




 第五幕 脚本


 場所 フォースラヴィル


 場面 紅い満月の夜 湖畔

    寝台に横たわる泉の妖精


(悪魔登場)


 悪魔 ぐへへへへ! 邪魔者がいない紅い夜。蒼い月のいない紅い夜。人間食べる紅い夜。邪悪な魔神がこんばんは。オレサマ、悪魔。バロールのしもべ!


(春と夏と秋と冬の妖精登場)


 春の妖精 悪魔さま、悪魔さま、こちらへおいでください!

 夏の妖精 悪魔さま、悪魔さま、どうか僕たちを食べないで!

 秋の妖精 悪魔さま、悪魔さま、ご馳走とお酒がございます!

 冬の妖精 (宴の席へ招く仕草)


(冬の妖精が悪魔の手をひき、妖精の宴に招く)


 悪魔 ぐへへへへ! ご馳走はお前たちだ。美味しく楽しく食べてやろう。焼こうか煮ようか潰そうか。


 春の妖精 恐ろしい悪魔さま。でもわたしたちを食べてはいけません。

 夏の妖精 僕たちの身体には毒があるのです。

 秋の妖精 毒を食べたら死んでしまいます。

 冬の妖精 (恐ろしさに身震いをする仕草)


 悪魔 そんな嘘には騙されない。美味しく楽しく食べてやろう。焼こうか煮ようか潰そうか。


 春の妖精 ご馳走を食べてください。

 夏の妖精 きっとこちらを気に入っていただけます。

 秋の妖精 上等なお酒と甘味もあります。

 冬の妖精 …………、材料は妖精。


 悪魔 おお、おお、しゃべらぬはずの者がしゃべった! 冬の妖精がしゃべった! ならば本当に違いない。妖精のご馳走。美味しく食べよう楽しく食べよう! 焼いたか煮たか潰したか!


(ご馳走を食べる悪魔、妖精たちは離れた場所で踊る)


 夏の妖精 悪魔がお腹いっぱいになって眠ったら。

 春の妖精 魔法の薬を飲ませて退治しよう。

 秋の妖精 くすくす、くすくす、楽しみね!

 冬の妖精 (他の妖精たちへ、静かにするよう促す仕草)

 秋の妖精 見て、寝たみたい。


(空腹が満たされて寝転がる悪魔)


 悪魔 もう食べられない。でもアレは妖精の料理じゃなかったぞ。オレサマを騙すとは、いい度胸だ。どれどれ、今度こそあいつらを食べてやろう。さあ、寝たふりだ。ぐーすか、ぐーすか!


 秋の妖精 寝ているわ。

 夏の妖精 寝ているよ。

 春の妖精 わたしが持っている、この魔法の薬を飲ませましょう!

 冬の妖精 (力強く肯定する仕草)


(起き上がる悪魔)


 悪魔 ぐへへへへ! 騙されたな、妖精ども。お前たちを食べてやろう。美味しく楽しく食べてやろう。焼こうか煮ようか潰そうか。まずは、お前からだ!


 春の妖精 きゃー!

 夏の妖精 春の妖精が捕まった!

 秋の妖精 逃げよう!

 夏の妖精 逃げよう!

 冬の妖精 (勇気を奮い立たせる仕草)


(夏と秋の妖精退場)


 悪魔 哀れで寂しい春の妖精。仲間はお前を見捨てたぞ。泣いて喚いて諦めろ。美味しく楽しく食べてやろう。焼こうか煮ようか潰そうか。んん? 冬の妖精! お前は、なぜ逃げない?


(こっそり舞台裏手に回りこんだ夏と秋の妖精が、悪魔の両脚にしがみつく)


 夏の妖精 捕まえた、悪魔を捕まえた! 太陽の暑さで燃やしてやろう!

 秋の妖精 捕まえた、悪魔を捕まえた! 木枯らしの寂しさで泣かせてしまおう!


 悪魔 やめろ、やめろ、暑い、寂しい、うわあああああああああ!

 春の妖精 きゃー!


(悪魔が暴れまわり、春の妖精が投げ出される。冬の妖精が杖を掲げる)


 冬の妖精 ……凍りつけ!


(凍りつく悪魔が膝をつく。春の妖精が魔法の薬を持って近づく)


 春の妖精 悪魔よ去りなさい!


 悪魔 ぐわああああああああああああ!


(魔法の薬を飲まされた悪魔、退場)


(泉の妖精が目覚める)


(泉の妖精の独唱)


(春と夏と秋と冬の妖精が踊る)


(ごにんの妖精の合唱)


 一同退場。

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