10 妖猫の花嫁

 星々のきらめきよりも優しく、緑の雪が森の夜を優しく包み込んでいた。


 大樹の枝から、ふわりふわりと無数に舞う小さな綿は、萌葱色もえぎいろの光源。地に落ちては溶けるように潰え、再び土を通じて幹に還る。


 実り、輝き、肥料となる循環は妖精世界の理だ。


 オリバー大森林に隠された、人知の及ばぬ裏側の領域――妖精の丘マグ・メルは、リュネットの披露宴で華やいでいた。


「旦那様、そろそろ出番よ!」


 新緑の葉と蔦を編んだドレスに身を包んだロディーヌが、少年の背中を押す。


「うわ、押さないでって!」


 不思議な草色のローブに身を包んだユウリスは、素足で大樹の陰から踏みだした。片手に握るのは、馬上槍試合で得た竜の杖だ。


 新郎の登場に、赤子の上半身と驢馬の下半身を持つ妖精プークが楽団の仮装で弦を弾き鳴らし、ケット・シーたちが歌で歓迎する。



 月の雫に、花のかんむり

 香りの粒を木の実にまぶして

 星月夜ほしつきよの下、舞い踊る

 土をやして踏み鳴らし

 夢のまにまに酒を



 黄金色の光を帯びた大樹に囲まれた、不思議な空間。


 普段は図鑑の世界でしか垣間見ることのない妖精が数多に集い、ケット・シーの婚礼を囃し立てる。


 優しい緑の雪がちらつくなか、ユウリスは花びらの道を踏んで祭壇に足を進めた。



 風の口笛、羽根の弦

 聞かせてあげよう祝いの歌を

 可愛い君が望むなら

 月の精と星の化身

 あおうしおに蝶が舞う



 大きな葉に盛られた山盛りの料理は、ブリギット市から妖精たちがくすねた戦利品だ。卓はなく、木の根や土に置かれたたるからは無限に酒が注がれる。


 不意に空で、火花が弾けた。


 闇夜に咲く、大輪の花。


 音に驚いて、迷い込んだ動物たちも騒ぎだす。


 黄色い羽を忙しく動かすガッフィ。


 目を満月のように見開くのは、ワオネルと呼ばれる長い尾と縞模様しまもようの毛並みが特長の小動物だ。



 月の雫に、花の冠

 永久に誓おう純潔じゅんけつを捨てて

 愛しい君に捧げよう



 祭壇の前に、白猫が佇んでいる――目元と唇を朱色に彩り、花の冠を頂くリュネットだ。傍らに並んだユウリスの肩に慣れた動作で跳び乗ったケット・シーの花嫁は、悪戯っぽく囁いた。


「あら坊や、似合ってるじゃない。その格好なら、このまま妖精の世界に居座ってもバレないわね」


「スカート履いてるみたいで、なんかスースーするよ。でも、先に言うなんてひどいな」


「先に?」


「リュネット、すごく綺麗だよ。お化粧も華やかで、花飾りも可愛い。素敵なお嫁さんになってくれて、ありがとう」


 リュネットが耳と尾をぴんと立たせ、口元をわなわなと震わせる。


 動揺する心に、理性が追いつかない。精神世界である妖精の丘では、他人の感情が言葉以上に伝播する。


 ユウリスが本気で魅力を感じてくれているのが手に取るようにわかり、花嫁の熱は沸点を超えた。新郎の頬を前脚で押した白猫が、刺々しく鼻を鳴らす。


「ば、馬鹿じゃないの⁉ あ、当たり前でしょ。凡庸な人間といっしょにしないでちょうだい。あたしみたいな最高の花嫁、他にいないんだから!」


 婚姻は一夜限りの夢に過ぎない。


 本来は、ペローとの約束を反故ほごにするのが目的だ。所詮は秋の晩に訪れた幻のひと時――そう自分に言い聞かせるたび、リュネットの胸は切なさで潰れそうになる。


「ねえ、坊や」


 リュネットは感情に流され、ユウリスに熱い眼差しを向けた。


 偽りの婚礼でも、真摯に新郎を演じてくれる心優しい少年。その姿に、かつて別れを経験した子供の幻影が重なる。金髪の、屈託なく笑う男の子。


「オリバー、あたしは……」


「リュネット?」


 心配そうに覗き込むユウリスに、なんでもないわ、とリュネットが頭を振る。


 かつて心を通わせた子供に覚えた感情は、恋慕ではなく友愛だ。妖精と人間の共生は悲劇を生むという戒めも心得ている。記憶に刻まれた悔恨の疵が、仄かな想いを胸の奥底に封じ込めた。


「坊やはこれから大人になって、恋をして、縁を繋ぎ、いつか誰かと結ばれる。でも忘れないでよね――坊やの最初の花嫁は、あたしだってこと」



 薔薇の真紅は、恋の色

 無垢むくの恥じらいを彩って

 聖なる夜に口付けを



 妖精の調べが金色の木々を揺らし、爽やかな風を巡らせた。


 竜の杖を祭壇に捧げると、台座に置かれた杯は眩い輝きを放ち、満たされた水が渦を巻いて宙に舞い上がる。


 そして添い遂げる二人を祝福する聖なる雨が、深々と降り注いだ。


 宝石のような煌く雨粒のなかで、リュネットが首を伸ばす。


「ユウリス」


 初めて名前を呼ばれた――その驚きで顔を向けたユウリスの唇に、花嫁が甘い口づけをおくる。触れるよりは深く、愛を伝えるには浅い、曖昧な逢瀬おうせ


 最後にぺろっと舌でくすぐり、リュネットは艶やかな笑みを浮かべた。


「顔、真っ赤よ。やっぱりまだまだ、坊やね」


 耳まで高潮したユウリスが反応する前に、控えていたロディーヌが我慢できずに飛びだした。他のケット・シーが煽り、プークが勇ましい戦いの音楽を奏ではじめる。


「ちょっとリュネット、き、き、き、キスは、ほっぺたって言ったじゃない⁉」


「なによ、あたしの結婚式にケチつけないでほしいわね、二号さん」


「また言ったわね!」


「あら、だって今夜はあたしが正妻よ?」


 取っ組み合いをはじめた二人に、硬直していたユウリスも可笑しそうに拭きだした。妖精たちは宴に興じ、ワオネルが木の実を齧る音が軽快に木霊こだまする。


 しばらく姿を消していたブラムもいつの間にか現れ、大きな拍手で花嫁と新郎を祝福した。


「リュネット姫とユウリス様に加護在れ! 月の雫に、花の冠――」


 ブラムが美声を響かせる。


 姫と仰ぐリュネットが婿を迎え、ユウリスは晴れて主人に昇格した。


「もう、旦那様も旦那様よ、いやらしいわ!」


 房毛を力強く振り回し、ロディーヌは怒りの矛先をユウリスに向けた。理不尽な罵倒にも頬を引きつらせるだけの少年に、リュネットは陽気に尻尾を揺らしながら助け舟をだす。


「ほらほら、坊やを責めたら可哀想よ。それに、さっきのはあたしからのお礼も含んでいるのよ。妖精の口付けは加護。とびっきりの奇蹟をあげたんだから、感謝しなさいよね」


「そういう抽象的な表現は怖いからやめて。俺になにをしたの?」


「さあ、あたしも人間に本格的な加護を与えるのなんて初めてだから、なにが起こるかまではわからないわ。たぶん、困ったときに助けてくれるんじゃないかしら」


「不安しかないんだけど⁉」


 本気で嫌そうにするユウリスと未だに婚礼の口づけを破廉恥はれんちだと咎めるロディーヌを、リュネットが正妻の余裕でからかう。


 人数分の杯が抱えたブラムも三人の輪に加わろうとするが、ケット・シーの群れに包囲されて阻まれた。


 婚礼の場では、妖精の正装が求められる。


 すなわち裸か、緑の服だ。


「ノスフェラトゥの黒き衣は矜持の証。故に緑の装束を纏う選択はなく、なれば脱ぐのみ!」


 その場でいさぎよく衣類を脱ぎ捨てようとするブラムに、ロディーヌが悲鳴を上げた。リュネットが華麗に舞い上がり、吸血鬼の顔面に強烈な蹴りを叩き込む。


 一連のやり取りを半眼で見届けたユウリスは、大きく肩を竦めた。


「いろいろあったけど、これで終わりか」


 収穫祭は今夜が最終日だ。


 それでもハサンの一味やイライザの暗躍という不安要素は残る。キーリィ・ガブリフは宣言通りに選挙を辞退し、最終的に再当選を果たしたキャロット市長にも、ユウリスの不吉な予感は消えない。


 溜息を吐く少年の顔を、ロディーヌが晴れやかに覗き込んだ。


「旦那様、まだ終わりじゃないわ。夜は長いもの! 次は私のお相手をして頂かなくちゃ。さあ、踊りましょう!」


 ロディーヌに手を引かれたユウリスは、ケット・シーが踊る輪のなかに誘い込まれた。プークの楽団は数を増し、弦と打楽器の陽気な音色が舞踏を彩る。


 軽やかに裾を揺らし、絡めた指の熱に高鳴る鼓動――少年と少女に許された、最後の夜。


「旦那様、今日までありがとう。収穫祭、とても楽しかったわ」


「俺も、ロディーヌがいてくれて良かった。でも、明日には帰っちゃうのか。もう少し、ゆっくりしていけばいいのに。サヤもロディーヌと友達になれて、喜んでいたよ」


「私もサヤさんと遊べて嬉しかったわ。クラウさんは少し怖かったけれど、次はもっと仲良くなりたい。でも、キルデアをいつまでも空けてはいられませんから」


「医者の勉強もあるし?」


「ええ、そうよ。旦那様の怪我で練習したから、簡単な手当てならすぐに現場でお役に立てるわ」


 この十日間、収穫祭で過ごした時間はかけがえのない宝物だ。すれ違う思惑、ぶつけあった感情、吐き出した気持ち、重なる心。思い返せばきりがない。


 そっと身を寄せたロディーヌは、ユウリスの胸に額を預けた。


 彼女の房毛ふさげが、切なげに揺れる。


「ねえ、旦那様。ひとつ、約束をしてくださらない?」


 少女は胸の内で想いを吐露とろした。


 まずは医者になる夢を叶える。


 立派な淑女に成長して、今度は自分の意思で彼を婿に迎えたい。


 胸が破裂してしまいそうな、初めての感情。


 好いてほしい、振り向いてほしい、待っていてほしい。


 ロディーヌは、欲望に悶えた。


 この願いは、ユウリスを困らせる。


 嫌われたくないという想いと、離れたくないという切なさが交差する。


「ロディーヌ、どうしたの?」


「旦那様、私――」


 そして絞りだした答えが、少女の初恋に終止符を打つ。


「もしも私が医者になれなくて、もしも旦那様が自由になれなかったら……もう一度、お会いしましょう。そのときは、潔く結婚するの。駄目な二人なら、お似合いだわ」


 そんな日が来ないのと同じように、この恋は実らない。


 ロディーヌは認めて、唇を噛んだ。


 彼の顔は見られない。きっと泣いてしまう。しかし表情や声よりも雄弁に、少女の房毛は不安と悲しみにしおれていた。


 小さく頷いたユウリスが、握る指に力を込める。


「じゃあ、俺からもひとつ」


「旦那様も?」


「そう、約束。ロディーヌ、困ったときは助け合おう。行き詰まったり、躓くなんて、これからいくらでもあるだろうから。そのとき傍にいる人に頼るのもいいし、自分の力で切り抜けるのも悪くないけどさ。本当にどうしようもなくなったら、君が味方でいてくれたら心強い。そっちが危ないときは、俺が助ける。だからロディーヌも、それを忘れないで」


 嗚咽おえつを堪えながら、ロディーヌは唇を噛んだ。素足を濡らす熱い雫を止められない。いまできることは、ただ力強く頷いて、ユウリスの手を押しだすように放すことだけだった。


 手の甲で目元を拭い、赤くなった鼻を擦った少女が、気丈に正面を見据える。


 そして精一杯の笑顔で、別れを告げた。


「約束よ、ユウリス。さようなら、大好きな旦那様」


 閉ざした瞼に熱い雫を散らしたロディーヌは、颯爽と踵を返した。


 小川で顔を洗おう。料理をお腹いっぱい食べて、たくさんの笑顔を見せてあげたい。泣いていたら、心配させてしまう。彼の記憶に残る最後の自分は、笑顔がいい。


 胸に切なさと清々しさを抱いた少女が、ユウリスから遠ざかる。


「ロディーヌ!」


 寂しげな彼女の背に手を伸ばそうとしたユウリスを、足元に現れたリュネットが制した。少年の相貌と少女の背中を交互に見比べたケット・シーが、緩やかに首を振る。


「ひとりにしてあげなさい。それより坊や、あたしと顔を合わせるのも今夜が最後よ。約束を果たしましょう。ついてきなさい。ブリギットの指環を、見せてあげるわ」

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