09 ブラムの秘密

 オリバー大森林の闇に、うごめく影が六つ。


 やぶを鳴らさず、枯れ枝を踏まず、ただ夜の気配に紛れて走る、覆面の黒装束。巡礼者の装いを捨てた、ハサンの一味。ブ


 リギットには魔女の目があり、市内の潜伏は容易でない。彼らは任務の間、拠点を転々としていた。収穫祭の最終日となる今夜の拠点は、樹林の先に建立された無人の礼拝堂だ。


 雄大に伸びた枝葉が頭上を覆い、二つの月と星々の恩恵は届かない。


 市民の立ち入りは禁止されている霊場だが、用心して参道を通るのは避けた。やがて、視界の向こうが明るくなる。


 しかし広い墓地に踏みだした刹那、暗殺者たちは動き止めた。


 世界が、変容している。


 凍りついた夜。


 冷たい空気。


 時間の支配が終わり、青白く染まる空間。


 ハサンの一味が立ち入った霊場は、現実ではない。


 それは空を支配する雄大な暗黒すらも彼方に遠ざける、怪物の絶対領域。


 異界が産声を上げ、暗殺者たちを迎え入れる。


「ようこそ、我が異界へ。恨みは御座いませんが、時と場所が悪い。今夜は神聖なる婚礼の日。招かれざる客人に、死の洗礼を」


 彼らの来訪を待ち侘びていた吸血鬼――ブラムが、墓地の中心で優雅に頬笑む。


「口上を最後まで聞いて頂けると良いのですが」


 ハサンの一味が体勢を整える前に、ブラムの姿が消失する。次の瞬間、最後尾の暗殺者は背後に生まれた気配に戦慄した。


「なっ!?」


 反撃の隙もなく、暗殺者は頚動脈けいどうみゃくを切り裂かれて絶命した。


「奪った命を指折り数えるのは悪趣味なれど、まず一つ」


 鋭利な爪から血を滴らせる吸血鬼が、崩れ落ちる亡骸の背後で悠然と牙を剥く。


 残る五人は迷わず散開した。


 ブラムの姿が再び霞み、空間に溶ける。


「我が名はブラム・シェリダン」


 詠うような吟声だけが、どこからともなく響き渡る。


 次の犠牲者は、女の暗殺者だった。


 虚空から出現した蝙蝠こうもりの群れに囲まれると、そのまま全身の血を吸い尽くされてしまう。


 干からびた同胞の姿に戦慄したハサンが、三人目の犠牲者となった。


 恐怖心を餌にして生まれた人食い魚に内臓を食い荒らされ、地に倒れる。


黎明れいめいを知らぬ幽寂ゆうじゃくの奴隷にして、フィドヘルの森の主」


 残る三人は、同時に動いた。


 ひとりは銀の糸を繰り、宙を切り裂く。吸血鬼の弱点である破邪の金属を用いて、実体を掴もうとする試みだ。


 しかし上位の吸血鬼であるヴァンパイア・ロードは児戯と嘲笑う。


「鮮血の美酒の担い手、霊雹王れいひょうおうの始祖」


 銀の糸にブラムの意思が介在した。造反した線が、担い手であるハサンの首に巻きつく――四人目の死因は絞殺こうさつ


 残る二人が、首のもげた同胞から距離を取る。


「こうなれば奥の手よ!」

「ゴヴニュ砂漠の奥義を使う!」



 片方のハサンが懐から取りだしたオイルランプの稜線をきゅっと擦り、もう片方のハサンが古の呪文を紡ぐ。


 するとランプの点火口から大量の煙が吹き出し、白いもやから炎の巨人が浮かび上がる。背に煙の翼をはためかせ、轟々ごうごうとしたほむらの体躯は力強く腕を組み、眼光が怪しく紫の輝きを放つ――魔力の胎動で異界を震わせる妖霊ようれい。その名を、≪イフリート≫。


「グウィズブイルの紅き雷鳴なれば」


 姿なき吸血鬼の口上に、≪イフリート≫が手を伸ばした。空間を豪腕で切り裂き、異界の裏側に潜んでいたブラムを引き摺りだす。その首を業火の腕が圧し折らんとするが、ヴァンパイア・ロードは魔力で拮抗した。


 雄々しく牙を剥き、両手で妖霊の指を引き剥がす。


「木の、智の、会の、論客」


 ブラムは焼け焦げたのどから、声を絞りだした。


 日差しを嫌う吸血鬼にとって、焔の巨人は大敵だ。いまが勝機と確信したハサンの一味は、≪イフリート≫に追い討ちを命じた。


 身体を膨らませた妖霊が、巨大な火球に姿を変える。


 太陽の化身が迫るなか、地に降りたブラムは鋭利に伸ばした爪を掲げた。


「蒼き火の弔い人」


 そして、厳かに唱える。


――」


 吸血鬼の瞳が、群青に塗り変わる。


 全身に帯びるのは、蒼白の色。


 闇を裂く、調伏ちょうぶくの輝き。


 火球を見据える眼差しに、恐れの色はない。


 力強く薙ぎ払われたブラムの爪が、迫る業炎を破邪の光で両断した。≪ゲイザー≫の奥義は魔力を滅する。


 断末魔の声を上げて≪イフリート≫が消失すると、ランプを手にしたハサンも運命を共にした。


 ランプが朽ち、同時に暗殺者も絶命する。


「最後まで聞き届けて頂き、恐悦至極に存じます。ですが婚礼を抜け出した身なれば、戯れは此処まで」


 慇懃無礼いんぎんぶれいに腰を折る吸血鬼を前に、最後のハサンは逃亡を選択した。


 しかし異界は、怪物の領域だ。支配者たるブラムを倒す以外に、脱出の術はない。望めば地平の彼方まで伸びる爪が、背を向けた暗殺者の首元に狙いを定める。


「お命、頂戴致します」


「お待ちなさい、不要なら私が引き取るわ」


 不意の声は、ブラムの頭上から注がれた。


 宙に浮かぶ、青のドレスに身を包んだ少女――イライザ・レインが、世界の理の干渉にする。才媛さいえんの唇が三つの言語を唱和し、解き放たれる魔術。


「――Call me your Queen――

 ――天鎖よ――

 ――         ――」


 虚空から生まれた光の鎖が四方から伸び、瞬く間にハサンの四肢を拘束した。しかし暗殺者は刹那、舌を噛んで自害してしまう。


 吸血鬼の傍らに降り立った魔女は、不満げに眉を寄せた。


躊躇ためらいいなく命を捨てるのね、予想外だわ。あれ、他にはいないの?」


「残念ながら、全て始末致しました。貴殿はイライザ・レイン嬢とお見受けします。お初にお目にかかる、我が名はブラム・シェリダン。黎明を知らぬ幽寂の奴隷にして――」


「聞いていたわよ。それよりユウリスはどこ?」


「婚礼の最中なれば」


 イライザは眉間の皺を深くして、どういうこと、と首を傾げた。その反応に、ブラムも疑念を抱く。リュネットとユウリスの婚儀に理解が及ばないのは、ケット・シーの騒動を把握していない証拠だ。しかし彼女はハサンの一味を追跡し、吸血鬼の存在は知り得ている。


 頭を回したブラムは、ぽん、と握り拳を手のひらで叩いた。


「得心致しました。イライザ嬢は、我々を――いえ、ユウリス殿を監視しておられたのですね?」


 敵対ではなく、監視。


 だから吸血鬼の存在は知り得ても、深い事情には精通するほど綿密な調査はしていない。ブラムの推測を、イライザは酷薄な笑みで肯定した。


 何故、と問う吸血鬼に、レイン家の才媛は肩を竦める。


 異界化は解除されていない。


 ハサンの一味を誘い込む目的で開かれた亜空間は、侵入こそ容易だが脱出は困難だ。


「素直に答えたら、私を帰すと約束できる?」


「加えて先ほどの光景を他言しないと約束頂けるなら、応じましょう」


「貴方が闇祓いの使い手だというのを、ユウリスは知らないのね」


 然り、と吸血鬼は認めた。


 本来は頃合を見てゲイザーの身分を明かすつもりでいたが、考えを改めたのはハサンの一味と最初に交戦した次の夜だ。怪物にも心を砕くユウリスには、恐怖心が不足しているように思える。


 ≪ノスフェラトゥ≫の闇祓いがいると明かせば怪物をより身近に感じ、それが少年の今後に悪影響を及ぼすかもしれない――ブラムは、そう危ぶんだ。


「ユウリス殿の末来を慮っての判断なれば」


「いいわ、取引成立よ」


 吸血鬼の王と称されるヴァンパイア・ロード。


 怪物のなかの怪物。


 それがユウリスをなぜ気に掛けるのか、イライザは興味深げに片方の眉を動かした。しかし今は詮索よりも、ブラムの異界から逃れるのが先決だ。ハサンの一味を追う過程で、吸血鬼の罠に嵌まったのは不可抗力でしかない。


「私の目的は、ブリギットの安定よ。オリバー大森林の異変を皮切りに蔓延する悪意は、現在進行形で街を蝕み続けている。諸悪の根源を突き止め、裁きを下すために私は動いた」


「ご自身は、これまでの悪事に加担していないと?」


「ああ、そういうこと。ユウリスは私を疑っていたのね。どうりで最近、よそよそしいと思ったわ。でも、この件に関してはお互い様だから、不問にしましょう。私も、家族を信用しなかった。悪手ね、参ったわ。辿った道が同じなら、ユウリスは私を含めた六人の容疑者を挙げたはずよ。違う?」


「残念ながら、ユウリス殿からは聞いておりません」


 ブラムはとぼけた。彼女がユウリス・レインの味方だという保証が得られないうちは、余計な情報を与えるつもりはない。軽く肩を竦めたイライザが、しょうがないわね、と首を横に振る。


「まあ、いいわ。私も犯人の候補を六人に絞った」


 そして淀みなく、容疑者の名を唱える。


「セオドア・レイン公爵。エイジス・キャロット市長。ゲラルト・ミュラー司教。シスター・ケーラ。キーリィ・ガブリフ議員。そして弟のユウリス・レイン――私はこのうち、最も犯人の可能性が高いのはユウリスだと推理した」


 忌み子として蔑まれており、街を恨む動機は十分だ。またユウリスは怪事のはじまりとされる春先の事件から今日に至るまで、全ての事件に関わり続けている。その英雄的な行動が、結果として立場を向上させているのも疑惑を深めた要因だ。


 筋は通ると得心するブラムだが、納得はできない。


「いまもユウリス殿をお疑いで?」


「もしそうなら、こうしてあの子に関わりある吸血鬼に話したりしないわよ」


 三日前の馬上槍試合。


 復讐心に囚われず、ユウリスは正々堂々とブリギットに決別を宣言した。逃避ではなく旅立ち、怨念ではなく清算を示した勇姿に嘘はない。


 間違いを認めたイライザは、考えを改めた。


「近いうちに、ユウリスと話し合う場を設けるわ。あの子を味方につければ、ヘイゼルも話してくれるでしょうしね」


「ヘイゼル・レイン嬢。あるいはミアハの人形。悠久幻影霊廟の盟主。遠目より観察を致したが、真贋を見極めるに至らず――あの少女は、?」


「わからない。ヘイゼル、もしかしたらミアハの人形なのかもしれないけれど、私も警戒されて、教えてもらえない。悪さをする気配もないし、いまは放置でいいでしょう。でも夏の事件で、ミアハの人形が何者かの手で封印を解かれたのは間違いない」


「ミアハの人形を檻から放ちたる者が、全ての元凶と?」


「少なくとも、無関係ではないはずよ。予想はついているけれど、言質を取りたいわ。人形もヘイゼルもユウリスにご執心のようだから、あの子を味方にするのは一石二鳥ね」


殿


 この言葉に、イライザの自尊心は傷ついた。


「あら、嫌な男ね」


 これまでイライザは、誰かの添え物のように扱われたことなかった――「イライザの弟」とユウリスが褒められることはあっても、その逆はない。


 当のブラムは、素知らぬ顔で笑みを浮かべる。


「いえいえ、ヴァンパイア・ロードを前にしても臆さぬ豪胆さを見習い、ユウリス殿も成長されたのでしょう」


 改めて賛辞を送ったブラムは、指を鳴らして異界化を解除した。


 暗殺者たちの遺体は吸血鬼の領域に消え、影も形も残らない。


 停滞していた空気が流れはじめ、世界が色を取り戻す。


 踵を返したイライザを、吸血鬼は思い出したように呼び止めた。


「まだ、貴殿の名乗りを受けておりません」


 イライザは瞬いた。素性は既に知れている。ならば吸血鬼が求めるのは、上辺の情報ではない。


「あら、私に興味があるの?」


「いえ、ほんの戯れ」


 またしても自尊心を絶妙にくすぐる返答に、イライザは妖艶な笑みを浮かべた。


「あなた、私と組む気はある?」


「残念ながら、力を貸すとしてもユウリス殿になるでしょう」


「私を振るなんて、その後悔は永遠ものよ」


 ドレスの裾を摘んだイライザは、スカートをふわりと膨らませながら舞うように振り向いた。


 そして優雅に腰を折ったレイン家の魔女が、吸血鬼へ挑発的な眼差しを注ぐ。


「私はイライザ・レイン」


 同時に、足元で輝く幾何学模様の刻印。森に潜む仲間が、転移の魔術を発動させる。眩い閃光に姿を眩ませながら、イライザは悠然と紡ぎ続けた。


「女魔術師会ゴスペル・オブ・ザ・ウィッチクラフトの三盟主がひとり。貴方風の言い方をすれば、タラの丘の守護者。愛するブリギットは、誰の好きにもさせない。だから安心しなさい、吸血鬼ブラム。私は、正義の味方よ」


 イライザの姿が光に潰える。


 空間転移は高度な秘儀だ。ブラムは魔力の追跡を試みるが、探知の波動は毛ほどの痕跡も捉えられない。


 しかし即座に興味を失くした吸血鬼は、オリバー大森林の深淵に足を向けた。


 魔女も陰謀も、今晩はどうでもいい。


「我が姫と盟友の晴れ舞台、とくと堪能しなくては」

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