09 盤上のエピタフ

 署内に足を踏み入れたユウリスは、署員からの様々な視線に晒された。


 敵意や悪意、憐憫れんびんや同情。


 居心地の悪さに息を詰まらせた少年を守るように、傍らの白狼が睨みを利かせる。


 ファルマン警部は肩を怒らせて先頭を歩いた。線の細い彼の背中は頼りないが、ユウリスの心は僅かばかり軽くなる。無論、相棒に対する信頼は揺るぎない――が、そこで予期せぬ事態に見舞われた。


 どこからともなく駆けつけた数人の女性署員が、黄色い悲鳴を上げて魔獣に群がりはじめる。


「白狼様、本物の白狼様よ!」

「結婚したい、お金持ちと結婚したい!」

「ああ、なんでもいいから良いことがありますように!」

「白狼様可愛い!」

「白狼様!」

「白狼様!」

「白狼様!」


 瞬く間に、北の魔獣は女性陣の波に呑まれてしまった。商売繁盛、恋愛成就、無病息災、交通安全、白狼に祈れば叶わぬ願いはないと実しやかにささやかれるブリギットの都市伝説。


 その凄まじさにユウリスは目を点にして、ファルマン警部もぶるっと身体を震わせる。


「ユウリス様、白狼様を助けなくてよろしいので?」


「いや、あそこに手を伸ばすのはちょっと……」


 逃げ出そうとした白狼だが、眼前にオーモンの実を置かれると動きが止めた。ブリギットの冬市場には出回らない商品のはずだが、生産地の南国ルーから取り寄せた品だと女性署員のひとりが豪語する。


 相棒の目が泳ぐのをユウリスは見逃さない。


「クラウ、あとで迎えに来るからね。ちゃんと大人しくしているんだよ」


「よろしいのですか、ユウリス様?」


「まあ、オーモンの実を取り上げるのは可哀想だよ。クラウのああいうとこ、ちょっとウルカに似ているんだよね」


 食い意地の張った野蛮人と同列に扱われ、クラウは衝撃のあまり口を大きく開けて硬直した。その隙を見逃さず、女性署員たちが幸運を得ようと毛並みに手を伸ばす。


 意気消沈の相棒に手を振り、ユウリスは背を向けて歩きだした。そのまま地下の留置場に向かうものだと思い込んでいたが、案内役のファルマン警部が足を向けた先は上層だ。


 階段を上がり、警察署の最上階に辿り着く。


「あの、カーミラはどこに?」


「署長が直接、お相手を」


「うわ、連行されたのに待遇がすごい……」


 所長室に続く通路は人気がない。普段は女性の事務員が忙しなく働いているが、彼女たちの大半は白狼目当てに階下へ降りている。


 突き当りを曲がったところで、ファルマン警部は急に足を止めた。


「ファルマン警部?」


 ユウリスは顔を覗かせ――そして思わず、げっ、と喉の奥で呻いた。


 廊下に佇む、二人の男女。


 片方は恰幅かっぷくの良い、赤毛の中年男性だ。肩紐で下げられたつなぎの胸元には、ブレイク商会の文字が躍る。彼はしかめ面で腕を組み、たくわえた口ひげを鼻息で揺らしていた。


「ファルマン警部、ようやくユウリス・レインを見つけたのか。どれだけ待たせる!」


 ファルマン警部は背筋を伸ばし、無言で敬礼した。


 逃げ出したい衝動に駆られるユウリスの動きを、もう片方の女性が鋭い視線で縫い止める。


 燃えるような赤毛の淑女だ。髪と同じ色のドレスと毛皮の外套がいとうを身にまとい、閉じたおうぎを手のひらに弾ませる。彼女は上品な声で、有無を言わせぬ女帝の言葉を紡いだ。


「下がりなさい、ファルマン警部。あとはわたくしが引き継ぎます。ユウリス・レイン、ご苦労様。いらっしゃい、よく顔を見せて。お前に会うのは、ずいぶんと久しぶりだわ」


 呼ばれて、ユウリスは背筋が凍るのを感じた。指示されるまま踵を返すファルマン警部の袖を掴み、必死の形相で訴える。


「ファルマン警部、一人にしないで!」


「無理です。ごめんなさい、ユウリス様!」


 額にびっしりと汗を浮かべたファルマン警部が、足早に立ち去る。


 残されたユウリスは、ぎこちなく視線を前に戻した。


 赤毛の女帝が、悠然と待ち構えている。カーミラの母にして、ブレイク商会の女主人――ベアトリス・ブレイク。


 傍らにいる赤毛の中年男性はカーミラの父親、入り婿のエドモンド・ブレイクだ。


 ユウリスは足が動かず、その場で会釈えしゃくした。


「奥様、旦那様、お久しぶりです。あの、ユウリス・レインです」


 はん、とエドモンドが鼻を鳴らし、ユウリスを睨みつける。


「なにが、ユウリス・レインです、だ。知っているわ、たわけ。お前のせいで、うちの可愛いカーミラが……カーミラが……カーミラが、最近は不良みたいになって!」


 青筋を浮かべるエドモンドの額を、およしなさい、と女主人の扇が小突いた。長身のベアトリスは夫よりも背が高く、優雅な所作しょさも含めて女帝の二つ名に相応しい。


「近くに来なさいと言ったのよ、ユウリス・レイン」


 彼女の言葉を二度も無視できる人間は、ブリギットに存在しない。ぎこちない動きで歩み寄ったユウリスのあごを扇でくいっと上向かせ、ベアトリスは顔を近づけた。


「馬上槍試合の話を聞いたわ。優勝おめでとう。それで、お前はカーミラを連れていくの?」


 ユウリスは今度こそ言葉を失い、身体を固くした。


 なんだそりゃ、とエドモンドが目を剝いて仰天する。ベアトリスは長い睫毛まつげに囲まれた瞳を喜色に染めて、紅い唇に妖艶ようえんを描いた。引いた扇を、口元で大きく広げる。


「わたくしも昔は、家を飛び出して世界を旅したのよ。その途中で夫に出会い、二人で商売をはじめたわ。実家の商会を呑み込んで、いまはこうしてブリギットに根を下ろしている」


 ユウリスは、カーミラとの約束を思い浮かべた。旅立つときには、彼女も連れて行く。ウルカを説得する必要はあるが、違えるつもりはない。ただ、それを眼前の女帝に告げるには勇気が必要だ。


 憤慨しているエドモンドを片手で制し、ベアトリスは目を細めた。


「もう一度、くわ。ユウリス・レイン、わたくしの娘を連れて旅立つの?」


 今度の声は幾分か柔らかい。


 いつの間にか止めていた息を吐き出して、ユウリスは力強く頷いた。これ以上は甘えるわけにもいかない。子の巣立ちに親が抱く気持ちの片鱗へんりんを、いまは少しだけ理解できる。許しの可否は別にしても、自分は女主人の大切な娘を預かる身だ。男として、真摯に応えるのが筋だとはわかる。


「はい、奥様。彼女の気持ちが変わらなければ、いっしょに連れて行きます。そう、約束しました。カーミラは、俺が守ります」


「及第点には程遠い回答ね。もう少し、あの娘を理解なさい。エド、帰るわよ。ユウリス、今回の我儘を許すと娘に伝えておいて。あとは、お前に任せるわ。カーミラをお願いね」


 おほほほ、と芝居じみた笑みを零し、ベアトリスが警察署の出口に歩きだす。しかしエドモンドの怒りは冷めやらず、廊下に雄叫びを響かせてユウリスを恫喝した。


「いや、待て、なんだ、旅って。聞いてないし、そんなの絶対に許さんからな。ユウリス・レイン、いまから決闘だ。娘は渡さんぞ、誰にもだ。カーミラがいなくなるなんて耐えられ――」


「エドモンド」


 ぴりゃりと、冷たい声。


 肩越しに振り向いたベアトリスが、夫を咎める。冬のせいではない寒さが周囲を包みこんで、ユウリスは恐怖から目を背けるように俯いた。頭上から、エドモンドの引きつった嗚咽が聞こえる。


 女帝は再び、繰り返した。


「エド、帰るわよ」


「あ、ああ、そうだな。いまの件は、家でゆっくり、その、話し合おう。い、い、い、い、命拾いしたな、ユウリス・レイン」


「ユウリス・レイン。お前も、わたくしに別れの挨拶をなさい」


 早く帰ってよ、と胸中で毒づきながら顔を上げたユウリスの前髪を掻き上げ、その額にベアトリスは口付けをした。奇声を上げて怒りに燃える夫の鼻先を扇で叩き、彼女は遊ぶように片目を瞑る。


「わたくしは毎晩、こうしてカーミラと夫にキスをするのよ」


 困惑する少年に注がれる女帝の眼差し柔らかい。


 ユウリスは何を返せばいいか、そもそも口を開いていいのかもわからず、呆然と佇むばかりだ。


 夫妻が背を向けた直後、ユウリスは全く無関係の事柄を口にした。


「あの、奥様。アーデン家がブレイク商会を訴えたって!」


「間違いよ、ユウリス・レイン。市を訴えたのは、南区の住人。原告団の背後で糸を引いているのがダグザの弁護団で、その資金源がアーデン家。けれど訴訟に発展する資料が鳥のように舞い降りた偶然を疑いもしないのだから、本当に可愛い坊やたちだわ」


 ベアトリスは振り向かず、おほほほ、と再びわざとらしい哄笑を響かせた。ユウリスから彼女の表情は窺い知れないが、エドモンドの恐怖に引きつった頬の動きを見る限り、悪魔のような顔をしているに違いない。


 女帝が扇を閉じる音が、力強く鳴り響く。


「反抗勢力とダグザに通じる売国奴が自ら飛び込んでくるなんて、冬にく火の魅力は侮れないわね。陪審員の前で急に証拠が使い物にならなくなったとしたら、アーデン家はどんな顔でわたくしを楽しませてくれるのかしら。公開裁判にするよう仕向けているから、お前も見学に来なさい」


「いや、俺は裁判とか、その、よくわからないので、辞退します……あの、これは聞かなかったことにしても?」


「賢明よ、ユウリス・レイン。ガブリフ議員とキャロット市長には充分に慌てふためいてもらわないと、真実味がないわ」


 ユウリスは哀れな議員と市長の幸運を女神に祈り、去り行く夫妻を見送った。


 二人の姿が見えなくなると、どっと疲労が襲い掛かる。そして肩を落としたまま辿り着いたのは、通路の奥にある小奇麗な署長室だ。


 紅茶とお菓子でもてなされていた未来の女帝は、ユウリスの姿を見るなり不機嫌そうに唇を尖らせた。


「遅いじゃない!」


「君のご両親に引き止められていたんだよ、カーミラ。署長、遅くなりました」


 するとカーミラの卓向かいに座る中年の男性が、両手を上げて忌み子を歓迎した。


「ああ、やっと来たか!」


 中年の男性――ブリギット警察の署長は、いまにも泣き出しそうなほどに目を潤ませていた。カーミラの相手に加え、ブレイク商会の女主人に責められていたのなら、頬が濡れていないのを評価すべきだろう。


「さあ、ユウリス・レインが来た! 名残惜しいがカーミラお嬢さんにはおかえりいただかなくては!」


 嬉々として立ち上がろうとした署長を、カーミラが引き止めた。


「ちょっと署長、まだ勝負がついていないわよ」


「もうカーミラお嬢さんの勝ちだ!」


「情けないわね、最後までやり抜きなさい」


 ユウリスを待つあいだ、二人は机を盤上遊戯に興じていた。縦八マス横九マスに区切られた盤面に、人や怪物を模した駒が並んでいる。赤いスカーフを巻いているのがカーミラの軍隊で、白いスカーフが署長の軍隊だ。


 覗き込んだユウリスは、ああ、と得心した。


「エピタフか」


 エピタフはダグザ発祥の盤上遊戯ばんじょうゆうぎだ。


 最大で十二個の手駒を互いに一手ずつ動かし、同じマス目に止まれば敵の駒を盤面から追放できる。各陣営にひとつだけ定められた王の駒を最初に排除した側の勝利だ。


 すでに署長の陣営は風前の灯となっており、カーミラの軍隊は白の王を包囲している。


 ユウリスは気の毒そうに眉をひそめた。


「カーミラは良い駒ばかり持っているから、普通じゃ勝てないんだよな」


 駒の種類は百以上も存在しており、動ける範囲や能力が異なる。


 駒の値段は子供の小遣いでも購入できる程度だが、中身のわからない袋に詰めて販売されているため、どの駒が当たるかは運任せだ。当然、資金力があれば購入できる数に比例して、良い駒を入手できる確率も高い。


 資産で勝利を得ていると疑われたカーミラは、不満げに頬を膨らませた。


「あら、失礼ね。持ち駒は平等に選んでいるわ。私の手持ちから、交代でひとつずつ選んで組織した軍隊よ」


「どの駒の組み合わせが強いかはカーミラのほうがわかっているんだから、やっぱり卑怯だよ」


「なによ、待たせておいて署長の肩を持つの?」


 そこで署長がげんなりとした顔で、これで負ければ十五連敗、と呻いた。


「ユウリス・レイン、できるなら代わって仇を取ってくれ!」


「え、いや、でも途中で選手を交代するのは規則に反します」


「いいわ、べつに公式の大会でもないし。代わりなさいよ、ユウリス。わたし、途中で勝負が有耶無耶うやむやになるのって、なんか嫌なのよね」


「自分が気に食わないと勝負の決まりも捻じ曲げるのに、よく言うよ」


「なんですって?」


 徹夜で怪物退治。円卓の騎士とウルカの喧嘩。不良になったアルフレド。王女の失踪。大人同士のだまし合い。怪しいキーリィ・ガブリフ。ブレイク商会の女主人。そしてカーミラ。


 一睡もできないまま続く心労に、ユウリスも少し苛立っていた。


「署長、代わります」


「よし、いいぞ、ブレイク商会をぶっ倒せ!」


 腰を上げた署長に代わり、ユウリスがソファに座る。盤面は悪く、手駒も少ない。だが幼馴染のカーミラが繰り出す手は、すべてお見通しだ。


「勝負だ、カーミラ!」


「負けたら、勝ったほうの言うことをなんでもひとつ聞くのよ」


「えっ?」


「はい、わたしの番。ドラゴンの火で、そっちの司祭を焼き殺すわ。延焼えんしょうの効果で、後ろの城壁も破壊ね」


「ま、待って、カーミラ」


「ええ、いくらでも待つわ。次はユウリスの番ですもの」


 熟考の結果、状況をひっくり返すほどの戦術は繰り広げられないことが判明した。彼女が誇る性能の良い駒の大軍が、数の暴力で巻き起こす旋風に立ち向かう術はない。


 ユウリスは三手目で、自陣の完全なる崩壊に直面した。駒が次々と排除されて盤面から姿を消す。


 ソファに残る署長の熱が冷めよりも早く、カーミラの勝利宣言が高らかに響き渡った。


「わたしの勝ちね、ユウリス。エピタフはわたしのものよ!」


 エピタフは自分のもの――と宣言して、対戦者が異議を唱えなければ勝利が確定する。当然、ユウリスに抗議の種はない。


 頭を抱えた署長が、頬を両手で挟んだ。


「どういうことだ、ユウリス・レイン。負けたじゃないか、十五連敗だ!」


「それより署長、なんで城壁を三つも手駒に加えたんです⁉」


 徹夜で冷静な判断力が失われている――そう自覚したユウリスは、カーミラが喜々として申し込んできた二戦目を丁重に辞退した。


 窓を覗けば、女性署員から逃げだした白狼がひとりで雪遊びに興じているのが見える。エピタフを片付け終わる頃、ようやく職務を思い出した署長がえりを正して咳払いをした。


「それではカーミラお嬢様。約束通り、ユウリス・レインは連れてきた。さあ、事件の情報を話してもらおうか」


「いいわ、署長。わたし、運河の流れを計算して次の漂着地点を当てたの。少しコツがいるけれど、やり方を教えてあげる」


「え、ちょ、ちょっと待ちたまえ、カーミラお嬢様! なんだい、君は犯人を知っているとか、そういう話しじゃないのかい?」


「あのまま放っておいてくれたら犯人まで辿り着いていたかもしれないけれど、理論の立証中に連行されたのよ。わかるわけないじゃない。わたしに、その時間を与えなかったのは警察の失態ね。それとも正式に捜査官の一員として認めてくれる?」


 眉をひそめるカーミラに打ちのめされ、署長はソファの肘掛に崩れ落ちた。ブレイク商会の令嬢を危険な事件の捜査に加えるなど、許可できるはずもない。定年まで残り僅か、安全に過ごしたいというのが初老に差し掛かった男の本音だ。


 さすがに不憫で、ユウリスが助け舟を出す。


「カーミラ、だったら最初から教えてあげればいいじゃないか」


「わたしを問答無用で連行したのは警察のほうよ。その方法だって、ワオネルが思いついても不思議じゃないくらい簡単なんだから。でもユウリスを誘き出す餌にしたのは、たしかに悪かったわ。お詫びに、これをあげる。お孫さんと遊んでちょうだい」


 カーミラは腰を上げ、エピタフ一式を署長に進呈した。そのまま断りもなく執務机に回り込み、すみに浸した羽ペンを羊皮紙ようひしに走らせる。ユウリスと署長が互いの苦労を視線で労い合う間に、彼女は運河の流路りゅうろを図面に起こしていた。


「運河港付近は比較的、動きが読み易いのよ。流れてくる大元を知りたいなら、もう少し情報が必要だわ。運河の北側に人を配置して、少しずつ把握していくしかないわね。大雑把おおざっぱに計算できそうな式は書いておいたから、足りない分は考えて補うといいわ」


 はい、と署長に羊皮紙を押し付けたカーミラは、ユウリスの手を引いて颯爽と身を翻した。周囲をさんざん翻弄した令嬢が、意味深な言葉を残して部屋を後にする。


「わたしが拾った脚だけど、ちょっと変な感じがしたのよね。よく調べたほうがいいんじゃないかしら。それじゃあ署長、お茶をありがとう」


 所長室を辞したカーミラは、足を緩めずに真っ直ぐ階段を目指した。


 白狼に逃げられた女性署員たちが戻り、通路は先程よりも人気が多い。行く先々で向けられる好奇の視線は、ブレイク商会の令嬢と忌み子に対して半分ずつだ。


 白狼がいれば三つに分散されるのかなと考えて、ユウリスは思わず頬を緩めた。


「なんだかクラウとカーミラが揃うと、地下迷宮の冒険を思い出すね」


「そういえばクラウはどこ?」


「外にいるよ。ほら、来た」


 警察署から外に踏み出すと、待ちくたびれていた白狼が駆けてきた。ユウリスが屈んで、飛び込んできた白い毛並みを抱きとめる。


 じゃれあうふたりを見下ろしながら、カーミラが白い息を吐いた。


「ユウリス。わたし、クラウと話をしたいの。少し離れていて」


「え。カーミラがクラウと?」


 ふたりは、決して仲良しではない。表立って対立しているわけではないが、互いに牽制しあうような節がある。白狼も怪訝そうに顔をしかめるが、ユウリスが離れると素直に耳を傾けた。


 カーミラが雪の上に膝をつき、真摯に目線を合わせる。密談は長く続かず、ユウリスはすぐに呼び戻された。


「俺に内緒でクラウと話って、なに?」


「ちょっとユウリスを借りたいって交渉よ。クラウは家に帰って、二人きりにしてほしいって頼んだの」


 ユウリスは怪訝そうに眉をひそめた。視線の先では、クラウは渋々と承諾の意を示して頷いている。意図が汲めないと両手を広げる少年を、カーミラは半眼で見据えた。


「同盟を結んだのよ。今回はユウリスをわたしに譲ってもらう代わりに、次はクラウに旅行でも進呈するわ。そのときはわたしが遠慮するから、ふたりで楽しんでいらっしゃい」


「なんで、そんな話しに……?」


「ロディーヌとリュネットだったかしら。ぽっとでの泥棒猫に神経を逆撫でされたのは、わたしだけじゃないってことよ」


 ロディーヌとリュネット。カーミラが留守のあいだ、ユウリスが出会った二人の女性。思わぬ名前にぎょっとした少年に、クラウも非難の眼差しを向けていた。


「クラウには、ふたりをちゃんと紹介したじゃないか!」


 受け入れたつもりはないと、クラウがそっぽを向いてカーミラの隣に並び立つ。最悪の同盟だ、と胸中で呻くユウリスを嘲笑うかのように、小さな女帝が小気味よく鼻を鳴らす。


「わたし、思ったのよ。クラウは魔獣だから、住み分けができるわ。少なくとも、あの女や泥棒猫よりはマシ。ユウリスも言っていたじゃない、わたしたちには仲良くしてほしいって」


「そりゃ、そうだけど……これからクラウを除け者にしなきゃいけない理由はなに?」


「ここで話せないから、まずはセント・アメリア広場に向かいましょう。それじゃ、クラウ。雪の溶けないうちに、近場の別荘を手配してあげる。楽しみにしていなさい」


 カーミラが差し出した手に、クラウが前脚を持ち上げて――女同士の契約が成立した。雪原の魔獣が、どこか陽気な空気を纏って粉雪の彼方に走り去る。


 残されたユウリスは漠然とした不安を抱えながらも、なるようになるかと諦めて肩を竦めた。


「それで、カーミラ。署長に全部を話さなかったのは、どうして?」


「あら、どうしてそう思うの?」


 質問に質問で返すカーミラに、ユウリスは両手を広げて抗議した。彼女は気にした風もなく、当然のように答えを待っている。


 長い付き合いの幼馴染同士、先に折れるのは決まってユウリスだ。


「運河の件は噂程度でしか聞いてないけど、切断された手足が流れ着くなんて尋常じゃない。殺人事件の線が濃厚だし、そうでなくとも誰かが傷ついているのは間違いないんだ。それなのに君は、俺に会うのを優先して情報を明かそうとしなかった」


「それでユウリスは、わたしを見損なった?」


「まさか。カーミラはわがままだけれど、分別がある。君が平然としていられるのは、運河の事件を楽観視できる理由があるからだ。流路がどうとかなんて建前で、本当は他にも情報を隠している。いや、待って、いま思いついた。もしかしてカーミラは、もう事件の真相に辿り着いている?」


「当ててちょうだい、わたしの秘密はなにかしら」


 スカートを揺らして、カーミラが楽しげに雪道を舞う。彼女の向こうに、やがてセント・アメリア広場が姿を見せた。市庁舎前には馬車が列を成し、悪天候にも関わらず職員たちが隣の公文書館に忙しくなく出入りしている。


 雪ですっかり覆われた聖女の像と水が凍り付いた噴水の前に辿り着いても、ユウリスは頭を悩ませて首を傾げるばかりだ。


「ああ、わからないよ。降参。怒ってないなら、意地悪をしないで答えを教えて!」


 負けを認めたユウリスに、カーミラは目を輝かせた。人一倍さとくもあり、適度に無知で、素直。そんな彼は、絶妙に乙女心をくすぐる。


 噴水の淵に上がったカーミラは、そのままユウリスに飛びついた。少年少女が抱き合い、雪の広場で舞い踊る。目敏い職員が指笛でからかうと、市庁舎の窓からセオドアとウルカ、ガラードが何事かと覗き込んだ。


 それでも二人の世界は終わらない。


「カーミラ、すごく目立っているから離れて!」


「もう、恥ずかしがって。そういうところも大好きよ!」


「まさか君、酔っ払ってる?」


「失礼ね、嬉しいだけよ。やっとブリギットに帰ってきたって気がするわ。わたし、ユウリスがいないとダメね。きっと自分の半分くらいは、あなたの中にいるんだと思う」


 冷たい頬を触れ合わせたカーミラは、腕を引いてユウリスを解放した。それから市庁舎の窓にウルカの気配を感じると、べえ、と舌を突きだして挑発する。続いてセオドアと見慣れない騎士にスカートのすそを摘んでお辞儀をすると、改めてユウリスの手を引いた。


「ユウリスの可愛さに免じて、運河に流れ着く四肢の秘密を教えてあげる。目的地も近いし、さくっと話すわね」

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