05 夢魘

 翌朝、冷たい蒼穹そうきゅうに女の慟哭どうこく木霊こだました。彼女が泣き崩れてすがりついているのは、全身をズタズタに引き裂かれた夫の亡骸なきがらだ。


 現場は畜産農家の牛舎で、すでに多くの村人が駆けつけている。


 野次馬に混じって首をのばしたユウリスは、おびただしい血の海が広がる凄惨せいさんな現場の光景に思わず吐き気を覚えた。


「サヤを帰して正解だった」


 サヤを任せた双子も、朝食にありつける幸運を感謝してくれることだろう。青い顔でふらついたユウリスの肩を、ウルカが抱きとめる。遠目に遺体を観察した彼女は、人間の仕業じゃないな、と呟いた。


「胸から腹部にはしる五本の傷痕……筋の間隔が綺麗に揃いすぎている。おそらく一度に切り裂かれたものだろう。ゴヴニュ砂漠の部族は三本爪の武器を扱うが、よほどの豪腕でなければ肩の肉が外れるほどの威力はだせない。犯人は鋭利な五本爪を持った怪物だ。それこそ人狼の可能性も捨てきれない」


 号泣する妻は、村人の手で亡骸から引き離された。ダーナ神教の教で、死体は不浄の存在と定義されている。伴侶といえども、長く触れていれば穢れてしまうと信じられていた。


 野次馬の奥で男同士の怒鳴りあう声がする――片方はオスロット警部補で、もう片方はウッドロウだ。


「なぜお止めになるのです、陛下! 遺体が腐敗する前に検死を行わなければなりません。聞けば、この村には警察官はおろか医者もいないとか! 不肖ふしょう、このジェイムズ・オスロットは検死医の資格も持ち合わせておるのです!」


「駄目なもんは駄目じゃ。ここはフォースラヴィル。ブリギット市警察の出番はない。ほれ皆の衆、この部外者を外につまみだせ!」


 ウッドロウが指示をだすと、住民たちの動きは早かった。すぐさま数人の男がオスロットを取り囲み、無理やり畜舎の外へ押し出そうとする。その矛先は闇祓いの師弟にも向けられた。


 村人に肩を掴まれたウルカが、相手の腕を捻りあげて突き飛ばす。


「気安く私に触るな、冥府の炎に焼かれたいか」


 ウルカの怒気を孕んだ声と冷たい眼差しは、強烈な圧迫感を伴って村人たちを遠ざけた。オスロットも大きく腕を振るって抵抗し、男たちを近寄らせない。ユウリスは横たわる亡骸を眺めていた。


 人間たちの喧騒に触発された家畜たちが、一斉に騒ぎはじめる。


「…………」


 ざっくりと裂かれた傷痕には、はえうじがたかっている。肉の断面は黒く変色して、臓器らしいものが垂れていた。


 ユウリスは瞬きもせず、じっと死を直視する。


 赤い色。黒い淀み。むせ返るような生々しい臭気。この感触を知っている――人を殺した感触を思い出す。握り締めた刃で何度も突いた肌の弾力、全身で浴びた血液の味。


 弟子の異変に気付いたウルカが、ハッとして手を伸ばす。


「ユウリス!」


 師の声に触発されて、ユウリスは沈みかけていた意識を取り戻した。次の瞬間、視界が揺れて身体が傾く。倒れる寸前でウルカに支えられても、もはや自力では立てない。全身の力が抜けて、胸の下からせりあがる強烈な不快感に晒される。音が遠い。目の奥にはしる強烈な刺激と、心臓が潰されるような痛みに悶える。


「ユウリス、おい、ユウリス! クソ! そこの役立たず、こっちに来い!」


 ウルカが誰を呼んだのか、誰も理解できずに固まるが――この場に彼女の顔見知りはオスロットの他にいない。役立たず呼ばわりされた彼は肩を怒らせて拳を振り上げたが、真っ青な顔のユウリスを目にして顔をしかめた。


 困惑する村人に片手を掲げて、ウッドロウが前に出る。


「子供が死体を見れば、そうなって当然じゃろう。さっさと部屋に帰れ。無論、三人でな」


 弟子を抱き上げたウルカが、傍らのオスロットに目配せして退散を促した。


 村人たちの厳しい眼差しは、閉鎖的な集落ならではの仲間意識を感じさせる。拒絶の意思は強い結束で結ばれており、三人の部外者が畜舎を去るまで離れなかった。


 指先ひとつ動かせないまま、ユウリスが苦しそうに呻く。


「ごめん、ウルカ。急に気持ち悪くなって……」


「ビル・ロークを殺したときの記憶が蘇ったんだろう。心の問題だ、仕方がない。水でもぶっかければ、嫌でも身体は反応する」


 弱々しく笑んで頷いたユウリスは、身体ばかりでなく思考能力も低下していた。少年は忘れていたが、師は有言実行の女だ。ウルカは小屋に戻るなり、死人のような顔色で苦しむ弟子に容赦なく井戸水を浴びせた。


 その所業に、さしものオスロットですら身を震わせる。


「このゲーザーは、本当にお前の先生なのか?」


「ゲーザーじゃなくて、≪ゲイザー≫ね。いや、もうゲーザーでもいいから、他に師匠の候補がいるなら紹介してほしいくらいだよ」


 それでも師の言葉通り、冷水を浴びると身体は少しだけ楽になった。あるいは命の危機を覚えて反射運動を起こしているだけかもしれない――ユウリスは自力で濡れた服を着替えると、寝台に潜り込んだ。


 卓には朝食のパンとチーズが置かれているが、双子とサヤの姿はない。


「ウルカ、怪物がいるなら村も危険かもしれない。みんなをお願いね」


「引率は小便垂れの役目だ。私は朝食を済ませてから森で薬草を集める。お前は他人の心配はせず、おとなしく寝ていろ。夜までに魔除けの霊薬を精製しておいてやる」


 ありがとう、と返したつもりだが、ユウリスの唇は上手く動かなかった。強い睡魔に襲われて、身体から力が抜けていく。頭の奥にずきりと稲妻がはしり、眼球が熱い。それでも意識は闇に落ちていく。


 耳に届くウルカとオスロットの怒鳴りあう声が、いまは少しだけ心強かった。それでも視界が黒く染まり、すべての音が消え去ると、恐怖の瞬間が訪れる。


 ――レイン。


 はじまりは、泡沫のように微かな悪意。


 ――クソ虫が。


 それは愉悦に満ちた、邪悪な鼓動。


 ――私は人形。


 全身を虫が這うような不快感。


 ――覚悟もなく。


 この頃になると、声は合唱のように脳内で鳴り響いている。


 ――あ。


 一寸先も見えない暗黒の悪夢。もはや外部からではなく、身の内側からユウリスを蝕む怨嗟の声。肌の裏で蠢くのは、これまでにほうむってきた怪物の思念だ。喉を裂いて溢れるのは、対峙してきた人間の叫び。


 しかし景色が黒い間は、まだ序の口だ。


 夢魘むえんの先には、さらなる責め苦が待っている。


 嫌だ。


 行きたくない、この先に進みたくない。


 どれだけ願っても、闇に赤い雫が落ちれば希望は終わる。


 黒い景色が一気に朱色の波紋に満たされると、ユウリスは血の沼に落ちた。さらさらとした感触は、深みにはまるほど赤黒く粘り気を帯びる。鼻と口、目を耳から流れ込む誰かの体液。酸素を失い、身体を内側から突き刺す痛み。


 苦しい。死にたい。もう殺してほしい。


 なんども、なんどもなんども、なんどもなんどもなんどもなんどもなんども、なんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんどもなんども、どれだれけ願っても、生きたまま死を繰り返す錯覚。


 助けて。


 誰の手も、この悪夢には届かない。願うほどに絶望する。もがくほどに辛い。眠れば冥府の拷問に晒され、目が覚めている間は心の疵に苛まれる。ならばいっそ、本当に死んでしまえば?


 嫌だ。助けて。誰か、助けて!


 親とはぐれた子供のように泣き喚くユウリスの手を、そっと握る感触がある。フォースラヴィルへ向かう旅の最中、この手にどれだけ救われたことだろうか――現実世界に導く、優しい熱に縋りつく。


 目覚めると、心配そうに覗き込むサヤの顔があった。


「おにいちゃん、だいじょうぶ?」


「サヤのおかげで、なんとかね。起こしてくれて、ありがとう」


 頬の涙と鼻水を袖で拭い、ユウリスは大きく息を吐きだした。窓から差す日は暖かく、まだ日中のようだ。ウルカとオスロット、双子の姿はない。


「サヤ、みんなは?」


「ウルカおねえちゃんとオスロットおじちゃんはしらない。エドガーおにいちゃんとドロシーおねえちゃんは、すぐにくるよ」


 ユウリスが僅かな気怠さの残る上半身を起こしたところで、小屋の扉が勢いよく開かれた。外から飛び込んだ来たのは、輝かんばかりの笑顔を浮かべたドロシーとエドガー――二人が手を取り合って舞い踊る。


「あたしは泉の妖精、花の蜜から生まれたの!」


「僕は泉の妖精、水のせせらぎから生まれたよ!」


「ラーララララララ、ラーララララララ、ヘイ!」


「ラーララララララ、ラーララララララ、ヘイ!」


 サヤが、へい、と真似をして片腕を突き上げた。


 げんなりとしている病み上がりのユウリスに、気分上々の双子が手を握り合ったまま詰め寄る。口火を切るのは、いつも通りドロシーだ。


「もうビッグ一座、最高! 演技について指導してもらえたどころか、生で即興の演技まで観られちゃった! ダイアナさんの仕草、すっごい勉強になる。フォースラヴィルに来て良かった。ね、エドガー?」


「僕も美術のテリーさんに遠近法の極意を教わったよ。色の使い方ひとつで、あんなに変わるなんて驚きだよ。ちなみにさっきの歌と踊りは、ラポリさんに仕込んでもらった」


「あたしもおどれるよ、へい!」


 双子と同行していたサヤも両手を広げて、可愛らしい舞踏を披露する。ユウリスは頬を緩めて、拍手を送った。


 すると義兄の顔色が良くなっているのを確認した双子が、ただ遊びにいっていたわけではないと得意げに鼻を鳴らす。


「感謝しなさいよ、ユウリス。ラポリさんから人狼の伝承もきっちり聞きだしておいてやったわよ。この村で毎年公演しているくらいだから、知っていると思ったらドンピシャ!」


「昨日、僕らが持ち寄った吟遊詩人の歌とは違う話だよ。まあ、一般的な人狼の伝承と、そんなに変わりはないけどね。こんな内容だった」




 昔、村に怪物が現れた。

 その怪物は夜な夜な家畜を襲い、女子供すら切り刻む狼男だ。


 あるとき、村を一人の女が訪れる。

 女は村人の誰かが狼男だと告げると、その正体を暴くと豪語した。

 そして夜になるまで身を隠した女の前に現れたのは、狼男。

 家畜を襲おうとした狼男の腹を、女は銀の刃で突き刺した。

 怪物の弱点である銀で傷つけられた狼男は、悲鳴を上げて逃げ去ってしまう。


 翌日、女は広場に村人全員を集めると、一人一人に腹を見せるように指示をした。


 村長の息子が服をめくると、そこには大きな火傷の痕がある。

 銀の武器で焼かれた傷は、人間になっても残っていたのだ。

 村長の息子は処刑され、狼男の脅威は消え去った。

 誰にも行く先を告げずに去った女には、影がなかったという。

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