06 闇祓いの作法

 畜舎の殺人から一夜明けた翌日、暑い雲が空を覆い尽くしていた。


 朝の冷たい空気に包まれた森で、闇祓やみばらいの師弟が静かに歩みを共にする。前日にウルカが下見を済ませており、目的地である妖精の泉まで迷う心配はない。


 小鳥のさえずりに混じって、三つ目の狐が遠吠えを響かせる。道なき道の枝葉を掻き分けながら、ユウリスは外套に包まれた身体を震わせた。


「ここ最近で、今日がいちばん寒いかもしれない。ミネルヴァ山脈の息吹を感じる」


「実際に霊峰の登山に挑戦してみるといい。こんなのはマシなほうだ。空気の冷たさで、すぐに喉が痛くなる」


「水を浴びても治らないものでも、雪をぶっかければ改善するかな」


「闇祓いの作法のことを言っているのなら、荒療治は悪い手じゃない」


 意地悪く笑うウルカに、ユウリスは肩を竦めて唇を尖らせた。そして片手を胸に添え、身のうちにくすぶる破邪の火に呼びかける。


「闇祓いの作法に従い――か」


 ≪ゲイザー≫の奥義。霊力を破邪の光に昇華する儀式。ユウリスは戦いの最中、闇祓いの作法に自力で覚醒を果たした。ウルカの剣を握った瞬間に労せず扱い方を身につけたという経緯が、今回の騒動を複雑にしている。


「いまさらだけど、≪ゲイザー≫について俺が知らないことはたくさんある。ディアン・ケヒト、湖の妖精、秘儀、奥義、生贄いけにえのナントカ……ウルカは、理由があって教えてくれないの?」


「半々だ。学びにも段階があるし、早い時期に教えることで生まれる弊害も多い。だが闇祓いの作法に関しては、先に伝えるべきだったかもしれない。私の教えを必要とせず、お前は基礎を飛び越えて成長を続けてきた。立ち止まるには、いい機会だ」


 不意に隣の茂みが動き、闇祓いの師弟は武器に手を伸ばした。


 ひょこっと草薮から顔を覗かせたのは、三匹のワオネルだ。縞模様の毛並みを揺らし、人間の来訪者を珍しそうに眺める小動物を、ウルカが手で追い払う。


「ウルカ、ワオネルが嫌いなの?」


「食料をたかってくるからな。見えてきたぞ、妖精の泉だ」


 森の中腹に、小さな泉が湧いている。


 緑に囲まれた水面は、深い青を湛えていた。外周は鼻歌をひとつ奏でる間にまわれる程度で、芳醇ほうじゅんな霊力の気配に満ちている。


 事前に教えられていた通りにブーツを脱いだユウリスは、畔の前で胡坐をかいた。その背後ではウルカが腕を組んで佇み、変わらぬ調子で講釈を続ける。


「ヒューム、エルフ、ドワーフの総称である人間は、三つの可能性を秘めた種族だ。すなわち、世界に干渉する魔力。肉体を解放する理力。そして女神の恩恵おんけいたる霊力。闇祓いの作法は、三つ目に挙げた霊力を用いる破邪の奥義だ」


 呼吸を落ち着けたユウリスは、そっと瞼を閉じた。


 師の言葉は思考に溶けて、心臓の鼓動を近くに感じる。身体に流れ込むのは風が揺らす枝葉の呼吸、仄かな水の息吹。精神が血潮を巡り、意識の深淵に落ちていく。


「遥かなる罪と罰の時代より、こんな言い伝えがある。かつて世界に罪が満ち溢れ、罰が罰でなくなることを恐れた神々は、すべての災厄をひとつの大陸に集約して封印した。その地の管理者として名乗りを上げたのが、女神ダヌと魔神バロールだ」


 心の深層、肉体と精神のどちらでもない存在の空隙くうげきに、仄かな青い炎がくすぶっている。普段は念じるだけで燃えあがってくれる清廉せいれんほむらだが、いまはとても弱々しい。


 冷たい情熱の火。


 それが闇祓いの作法と呼ばれる力の源泉だ。


「またディアン・ケヒトの石碑せきひには、こうも刻まれている――世のあらゆる災厄を封じた地を、トゥアハ・デ・ダナーンという。女神ダヌは絶望の大陸に取り残された命を憂い、邪な勢力に反抗する者たちへ祝福を与えた。怪物の血を焼き、人心の影を払う術を用いて、光と闇のはざまで命の調和を見守る存在。人々は彼らを、ゲイザーと呼んだ」


 どれだけ手を伸ばしても届かない、破邪の輝き。呼びかけに応じる気配もないが、決して潰えてはいない。力の源泉は、たしかにそこに在る。


 妖精の泉に波紋が広がり、ユウリスの心に共鳴をはじめた。使い手の声を拒絶する闇祓いの作法を、清涼な風が煽る。


「闇祓いの作法に目覚める方法は、ディアン・ケヒトでも長年に渡り研究されてきた。魔術、薬物、儀式、しかし正解はない。現在では各地に点在する妖精の泉を利用するのが、最も効果的とされている。私自身も、瞑想めいそうで力を得たひとりだ。己と向き合い、破邪の焔に触れる。修行時代を懐かしむのは久しぶりだ。あの頃も、私は凛々りりしく美しかった」


 刹那、ユウリスの集中が乱れた。次いで、なぜか背中を蹴られる。どちらにせよ、未だに力は取り戻せない。妖精の泉から助力を得て、ほんの少しだけ破邪の輝きと距離が縮まった。


 そして理解する。闇祓いの作法は失われていない。清廉な青い火が霞んでいる原因も、おぼろげながら見えた気がした。


「トゥアハ・デ・ダナーンの役割は、外界の災厄を一手に引きつける集積場だ。魔神が悪意を怪物に変え、それを浄化する力を女神が与える――だが大陸の天秤は闇の勢力ばかりに傾き、他の種族たちを一方的に虐げる時代が長く続いた。これをしかばねと影の時代と呼ぶ。そこで女神ダヌは自らの権能を行使し、選ばれた者たちに特別な力を与えた」


「それが、闇祓いの作法……怪物の血を焼き、人心の影を払う術」


 まぶたを押し上げたユウリスが、師の言葉を繋ぐ。焦げ茶色の瞳に映る湖面は、穏やかで揺らぎもない。


 ウルカは精神の世界から帰還した弟子の髪を乱暴に撫でまわすと、傍らに腰を下ろした。


「霊力自体に怪物を焼く効果があると唱える学者もいる。だがそうなると、霊力を宿した怪物の存在が説明できない。闇祓いの作法は、人間種族にしか扱えない力だ。仮に怪物が発現したとしても、その瞬間に全身の血が沸騰ふっとうして死に至るだろう」


「じゃあ前に聞いたウンディゴみたいに、元が人間の場合はどうなるの?」


「結果は変わらない。例えばお前が後天的にウンディゴや吸血鬼になった場合も、闇祓いの作法を使えば血を焼かれる。おそらく即死だ。怪物は闇祓いの作法を扱えない」


「闇祓いの作法が使えないのが、人間に似た怪物の証?」


「あるいはウンディゴは皮膚が石のように変わるし、吸血鬼は日光に弱い。例の人狼にしても、銀の刃でつけられた傷は人間に戻ってからも残る。闇祓いの作法を覚えさせるようとするよりも、簡単な見分け方だ。この話は、もういいだろう。どうだった、ユウリス?」


 生真面目な弟子が、成果を濁すのは珍しい。慣れない気遣いにむず痒さを覚えながらも、ウルカは努めて冷静に問いかけた。師の優しさはユウリスにも伝わっており、応える声に澱みはない。


「なんとなく、力を使えない原因がわかったと思う。闇祓いの作法は、ただ俺を拒絶しているだけじゃなかった。そう仕向けているのは、自分自身だ。破邪の輝きが戻れば、また戦いに身を置く日々がはじまる。そうしたらビル・ロークを殺したときのような経験を繰り返すかもしれない……それを、恐れている」


「たしかに闇祓いの道を進めば、いずれ人と戦う機会も増えるだろう。繰り返しになるが、闇祓いの作法には人心の影を払う術も含まれている。魔神バロールは闇の勢力として怪物を生みだした。だが本来、悪意とは人の心にこそ芽生えるものだ」


「人の闇を祓うためには、殺さないといけない?」


「そうではない。しかし殺人は、もっとも確実で簡単な方法だ。邪悪な意思に、善意の言葉は届かない。戦いになれば相手も死にもの狂いで襲い掛かってくるだろう。お前の矜持を貫くためには、敵を殺さずに圧倒する力が必要だ」


「俺の矜持?」


「人と怪物、どちらの命も無闇に奪いたくはないんだろう。まずは対話からはじめる、そう言っていたのを忘れてはいない。まったく面倒な子供を弟子にしたものだ」


 悪態をついて、ウルカは膝をのばした。自分の問題に向き合えたのなら、それほど心配はいらない。はじめて師弟の関係を結んでから、すでに一年近くが過ぎた。目覚しい成長を見せてきたユウリスの躓きが、実は少しだけ嬉しい。


「お前は急ぎすぎなんだ。少しは立ち止まって、師匠を見ろ。弟子の前ではおくびにもださないが、私も悩みは尽きない。一瞬の判断に責任を負って、選択を続けている。それが人生というものだ」


「ウルカの悩みなんて、夕飯のおかずくらいでしょ?」


 師の鋭い蹴りをかわして、ユウリスも立ち上がった。ウルカの腕に軽く拳を当て、ありがとう、と囁く。


 闇祓いの師弟は軽口を叩き合いながら帰路についた。


 雲は晴れず、北の霊峰には雨雲の気配がある。


 足早に小屋へ戻ると、エドガーとドロシー、サヤに加えてラポリが待ち構えていた。そしていつも通り、最初に口を開くのは双子の姉だ。


「遅いじゃない、ユウリス。それで妖精の泉、どうだった? 魔法の力は使えるようになったわけ?」


「魔法じゃなくて、闇祓いの作法。でも、心配してくれてありがとう。まだ時間はかかりそうだけど、なんとか兆しは見えた。明日からも泉に通う――で、いいんだよね、ウルカ?」


「そうだな、妖精の泉は精神修養の助けになる。破邪の力は朝方に活性化するから、今日と同じくらいの時間に瞑想を繰り返せば復活の手がかりを得られるだろう。それで、劇団のモルフェッサ人がなんの用だ?」


 眉をひそめるウルカに、サヤが一歩踏み出した。あらかじめ示し合わせていたようで、双子とラポリは喜色満面の表情で控えている。


 少女のたどたどしい声が、曇天を吹き飛ばすように華やいだ。


「あたしたち、げきをやるの!」


 げき――劇だと理解したウルカが真っ先に、私はやらないぞ、と片腕を広げた。ユウリスも返答に窮して戸惑うが、サヤの輝く眼差しを前にして拒絶はできない。


 ラポリは陽気に一回転して手を叩くと、闇祓いの師弟に白い歯を見せて笑いかけた。


「まあ、そんなに難しく考えないでよ。実は村人の妨害工作のせいで、他の劇団員が来られなくなってしまったんだ。でもボクたちにも意地がある、どうしても公演はやり遂げたい。そこでキミたちに白羽の矢を立てたんだよ。ドロシーちゃん、サヤちゃん、ユウリス君は役者。エドガー君は美術。ウルカちゃんは力持ちだって聞いたから、大道具ね!」


 配役を説明するラポリの横で、ドロシーがべえっと舌を伸ばした。ウルカを大道具に推薦したのは、双子の片割れらしい。


 もう一人の片割れであるエドガーが、両手を掲げて説得に乗りだした。


「やろうよ、ユウリス。ウルカさんも、お願いします。宿屋のボックも参加するんだ、すごく喜んでる。公演は次の赤い満月の夜だから、練習の時間も問題ない。こんな機会は滅多にないし、心の病気なら普段と違うことをするのだって効果があるんじゃないかな。サヤちゃんもやる気だ。せっかくだから、みんなで楽しもう!」


 ユウリスが頷くと、残る抵抗勢力はウルカに絞られた。双子の言葉に耳を塞いでも、サヤの表情が曇れば旗色は悪くなる。


 最後に折れたウルカは、ひとつだけラポリに条件を出した。


「二度と私を、ちゃん付けで呼ぶな。ウルカさんだ、わかったな!」


 小屋に晴れやかな空気が満ちるなかで、ユウリスは村の対応に疑問を抱いていた。住民たちは部外者を近づけまいと躍起になっていたが、その中心人物は祖父のウッドロウ・レインだ。しかし彼は一方で、追い出されそうになった自分たちを引き止めて寝床を提供してくれた。


 なぜ、と懊悩おうのうする弟子の肩をウルカが叩く。


「人狼の件は、あまり深入りするな。村ぐるみで隠しているような事案は、首を突っ込んでもろくな結果にならない。私も少し探りは入れるが、今回は子供たちもいる。お前にはいま、守る力がないことを忘れるな」


 やがてエドガーとドロシー、サヤは劇団に遊びに行くと告げて、ラポリと共に小屋を出て行った。


 残された師弟が遅めの朝食を終える頃、神妙な顔つきでオスロットが帰還する。彼は自慢の口髭くちひげを何度も撫で、憂いに満ちた眼差しをユウリスに向けた。


「ブレグ村に行ってきた。私はいまも、この目が信じられん。サイモンを見つけた。サイモン・ウォロウィッツは、本当に生きておった!」

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