19 レイン家の双子

『キーリィ・ガブリフは姿を消した。キャロット市長の主導で現在、警察が秘密裏に行方を捜査中だ。ブリギットは感謝祭の準備に追われている。観光客も例年に比べて多く、無用な混乱は起こせない。無事の帰還を祈る。星刻せいこくの導きがありますように。 セオドア・レイン』


 ワタリガラスの書簡は定形ていけいがあり、紙面の大きさは手のひらに収まる程度しかない。貴重な余白にダーナ神教の聖句をつづる余裕があるのを見る限り、キーリィ・ガブリフに関連する動きに進展がないのは明らかだ。


 セオドアからの返信を帰路の途中で受け取ってから、すでに十日が経過している。ユウリスは馬車から降りて、何度も読み返した手紙を懐に仕舞いこんだ。その傍らから、荷台に乗ったままのドロシーが不機嫌そうに首を伸ばした。


「またワタリガラスの手紙読んでたの? ねえ、それ、なにが書いてあるの? なんであたしとエドガーには見せてくんないのよ? カーミラからの手紙とか、絶対ウソだし。いっつも一人で暗い顔しちゃってさ、ほんとイヤーな感じ!」


 へそを曲げたドロシーは、義兄あにを押しのけるように馬車から飛び降りた。


 フォースラヴィルを出発してから半月。


 すでにブリギット市は目と鼻の先で、この野営地が休憩地だ。


 西日が傾く草原では、強行軍の馬車に酔ったエドガーが青い顔で嘔吐おうといている。


 サヤとオスロットは酷使こくしした馬を労わっており、手持ち無沙汰ぶさたのユウリスは顔でも洗おうと街道沿いの河原へ歩きだした。その背中にウルカがついてくるのに気がついて、肩越しに振り向く。


「なに、声もかけないで?」


「いま呼ぼうと思っていた。少し話がある。川に行くなら、ちょうどいい。他の奴には聞かれたくない」


「キーリィの話? それとも、まさか感謝祭で遊ぶのは禁止とか? せっかく明日の開催に間に合ったのに」


「祭は好きにしろ。議員の捜索は、私たちの仕事じゃない。例の手紙を受け取ってからもオスロットとレイン公爵は、書簡のやり取りを続けているようだ。だが話を聞く限り、フォースラヴィルを発ってから今日までブリギットで事件らしい事件は起きていないらしい。悪事が露見したのを察して逃げたのか、あるいはこれも計画の一端なのか……ヴァハの樹海に向かった調査団に、なんか進展があれば御の字だろう。どちらにせよ、私たちは事が動くまで待つだけだ」


「でも俺たちがリカルドの工房を見つけたのは、ただの偶然だ。そこまでキーリィが予測できたとは思えない。この状況で消えたってことは、やっぱり人が集まる感謝祭でなにか仕掛けてくるのかな?」


「可能性はあるが、疑心暗鬼になっても仕方がない。姿の見えない相手に、神経をすり減らすだけ無駄だ。それよりも他の犯人候補に気を割いておけ。お前も可能性は捨てていないようだからな」


 ≪リッチ≫との親子関係が明らかになった時点で、キーリィ・ガブリフの容疑は確定したも同然だ。


 しかしユウリスは、未だ心を決めきれずにいた。


 キーリィが私財をなげうってまで病院を開いた姿を知っている。あるいは棄民となった地下の人々に心を砕き、市のために身を粉にして働いていた。


「他に犯人がいるって考えているわけじゃない。それでも、本当にキーリィなのかって……そう思うだけ」


「状況的には、ほぼ間違いなく黒だ。だが他に協力者がいる可能性も捨てきれない。いまは平常心でいられるように努めろ。とにかく油断さえしなければいい」


 ユウリスは冷たい川の水で顔を洗すと、すっきりと頭を切り替えた。ブリギットに戻れば、多くの頼もしい味方がいる。そこにウルカも加われば、負けるような未来は想像もつかない。


「よし、じゃあ馬車に戻ろう。このまま進めば、今日中にブリギットへ戻れるよね? まあ、エドガーの体調次第かもしれないけど」


「その前に話があるといったはずだ。適当に座れ。そこの、原っぱでいい」


 珍しく語気の弱い師の様子に、ユウリスは怪訝そうに目を細めた。てっきり話は済んだものと思っていたが、本題は他にあるらしい


 。河原から少し離れた雑草の上に、師弟は並んで腰を下ろした。背後からはサヤの華やいだ声と、オスロットの楽しそうな哄笑が聞こえる。


 ウルカはなにかを吹っ切るように、短い溜息を吐いた。


「ユウリス、マライアの遺言について伝えておくことがある」


 告げて、彼女はローブの内側から一通の封筒を取り出した。マライアというひょうきんで情に溢れた老婆が遺した、最後の言葉。


 夏の盛りに女神の御許みもとへ旅立った友人のぬくもりを、ユウリスはいまも覚えている。


「でも、その内容は俺に見せちゃいけないって書いてあるんじゃ……?」


「たしかに、そう書いてある。私も胸に秘めておくつもりいたが、ブレグ村の一件で考えが変わった。お前がブリギットに帰る前に、知っておくべきことがここに記されている。ユウリス、マライアの職業については聞いているか?」


「職業って……マライア、働いてたの?」


 記憶を辿ってみれば、マライアとは数えるほどしか顔を合わせていない。それでも長年の友人のように感じられるのだから、人の縁は不思議だと思う。


 一方、ウルカは呆れて乾いた笑みをこぼした。


「生活があるんだ、仕事は必要だろう。彼女は植物学者だ。あの厄介なネスミ草をはじめ、マライアは多くの珍しい草花を研究していた。だが、本業よりも脚光を浴びていた分野が他にある。遺伝学だ。彼女は植物学を応用し、人の遺伝子にまつわる発見を論文に纏めている。私も驚いたが、マライアの名を医学会で知らぬ者はいないらしい」


「遺伝、学?」


「簡単に言えば、人が親から子に受け継ぐ形質を修めた学問だ。彼女は他にも、疫病や医療にも精通していた。本当に多才というか、興味があることには節操がない」


「ああ、だからフォースラヴィルでマライアの受け売りって……それが俺と、どう関係するの?」


 唇を引き結んだウルカは、何度か遺言状を揺らした。封筒から便箋を取り出し、実際に読ませるのは手っ取り早い――しかし自分の口で伝えるべきだと、そう思っている。理屈よりも感情が優先することに、彼女自身が驚いていた。


 闇祓いの師として、あるいは今日まで共に歩んできた仲間として、ユウリスに向き合うべきだと。


「ユウリス、心を乱さずに聞け。マライアによれば、人間の外見的な特徴は遺伝子の優劣で決まるらしい。例えば金髪紅眼と赤毛茶眼の男女が結ばれた場合、産まれる子供は金髪紅眼だ。これは前者の遺伝子が優性で、後者が劣勢の遺伝子であることに起因する。同じように、ブリギット系の金髪碧眼も優性の遺伝子だ。対してミアハの黒髪茶眼は、劣勢の遺伝子にあたる。この意味がわかるか?」


 ひとつの音も喉の奥から漏れることなく、ユウリスは言葉を失った。


 理性よりも先に、本能が答えを導きだす。わかりたくない。だが、わかってしまった。全身が震えて、胸の深い部分に突き刺さる針のような痛み。呼吸が苦しくなるのと同時に、心臓が痛いほど早鐘はやがねを打つ。やめて、そう言いたいのに、声がない。


 そんな弟子の恐怖に気がつきながらも、ウルカは躊躇ためらいの仕草を見せなかった。目線を合わせ、はっきりとした口調で告げる。


「ブリギット系とミアハ系の男女が交わった場合、黒髪茶眼の子供は誕生しない。これが示すところはひとつだ、ユウリス。お前は、おそらくセオドア・レインの実子ではない」


「嘘だッ!」


 ぞわっと鳥肌が立つのを感じながら、ユウリスは思わず立ち上がって唾を吐き散らかした。これまでにない怒りの形相でウルカをにらみつけながら、握った拳で自分の太腿ふとももを何度も叩く。


 義兄の憤慨する声に、双子が何事かと顔を上げた。


 風もなく、ただ川のせせらぎが長閑のどかに通り過ぎていく。


「どうして、どうしてそんなことを言うんだ。いま、ここで!」


「ブリギットに帰れば、お前は公爵夫人と向き合うことになる。その前に、伝えるべきだと判断した」


「だったら義母はは上は、なんであんなことを……本当の子供じゃないのに」


「状況から察するしかないが、お前にレイン家の血が流れていないことを公爵夫人も知らないのだろう。セオドア・レインだけが胸に秘めていた真実を、偶然にもマライアが暴いてしまった」


「そんなの、知りたくなかった!」


 目頭が熱くなって、我慢する間もなく涙が溢れる。頬を濡らす熱い滾りを袖で拭うと、ユウリスは自暴自棄じぼうじきに走り出した。


 ウルカは立ち上がるが、追いかけはしない。ただ力強く、呼びかける。


「私は、なにも後悔していない! この瞬間も、お前を弟子にした選択も! ディアン・ケヒトの誓願を忘れるな、ユウリス。親兄弟よりも強い絆が、ここにある!」


 それでもユウリスは足を止めなかった。


 忌み子の真実を知ったときと同じくらいの衝撃を受け、いまにも膝から崩れそうになる。胸と腹が裂けるように痛い。


 エドガーとドロシーが伸ばしてくる腕を振り切って、茜色の日を照らす河原を駆け続けた。どれだけの小石を蹴ったか、やがて影梟かげふくろうの声が耳に届く。


「うあああああああああああああああああああああああああああああああ!」


 川に向かって、思いっきり叫んだ。ウルカの顔は見たくない。ドロシーとエドガー、サヤにも情けない姿を晒してしまった。オスロットは、どうでもいい。義母が嫌いだ。父も信じられない。キーリィ・ガブリフは裏切った。カーミラとクラウに会いたい。


「裏切った……そうか、俺はキーリィを――いや、みんなを信じたかったんだ」


 そこで不意に、どん、と腰に強い衝撃を受ける。すっかり油断していたユウリスは、抵抗する間もなく砂利の上に倒れた。


 視線を下げると、足にサヤがしがみついている。


「サヤ、追いかけてきたの?」


「いっちゃ、いや!」


 草陰に隠れていた小動物が逃げ出すほどの声量で、サヤは悲痛な想いをぶつけた。鼻水を垂らして、顔を涙でぐしゃぐしゃに濡らしながら、必死でユウリスにしがみつく。


「ひとりになったら、だめ!」


 ユウリスは呆然として、少女を慰めることもできないまま目を丸くした。さらに街道からは、ドロシーとエドガーが駆け寄ってくる。


 泣きじゃくるサヤを一瞥した双子は頷き合い、二人揃って義兄に飛びついた。


「なにサヤちゃん泣かせてんのよ、バカユウリス。待てって言ったのに止まらないし、あたしを走らせた罪は重いからね!」


「ああ、もう、僕もくたくただよ。さっきまでゲロ吐いてたのに、わざわざ追いかけてきたんだから。お願いだから、もう逃げないでよ?」


 サヤが落ち着くまで、ユウリスは双子に頬を引っ張られ続けた。


 完全に日が暮れても、夜は明るい。蒼と紅、二つの満月が世界を照らしている。


 やがて四人は身を寄せ合うと、川縁に座り込んだ。


 ユウリスの膝の上にはサヤが腰を落ち着け、その両脇にドロシーとエドガー。


 誰も、なにも訊かない。少年少女だけの静かな時間だ。


「みんな、ごめん」


 ようやくユウリスが謝罪を口にすると、最初にドロシーが大きく息を吐いた。そこには重苦しい雰囲気など微塵もなく、どちらかといえば安堵の色が濃い。


 サヤは、まだ少しだけ不安そうにしている。


 エドガーが小石を川に投げた。水音がふたつ響く。魚が驚いたのかもしれない。


「ユウリス、話したくなかったら無理になにかを言う必要はないよ。ドロシーはともかく、僕は辛抱強いからね。でもサヤちゃんを悲しませたら駄目だ。心配できるくらいの距離には……イテ」


 ドロシーの投げたつぶてが、エドガーの頭を打った。サヤは俯いたまま、ぎゅっとユウリスの手を握り続けている。


 ブリギットの方角が明るい。感謝祭を翌日に控えた夜、例年であれば前夜祭で盛り上がっている頃合だ。


 深呼吸をしたユウリスは、三人の顔に視線を巡らせた。そして胸の重石を吐き出すように、告白する。


「俺、父上の子供じゃないんだって」


 サヤは話が呑み込めず、きょとんと首を傾げた。


 エドガーは驚きの余り絶句し、なにか言葉を探そうと口を開いたり閉じたりしている。


 唯一、ドロシーだけが奇妙な生き物を発見したかのような顔つきでユウリスを眺めていた。


「え、そんな話?」


 その反応は、ユウリスも予想外だった。むしろ僅かばかりの憤りを感じる。これまで半分とはいえ、レイン家の血を受け継いでいることが誇りでもあった。それがいまになって、まったくの他人だと判明したのだ。そんな話、で済む問題ではない。


 しかしドロシーは舌をぺろっと覗かせて、下唇を突き出した。


「まあ、あたしも知ってたわけじゃないけど、なんかいまさらじゃない?」


「いまさらって、俺にとっては!」


「だってユウリスの髪、黒いじゃん。あたし、髪の色違うからフツーに血は繋がってない気がしてたし。ていうか、ぶっちゃけるね。あたしの初恋、ユウリスだから。あとエドガーの初恋はカーミラ。これ、絶対ナイショ」


 ユウリスの小さな呻き声に覆い被さって、エドガーの悲鳴が響き渡った。顔を真っ赤にして砂利を転がる双子の片割れが、勢い余って川に落ちてしまう。


 ドロシーが腹を抱えて笑うと、つられてサヤの表情も明るくなった。


「エドガーおにいちゃん、へんなの!」


「変なのは僕じゃなくてドロシーだから! ああ、びっくりした! え、なんで、いま、急に初恋の話になったの!?」


 なんの脈絡もなく初恋を暴露されたエドガーは、川から上がってもなお混乱している。彼は全身ずぶ濡れのまま、言い訳するようにユウリスへ手を振った。


「ち、違うから、ユウリス。ほんと、すっごい小さい頃に、カーミラって可愛いねって、なんか口走っちゃっただけだから。お願い、誰にも言わないで! ドロシーのアホ! ていうか前と話、変わってない? ドロシーは道場のガノが初恋って言ってたじゃないか!」


「ひいいい、やばい、お腹痛すぎて死にそう。このネタ、こんなに破壊力あると思わなかった。あのときはガノだと思ったけど、いまはユウリスだった気がするの。どっちでもいいじゃん。それよりあたしとエドガーはぶっちゃけたわけだし、次はユウリスの番。アニキの初恋はだーれっかな問題、いっちゃう? ま、予想はついてるけどね。イラ……」


「エドガー、こいつ黙らせよう」


 ユウリスは半眼でドロシーを睨みつけるが、エドガーは心から哀れんだような表情で頬を引きつらせた。イラからはじまる名前は、長姉イライザしかいない。


 三人の義兄弟きょうだいが揉めるなか、サヤが恥ずかしそうに頬を赤らめた。


「あの、あのね、あたしも、すきなひと、いるよ」


 ドロシーは、知ってるよ、と言わんばかりにニンマリと唇の両端をつり上げた。そこに正常な思考能力を失ったエドガーが、ちょっとした思いつきをサヤに耳打ちする。


 幼い少女は耳まで真っ赤にしながら、じっとユウリスを見つめた。


「あたしのすきなひと、ユウリスおにいちゃん!」


 双子の歓声が重なる。初めて名前を呼ばれたユウリスは、嬉しそうにはにかんだ。少女の真摯な気持ちに向き合い、ありがとう、と心からのお礼を告げる。サヤは恥ずかさの余り目をうるませて、想いを寄せる少年の胸に額を押しつけた。


「カーミラおねえちゃんとあたし、どっちがすき?」


 思わぬ展開に、ドロシーが黄色い歓声を上げる。


 エドガーは興味津々で目を輝かせ、サヤは静かに答えを待った。


 小さな友人の髪を撫でtsユウリスは、丁寧にカーミラへの気持ちを語った。彼女が特別な存在であり、他の誰にもかえがたい恋人だと。


「だから、ごめん。俺の一番はカーミラなんだ。でもサヤとはずっと友達でいたい。嫌じゃなければ、これかもたくさん遊ぼう。カーミラと三人で」


 柔らかく語りかけるユウリスに、サヤは鼻水をすすりながら小さく頷いた。そんな二人の光景に、ドロシーが表情を歪める。


「ちょっとエドガー、聞いた? あたしらのアニキ、やばいくらい女の敵なんですけど。いまの流れで、カーミラと三人で遊ぼうとか言う? うわ、あたし、こいつのこと好きなままでいなくてよかった。こんなんもてあそばれるわー」


「たしかに、いまのは浮気男の常套句じょうとうくだよ。ユウリス、僕は失望した。この所業をカーミラにバラされたくなかったら、僕の初恋話は永久に記憶の底へ封印するように」


 散々な言われように、ユウリスは世界の終わりを迎えたかのような顔つきで呻いた。


 顔を上げたサヤが、小さくはにかむ。芽生えたばかりの初恋は散ったが、温かな雰囲気に少しだけ救われた。そんな少女に向けて、ドロシーがそっと片目をつむる。


「難しいことはよくわかんないけどさ。べつに血が繋がってなくても、ユウリスは家族じゃん。ていうかあたし、実はヘイゼル苦手なんだよね。なに考えてるかわかんないし、一人だけイライザに気に入られてるからムカつくし。だからサヤちゃんのほうが妹感あるもん。そんなもんでしょ、家族なんて。ね、エドガー?」


「他人でも家族でもいいから、とにかくアホドロシーの話を忘れてくれたら、それでいい……なんてね。いや、誰にも言わないでほしいのは本気だけどさ。ユウリスは真面目に考えすぎなんだよ。それ、ウルカさんから聞いたんでしょ。じゃあ、他の誰にも言わなきゃいいんじゃない? ここにいる四人だけの秘密にしよう。それでおしまい。これで解決しなかったら、またいっしょに考えればいいよ」


「ドロシー、エドガー……」


 ユウリスは、ただ胸に湧く心地よい熱に心を休めた。すべてが解決したわけではないが、双子の気軽さとサヤの優しさに救われた気がする。真面目に考えすぎというのは、たしかにそうかもしれない。


 人生は続く。


 真実がなんであれ、これからの旅路が終わるわけではない。


「ありがとう、三人とも」


「あ、ばしゃ!」


 ゆったりとした車輪の音と、すっかり耳慣れた馬のいななきが聞こえる。手綱たづなを操るオスロットが接近を報せるように、これみよがしな掛け声を響かせていた。荷台の天幕からは、ウルカも顔を覗かせている。


 サヤは立ち上がり、両手をユウリスに差し出した。


「いこう、ユウリスおにいちゃん」


 幼くも頼もしい少女の手を取って、ユウリスは立ち上がった。エドガーが頷き、ドロシーが得意げに眉を動かす。今夜、もし月がなかったとしても暗闇に迷いはしない――光を胸に、少年は故郷に目を向けた。


「みんなで帰ろう、ブリギットへ!」


 暗い夜道を、馬車が進む。


 荷台の片隅で、闇祓いの師弟してい二言三言ふたことみこと、想いを交わしあった。短い謝罪と、他愛のない軽口だ。


 残りわずかとなった帰路に異変が生じたのは、その直後だった。オスロットが手綱を緩め、道端で停車する。


 御者ぎょしゃ台に身を乗り出したユウリスは、信じられない光景を目にした。


「なんだ、これ……?」


 数え切れない人々が悲鳴を上げて、必死の形相で駆けている。まるで現実とはかけ離れた悪夢のような、大勢の群れ。彼らが恐れ、離れようとしているのは、赤く染まったブリギット市。その色は、祭事を彩る灯火ではない。


 街が燃えていた。


 家屋を焼き、都市の防壁を焦がす熱の波。爛々らんらんとうねりをあげる炎を目にした瞬間、ユウリスは眉間の奥に鈍い痛みを覚えた。脳裏に蘇る、封印を解かれた預言者の託宣たくせん


 ――レイン家の三人が死ぬ。


 不吉な約束を祝うかのように、怪物たちの雄叫びが響き渡る。二つの月が照らす夜の下、逃げ惑う人々の誰かが叫んだ。


 ブリギットは、呪われている。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る