14 魔導王の影
追い出されたとはいえ、魔術師の工房は奥の倉庫に続く扉以外は間仕切りがない。ウルカは最初から一人きりであったかのように、研究資料と睨み合いながら霊薬の精製を続けている。
外に続く玄関口からはオスロットのいびきが
椅子を探しても見当たらず、ユウリスは壁際の
「座ったら?」
「あ、ああ、そうだな。けど、どこに……?」
埃と土だらけの床で服が汚れるのを気にするのであれば、残っているのは樽しかない。嘆息したユウリスは、傍らに並ぶ二つの樽を視線で示した。
俯いたまま頷いたサイモンは、しかし少年の眼前に歩み寄る。
「サイモン?」
「話がある」
忌み子と呼ばれた少年の前に、そのきっかけとなった司祭が膝を落とす。
「すまなかった、ユウリス・レイン。十五年前の嘘も、先日の出来事も、なにもかも僕が間違っていた。本当に、申し訳ないことをした」
ローブを握り締めるサイモンの手は血管が脈打ち、震える声は決して大きくはない。その姿が忌み子の真実が明かされた日の夜、湖の畔で罪を
親友だからって謝り方まで似なくていいのに、とユウリスは眉をひそめた。
「それは、本心?」
自分でも驚くほどに、冷たい声だった。樽の上に座して、憎い司祭を見下ろした。しかし気分が晴れるどころか、心臓に鉛でもぶら下がったかのように胸は重くなる。
糾弾する権利はあるはずだ。しかし、そうしたいという思いは薄れていた。
片手を額に当てたサイモンは、何度も首を振った。肯定や否定の意味ではなく、ただ彼も気持ちの整理がついてないだけのようだ。
「正直に言えば、レイン家を恨んでいる。公爵夫人に
忌み子と呼ばれようと、ユウリスも所詮は公爵家で育てられた子供だ。多少は後ろ指を差されているかもしれないが、名前すら捨て去った自分に比べれば不自由なく暮らしているに違いない――長い間、そう考えて生きてきたのだとサイモンは吐露した。
「君が現れたときも、僕を恨むのは筋違いだと本気で思った。元凶は公爵夫人だ。僕は金をもらって、言われたことをしたに過ぎない。でも教会を飛び出して、雨に打たれる君を見て考えが変わった。あんなに追い詰められているなんて、考えもしなかった」
サイモンは
十五年間、忌み子の少年が背負ってきた闇を
「レイン家を恨む気持ちも、全部が自分のせいじゃないという思いも変わらない。しかし他は多くが変わってしまった。あれから娘の顔を真っ直ぐに見られない。妻は、ひどく怯えている。そして僕は、自分が人の道を踏み外したのだと気がついた。できるなら、償いたい。もし君が、それを許してくれるのなら……」
また同じだ、とユウリスは胸中で悪態を吐いた。
こんな風に謝罪する相手を、どうして断罪できるというのだろう。感慨を抱くわけではない。娘、妻、家族がいる相手の死や不幸を願えば、次は自分が恨まれる番だ。永遠に続く
渦巻く感情に出口はない。
「俺は……」
それでも向き合おうと決めた。本音を言えば、辛いし逃げ出したい。だが自分が立ち止まっていても、時間は進む。周りも変わる。
大きく息を吸い込んだユウリスは、気を落ち着かせた。黒い感情とは、いつか折り合いをつけなければならない。
それが少年にとっては今、この瞬間だった。
「すぐには許せない。謝罪も素直には受け入れられないし、こうして顔を合わせているのも嫌なくらいだ。できることなら、いますぐに貴方を消し去ってしまいたい」
言葉にすれば、虚しい願いだ。それで誰が幸せになれるのだろう。ましてや忌み子の噂が消えるわけでもない。一時の
「でも恨みや憎しみを、次の誰かに引き継ぐなんてまっぴらだ。だから俺は、貴方の罪を裁かない。どうか、この選択を後悔させないでほしい。道を誤ったと気づけたのなら、これからは正しい道を進んでくれ。見逃したことが間違いじゃなかったと、いつか思えるように」
冷然と言い終えて、しかし最後に吐いた息と共に唇が
サイモンは神妙に顔つきで立ち上がると、力強く頷いた。
ユウリスが再び座るように促す。
彼は一つ分の間隔を空けて、樽に腰を下ろした。
「ありがとう、ユウリス・レイン。この恩は忘れない。僕は元々、教会の医局志望だった。父が感染病の研究者で、同じ道に進みたくて勉強したんだ。けれどサイモン・ウォロウィッツの名前を捨てたとき、その夢も
サイモンの決意を、ユウリスは無感動に聞き流した。見ず知らずの赤子を忌み子と呼んで逃げた男が、誰かを助ける人間になろうとしていたというのが信じられない。
ロディーヌなら、と思わず医師を志す友人の顔を思い浮かべて、すぐに首を左右に振った。人の心は移ろう。どれだけの悪意を胸に秘めていたとしても、誰かに優しくできる人間はいる。故郷のブリギットで渦巻く問題も同じだ。
「父上、市長、キーリィ……みんな悪い人間じゃないはずなのに。いつか神父様が言っていたのは、こういうことだったんだろうか」
「ごめん、なんだい?」
「クソ司祭、来い!」
自分が話しかけられたと勘違いしたサイモンが聞き返すが、そこにウルカの不機嫌そうな声が重なった。
クソ司祭と呼ばれた彼が肩をびくっと跳ねさせながら樽から下りると、手持ち無沙汰のユウリスも後に続く。
いつの間にか霊薬の精製が行われている卓を離れていた師は、かわりに
「お前は先ほど、此処にあるのが人間を怪物に変える方法だと言っていたな。だが下のほうは、ほとんどが
「いや、隠していたわけじゃない。
「治療薬の精製は終わった。あとは熟成を待つだけだ。それより手伝いがいる。クソ司祭、お前は研究資料を
鬼気迫るウルカの様子に、サイモンはすっかり怯えていた。顔の傷が
怪物退治でも余裕を崩さない彼女が、ここまで焦燥を
「ウルカ、なにが気になるの?」
「
「どういう意味?」
「私にもさっぱりだ」
それ以上はなにを
そしてサイモンとユウリスは不安と疑念を抱えながらも作業に取り掛かり、やがて小鳥の囀りと共に朝を迎えた。工房の調査は霊薬の精製に要した時間を遥かに上回り、とうとう寝起きのオスロットが空腹と不満を訴える始末だ。
「おいゲーザー、まさか今夜もこの
「
人狼化の治療薬が完成したと聞いたサイモンは、顔を輝かせた。目覚めたチャドェンも目に涙を浮かべて嗚咽を噛み殺している。
勇んで霊薬の
「ウルカ、いい加減に小便垂れって呼ぶのは止めよう。サイモンのことも、クソ司祭は禁止」
「なんだ、もう
「そこまで二人に期待はしていないし、あとは当人の問題だ。俺だって、許したつもりはない。そうじゃなくて、サヤの教育に悪いんだ。ブリギットを発った最初の夜に叱られたの、もう忘れた?」
弟子から強気に諭されたウルカは、思わず言葉を詰まらせた。年端もいかない少女が料理に奮闘するのを尻目につまみ食いをした挙句、言葉遣いを
普段は他人の意見は気にしない闇祓いの
たじろぐ師に対し、ユウリスがここぞとばかりにまくしたてる。
「そこにいる二人より、あの子が大切だ。悲しませたり気を揉ませたり嫌な気持ちにさせるような真似はしたくない。忌み子の話は俺個人の問題だし、≪ライカンスロープ≫の脅威は闇祓いの
最後は弟子に拝み倒されて、ウルカも渋々と了承した。しばらくは癖が抜けず、クソ……ウォロウィッツ、小便……オスロット、と口にしていたが、呼ばれた当人たちは諦め気味だ。不名誉な称号が潰えたのは日暮れ刻で、それは同時に工房の調査が終了した瞬間でもあった。
「チャドェンはフォースラヴィルまで自力で歩かせろ。倉庫から選別した資材を運ぶのはオスロットとサイモン、お前たち二人だ。羊皮紙と本は、私とユウリスが持ち帰る。森を突っ切るうちに夜になるだろうから、いざ怪物に襲われても対応ができるように心構えを忘れるな」
ユウリスの仕事は、ほとんど残っていなかった。羊皮紙や本は紐で縛られており、あとは抱えるだけだ。それに対してオスロットたちが任された資材は多種多様で、臓器の詰められた瓶や羅針盤、用途不明の長い棒など多岐に渡る。
せめて玄関までは運ぶのを手伝おうとした弟子を、ウルカが呼び止めた。
「ユウリス、先に伝えておくことがある。調査結果だが、悪い予感が的中した。この工房で研究されていたのは、人間を怪物に変える方法だ。人狼病やウンディゴ病だけじゃない。怨念を糧とする≪スペクター≫、≪レイス≫を含め、この工房には膨大な資料が眠っていた。それがなにを示すのか、予想できるか?」
「うーん、どんな怪物にもなれる薬があるとか?」
「ある意味、正しい。それになれるのであれば、圧倒的な力が手に入る。≪ライカンスロープ≫など指先ひとつで従えるだろう。≪スペクター≫や≪レイス≫くらいなら、蜂を飼うように使役するに違いない。それがたとえ、誕生して間もないひよっ子だとしても――お前も、その恐ろしさの一端に触れているはずだ」
「……え、待って、ウルカ、それって!」
目を見開いたユウリスは呼吸を忘れた。
耳元で木霊するのは、怨嗟の幻聴。
古傷がうずく腹部を、片手で無意識に撫でる。
蘇るのは、かつてブリギットを恐怖に陥れた
すでに答えを得たであろう弟子に目を細め、ウルカが淡々と続ける。
「ディアン・ケヒトは言うに及ばず、ヌアザやミディールにおいても、人間をその怪物に変えるための決定的な奥義の解明には到っていない。そこに辿り着いた者だけが、闇の世界で魔導王と呼ばれる力を手にすることができる」
この場所に足を踏み入れたウルカは当初、ブリギットの地下迷宮で発見した魔術師の工房に似通った雰囲気を感じていた。その意味にようやく気がついて、ユウリスは戦慄する。
主が同じならば、趣向や家具も似通って当然だ。
その思考を肯定するように、闇祓いの師が告げる。
「この工房で研究されていたのは、人間が怪物となるための奥義だ。劣化の具合から見ても、百年や二百年経っているような古い施設じゃない。時期は一致する。一年前にブリギットを襲った若輩の魔導王≪リッチ≫――おそらく、ここが奴の生誕地だ」
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