01 蹄は響くよどこまでも

 世のあらゆる災厄を封じた地を、トゥアハ・デ・ダナーンという。女神ダヌは絶望の大陸に取り残された命を憂い、よこしまな勢力に反抗する者たちへ祝福を与えた。怪物の血を焼き、人心の影を払う術を用いて、光と闇のはざまで命の調和を見守る存在。人々は彼らを、ゲイザーと呼んだ。




「クラウ、お願いだから聞き分けてくれ」


 少年の嘆願を聞いても、クラウと呼ばれた大型の白い狼は扉の前に座り込んで動こうとしない。レイン公爵家の二階に位置する、小奇麗な部屋の出来事だ。麗らかな日が差し込む窓の外からは、正午を報せる鐘の音が響き渡る。


「そろそろ迎えの馬車が到着する。カーミラもサヤを連れてくる時間だ」


 少年――ユウリス・レインは夜色の髪を掻いて嘆息した。険のある目つきで誤解されがちだが、不機嫌なわけではない。


 ただ現在は、本当に困っている。


 中肉中背の身体を覆うのは、厚手の黒い外套だ。それは旅行用の装束で、足元には荷物が詰まった大きな鞄も置かれている。


 これから彼は大都市ブリギットを離れ、北西の療養地フォースラヴィルへの旅立とうとしていた。しかし同行を許されなかった相棒の白狼が拗ねてしまい、部屋から出してくれない。


「もう何度も話し合ったじゃないか。クラウは連れていけない。君は魔獣で、人間に恐れられる存在だ。このブリギットから外に出たら、駆除の対象になってしまう可能性もあるんだ」


 しかしクラウは、つんと鼻先をあげて拒絶の意思を曲げようとはしなかった。声も音も発しない白い狼は、叡智えいちを秘めた魔獣だ。人間の言語も理解しており、意思疎通に問題はない。


 ふたりは共に多くの苦難を共に乗り越え、種族を超えた強い絆で結ばれている。


 だがいまは、その深い関係故の思わぬ溝が生まれていた。


「お土産を買ってくるよ。マルフェタっていう果物があるんだ。ひとつの房にたくさんの大きな実がついて、すごく甘い。オーモンの実より弾力はあって、噛むだけで味がじゅわって広がるんだ。これから向かうフォースラヴィルは、その名産地。いっぱい買ってくるよ。ね、クラウ?」


 食べ物で懐柔しようとしたユウリスに、白狼が牙を剥いた。


 金色の瞳がきらめき、侮辱だ、と視線で訴える。いつぞや食い意地の張った野蛮人と同列に扱われたのを根にもっており、誇り高い魔獣は美食の誘惑を鋼の意思ではねつけた。


「お願いだから聞き分けて、クラウ。俺は行かなきゃならない」


 首を横に振った白狼は、その杞憂を否定した。迷惑なものか、という意思を全面に押しだして少年を見据える。むしろ目の届かない場所に行かれるほうが心配だ――そんな相棒の頑固な態度に、ユウリスはがっくりと項垂れて眉尻を下げた。


「弱ったな……」


 ……、…………。


 弱っているのはこちらだ、と言わんばかりにクラウは思慮深く目を細めた。


 一ヶ月ほど前に人を殺めて以来、ユウリスは夜毎の悪夢に悩まされている。


 相手は連続強姦殺人の罪で、指名手配されていた男だ。法的に正当防衛が認められた案件で、罪にも問われていない。しかし自らの手で他人の命を奪ったという事実は、彼の心に深い傷を残していた。


「どうしたらわかってくれるかな?」


 ……、…………。


 少年の心に刻まれた疵の深さを、クラウは痛いほどに感じ取っていた。


 殺人の記憶に蝕まれたユウリスは事件以来、闇祓いの作法と呼ばれる破邪の奥義を見失っている。≪ゲイザー≫と呼ばれる怪物狩りの専門家を志す彼にとって、力の消失は致命的な出来事だ。


 それを取り戻すために、療養の旅へ出るというのは理解できる。だからこそ危険からユウリスを守るために同行したいというのが、白狼の素直な気持ちだ。


 …………、……!


 どうしてもいっしょに行く、とクラウも譲らない。置いていかれるくらいなら、彼を部屋からは出さない。そう主張するかのような白狼に、ユウリスな根気よく語りかけた。


「俺がビル・ロークを殺したとき、そばにいられなかったのを気にしてくれているんだよね。でも、いつだってクラウに助けてもらえるわけじゃない。あのときは、ただ自分に状況を変える力が足りなかっただけだと思う」


 己の手のひらを見つめたユウリスは、身体が芯から凍えるような寒気に襲われた。すでに一ヶ月が経過したというのに、血の臭いがこびりついているかのような錯覚に何度も襲われている。


 心の傷に苦しみながら、しかし少年は前を向いた。焦げ茶色の瞳は迷いと恐怖に揺れても、胸に灯した光を失くしてはいない。


「俺は闇祓やみばらいの≪ゲイザー≫になると決めた。それなのに破邪の力が使えないんじゃ話しにならない。療養を終えたら、すぐに戻ってくるよ。帰ってきたら、出会って一年のお祝いをしよう。春の感謝祭はいっしょにまわれるように、父上を説得するから」


 おいで、と手を伸ばしたユウリスに、クラウは首を伸ばした。身を寄せて、互いのぬくもりを確かめ合う。


 しかし次の瞬間、人間の大人と変わらない身の丈を駆使した白狼が、容赦なく体重をかけた。


「クラウ、重い! ちょっと、これじゃ動けない!」


 どこにもいかせないという強い意思で、クラウは少年の両手を前脚で押さえつけた。舌を伸ばし、じゃれるように頬を舐める――そこで不意に、部屋の扉が開いた。


 白狼に組み敷かれているユウリスを、赤毛の少女が冷たい眼差しで一瞥する。


「ユウリス、これは浮気現場かしら?」


「馬鹿なこと言ってないで助けてよ、カーミラ!」


 ユウリスが恋人のカーミラに助けを求めると、白狼の目つきが険を帯びた。赤毛の少女と雪原の魔獣が視線を交わして火花を散らす。


「こら、クラウ。あなたはうちで預かってあげるんだから、いっしょに帰るわよ。わたしだって家の用事がなければ、ユウリスについていきたいところなんだから。ひとりだけわがまま言わないの!」


 ……、…………、――!


 クラウは鳴き声こそ発しないが、目は口ほどにものを言う。


 ユウリスほど敏感ではないにしろ、カーミラも白狼の態度や様子からなんとなく意思疎通ができるようになっていた。


「心配なのはわたしもいっしょよ。でもユウリスを苦しませたままにはしておけないでしょう? あの女が任せろって言うんだから、いまは信じるしかないじゃない」


 それからも何度かふたりの応酬は続き、けっきょく最後はクラウが折れた。泣く泣く身体を退けた白い狼の重圧から解放されたユウリスが、腰をさすりながら膝をのばす。


 そして相棒の首元に触れた彼は、柔らかい笑みを向けた。


「いつも心配してくれてありがとう、クラウ。でも、本当にすぐ戻ってくるから。カーミラも、心配ばかりかけてごめん」


「ごめんは禁止。支え合うって決めたじゃない。ほら、そろそろ荷物の搬入も終わる頃よ。サヤも待ちかねているんだから、早く行きましょう」


 カーミラに促されたユウリスは、旅行鞄を手に取った。外套から埃を払い、ようやく部屋を後にする。


 しゅんと項垂うなだれたクラウも、渋々と後に続いた。


「そんな顔をしないで、クラウ。カーミラの家は、うちより綺麗で広いよ」


 そうして二階の廊下を進んでいると、不意に階下から怒声が響いた。


 苛烈な声の主は、グレース・レイン公爵こうしゃく夫人だ。


 ユウリスは思わず顔をしかめた。


義母はは上の声だ、機嫌悪そう」


「ユウリスって相変わらず、公爵夫人が苦手なのね。顔にですぎよ」


「しょうがないだろ、嫌われているんだから」


 ユウリスはブリギットを統治するレイン公爵家に籍を置きながら、正統な血筋ではない。家長であるセオドア・レインが、外の女に産ませた庶子だ。


 そして当事、正妻のグレースは長女イライザを出産したばかりだった。妊娠中に夫が別の女を孕ませた挙句、その赤子を連れ帰れば確執が生じるのは当然だ。


 神聖国ヌアザの姫として蝶よ花よと育てられた彼女からしてみれば、セオドアの裏切りが耐え難い屈辱であったのは想像に難くない。


「前から言っているけれど、悪いのはぜんぶレイン公爵よね。ユウリスに八つ当たりするなんて、公爵夫人は本当にひどいと思うわ」


「父上とは上手く仲直りしたみたいだし、義母上の気持ちもわからないわけじゃないよ。でも俺だって、あのひとが嫌いだ。お互い好きじゃないんだから、それで公平だと思う」


 夫を許したグレースは、翌年に嫡男ちゃくなんのアルフレドをもうけている。それから彼女は徹底的にユウリスを敵視した。


 家では他の子供たちと同じ環境で育てられたが、そこに親子の情はない。口を利くのすら、年に数回という徹底ぶりだ。


「でも療養地の手配をしてくださったのは公爵夫人なのでしょう。少しはユウリスを心配しているのかしら?」


「どうだろう、二度と帰ってくるなって思っていても不思議じゃない」


 そんな公爵夫人も、いまは子育てに苦労していた。


 玄関先でグレースの怒声を浴びているのは、レイン家の次女と三男だ。


 二人は双子で、目鼻立ちも似ている。癖の強い金髪を肩ほどまで伸ばしているのがドロシーで、短く刈りこんでいるのがエドガーだ。


「ドロシー、エドガー! 二人とも、どうして私の言うことが聞けないの! 貧民窟なんて、公爵家の子供が行くところではありません! いかがわしい!」


 階段の手前から眼下の様子を窺うユウリスの肩に、クラウが前脚をかけて覆い被さる。重い、と呻く少年に、傍らのカーミラがそっと耳打ちした。


「あれ、わたしが来たときから揉めていたわよ。南区で芸術家の集まりがあるらしいの。そこにエドガーとドロシーが出かけようとして、公爵夫人に叱られたみたい。場所が貧民窟なのよね」


「でもあそこ、もうほとんど立ち退きが済んでるって聞いたよ?」


「だから空き家を勝手にアトリエにして、演劇や絵の練習に使うような人たちが集まっているのよ。早く取り壊しまえばいいのだけれど、再開発の訴訟が続いているうちは無理ね」


「そこに二人は行きたがっているのか。揉めるなら俺が出発してからにしてほしいな」


 二人が囁きあうあいだも、グレースは声を枯らさんばかりの勢いで双子を怒鳴りつけていた。


 あからさまに面倒臭そうな態度のドロシーと、いつも平常心でにこやかなエドガー、そんな二人の表情が夫人の怒りに拍車をかける。


「貴方たちをノドンスに連れていったのが間違いだったわ。妙な芸術家かぶれや市民劇場になんか足を運んで! あんな低俗なものに触れるからおかしくなったのね! いい、貧民窟ひんみんくつに行くなんて絶対に許しません。部屋に戻りなさい。今日は屋敷から出ることを禁じます! ほんとうに、なんど駄目だと言えばわかるのかしら」


 そんな母親の発言に食ってかかるのは、決まってドロシーが先だ。双子が似ているのは容姿だけで、性格はまったく違う。ユウリスを除く子供たちのなかで、グレースの荒々しい気性をいちばん受けついているのが彼女だ。


「百回言われてもわかりませーん。演技を習うのもダメ、観に行くのもダメ、じゃあ息をするのもダメって言われたらどうすればいいの? だいたい貧民窟なんて言い方しちゃいけないって、メイウェザー神父から教わってるもん。あそこは再開発地区って呼ぶんですー。なんでもダメダメダメダメダメばっかりなら、お母様の差別発言だってダメじゃん。神学校から通いなおせば?」


「まあ、ドロシー! もういっかい言ってごらんなさい!」


 目をつりあげたグレースの表情は邪悪な怪物も顔負けの恐ろしさで、ユウリスは思わず頬を引きつらせた。


 前のめりになるドロシーの前に両手を掲げて割り込んだのは、思慮深く温和なエドガーだ。まあまあ、と声をかけながら、怒り心頭の母と舌を伸ばしている双子の姉を交互に見やる。


「ドロシー、母さんは僕らを心配しているんだよ」


 エドガーは独特のゆったりとした口調で姉を嗜めた。ドロシーは唇を尖らせるが、弟に反論はしない。そんな娘の様子にグレースが溜飲を下げた瞬間を突き、レイン家の三男は攻勢にでた。


「でも、貧民窟が昔みたいに危険な場所じゃないのは事実だ。母さんも少しだけ、偏見を捨てて聞いてくれないかな。ドロシーが参加したい演劇の集まりを主催者しているのは、大聖堂で公演した実績もある有名な演出家なんだよ。大人数だし、保護者も来る。僕が通いたい絵画教室だって、芸術家たちが次世代の育成を目的にして教える修練の場だ。変なことにはならないよ」


 感情的なドロシーが想いの丈をぶつけて、理性的なエドガーが理論武装で正当性を主張する――双子の見事な連携は、相手の温度差を狂わせる常套じょうとう手段だ。普段なら長姉イライザすら煙に巻く手法だが、今日のグレースは思考など放棄していた。苛立ちを暴走させ、とうとう手を上げる。


「いい加減に、なさい!」


 頬を叩く激しい音が二つ、立て続けに木霊する。


 顔を真っ赤に腫らした双子は、同時に母親を睨みつけた。どちらも無表情で、言葉ひとつ発しない。グレースは一瞬だけたじろいだが、すぐに鼻息を荒くして階段を指差した。


「二階へ行き、勉強をなさい。今日は屋敷だけではなく、部屋から一歩も出てはいけません。食事も上に運ばせます。いい、これは貴方たち二人のためなのよ!」


 ドロシーとエドガーはまったく同じ動作で踵を返した。それでも反抗する気配はなく、足が向く先は階段だ。慌てるユウリスとカーミラを尻目に、白狼がひょいっと身を乗りだした。白い毛並みが音も無く段差を降りていく。


「あ、クラウ⁉︎」


「いいわ、ユウリス。わたしたちは、盗み聞きなんてしていないわ。いま部屋を出たことにしましょう。クラウを追いかけてきたふりをするの、さあ!」


 カーミラに促されたユウリスも、素知らぬ顔で階段に足をかけた。すれ違うドロシーとエドガーは目も合わせてくれない。代わりに小声で、双子は同時に恨み言を呟いた。


「ユウリスはいいわよね」

「ユウリスはいいよね」


 ぎょっと顔を強張らせるユウリスを、グレースがじろりと睨みつける。


 階段の終わりでクラウが足を止めると、カーミラは盗み聞きをしていた素振りなど微塵みじんも感じさせずにお辞儀をした。指先に摘まれたスカートが、ふわりと舞う。


「公爵夫人、ご無沙汰しております」


「カーミラ・ブレイク、ごきげんよう。お母上は相変わらず手広くやっているようね。ダグザの弁護団が裏で糸を引いている訴訟問題、オーフォード公爵が乗りだしたと聞いています。油断しないようにと伝えておきなさい」


「かしこまりました。ですがご安心ください。ブレイク商会はブリギットのために尽くし、必ず利益をもたらします」


「レイン公爵家のために、ではなくて?」


「それがブリギットと同義であると信じております、公爵夫人」


 カーミラの軽やかな切り返しに、公爵夫人は短く鼻を鳴らした。よくしつけけられているという感心と同時に、嫉妬心も生まれる。


 ブレイク商会の女主人と同じく、自分は母親として子供を立派に育てられているのだろうか――グレースの視線は、自然と義理の息子に向いた。


「ユウリス」


「はい、義母上」


「フォースラヴィルには先代の公爵であらせられるウッドロウ陛下がいらっしゃるわ。お前を歓迎するかどうかはべつとしても、挨拶だけはきちんとなさい」


「はい、義母上」


 二人の会話はぎこちない。ユウリスの返事を聞いて、グレースは背を向けた。それっきり言葉もなく、奥の談話室に姿を消してしまう。


 ほっと胸を撫で下ろしたカーミラは、気を取り直して少年の背中を押した。


「みんな待っているわ、行きましょう」


 外に出た途端、強い北風に髪をさらわれた。


 すでに冬は終わり、春の兆しが近づく頃合だ。


 しかし寒さは少しも和らぐ気配はない。


 小高い丘の上に建てられた公爵邸の庭に、一台の馬車が停まっている。その荷台から、赤毛の少女が飛びだした。ユウリスを見つけると、緑色の外套がいとうを揺らして真っ直ぐに駆けてくる。


「おにいちゃん!」


 ユウリスやカーミラよりもひとまわり幼い少女――サヤは真新しい茶色の履物やブーツを自慢するように、芝生のうえでくるりと舞った。


 彼女は下水道に住む棄民の子供だ。普段はあぶらまみれの黒ずんだ姿だが、今日は身奇麗におめかしをしている。


 カーミラが得意気に軽く片目を瞑った。


「昨日からうちに泊めて、とびっきりお洒落をしたのよ。でも残念。サヤ、白粉と口紅も見せてあげればよかったのに。すごく素敵だったわよ」


「それは、は、はずかしい」


 ユウリスを見上げたサヤは、もじもじと身をくねらせた。そんな幼い恋心にカーミラはもちろん気付いているが、彼の恋人として微笑ましく見守るくらいの余裕はある。


「ユウリス、ボイドから伝言よ。娘に広い世界を見せてやってくれ、ですって。怪我をさせるなとか、あれこれと注文をつけないところは、うちのお父様にも見習ってほしいわ」


「ボイドのほうは大丈夫。サヤを預かるって決めたときに、少し話をしたから」


 頷いたユウリスは、クラウと戯れているサヤに視線を移した。前屈みの姿勢で、少女の前髪にそっと触れる。


「サヤ、待たせてごめんね。その外套、すごく可愛いよ。模様はモルフェッサの刺繍ししゅうかな。馬車の旅は長いから、あとでよく見せてくれる?」


「うん、あのね、おきがえもすてきなの。あとでいっぱい、みせてあげるね。カーミラおねえちゃん、ありがとう!」


「服選び、わたしも楽しかったわ。サヤ、ユウリスをお願いね」


 元気よく返事を響かせたサヤに手を掴まれ、ユウリスは馬車に引っ張られた。食料や着替え、生活雑貨を積めた袋が載積する荷台に、座り込んでいる人影がある――いや、彼女に影は存在しない。


「お疲れさま、ウルカ」


 年の頃は二十を少し過ぎたあたりだろうか。うなじで結った亜麻色の髪と、頬のそばかすが印象的な女性だ。日が差し込む馬車に、彼女の影は伸びてない。太陽の光を浴びても己の分身を落とさない、それが≪ゲイザー≫と呼ばれる怪物狩りの証だ。


 ユウリスは彼女の弟子として闇祓いの道を志しているが、未だ地に自身の分身を落としている。どうすれば影がなくなるのかは、よくわからない。ウルカは毛布に包まったまま、あごをくいっと動かした。


「早く乗れ、ユウリス。あまり遅くなると、野営地に着く前に日が暮れてしまう」


「オリバー大森林のほうはどうだった?」


「どうもなにも、私はただの立会いだ。結界はウィッカと教会の術師によって無事に施された。だがイライザが言うには、気休め程度にしかならないらしい」


「そっか。なら、そっちはウィッカに任せよう。クラウ、破けちゃうから噛まないで?」


 ユウリスは外套を噛む白狼の頭を撫でなると、先にサヤを抱き上げて荷車に乗せた。そしてカーミラと抱き合い、再会を誓い合う。


「じゃあ、行ってくるね。クラウをよろしく、カーミラ」


「ええ、気をつけて。フォースラヴィルまでは、馬車で半月と少しくらいよ。次に会える頃には、春になっているかしら。感謝祭までには帰ってくる?」


「必ず戻るよ。あと最近、アルフレドの様子がおかしいんだ。なにか異常があれば、すぐに父上へ報告してほしい」


「それは大丈夫だと思うわ。昨日もリジィといっしょにいるのを見かけたもの。あの二人、毎日のように会っているみたい。そっとしておきましょう。あ、クラウ、駄目よ!」


 クラウは無理やり馬車に飛び込もうとしたが、カーミラの説得を受けて渋々と諦めた。サヤは可哀想だと眉根を下げるが、ウルカは小気味良さそうに笑みを浮かべている。


 それからユウリスが荷台に乗り込むと、不意に公爵邸の扉が勢いよく開かれた。再び姿を現したグレースが、馬車に歩み寄る。


「これを持っていきなさい。不要なら捨てても構わないわ」


 そして彼女は、手にした青い毛糸のストールをユウリスに差しだした。


「え、義母上、これって……」


 戸惑うばかりで動かないユウリスに、グレースはストールを押しつけた。そして暗く淀んだ瞳を向けると、何度も唇を震わせて黙りこむ。


 誰もが怪訝そうに疑問符を浮かべるなかで、やがて公爵夫人は感情のない冷たい声で見送りを紡いだ。


「必ず帰りなさい、ユウリス。フォースラヴィルを推薦したのは私です。それを忘れないで、そして必要なときに思い出しなさい。さあ、行って!」


 グレースが車体を叩くと、馬の嘶きが寒空に響いた。ひづめが芝生を叩き、丘の道に通じる門へ馬車は走りはじめる。


 カーミラが大きく手を振り、クラウが寂しそうに見つめているのがわかっていても、ユウリスの視線は義母から外れない。


「いまのはどういう意味だろう……」


 あるいは実の母子であれば気持ちも通じるのであろうか――そんな無意味な妄想を振り払うように、ユウリスは首を横に振った。漠然とした不安の答えを求めて、師であるウルカに意識を向ける。


 しかし弟子に意見を求められた彼女は、興味なさげに瞼を落とした。


「さあな。フォースラヴィルはヌアザの国境に近い。公爵夫人は、ヌアザの王族出身だろう。なにかあれば、ノドンスの王室を頼れという意味じゃないか?」


「ノドンスってヌアザの首都だよね。ウルカの嫌いな場所だ」


「私は奴らがいうところの異教徒だからな。ダーナ信仰の本拠地とは、相性が悪いだけだ」


 レイン公爵邸が遠ざかると、ユウリスは手の中のストールに視線を落とした。青い毛糸、ほつれや汚れもない新品だ。グレースは編み物をしている姿が、これまでにもなんどか目撃していた。しかし自分のために手ずから用意してくれたというのは、にわかに信じ難い。


 そこにひょこっと、サヤが顔を覗かせた。


「おにいちゃん、どうしたの?」


「ううん、なんでもない。馬車、はじめてなんだよね。乗り心地はどう?」


「すごい、ごとんごとんってゆれる! ごとんごとん! ごとんごとん!」


「丘の道は整備されていないから、けっこう揺れるんだよね。お尻が痛くなるかも。毛布を畳んで、下に敷くといいよ。はい、どうぞ」


「ユウリス、私の分も」


 ユウリスは畳んだ毛布をサヤに渡して、ウルカには置いてある場所を教える。悪態をつく師を無視して、少年は車から御者台に顔をだした。


 手綱を握っているのは、樹脂液で口髭を固めた中年の男――ブリギット市警察のジェイムズ・オスロット警部補だ。普段の警官服ではなく、簡素な旅装姿で、腰には長剣を携えている。


 馬車が揺れるたびに恰幅の良い身体を揺らす彼は、ユウリスの顔を見るなり不愉快そうに毒づいた。


「なんの用だ、ユウリス・レイン。御者ぎょしゃを引き受けはしたが、お前と馴れ合うつもりはないぞ!」


「嫌がるウルカを説得してまで誘ってあげたのに、その言い草? 感謝のひとつくらい、してもいいと思うけど。そんなんだからいつまでも昇進できないんだよ、オスロット警部――あ、間違えた、警部補」


「私を侮辱するか、この忌み――っ!?」


 そこで不意に、車体が大きく揺れた。馬がなにかに驚いたようで、車内に積まれた荷物が音を立てて崩れる。それでもサヤの楽しそうな声とウルカの舌打ちを聞く限り、大した被害はなさそうだ。


「気をつけてよ、警部補」


「う、うるさいわい。いちいち警部補と呼ぶな、鬱陶しい! なんだったのだ、いまのは……べつになにもおらんようだが」


「じゃあオスロットで」


 ユウリスがオスロットの傍らに腰を下ろすと、背後からウルカの薄い笑みが聞こえた。なんだろうと振り向く弟子に、師は思わせぶりな眼差しを返すばかりだ。


 馬車は丘を下り、ブリギット市街地に入った。


「繁華街を通るぞ。後ろで大人しくせんでいいのか?」


「俺に隠れる理由はない」


 豊穣国ブリギット、首都ブリギット市。その面積は広大で、郊外に抜けるだけでも鐘が一つ分では足りないだろう。


 活発に人の行き来する繁華街に入ると、御者台に座るユウリスは悪目立ちした。金髪か赤毛が一般的な地域において、黒髪の少年は特別な意味を持つ。街の住民たちから注がれる眼差しは冷たさと哀れみと、あるいは無関心に満ちていた。


「みんなが俺を見ている。ずっと、こんな目に晒されてきた。蔑む目、怖がる目、嫌う目、怒った目。そのどれよりも、いまは無関心のほうが多いかもしれない」


 淡々と語る少年を横目に、オスロットは荒い鼻息で口髭を揺らした。なぜ市民がユウリスに厳しい目を向けるのか、それは語るまでもない。


 彼は、公爵の不義によって誕生した子供だ。ブリギットにおいては珍しい黒髪で、目つきの陰険さも印象を悪くしている。


 そして最も重要なのは、この少年の出生にまつわる逸話だ。この街に住む誰もが恐れている、忌み子の凶事と呼ばれる災いの噂。


「お前はみ子のユウリス・レイン。呪われた子供だ。嫌われないほうがおかしかろう」


「忌み子……その呼び名に、俺は人生を狂わされてきた」


 父であるセオドア・レインに抱かれてブリギットを訪れた日を、乳飲ちのみ子だったユウリスは覚えてない。


 だが望まれない赤子が豊穣国の首都に入った夜、すべてが狂いはじめた。


 教会の杯から黒い水が溢れ、聖書がひとりでに燃え上がるという災いが起きたらしい。その真偽すら定かではない噂は、瞬く間に街中へ広がった。やがて一連の禍事は忌み子の凶事と呼ばれ、十五年が経過した現在も語り継がれている。


「その不吉な出来事が本当にあったとのだしても、俺には関係ない。ずっと忌み子の噂に翻弄されて続けてきた。もう、うんざりだ」


「嫌味のつもりか。言っておくぞ、ユウリス・レイン。私がお前の味方をすると思ったら大間違いだ。サイモンは消えた。忌み子の呪いに巻き込まれたに違いないのだ!」


「サイモン・ウォロウィッツ司祭だね。忌み子の凶事を目撃した、ただ一人の証人」


 忌み子の凶事に遭遇した、ひとりだけ目撃者――サイモン・ウォロウィッツ司祭は、オスロットの親友だ。彼は一連の災いを協会の上層部に報告した直後、神を冒涜ぼうとくする印や文字を残して行方をくらませた。巷では、忌み子に呪われて人知れず命を落としたのだと囁かれている。


 しかし最近になってユウリスは、サイモンが生存しているという手がかりを掴んだ。


「それもじきに、ぜんぶはっきりする。俺も知りたいんだ。忌み子の凶事は本当に存在したのか。どうしてウォロウィッツ司祭は姿を消したのか。オスロットも同じ気持ちだと思ったから、この旅に呼んだ。なにが真実でも、受け入れるよ。貴方にも、そうしてほしい」


「わかっとるわい。しかしガブリフ議員を疑うわけではないが、未だに信じられん。あいつがブレグ村なんぞという、聞いたこともない田舎で司祭を続けているとは……しかも名前まで変えておるとは、いったいどういうつもりか」


「本人に会えば、それもわかるよ」


 情報によるとサイモン・ウォロウィッツはジョエル・ヘルバーグと名を変えて、現在も司祭を続けているらしい。彼が住んでいるブレグ村は、療養地フォースラヴィルの隣に位置している。


 ユウリスとオスロットは、この旅でサイモンから真相を聞きだすつもりだ。なぜ行方をくらましたのか、そして忌み子の凶事は本当に存在したのか、その答えを彼だけが知っている。


 難しい顔のオスロットは、噛み切れなかった肉を吐き出すかのように息を吐いた。


「ユウリス・レイン、ひとつだけ頼みがある」


「警部に戻せって話なら、忌み子の力を過信しすぎだと思うよ」


「真剣な話だ。本当にサイモンなのかどうか、最初に私が確かめたい。もし本人だとしても、逃がすような真似はせん。あとはお前の好きにやるがいい」


 オスロットの眼差しは、遥か遠くに向けられていた。それは物理的な距離ではなく、記憶の彼方を見ているようで、十五年前に別れた親友に対する複雑な感情が見て取れる。


 無言で頷いたユウリスは、それ以上はなにも言わずに車内へ戻った。闇祓いとして連日の対応に追われていたウルカが、眠たげに目を擦りながら弟子を一瞥する。


「あの男と口を利くと、小便垂しょうべんたれがうつるぞ」


「それ、学校のいじめみたいだからやめて。でもウルカ、珍しく本当に疲れているみたい。野営地に着いたら起こすから、少し休んでよ。そういえばいまさらだけど、≪ゲイザー≫が街を離れることを父上は許してくれたの?」


「≪ゲイザー≫を買い被りすぎるな。ウィッカと教会が手を結んだ以上、私にできることは多くない。お前に随行するのは公爵も承知しているし、師としての役目でもある。だから気にするな。それと着いても起こさなくていい。夕食の準備ができてから呼んでくれ」


 そう言い残して、ウルカは膝の隙間に顔を埋めた。どんな場所でも眠れるのは、世界中を旅してきた彼女の特技なのかもしれない。


 手持ち無沙汰になったユウリスは、サヤと向き合って雑談に花を咲かせた。


 市街地を抜けて郊外に出ると、近代的な煉瓦の建物は木造住宅に様変わりする。屋根の瓦が姿を消し、代わりに瓦葺が目立つようになると、もはや都市の色はない。


 風の匂いも土を帯び、田園の長閑のどかな景色を馬車はのんびりと進む。ブリギット市から伸びる西街道を神聖国ヌアザ方面に辿り、やがて黄昏が空を紅く染める頃――旅人用の野営地に辿り着いた直後に、事件は起きた。


「おにいちゃん。ばしゃのした、だれかいる」


 先に馬車から降りたサヤが、不思議そうに目を瞬かせた。遅れて荷台から飛び降りたユウリスが、好奇心旺盛な少女を背中に庇って身構える。


 すると車体の下で、二つの人影が動いた。


 もぞもぞと窮屈きゅうくつそうにうごめく気配。


「もう最悪、この服お気に入りだったのに!」


「洗うのを手伝うよ、すぐそばに川が見える」


 馬車の下から這い出てきた姿を目にして、ユウリスはあんぐりと口を開いた。


 癖の強い金髪、埃だらけの服、重なる似た声帯の音――レイン家の双子、ドロシーとエドガーだ。二人は悪びれた様子もなく、やっほー、あるいは、やあ、と揃って片手を上げた。


「あたしたち家出したの。というわけで、いっしょについてくから!」


「よろしくね、ユウリス。まずは着替えを貸してもらっていいかな?」


 きょとんとするサヤ。


 予期せぬ来訪者に顔をしかめるオスロット。


 ウルカは相変わらず、静かにまどろんでいる。


 そしてユウリスは祈るように、頭上を仰いだ。誰かの手紙を届ける白い鳥――ワタリガラスの鳴き声が、茜色の空に虚しく響いていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る