10 街角の異境

「ユウリスの可愛さに免じて、運河に流れ着く四肢の秘密を教えてあげる。目的地も近いし、さくっと話すわね」


 セント・アメリア広場はブリギット市街地の中心だ。東西南北に幅の広い大通りが敷かれ、その沿道は繁華街として栄えている。


 二人は富裕層ふゆうそうの住む西区に足を向けた。普段は淑女しゅくじょが優雅にすれ違う街並みも、雪に呑まれて人気はない。商売人も早々に閉店を決め込んでおり、まるで安息日の静けさだ。


 人差し指をぴんと立てたカーミラの声だけが、溌剌はつらつと抜けていく。


「まず、流れ着いた手足だけど――あれ、本物じゃないのよ」


 えっ、と思わず瞠目どうもくする少年の反応は期待通りで、カーミラは満足げに頬を緩めた。そんな彼女の鼻先に落ちた大きな綿雪を、ユウリスが指で払い落とす。二人は同時に吹き出して、肩を揺らした。


 しかし疑問は未だ晴れない。問答は続く。


「でも事件性のある死体として扱われたのなら、検死にまわされているはずだ。どれだけ精巧で素人をだませても、医者をあざくのは難しいんじゃないかな?」


「わたしもそう思うけど、署長の反応を見る限り、まだ警察は本物だって信じ込んでいるみたいね。運河の死体って水を吸って膨張するから原型も留めていないし、魚類に食い荒らされて状態も悪いのよ。だから検死も、身元に繋がる特徴がないかを確認する程度だって聞いたわ」


「そんな本物に近い状態の偽物なんて、どうやって作れるんだよ?」


「材料はカスランの粉末、ヤームの根、黒蜂草くろはちくさの繊維、小麦粉、粉糖ふんとう。他にも特殊な薬草が、いくつか必要よ。仕上げに着色料とか、樹脂液、ろうも使うわね。でも首と胴体は作るのが難しいから、流れ着いたのが手足だけだったんじゃないかしら」


 あっさりと答えたカーミラは、視線を明後日あさっての方向に投げて唇を歪めた。急によそよそしくなる幼馴染の態度に、ユウリスは疑惑の眼差しを向ける。


「まさか、ぜんぶカーミラの仕業じゃないよね?」


「ああ、違う……とも、言い切れないのよ。もしかしたら材料は、わたしが手配したのかもしれない。それを、確かめに行くの。ここよ、ユウリス」


 カーミラが足を止めたのは、高級店が連なる歩道の途中だ。輸入雑貨を専門に扱う店と、ダグザの名店で修行した菓子職人の店の中間――建物同士の隙間は人が抜けられる幅ではなく、猫でも通るのはきつそうだ。


 瞬くユウリスに顔は向けず、カーミラは僅かな空白に人差し指を掲げた。


「すぐに戻るから、少し待っていてちょうだい。勝手に帰ったら、承知しないわよ」


「戻るって、どこに行くつもり?」


「ごめんなさい、説明はできないの。でも時間はかけない。わたしが帰ってきたら、冒険のはじまりよ。留守にしていた分、きっちり付き合ってもらうから覚悟なさい。じゃあ、ちょっと行ってくるわね」


 そうして肩越しに振り向いたカーミラは、ぎょっと顔を強張らせた。同時にユウリスも、背後に生まれた新しい気配に目を見開く――間違いなく、一瞬前までは誰もいなかったはずの場所に、ひとりの少女が佇んでいる。


「私たちの世界は、日常の空隙くうげきに存在する」


 その自信に満ちあふれた凛々しい声の主を、ユウリスは知っている。


「誰も手を伸ばさないけれど、すぐそばにある異境いきょう。踏み出しても辿り着けない、不可侵領域ふかしんりょういき。誓約を交わした者達の社交場。男子禁制、淑女たちの庭園」


 波打つ金色の長い髪、鋭い光を宿した碧い瞳。艶やかな唇に人差し指を立て、少女が歌うように紡ぐ。


 堪えきれずに身体の向きを変えたユウリスは、彼女の名を呼んだ。


「イライザ!」


 ユウリスにとっては腹違いの義姉あね。レイン家の絶対的な長姉。ブリギットに知らぬ者のいない才媛さいえん――イライザ・レインが、知られざるもうひとつの顔で嫣然えんぜんと笑う。


「ユウリス。魔女横丁は、あんたを歓迎するわ」


 刹那、ユウリスは不思議な浮遊感に襲われた。内臓が口から飛び出してしまいそうな、重力の反転。視界が真っ暗に染まり、全身から力が抜けていく。底なしの泥沼に落ちる感覚。息の詰まるような、無空の世界――引き伸ばされた時間が、不意に収束する。


「――――ッ!?」


 深い水底から追い出されたように、ユウリスはハッと意識を取り戻した。


 いつの間にか止めていた呼吸を再開して、肺に酸素を取りこむ。目は涙で霞み、視界がぼやけて、自分の状態は判然としない。白昼夢にうなされて、浮き足立つような錯覚。徐々に景色が輪郭りんかくを帯びはじめると、あらわになるのは見慣れない街並みだ。


 イライザの言葉が、脳裏によみがえる。


「魔女横丁」


 石畳が敷き詰められた商店街。


 軒先の看板に文字はなく、草や鍋、ほうきや杖の模様が描かれている。どこからともなく芳ばしい臭いが漂い、宙を抜けていくのは色のついた風。馬車道はなく、幅広い歩道の中央には花壇と長椅子が並んでいる。植物は冬でも色鮮やかに花を咲かせ、空から舞う白い結晶も変わりない。


 通りを行き交うのは、多種多様な動物の仮面で素顔を隠した女性たち。怪しげな色に満たされた小瓶を交換し、あるいは指先で宙に光の魔方陣を描いて何かを囁きあう――想像していた魔女の世界が、目の前に広がっていた。


「ユウリス」


 呼ばれて振り向くと、イライザが佇んでいる。青いドレスと毛皮の身を包み、魔女の作法とでもいわんばかりに彼女も仮面を纏っていた。施された意匠は、金色の竜。そして並び立つカーミラも、赤いつばめの仮面で目元を覆っている。


「ユウリス、ごめんなさい。こんなはずじゃなかったのに」


「謝る必要はないわ、カーミラ。私は最初から、このつもりだったから」


 傍若無人ぼうじゃくぶじんな態度を隠そうともしない義姉に頬を引きつらせながら、ユウリスは改めて視線を巡らせた。空想の世界が目の前に広がる一方で、本当に魔女の世界に足を踏み入れたという実感は、未だに沸かない。


「こんな街中に魔女の拠点があるなんて思わなかった」


 教会法は魔術師を厳しく管理しており、許可証を持たない魔女は異端者として扱われている。認可を得るには教会の修道女となるか、軍属の宮廷魔術師となるほかに道はない。つまりここにいる彼女たちは全員が異端者で、警察に捕まれば問答無用で縛り首になる運命だ。


 ユウリスは呆然と魔女横丁に視線を巡らせた。


「でも、ここは行き止まりの街なんだ……どこからも入れなくて、どこにも行けない。魔女たちの安全地帯。教会の異端審問官いたんしんもんかんも、警察も立ち入れはしないから」


 魔女横丁には、はじまりと終わりが存在しない。別の場所に抜ける道がなく、店舗内に裏口でもなければ出入りは不可能だ。四方八方は商店で完全に囲まれており、建物同士の隙間には指も入らない。


 ユウリスの呟きを、イライザが肯定する。


「ここは中央区の一区画を魔術で歪め、外から覆い隠した神秘の要塞。人為的な異界と言い換えても差し支えないわ。時の魔女が大洪水後の都市再生計画に紛れて創造した、ウィッカの箱庭。女魔術師会ゴスペル・オブ・ザ・ウィッチクラフトの聖地よ。ようこそ、≪ゲイザー≫ユウリス・レイン」


「さっき男子禁制って聞こえたけれど?」


「例外的に客人も呼ぶわよ。魔女の儀式に、男が生贄に捧げられるのは定番ですもの」


「俺を生贄いけにえに?」


「鍋で煮るのと、胸にウィッカの焼印を押すの、どっちにしようかしら」


 ウィッカ。正式名称ゴスペル・オブ・ザ・ウィッチクラフト。女魔術師たちの組織。具体的な活動内容までは把握していないが、カーミラがウィッカの一員であるのはユウリスも承知している。そしていま、もうひとつ新たな事実が判明した。


「つまりイライザも魔女なのか?」


「ええ、その通りよ。私はウィッカを束ねる三盟主のひとり。こんな事態に陥らなければ、死ぬまで明かさずに隠し通していたでしょうね」


「カーミラは、知っていたの?」


 水を向けられたカーミラは両手を掲げて、待って、と姿勢で示した。ユウリスと同様に、状況に思考が追いついていない。魔女横丁には、ひとりで来るつもりでいた。イライザからは事前になにも聞かされておらず、彼が招待を受けた理由も判然としない。とにかく誤解を解こうと頭を働かせるが、他の気掛かりが先に立つ。


 ため息を吐いたカーミラは、傍らのイライザを見上げた。


「イライザお嬢様。ユウリスは誓約を果たしていないのに、こんなにいろいろと教えてよろしいのですか?」


「私の権限で、ユウリスは賓客扱い。だから誓約の対象外よ。そうでなければ部外者を魔女横丁に招いた時点で、私におきて破りが発動しているはずでしょう」


「そういうことなら……」


 ようやく納得したカーミラは、胸を撫で下ろしてユウリスに向き合った。それでも彼の家族に関する秘密を抱えていた後ろめたさから、煮え切らない態度は変わらない。


 見兼ねたイライザが、手をひらっと振って先に口を開いた。


「ウィッカの一員として認められるには、ある条件を満たした誓約の儀式が必要なの。それは魔女の掟であり、破ってはならない不文律。カーミラが好きであんたに秘密を持つわけがないでしょう。この娘は魔女の作法に従い、口を閉ざしていただけよ」


「魔女の作法――それが、誓約の儀式?」


「要は誓いを守れば得をするけれど、破れば損をするって感じの儀式魔術だと考えなさい。例えば魔力を上げる目的で、二度とオーモンの実を食べないという誓約を立てたとするでしょう。儀式が成功した瞬間、魔力の上限値は向上する。でも決まりを破ってオーモンの実を食べてしまったら、得た分とは比にならないほどの魔力を失うってわけ」


 なるほど、と得心するユウリスの様子に、カーミラの不安も少しだけ和らぐ。本来ならば自分が説明すべき状況だと、彼女はイライザに目配せをして続きを引き継いだ。


「ユウリス、ウィッカへ入会するために必要な誓約はふたつよ」


 ひとつ、魔女横丁の存在を他言してはならない。

 ふたつ、他の魔女について他者に明かしてはならない。


「この二つを守れば、ウィッカの一員として認められる。自由に魔女横丁へ出入りして、ここに並んでいる魔術に関わる専門店を利用できるの。でも破れば、裏切り者として相応の制裁を受ける。イライザお嬢様、これでいいかしら?」


「七十点ね。残りの三十点を補足したいところだけれど、長々とデートの邪魔をするほど野暮やぼじゃないわ。運河の件なら私にも関係があるし、急いで済ませましょうか。着いてきなさい、お茶会の準備は万全よ」


 ドレスの裾を翻し、イライザは歩きはじめた。髪や肩にかかる雪を払う仕草は優雅で、遠巻きに熱い視線を投げかける魔女も少なくない。


 先導する盟主の後を追いながら、カーミラはユウリスの手に触れた。抵抗がないのを確認して、弱々しく指を絡める。


「イライザお嬢様のこと、ずっと黙っていてごめんなさい。ウィッカの誓約は、どうしても破れないの」


 首を伸ばして、カーミラは意中の少年をそっと覗きこんだ。罪悪感に瞳を揺らして、許しを請う。


 ユウリスは努めて明るい声で応え、首を横に振った。


「気にしてないよ。でも、こんなにいろいろと俺に話して平気なの?」


「イライザお嬢様に賓客ひんきゃくとして認められている内は大丈夫。でも帰るときには、他の魔女と同じ誓約をしなくてはいけないと思うわ。痛かったりはしないから、安心してちょうだい。あの、それはそれとして、なんだけど……」


 カーミラの表情が、再び曇る。首を傾げる少年に対し、やっとの思いで紡ぐのは複雑な乙女心だ。恋という魔法は情熱と活力を漲らせる一方で、嫉妬や喪失の恐怖を与えもする。


「わたしが隠し事をしたからって、ユウリスにも同じようにはしてほしくはないの。収穫祭のことで怒っちゃったけど、ちゃんと話してくれたのは嬉しかった。なにも知らずにいたら、自分がいない間にあなたがどう過ごしていたのか、とても不安だったと思うから」


 彼女がこぼす心情に、ユウリスは頷きながら耳を傾けた。繋いだ手に力を込め、指を擦り合わせる。普段は勝ち気な幼馴染が、ときおり垣間見まいまみせる弱さ――それがなぜだか、とても愛おしい。


「俺だって、≪ゲイザー≫に関わる秘密はあるよ。ウルカとの約束でカーミラには話せないけれど、後ろめたい隠し事じゃない。それといっしょだと思う」


 誰にでも人生があり、すべてに手は届かない。気持ちが通じても、理解が及ばない世界はある。そう教えてくれたのは、大人ぶった猫の妖精だ。異なることわりに生きていても信じ合えると、ユウリスは知っている。


「だから話してもらえないからって、仕返しなんか絶対にしない。裏切られたなんて思わないよ。いまさらカーミラを疑ったりするもんか」


 ユウリスの真摯な姿勢は、カーミラの胸から影を消し去った。幸せそうにはにかむ少女に、少年も相好を崩す。仲睦なかむつまじく寄り添う二人を肩越しに眺め、イライザはまぶしそうに目を細めた。


「あんたとカーミラを見ていると、なんか恋愛したくなるわね」


「イライザが恋人なんて連れてきたら、家のみんなはどんな顔をするだろうね。父上は意外と、落ち込みそう。アルフレドは関わらないだろうし、エドガーとドロシーは質問攻めかな。義母はは上とヘイゼルは……想像もつかない」


「あんたは、どんな顔するの?」


「え、そうだな……こんな顔」


 得体の知れない物体を目にした気分で表情を歪めるユウリスに、カーミラが思わず吹き出した。当のイライザは気にした様子もなく、余裕で小さく鼻を鳴らす。


「まあ、だいたいあんたの予想通りになるでしょうね。だから私は、そういう反応にならない男を選ぶわよ。予想の斜め上をいってこそのイライザ・レインだと自負しているわ」


 やがて三人が辿り着いたのは、看板に時計の模様が描かれた店の前だった。


 先頭のイライザは扉を開く素振りは見せず、軒先の前で立ち止まる。彼女は両腕を振るい、光る指先で戸板に魔方陣を描きはじめた。


「ユウリス、授業で習った魔女の歴史は覚えていて?」


「試験で落第しない程度の知識ならね。教会法は魔術の私的な使用を禁じているから、無所属の魔女は違法な存在だ。世の中で正規に認められている魔術師は二種類。ひとつは教会の総本山に所属する法術師ほうじゅつし。それから各国に召抱えられている宮廷魔術師。それ以外はぜんぶ違法。合ってる?」


「補足してあげる。水と風の時代、独自の奥義を確立した女性の魔術師たちは黄金期を迎えた。けれど鉄と火の時代、嫉妬に駆られた男たちは世論を誘導して魔女狩りを正当化、暗黒の歴史が幕を開ける。そして時は流れ現代、竜と鋼の時代。しいたげられた女魔術師たちは男社会と無縁の楽園を志し、秘密組織ゴスペル・オブ・ザ・ウィッチクラフトを結成した。これが魔女の歴史と、ウィッカの成り立ち」


「ウィッカは具体的に、なにを目的にした集団なの?」


 ユウリスの質問に、イライザが肩越しに振り向いてカーミラへ目配せした。赤毛の少女は頷き、こほん、と咳払いをして女魔術師会の意義を説明する。


「魔女の保護、発展、独立、そして世界に満ちる魔力と摂理せつりの安定を司る、それがウィッカの本懐よ。ユウリスはイルミンズールを知っているかしら?」


「オリバー大森林の妖精世界にある、でっかい樹」


「さすがね。あれは大陸の結界を維持するくさびなの。わたしたちウィッカの本拠地がブリギットに置かれているのは、イルミンズールの保存と守護を最優先事項として掲げているからよ」


「でも、イルミンズールは――」


「ええ、枯れはじめているわ。それも異常な早さで。ウィッカの盟主に名を連ねる古い魔女は、神話の時代に交わされた約束が終わろうとしている証だと言っているの」


「神話の時代の、約束……?」


 ここ最近、ユウリスは多くの伝承に触れる機会を得ていた。


 オリバー大森林の眠る聖人の真実。聖女と邪竜の逸話。いままで御伽噺のように紡がれていた物語の数々が、急に現実味を帯びても実感は伴わない。


 そんな義弟の憂いを感じ取り、イライザが笑った。


「イルミンズールに関していえば、あんたが心配する必要はないわ。腐敗ふはいがはじまったとはいっても、神々の時間は人とは違うもの。この大陸に最後の決断が迫られるのは、いまから何百年も後になってからよ――さぁ、扉を繋げたわ。いらっしゃい」


 魔術の刻印が刻まれた扉が眩く輝き、戸板が消えて光の道が奥に伸びる。イライザは颯爽さっそうと真っ白なきらめきに足を踏み入れ、カーミラも当然のようにユウリスの手を引いた。


「魔女の世界は、理屈じゃないのよ。心が迷うと、魔術が悪戯をするかもしれないわ。ユウリス、手を離さないで」


 二人は目を細め、閃光に身を投じた。ふわりと身体が軽くなる浮遊感は、底なし沼に落ちていくような不安に似ている。


 繋いだ手を強く握り締めたユウリスは、優しい白の世界で目を見開いた。眩しいはずが、目は痛くない。やがてブーツの底が土と草の感触を踏み、景色が浮かび上がる。


「ここは……?」


 白い綿雪は深々と降り注いでいるが、地面に触れると同時に消えてしまう。よく手入れされた芝生の広がる、聖堂の中庭だ。周囲は吹き抜けの回廊に囲まれ、正面には鐘を頂く本殿がそびえている。しかしダーナ神教の印はなく、代わりに掲げられているのは線が複雑に入り組んだ六芒星ろくぼうせい――ウィッカの印だと、背後からイライザの声。


「さぁ、お茶を飲みましょう。チョコレートチップのクッキー、あんた好きでしょう。ちゃんと用意してあるわよ」


 ユウリスが振り向いた先に、藍色の四阿あずまやが佇んでいた。壁面はなく、六角形の屋根は雪化粧に覆われている。銀の円卓には茶と菓子が用意されており、椅子は四つ。内、二つはすでに埋まっていた。ひとりはイライザ、もうひとつは白いふくろうの仮面を被ったふくよかな老婆が座している。


 背筋を伸ばしたカーミラは、うやうやしく礼をった。


「ご機嫌よう、叡智えいちの魔女。お初にお目にかかります、わたしは火燕ひえんの魔女と申します」


「ありがとう、火燕の魔女。でも堅苦しい挨拶はよしましょう。せっかくお茶を淹れて、クッキーも焼きたてなのだから。隣にいるのが、噂の男の子ね。ようこそ、運命の子。ウィッカは貴方を歓迎するわ。さぁ、座ってちょうだい。あたしは男の子が食べる姿が大好きなのよ」


「ありがとうございます。俺はユウリス・レイン……って、普通に名乗ってもいいんでしょうか?」


 本名を名乗らないのが魔女の流儀であれば、自分にも二つ名が必要なのだろうか――そんな心配をする少年に、叡智の魔女は上品に声を震わせた。いいえ、と老婆は首を横に振り、二人に着席を促す。


威張いばった二つ名で呼び合うのは、魔女の慣習よ。でも遊びみたいなものだから、気にしないでちょうだい。ウィッカの誓約が結ばれていなかった昔は、互いの素性を隠すために本名は避けていたの。その名残なごりね」


「ちなみに、イライザはなんて名前?」


「彼女は至竜しりゅうの魔女。いまの世代を代表する、優れた術者よ。でも、貴方を混乱させてはいけないわ。みんな、普通に名前で呼びあいましょう。あたしは、マーサ。イライザさんと同じ、三盟主のひとりよ。見ての通り、もう老い先短い年寄りだわね」


 着席したユウリスに、マーサと名乗った叡智の魔女が温和に表情を和ませた。


「孫が遊びにきてくれたみたいで、なんだか嬉しいわ」


 湯気の立つティーカップを前に、カーミラは緊張気味に背筋を伸ばしている。イライザが手ずから大皿のクッキーやカップケーキを小皿に取り分け、全員に配るのをユウリスは不思議そうに眺めた。


「イライザが、自分から他人の世話を焼くなんて……」


「家であんたにやらせているのは、どこに出しても恥ずかしくないようにっていう姉心よ。むしろ私に奉仕できることを喜ぶべきね。クッキーとケーキはマーサおばあさまが作ってくださったのよ。滅多に食べられないんだから、彼女と幸運に感謝しなさい」


 マーサが、いただきましょう、と合図をして、不思議なお茶会がはじまる。女神に捧げる食前の祈りがなく、いただきます、という一般的な言葉が重なるのみだ。


 小麦と牛乳が織り込まれたようなクッキーの生地はさくっとこうばしく、散りばめられたチョコレートチップの甘さにユウリスは目を丸くして感動した。


「美味しい!」


 直情的なユウリスの感想にカーミラが微笑ほほえんで同意し、マーサは嬉しそうに相好を崩した。イライザだけは、成人した男が子供のように目を輝かせて、と呆れたように眉をひそめるが、先達である叡智の魔女の手前、小言は控える。代わりに紅茶で唇を湿らせ、場を引き締めるように本題へ切り込んだ。


「それじゃそろそろ、ユウリスを呼んだ理由を説明しましょうか。単刀直入に言うわ、ユウリス。あんたはウィッカと協定を結びなさい。いずれ来たる禍々しき波に対して、私たちと共に立ち向かうのよ」


 ユウリスは反射的に隣のカーミラを盗み見るが、彼女も困惑を表情に乗せている。どうやら幼馴染の少女は義姉あねの企みに加担していないと判断して、闇祓いの少年は姿勢を正した。


「ちゃんと説明してくれ、イライザ。禍々しき波なんて俺は知らないし、くだらない駆け引きをするつもりもない。けれどブリギットを守りたい気持ちがいっしょなら、協力はできる」


 そこまで口にしてユウリスは、ウルカと交わした約束を回顧した。


「ブリギットを守りたい気持ち……」


 ブリギットで続く怪事件の元凶、その容疑者は六人に絞られている。余計な混乱を避けるため、確証が得られるまでは候補者の名前を口外しないというのが師弟していの取り決めだ。


 しかしいまこそ向き合うときだと感じて、ユウリスは自ら禁を破る。


「俺は、事件の黒幕がイライザだって可能性を疑っている」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る