13 秘密の工房

「自分がおかしいと気がついたのは、三年前――妻が突然、家を出て行った日でした」


 チャドェン・リコスはブリギットの隣国オェングスの農村で生まれ育った、ごく普通の男だ。先祖代々の畑を耕して慎ましく暮らし、幼馴染おさななじみの娘と結ばれて子供にも恵まれた。しかし結婚して五年後、妻が家を捨てたことで人生は一変する。


「妻が残した手紙には、こう書いてありました」


『チェドェン、貴方は怪物だった。自分はそうと気付いていないようだけれど、夜になると狼男に変わってしまう。村の家畜を襲っている獣の正体は、貴方よ。私は恐ろしい。ごめんなさい、いっしょにはいられない。恨まないで。ボックを大切に。地母神の祝福がありますように』


「最初は半信半疑でした。妻は他に男ができて、許してもらうためにこんなデタラメを書いたのだろうと……でも違いました。ある日、息子のボックが言ったのです」


『昨日、お父さんの布団ふとんから狼男が出てきたよ。お父さんが食べられたんじゃないかって、すごく怖かった』


 その頃からチャドェンは、ときおり悪夢にうなされるようになった。堪えきれぬ飢餓感に苦しみ、自らが家畜に喰らいつくというおぞましい内容だ。


「妻の手紙にも書いてあった通り、そのとき村では何かに家畜が襲われるという事件が頻発していました。決定的だったのは、村人が狼男を目撃したという話でした」


 怖くなったチャドェンは、息子を連れて村を出奔した。しかし行商人を装って各地を巡る間も、決して悪夢は絶えない。滞在先で家畜が襲われる事件が起きるたびに、彼は血も凍る思いで次の街へと旅立った。


「逃亡生活はひどいものでした。息子がいなければ、とっくに自らの命を絶っていたでしょう。唯一の救いは家畜を襲うだけで、人を手にかけなかったことです。それでも、やがて限界は訪れました。ボックを慈悲院じひいんの前に置き去りにして、首を吊ろう――そう決めた町で、ある吟遊詩人ぎんゆうしじんの歌を聞きました。彼が奏でていたのは、フォースラヴィルの人狼伝説。あれはまさに、地母神のお導きでした」


 人狼の伝承が残る地であれば、狼男の治療方法があるかもしれない。そう考えたチャドェンは息子と共に、フォースラヴィルを訪れた。たまたま欠員が出ていた宿の管理人業務にありつけたのも、幸運としかいいようがない。


「しかし村に居ついた途端に狼男が現れれば当然、自分が疑われるでしょう。人狼の伝承を悠長に調べる暇はなかった。まずは疫病をいやすという妖精の泉を目指して、夜間に森を探索したのですが……慣れない土地で、初日から迷ってしまいました」


 暗い木々の迷宮をさまよう内に、チャドェンは狼男と化してしまう。そこで人間としての意識は途絶え、次に目を覚ましたのは見知らぬ寝台の上だった。


「ある男性が森で人狼となった自分を見つけて、人間に戻ると同時に介抱してくれたのです。連れて行かれたのは魔術師の隠れ家で、人狼化を抑制する薬を作ってくれるといいました」


 その男は薬学の知識こそ豊富だったが、魔術師ではないらしい。薬草を摘みに訪れた森で迷い、偶然にも魔術師の隠れ家を発見したのだという。事情はどうあれ、彼は見返りも求めずに人狼化を抑える薬を精製してくれた。チャドェンにとっては恩人に他ならない。


「実際、半年ほどは薬のおかげで平穏に暮らすことができました。しかし最近になって薬が効かなくなり、自分はまた狼男に変身するようになってしまったのです」


 それが家畜を襲う人狼事件の顛末だ。チャドェンを助けた恩人は、いまも人狼化を抑制する薬の研究を続けている。しかし闇祓いの師弟していがフォースラヴィルに現れたことで、覚悟が必要だと言われた。


「怪物狩りの専門家に殺される可能性もあると言われましたが、もう逃げるほどの気力はありませんでした。新しい薬が完成するのが先か、狼男として退治されるのが先か――けれどユウリス様は闇祓いであるにも関わらず、自分を生かしてくれた。だから、この場所に連れてきました。とうとう人を殺めてしまった自分に、弁解の余地はありません。ですが裁かれる前に、薬をお渡ししたい。あれは同じ呪いで苦しむ人々の希望となるはずです」


 フォースラヴィルから徒歩で半鐘はんしょう分ほど歩いた先に、地面の隆起が激しい場所があった。そこに半分ほどが土に埋もれた洞窟どうくつがある。鬱蒼うっそうとした木々の迷宮が隠れ蓑となり、僅かな入り口すら大樹の根に覆われていた。


「ここが魔術師の隠れ家です。未完成ですが、人狼化の治療薬があります」


 目的地に到着したチャドェンが背後を振り返る。ランタンで夜の闇を照らすオスロット、興味もなさそうに明後日の方向に視線を投げるウルカ、そしてユウリスは語られた半生に一つの疑問を覚えて眉をひそめた。


「つまりチャドェンさんが≪ライカンスロープ≫だと知っていて、協力していた人がいるということですか?」


「ええ、自分が捕まった際には、この場所を明かしてよいとも言われています。今日も彼は、研究を続けてくれているでしょう」


 案内された魔術師の隠れ家は、地中の洞穴を板で補強した簡素な造りをしていた。壁にびっしりと並ぶ棚には羊皮紙の巻物が大量に積まれており、他にも爬虫類はちゅうるいや何かの臓器が詰められたびんが並んでいる。


 それはユウリスが殺人を犯した現場である、魔女の工房によく似ていた。


「魔女と魔術師は違う生き物だって聞いていたけれど、けっこう似てる気がする……ウルカ、オスロット、気をつけて。奥に誰かいる」


 広い空間で、一人の男が研究にはげんでいた。その姿にウルカが真っ先に大きな舌打ちを響かせ、ユウリスとオスロットは言葉を失う。チャドェンの恩人は、顔に大怪我を負っていた。潰された鼻、腫れあがった瞼、包帯だらけの顔――だが、ここにいる誰もが彼の名前を知っている。


 ブレグ村の司祭ジョエル・ヘルバーグ。あるいはサイモン・ウォロウィッツは訪問者に気がつくと、手にしていた硝子の容器を卓に置いた。そして神妙な顔つきで、ユウリスに視線を重ねる。


「ユウリス・レイン。君なら、チャドェンを殺さずに話を聞いてくれると思っていた」


「貴方のために彼を助けたわけじゃない。サイモン・ウォロウィッツがいると知っていれば、ここには来なかった」


 辛辣に返すユウリスに、事情を知らないチャドェンは狼狽して息を呑んだ。オスロットは沈痛そうな表情で眉間を指で押さえ、ウルカは腕を組んで成り行きを見守っている。


 唇を噛みしめたサイモンは、前に踏みだした。


「不服だろうが、話を聞いてほしい。僕はチャドェンを助けたい。そのために、君たちの力が必要だ。彼に少しでも同情の余地があると思うのなら、どうか智恵を貸してくれ」


 深々と頭を下げるサイモンに、ユウリスは大きく息を吐いた。それは溜め込んだ怒りを吐き出すようでもあり、内に秘めた言葉にならない憤りを落ち着かせるようでもある。


 見かねたオスロットが咳払せきばらいをして、事情の説明を求めた。


「サイモン、なぜ此処にいる。お前は魔術師だったのか?」


「いや、違うよ。此処は魔術師の工房だが、僕は無関係だ。とっくの昔に放棄された施設を、勝手に借りているだけさ。人体を怪物に変える研究をしていたみたいでね、人狼の病に関する資料も揃っている。それを利用して、チャドェンの≪ライカンスロープ≫化を抑える薬を精製していた」


 ユウリスは無言で、背後に控える師に目配せをした。魔術師の工房には罠や有害な道具が多い。教会の関係者である司祭ならば危険を回避できるかもしれないが、やはり心配だ。


 ウルカは軽く相槌を打つと、びくっと肩を跳ねさせたサイモンを押しのけて奥へ踏み込んだ。ランプに照らされた室内を、彼女の鋭い観察眼が巡る。


「本格的な魔術師の工房こうぼうだ。スットゥング地下迷宮で見た≪リッチ≫の工房にも見劣りしない」


 さらにウルカは卓に広げられた羊皮紙に目を通した。それは魔術師の工房に保管されていた巻物の一つらしく、綴られているのは人狼の病に関する研究成果だ。


 これをサイモンが治療薬の開発資料として利用しているが、記述内容は目的と正反対――人間を人狼化するための実験について、実験例と理論が細々と連なっている。


「なるほど、この工房の持ち主は人狼化を人為的に起こそうとしていたわけか。その発想を逆転させれば、抑制するための治療薬の研究に役立つ……目のつけどころは悪くない」


 つまらなそうに鼻を鳴らしたウルカに、いや、とサイモンが否定の声を上げた。彼が人差し指を向けた先には、丸まった羊皮紙が敷き詰められた棚が並んでいる。


「人狼病だけじゃない。ウンディゴ病をはじめ、≪ノスフェラトゥ≫、≪グール≫、≪レヴェナント≫、≪レイス≫、≪スペクター≫……およそ人間が存在の核となるであろう怪物の研究がすべて、そこにある。この魔術工房の主は、狂人だ。人を怪物に変える研究にとり憑かれていたらしい」


「お前が此処を発見したのは偶然だと聞いている。間違いないか?」


 無機質な闇祓いの声に、サイモンは身を竦ませながら頷いた。ユウリスも力任せに殴ったが、やはり怪我の大半はウルカの与えた制裁が原因らしい。


「森で迷って偶然、この場所に辿り着いた。最初は盗掘とうくつ目当てだった。魔術師の工房なら、金目の物があるかもしれないと……」


「教会への報告は済ませているのか?」


 認可を受けていない魔術師の研究は、神聖国ヌアザの教会法で禁じられている。ダーナ教会の司祭であるならば報告の義務があるはずだ――そう問いかけるにウルカに、サイモンは暗い表情で首を横に振った。


「報告してしまえば、教会の調査官がやって来る。そうなれば工房は封印処置を施されて、人狼化を抑制する薬の研究は続けられない。だから報告はできなかった。僕は、チャドェンを絶対に助けたい」


「お前の反吐が出るような善人気取りはどうでもいい。だがこの場所は気になる、少し調べてみよう。ユウリス、手伝え」


「わかった。ちょっと待って」


 師の呼びつけに応えたユウリスは、不安そうに俯くチャドェンの姿を視界の端に捉えていた。


 現在、彼は虜囚の身だ。家畜を襲ったばかりか、人間を殺めた――その咎は受けなければならない。しかし人狼化が解けた際の第一声、もう誰も殺さなくていい、という台詞を思い出すと同情心がくすぶってしまう。あるいは積極的に人間を殺めようとしたわけではないのも、非情に罪ばかりを問えない要因のひとつだ。


 そうして思い悩む弟子を一瞥して、ウルカは盛大に溜息を吐いた。


「その男の処遇は、お前に任せると言ったはずだ。鬱陶うっとうしい。うじうじ悩んでいないで、意見があるならはっきりと口にしろ!」


 苛立いらだたしげな師の叱責に、ユウリスは頬を緩ませた。


 言葉とは裏腹に、今回の彼女は本当に弟子を気遣ってくれていると思う。なんといっても平素ならば容赦なく、蹴りか拳が飛んでくる頃合だ。そんなウルカに甘えるのも、そろそろ終わりにしなければならない。先へと進むために、忌み子の真実を追い求めてきた。


 いつまでも過去に苦しんでいるばかりでは、闇祓いの≪ゲイザー≫でいる資格がない。


「ウルカ、工房を調べる前にチャドェンさんの人狼化をなんとかできないかな。少なくともサイモンの薬で、半年は≪ライカンスロープ≫にならずに済んだ。いまは効果が薄れてしまったのだとしても、不良品ってわけじゃない。霊薬の知識があれば、足りない部分を補えると思うんだ」


「私に怪物を助けろというのか?」


「俺がチャドェンさんを助ける手伝いを、ウルカにしてほしい。≪ゲイザー≫は怪物の血を焼くだけじゃない、人の心に巣食う闇を祓う役目もあるはずだ」


 望まれずに≪ライカンスロープ≫となり、罪を犯したチャドェン――彼を放免にできるわけではないが、捕えて罰を受けさせるだけでは≪ゲイザー≫の名が廃る。


 そんなユウリスの真摯しんしな願いに、師であるウルカは背かない。ふん、と威勢よく鼻を鳴らした彼女は、サイモンに向けてぶっきらぼうに顎を動かした。


「霊薬の精製には、特別な器具が必要だ。それも魔術師の工房ならば揃っているだろう。これから私が言うものを探して持ってこい。小便垂しょうべんたれは≪ライカンスロープ≫の見張りだ。人狼化の兆しを見逃すな。さっさとしろ!」


 ウルカの檄に急かされたサイモンが、慌しく奥の倉庫に駆けだす。


 地下は息が詰まる吐露したオスロットは、銀の鎖で拘束したチャドェンを引き連れて工房の出入り口へ姿を消した。


 場に残された闇祓いの師弟が、どちらからともなく視線を交わし合う。


「ありがとう、ウルカ」


「べつに、お前のためというわけでもない。面倒ではあるが、人狼化の治療薬が完成すればディアン・ケヒトへの良い手土産になる。教会の連中に借りを作れるのも、悪くない」


「弟子にも尊敬されて、好かれるオマケもついてくるし?」


「ふざけるな、弟子は無条件で師匠を敬愛して崇めるものだ」


 軽口を叩き合いながら、二人も時間を惜しむように動きはじめた。


 ユウリスは師から受け取った聖水を撒いて室内を清めると、入り口付近で座り込んでいるオスロットに換気を頼んだ。霊薬の精製には、淀みのない自然な空気が必要となる。


 準備を弟子に任せたウルカは、卓上に散らばる羊皮紙の一枚を手に取った。サイモンが頼みにした魔術師の資料に目を通して、思わず感嘆の息を漏らす。


「工房の魔術師が疫病をどんな悪事に利用しようとしていたかは知らないが、資料としての価値は一級品だ。ディアン・ケヒトの書庫にも、これほどの知識は眠っていない……独学で調べたようだが、ここまでの研究をなぜ放棄した……?」


「さっきサイモンは、ここの魔術師が研究していたのは人を怪物に変える方法だって言っていたよね。それが上手くはいかなかったってことかな」


「いや、そもそもクソ司祭の認識が間違いだ。あいつは魔術に明るくない。この研究は方向性が違う。人を怪物に変えるようとしているのは確かだが、≪ライカンスロープ≫や≪ウンディゴ≫を生み出そうとしているわけじゃない。もっとおぞましいものだ。これだけでは判断できないが、おそらく他の資料を読めば目論見もくろみの検討はつけられるだろう」


 棚に敷き詰められた羊皮紙の束に向き直り、ウルカは思慮深く目を細めた。しかし闇祓いの熟考は、盛大な雑音に遮られてしまう。


 大量の機材を抱えたサイモンが、ローブの裾を踏んで派手に転んだ。慌てて彼に駆け寄ったユウリスが、咄嗟に手を差し伸べる。司祭は戸惑いと後ろめたさ瞳を揺らした。


「ユウリス・レイン、僕は……」


「目の前で転んだりするからだ。べつに貴方を許したわけじゃない。だから早く立って、チャドェンさんを助けるんだ」


 力強く頷うたサイモンは、少年の手を握って膝を伸ばした。そんな二人の様子を、オスロットが複雑そうな表情で眺める。


 銀の鎖に繋がれたチャドェンは疲れ果て、とうとう玄関で寝息を立てはじめた。


 そしてウルカが号令を発する。


「これから霊薬の精製をはじめる。まずクソ司祭は、これまでに使用した治療薬の理論と、治験ちけん結果を教えろ。ユウリスは機材の準備だ。場合によっては夜の内にしか作業ができない可能性もある。こんな陰気な場所に何日も篭もるつもりはない。手早く済ませるぞ。材料も揃っているし、ついでに裏狐うらぎつねの霊薬と花鳥はなどりの霊薬も作るとしよう」


 しかし直後、作業に誤算が生まれる。


 ウルカの趣味といえば食事と貯金、あるいは弟子いびりしかない――そこに疑いの余地はないと信じていたユウリスが驚くほどに、彼女は新しい治療薬の研究に熱を上げた。


 そして二人の助手は大した時間も経たない内に、闇祓いの女傑から非情な戦力外通告を受けることになる。


「ユウリス、クソ司祭、お前たちは手際が悪すぎて邪魔だ。あとは私が一人でやる」

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