08 警察署に行こう

「キーリィの、夢?」


 馬車を降りたユウリスに、息ひとつ乱していない白狼が寄り添う。相棒の首を撫で、伸ばした視線が捉えたのは二階建ての屋敷だ。


 庭は狭く、塀に囲まれた敷地の大半を建物が占有している。開け放たれた門の脇には、ガブリフ記念病院という表札が掲げられていた。


 ちょうど杖をついた老婆が玄関から現れ、キーリィに気付いて表情を綻ばせる。


「ガブリフ議員、お世話様。見てちょうだいよ。雪で転んで捻挫ねんざなんて、もう年だわ。はあ、でも近くに病院ができたおかげで、怪我はし放題ね」


「マルチネさん、そういう冗談はいけないな。地域のみんなが健やかに過ごせるように建てた病院だ。元気でいてくれないなら、潰してしまうよ」


 老婆は朗らかに肩を揺らしたが、ユウリスの存在に気付いてぎょっと目を剥いた。年配者ほど信心深く、迷信にも敏感だ。忌み子の噂は街中に知れ渡っている。


 しかしキーリィが助け舟を出すより早く、彼女は別れを口にして立ち去った。


「すまない、ユウリス。嫌な思いをさせたかな」


「平気だよ。雪が降ったのは忌み子のせいだと責められたら、なんて言い返してやろうか考えていたくらいだから。それより、これキーリィが建てたの?」


「ああ、この辺りで開業医をされていたマーロウ先生が昨年お亡くなりになってね。他に近場といえばブリギット中央病院で、歩いて一時間もかかる。ならいっそ、新しい病院を建てようと私財を投じた。最初は市長選に向けた人気取りだなんて非難されたものだが、結果的に候補から退いて正解だ。いまや僕の支持層は、子供から老人まで多岐に渡る」


 最後は茶化しながら片目を瞑り、キーリィは誇らしげに笑みを浮かべた。開院の直後に起きたミアハの人形事件では、こん睡状態に陥った子供たちも多く受け入れたと胸を張る。


「慈善事業だから、利益は最低限しか出ない。だからミュラー司教の気持ちが実は少しだけわかる。開院の準備と市長選で資産を使い果たして、経営赤字は市の補助金と借金で賄っているんだ。収穫祭で独断に走った僕にも、キャロット市長は良くしてくれた。本当に、頭が上がらないよ」


「キーリィ、馬上槍試合の会場で言おうとしていたのは……」


「いまさら語る必要はないだろう。都市の地下に、人知れず営みを続ける棄民きみんがいる――そんな状況が、正常だとはとても思えない。彼らを封じ込め、人々から隠している公爵や市長に対するわだかまりもある。つまづきはしたが、諦めはしないよ。ブリギットに住む人々が分け隔てなく幸せでいられる道を、僕が探してみせる。本当は、その手伝いを君にしてほしかった」


 キーリィは残念そうに眉尻を下げ、ユウリスに片手を差し出した。


「きちんとお祝いを伝えていなかったね、馬上槍試合の優勝おめでとう。そして君は見事に自由を勝ち取った。友の旅立ちは寂しいが、笑顔で送り出そう。ブリギットを発つ段取りは進んでいるのかい?」


「ありがとう、キーリィ。前期に卒業試験を受けるつもりだから、早くても春頃になると思う。あとは師匠のウルカ次第かな。オリバー大森林の調査も途中だし、先が読めない」


 握手に応じて、ユウリスは照れ臭そうに頬を掻いた。春か、と呟いたキーリィは目を細め、瞳の奥に暗い感情を押し込める。


「キーリィ?」


 不穏な空気を察したユウリスが顔を上げるのと同時に、彼は手を離した。


「寒いだろう。こんなところまで付き合わせた埋め合わせに、ルアド・ロエサの焼き菓子をご馳走するよ。僕の仮住まいも、すぐ近くなんだ」


「仮住まいって?」


「親から受け継いだ家は資金調達のために処分した。いまは秘書のダニーの家に部屋を借りて住んでいるんだよ。ほら、斜め向かいにある鍛冶屋かじやの隣だ。と、噂をすれば」


 鍛冶屋の隣は、古びた平屋だ。ちょうど馬車が止まり、糸目の青年が飛び出してきた。


 手を振ったキーリィが、ダニー、と彼の名を呼ぶ。


 家に入ろうとしていた秘書は、丸めた羊皮紙の束を掲げながら駆け寄ってきた。辿り着く直前、雪に足を取られて転びそうになった彼をユウリスが支える。


「大丈夫、ダニー?」


「ああ、ユウリス様。どうもご無沙汰ぶさたしています、キーリィ・ガブリフ議員の人気を影で支える立役者ダニー・マクフィーです。すみません、肩を借ります。いや、助かりました。あ、白狼様だ。ありがたや、ありがたや」


 ユウリスの肩を掴みながら、ダニーは苦心して体勢を立て直した。抱えた大量の巻物をひとつも落とさないのは、秘書の矜持きょうじだ。白狼に祈りを捧げる彼の姿に呆れながら、キーリィが口元を緩ませる。


「どうした、ダニー。何か急用か?」


「ああ、そうなんです、そうなんですよ。南区の再開発で、一部の住民が訴えを起こしました。裏にダグザの弁護団がちらついています。しかも小額訴訟そしょうを区毎に複数。なんと、ここにある羊皮紙の一枚一枚が訴状です」


「和解金目的か。だが、こんな時期にダグザの弁護士とは妙だ。原告が元貧民窟の住人だとしたら、弁護士費用をまかなう資金はどこから?」


「アーデン家の寄付らしいですよ」


「くそ、やってくれた。ブレイク商会憎しの嫌がらせか。女主人の様子は?」


「旦那はともかく、女主人が妥協なんてするわけがないでしょう。このまま工事の差し止め請求が認められたら、計画は台無し。湯水の如く流れる市の予算で、ブレイク商会とアーデン家の裁判闘争を観覧するはめになります。どっちが勝っても、五年は再開発が遅れますね」


「手を打とう。ユウリス、誘っておいて申し訳ないが緊急事態だ。お茶会は、また今度。費用は僕が支払うから、帰りは馬車を使ってくれて構わない」


「大丈夫。クラウもいるから、歩いて帰るよ。馬車はキーリィの好きにして」


 借金があると聞かされたあとに、彼の金で馬車は使えない。ユウリスの気遣いに感謝して、キーリィは秘書から羊皮紙の束を受け取った。


「僕は市長と対策を協議する。ダニーはアーデン家に探りを入れてくれ。それから原告の代表について調べがついたら、市庁舎で落ち合おう」


「でも議員、ブレイク商会は?」


「女主人は僕どころか、市長の意見すら聞かないよ。そうでなくともカーミラ嬢が連行されて、気が気じゃないはずだ。御せない馬で競うのは放棄して、馬主同士で決着をつけよう」


「人はそれを八百長と呼びます。恨みを買うとわかっている場に、議員が矢面に立つ必要はないのでは?」


「若輩の僕に、市長が任せてくれた仕事だ。自慢じゃないが、僕より貧民窟の住人に顔が利く奴がいるとは思えない。週に一度の炊き出しに休まず参加していたのは、市長選のためだけではないよ。ダニー、とにかく迅速に頼む。ユウリス・レイン、本当にすまない。僕も、もう行くよ」


「待って、キーリィ。カーミラがなに?」


 病院前の馬車に足を向けたキーリィを、ユウリスが呼び止めた。カーミラが連行されたと耳にして、不安が募る。


 議員は目を瞬かせ、怪訝そうに眉をひそめた。


「知らなかったのか。僕も詳細は聞き及んでいないが、今朝早くにカーミラ嬢は警察に連行された。なんでも運河に流れ着く四肢ししの事件について、彼女が重要な情報を持っているらしい。たぶんいまも警察署にいるはずだ。南署か、中央署だと思う」


「ありがとう、引き止めてごめん」


 秘書の馬車が雪を散らして走り出すのと同時に、ユウリスもキーリィを解放した。病院の前から馬車が去り、白狼とふたりきりで残される。


「カーミラは心配だけど、よりによって警察署か。俺が足を運んだら、余計な騒ぎになるかな」


 街の警察官には、忌み子を殊更ことさらに嫌う人物がいる。困り顔で屈みこんだユウリスは、白狼の毛から雪を払い落とした。


 そこに、ふと視線を感じる。


 首を伸ばすと、鍛冶屋から顔を覗かせている男性と目があった。肩幅の広い、作業着姿の中年だ。


 気弱そうな笑みを浮かべる彼は、やあ、と片手を上げた。


「ユウリス・レインだね。そちらは、白狼様」


「あ、はい。あの、貴方は?」


「ロバートだ。ロバート・カース」


 ロバートと名乗る男は軒先から雪に踏みだした。近づいてくる鍛冶屋を名に、ユウリスが顔をしかめる。


「カース。鍛治屋。あ、もしかしてランドロフの?」


「ああ、そう、父だ。息子が、君に嫌がらせをしていたのも知っている。親とて恥ずかしい限りだ。本当に、心から謝罪するよ」


 どう応えていいかわからず、ユウリスは瞳を揺らした。


 ランドロフは、アルフレドの友人だ。神学校では、ずいぶんとひどい目にあわされてきた。最近は関わりもなく、好きにはなれないかわりに恨みもない。ただ彼の息子に義理立てする気は起きず、返答にきゅうした。


 ロバートは構わず、温和な口調で続ける。


「収穫祭で、馬上槍試合を観たよ。ブリギットが嫌いだ、自由になりたいという君の願いを聞いて、胸を打たれた。家族で話し合い、たくさん考えたんだ。カース家は、君を応援する。旅立ちに必要なものがあれば声をかけてほしい。鍛冶屋で用立てられる範囲であれば、無償で協力するつもりだ」


「そう言っていただけて嬉しいです。でも、どうして?」


「どうして支援を決めたのかと訊かれているのなら、答えはひとつだ。君は悪い子じゃない。忌み子の凶事が嘘か本当かは別にして、ユウリス・レインには善意と誠意がある。あの場で勇気を振り絞った君に背を向けるのは、神にそむくのも同じだと思った。鍛冶屋の守り神は火のブリギットだ。情熱と誠実の女神だよ。いまさら手遅れかもしれないが、我々にも変わる機会を与えてほしい」


 ロバートの声はゆっくりと、噛み締めるように響いた。胸が熱く焦げるような感覚に、ユウリスは唇を引き結ぶ。心配そうに寄せられた白狼の鼻を指でくすぐり、少年は力強く頷いた。


「ありがとうございます。じゃあ、お言葉に甘えて。でも旅なんて初めてだから、なにを用意すればいいかもわからなくて」


「そういうことだったら、まずは剣だろ。オレが鍛えてやるぜ、ユウリス」


 店から、やんちゃな声が伸びる。髪を短くり込んだ、大柄の少年が姿を見せた。ユウリスとロバートが同時に、ランドロフ、と名を呼んだ。


 父親を押しのけたランドロフが、ぶっきらぼうに片手を差し出す。


「いじめて、悪かったな。ユウリスの剣は、オレが打つ。とびっきりの一級品に仕上げてやるから、楽しみにしとけ。これからはアルに言われても、もうお前に手は出さねえよ」


 ユウリスは、謝罪の意が込められた手をじっと見つめた。


 神学校で、いつも身体を押さえつけられた憎い腕だ。記憶を辿ると、胃液がせりあがりそうな嫌な光景ばかりが脳裏を過ぎる。


 しかしランドロフの表情も真剣で、ただ何度も生唾なまつばを飲み込んでいた。緊張しているのがわかる。ロバートも固唾を飲んで、息子の姿を見守っていた。


 そんな親子を認めて、ユウリスは肩を竦めた。


「勇気を振り絞った人間に背を向けるのは、神に背くのと同じなんだってさ。知ってた?」


「あん、なんだそれ?」


「いま、君の父親から聞かされた言葉だ。俺も、そう思う。だから許すよ」


 ユウリスは彼の手を握り返して、悪戯っぽく片方の眉を上げた。


「先に親から謝られて、ちょっと恥ずかしいだろうし」


「この野郎!」


 ランドロフは頬を引きつらせながらも、軽口を叩いたユウリスの首に腕をまわした。騒ぎを聞きつけた夫人も姿を見せ、ロバートと肩を寄せ合って子供たちの和解を喜んだ。


 二人して雪に転がる姿に、白狼も眩しそうに目を細める。


 静かな雪の昼下がりに響きあう笑い声に、息を切らせたファルマン警部の呼びかけが届いたのは、その直後だ。


「やっと見つけましたよ、ユウリス・レイン様。雪の日くらい、家で大人しくしたらどうですか。ああ、まったく、こんなに雪だらけになって。風邪を引いたらどうするんです」


「ファルマン警部? あれ、用って俺にですか?」


 ランドロフの手を借りて雪上から起き上がり、ユウリスは目を瞬かせた。朝からずっと探していたというファルマン警部に、父の予想もあてにならないなと苦笑する。


「ええ、とにかくブリギット中央署に来てください。用件はその、取り扱いに慎重を期さねばならない話題なので、できれば道すがら二人きりで話しましょう」


「ああ、なんとなくわかりました」


 カース一家の目を気にするファルマン警部に、ユウリスは直感的にカーミラの連行が関係していると結論付けた。


 ブレイク商会は街一番の大富豪だ。その令嬢が問題を起こせば、関係者は気が気ではない。下手をすれば問題を起こした彼女ではなく、巻き込まれた側の人生が終わる。親である夫妻から一人娘のカーミラに対して向けられる愛情の深さは、ブリギットで知らぬ者はいないほどに強い。警察が騒ぎを広めず、秘密裏に解決を試みようとするのも道理だ。


 ユウリスは鍛冶屋の親子に向き直った。


「カースご夫妻、お邪魔しました。ファルマン警部が過労で倒れる前に、行かないと。それからランドロフ。剣、楽しみにしているから」


「おう、任せておけって。収穫祭の一件で手の形は把握しているからな、お前専用の一点物を鍛えてやるぜ。そっちは、ひとりで平気か?」


「オスロットに鉢合わせなければね。あ、そういえば最近、アルフレドの様子はどう?」


 アルフレドの取り巻きは三人いるが、特にランドロフは親友と呼べる間柄だ。彼なら義弟の変化に気付いているかと期待したが、返答は予想に反して歯切れが悪い。


「アルの奴、最近は付き合いが悪いんだよな。まあ、オレとミックに会わないだけで、リジィとはしょっちゅういっしょにいるんだ。ほら、リジィはずっとアルに片思いしてからよ、邪魔するのも悪くて声もかけてねえ。そうでなくとも、オレはミックを慰めるので精一杯だ」


「え、ミックはリジィが好きだったの?」


「気付いてなかったのかよ、鈍感どんかん野郎め。オレから聞いたって言うなよ」


 頷いたユウリスは、一家に今度こそ別れを告げた。


 待ち侘びていたファルマン警部は一刻も早く警察署に向かわなければと辻馬車を探すが、どこにも見つからない。雪天を駆けるのは貴族や商人の私用車ばかりだ。


 建物の窓から顔を出した子供が手を振り、白狼様、と呼ぶ声が陽気に響く。


「ファルマン警部。人通りも少ないですし、歩きながらでも事情を教えてください。キーリィ・ガブリフ議員から、少しだけ聞いています。運河に人間の腕や脚が流れ着く事件に、カーミラが関係しているとか?」


「ええ、その通りです。彼女はブレイク商会の一人娘ですから、上も神経質で堪りません。ただ実際は、もうかなりの運河人に目撃されているので本当は隠すのもいまさらなんですよ。それでもカーミラお嬢様が相手では、こちらから騒ぎを大きくはできないのです」


 ファルマン警部は道すがら、事件のあらましを掻い摘んで説明した。


 五日前から、運河に人間の四肢が辿りつくようになった。右脚、左脚、右腕、左腕と続き、今朝は右脚が届いた――そこまで聞いて、ユウリスは唇に手を添えた。


「あれ、また右脚が届いたんですか?」


「ええ、ですから事件には少なくとも二名の被害者が存在すると考えられます。なにはともあれ、最後の右腕を発見したのがカーミラお嬢様だというのが問題です。彼女は埠頭ふとうに死体が流れ着く前に、切断された四肢を拾い上げました」


「たまたま野次馬に来ていたカーミラが見つけたって可能性はないですか?」


「ユウリス様、それはありえません。失礼ですがブリギット運河の知識は、どの程度おありで?」


 問われて、ユウリスは頬を引きつらせた。


 神学校で学んだ気もするが、期末試験が終われば大半の知識は失われてしまう。字や計算式と違い、地域の由来など日常生活には縁遠く、記憶には残らない。そこでふと、雪に浮かれた白狼を見る。


 銀世界にごろごろと転がる相棒は、世界を旅する博識な魔獣だ。


「クラウが人間の言葉を話せたら、こういう話題も解説してくれたりして」


「辻馬車も見当たりませんし、白狼様もご機嫌のようですから、歩いて向かいましょうか。ついでに警察署までの手慰てなぐさみとして、講義にお付き合いください。そもそも、ブリギット運河というのは俗称です。本来はドニエスター大運河、あるいはメディカ川と呼ばれています」


 ドニエスター川は大陸を縦断する最大規模の河川だ。


 北方霊峰ファリアスを源流に、中部のミネルヴァ山脈で二つの支流に分かれ、片方は地下を抜けてメディカ水脈と名を変える。連峰の裾野すそのに広がる大樹林ルアン・シーゼの杜から湧いた流れはブリギット地方を経由して、ゴヴニュ砂漠のキルッフ伏流ふくりゅうを経た後、行き着く先は南国ルーのメルクリウス川だ。


 全体を示してドニエスター大河川と記す書物もあれば、中部の流れをメディカ川と呼ぶ学者もいる。しかし一般的に最も知られているのは、ブリギット運河という俗称だ。治水に優れ、貿易の要所としても知られるブリギット市から取られた名である。


「ここからが厄介なのですが、メルクリウス川はブルゼン火山の活性化に影響され、地下で逆流します。上昇した水脈は、ゴヴニュ砂漠のオルウェン伏流を通り、メディカ水脈に行き着いて北を目指すのです」


「え、ええと、つまりブリギット運河には、北から南に下る流れと、南から北に上がる流れが両方あるって……ああ、思い出してきた。そういえば習ったかも、だいぶ前に」


「嫌な記憶ですね、わかります。私もナントカ川とか、伏流だとか水脈だとか、頭がおかしくなりそうでした。とにかく、メディカ川ことブリギット運河には真逆の流れが混在しているのです。船乗りが重宝されるのも、こういう複雑な流れを読んでかじを切る技術が評価されているからといえるでしょう」


「そんなわけのわからない流れのなかで、カーミラが右脚を手に入れたのは偶然じゃない?」


「ええ、実際に彼女は何かを知っているようです。しかしカーミラお嬢様は提示した条件を満たさない限り、秘密を明かさないと譲らないのです」


 ユウリスは怪訝けげんそうに眉をひそめた。


 正直、カーミラの思惑は想像も及ばない。しかし殺人が疑われる事件で、情報提供をしぶるのは彼女らしくない気がする。


 そしてファルマン警部が口にした条件に、ユウリスは思わず天を仰いだ。ちょうど目に雪が入り、とても痛い。


「カーミラが、俺を?」


「驚かれますよね、私も耳を疑いました。カーミラお嬢様は、ユウリス・レイン様をご希望です。貴方が来れば、すべてを話すと」


 同時に顔を見合わせたユウリスとクラウは、嫌な予感しかしない、と渋面で呻いた。


 気付けば東地区を通り過ぎ、中央区に差し掛かっている。セント・アメリア広場に繋がる大通りを進んでいけば、目的の警察署まで残り僅かだ。


「でもファルマン警部はすごいです。いま聞いたばかりだけれど、複雑すぎて運河の説明なんて誰にもできそうにありません」 


「いや、そんなに褒められるようなものでもありません。息子が陸水学りくすいがくを専攻して進学したので、受験勉強を手伝った杵柄ですから」


「息子さんが、いらっしゃるんですね?」


 つまり既婚者だ。


 イライザとの関係を問い質したい一方、聞けば薮蛇やぶへびになる可能性も否めない。どうしても声が固くなるユウリスの不自然さには気付かず、ファルマン警部は自ら踏み込んできた。


「ええ、息子はヌアザの神立大学に通っています。イライザお嬢様から聞いていませんか?」


「い、イライザから⁉」


 思わず上擦うわずる声に、ファルマン警部の白い顔が怪訝そうに歪む。慌てたユウリスは、寒さで喉が痛くて、と言い訳をした。白狼の首を無意識に触りながら、ぎこちなく首を傾げる。


「イライザと、よく会っているんですか?」


「ええ。イライザお嬢様も今年から息子と同じ大学に進学されますから、根掘り葉掘り聞かれています。正直、レイン家の才媛を侮っていたと痛感しました。こういう地道な情報収集をしているから、なんでもこなせるイライザ・レインが誕生するわけだと。彼女が一年目で大学を牛耳ったとしても、私は驚きませんよ」


「え?」


「はい?」


「えと、イライザはヌアザの大学について調べたくて、ファルマン警部に会っていると……」


「まあ、すでに彼女の質問は私の手には負えなくて、息子にさじを投げました。最近は直接、手紙のやり取りをしているみたいですよ。たまにお会いするとお茶に誘ってくださり、私の知らない息子の話しを聞かせてくれます」


「ああ、そう、なるほどね」


「なにか、気掛かりでも?」


「いや、いいんです。それより、例の運河に流れ着く切断された腕とか、脚とか……犯人の目星は?」


 まさかイライザとの仲を勘繰っていたとも明かせず、ユウリスは無理やり話題を変えた。同時に、父の勘は本当に頼りにならないと実感する。


 しかしファルマン警部は思いのほか深刻そうな顔つきで、色味の悪い唇を歪めた。


「容疑者の最有力候補はビル・ローク。東のディオメデス砦からブリギット市への移送中に逃走した、連続強姦ごうかん殺人犯です」


 ビル・ロークの名は、ユウリスも壁新聞で目にした覚えがある。


 隣国オェングスとブリギットの双方で指名手配されていた凶悪な犯罪者だ。年の瀬に東部のディオメデス砦で逮捕されてから、ブリギット市に移送されている最中に逃亡したらしい。


「なんでわざわざブリギットに移送を?」


「春の感謝祭で公開処刑されるはずでした。移送車のおりびていたらしく、野営の隙に逃げられたようです。場所はダウンダルク村とブリギット市の中間でしたが、未だ発見にはいたりません」


「それ、いつのことですか?」


「ちょうど七日前になります」


 ユウリスは思わず顔をしかめた。エーディンの王女が失踪した時期と一致する。


 連続強姦殺人犯と消えた王女。脳裏に浮かぶのは嫌な想像ばかりだ。


 少年の懊悩おうのうを不安として受け取ったファルマン警部は、大丈夫ですよ、と笑みを浮かべた。


「ブリギットは城砦都市ですから、街に入って来る危険はないでしょう。しかし市民の不安を煽らぬよう、秘密裏に捜査を進めています。どうか口外はしないよう、ご協力ください。ああ、署が見えてきました。意外と歩けるものですね」

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