08 親と子

「ユウリス――」

「ユウリス……」


 セオドア・レイン公爵とグレース・レイン公爵夫人の声が重なったのは偶然だ。ヌアザから帰還したばかりの夫人は、一般客席の外れに佇んでいた。


 息子の訴えを聞く表情はまるで、罪に怯える幼子だ。


 その場でひざから崩れ落ちたグレースは、女神に祈りを捧げた。許しを請うように、罰を恐れるように、そして自らの行いを恥じ入るように。


 夫人の哀れなうしろ姿をキーリィ・ガブリフは暗い眼差しで一瞥した。彼女を見かけたのは偶然だが、声をかける素振りはない。


 震える公爵夫人を鼻で笑った彼は、傍らのリジィに語りかけた。


「リジィ、この街はくさっている」


「キーリィ、なんだか怖い」


「平気さ。君は強い女性だ。ほら、この香りを嗅いで――僕の言う通りにするんだ。そうすれば、ブリギットはアルフレドのものになる」


 手にした紙片から白い粉末を摘みあげたキーリィは、それをリジィの鼻先にあてがった。指で擦ると、ふわりと刺激を含んだ甘い香りが沸きあがる。


「いい香り……」


「そうだろう、南方から取り寄せた特別な香だからね」


 吸い込んだ少女の目から焦点が失われていくのには見向きもせず、キーリィは壇上に視線を注いだ。


「ユウリス……君と僕は良く似ている」


 多くの感情にさいなまれたユウリスは、粉々になりそうな心を必死に繋ぎとめていた。息が苦しくて、いまにも泣きだしてしまいそうになる。そんな少年の悲しみに寄り添うように、ロディーヌは繋いだ手にぎゅっと力を込めた。


「旦那様、私も変わってみせるわ」


 勇気を振り絞り、理不尽に立ち向かう彼が眩しい。隣に立つ人間として、恥ずかしくない自分でありたい――そんな想いを胸に、ロディーヌも顔を上げる。


 芽生えた意思の向かう先にいるのは、父であるモルゴ・トリアス伯爵だ。


「お父様。私は、医者になりたい!」


 大きく息を吸い込んだロディーヌは、将来の夢を口にした。


 雄々しく反り立つ房毛が、その決意を表明する。


 たどたどしく吐露したのは、母の死が刻んだ心の疵。


 明かしたのは、悲劇を乗り越えて医療の道を志した決意の火。


 理路整然にとはいかない。


 それでも懸命に、真っ直ぐに。


「キルデアは継ぎます。でも医者になる夢も貫きたい。どちらもおろそかにはしません。もう大切な人を、目の前で失いたくない。レイン公爵、お父様、どうか願いを聞き届けてください。私と彼は、もうなにも諦めません!」


 紡がれた娘の想いに、トリアス伯爵は嗚咽を噛み締めて涙を流した。子が巣立つとき、親が道を決めるのは貴族の常だ。しかしキルデアとブリギットを治める二人の父親はいま、それが間違いであると認めた。


 セオドア・レイン公爵が、柵に手を添えて項垂うなだれる。


 そこへ追い討ちをかけるように、ユウリスとロディーヌは繋いだ手の指を絡めあった。


「俺に自由を――!」

「私に機会を――!」


 顔を上げたセオドアの表情に、もはや為政者としての威厳はない。ただ息子の成長に対する驚きと、哀愁あいしゅうだけが漂っていた。


 ブリギットとキルデアの領主が無言で頷きあう。


 そして居住まいを正した公爵は、万感の想いを込めて宣言した。


「大いなる母神ダヌと、火の女神ブリギットの名において、勝利者の願いを聞き届けよう。ユウリス・レインに自由を、ロディーヌ・トリアスには学びの機会を与える」


 ユウリスとロディーヌは目を見開くと、直後に破顔した。繋がれた少年と少女の手に、魔術で空間を飛び越えて来たケット・シーが飛びつく。少年と少女の腕に抱き上げられたリュネットも加わり、分かち合う喜びは言葉にならない。


 そこでレイン公爵は咳払いをすると、続きがある、と言い添えた。


 思わず緊張する二人に、紡がれた提案は親の慈悲にほからならない。


「ただし二人とも、神学校の卒業が条件だ。爵位ある家の子として、教養をおろそかにはさせない……あとは、互いの家で話し合おう」


 目尻に深いしわを刻んで口元を緩ませる父の顔を、アルフレドは初めて目にした。ユウリスへ注がれる期待の眼差しに、歯痒はがゆさと疎外感を覚える。


「僕には、あんな顔を見せてくれたことはなかったのに……」


 取り残されたような寂しさを覚えるアルフレドに、そっと忍び寄る影がある。ハッとして振り向くと、リジィが傍にいた。


「リジィ、もう体調はいいのか。あれ、ランドロフとミックはどうした?」


 見れば、取り巻きの二人は焦点の合わない目でぼうっと夜空を眺めている。暢気な奴等だと呆れるアルフレドの耳元に、リジィが首を伸ばした。


 不意に漂う、香辛料の刺激と甘さが入り混じる不思議な香り。


「アルフレド。このままじゃ、領主の座はユウリスに奪われてしまうわ」


「馬鹿言うな、リジィ。どうやら婚約は破談になるみたいだが、あいつはブリギットを出て行くらしい。ふん、人騒がせな奴だ。どこへでも消えてしまえ!」


「油断しちゃ駄目。公爵様の顔を見て。アルフレドを裏切ろうとしているわ。私、聞いたの。ユウリスのキルデアに行きも、本当は領地を治める勉強のためだって。最初から戻るのが決まっていて、帰還と同時にブリギットの爵位はユウリスが受け継ぐ算段になっていたのよ」


「リジィ、いい加減にしろ。誰がそんなデタラメを言ったんだ!」


「キャロット市長が話しているのを聞いたの」


 エイジス・キャロット市長は、セオドア・レイン公爵の盟友だ。


 言葉を失うアルフレドの鼻先に、リジィは片手を近づけた。


 指の腹が擦れ、ふわりと舞い上がる白い粉。


 ぴりっとした辛さを孕む、甘い香り。


 鼻腔びこうを通じて支配の手を伸ばす悪意が、脳裏に闇の種を植え付けた。


「そんな、父上が僕を見捨てた……?」


 死闘を繰り広げたアルフレドの疲労は極まり、麻薬に抗う力は残されていない。、真偽を確かめる気力すらも奪われて――ただ意識の奥底で反響を繰り返すばかりの情報。


 リジィの声で、悪魔が囁く。


「ブリギットは、アルフレドのものよ」


「ああ、ああ、そうだ、ブリギットは、僕のものだ……」


 アルフレドの目から光が消えたのを確認して、リジィはそっと手を引いた。ミックとランドロフを伴って立ち去る姿を、祭壇から降りはじめたユウリスが見咎める。


「アルフレド!」


 呼びかけるが、義弟おとうとは振り返らない。


 公爵が馬上槍試合の閉会を告げるなか、会場はざわめきはじめていた。


 ユウリスの訴えに対する非難と擁護――多くの市民が意見をぶつけあい、臨席同士で怒鳴りあう姿も見られる。


 広がる議論の輪に、ロディーヌは意外そうに目を瞬かせた。


「みんな、旦那様のお話をしているのね。気持ちの良い声ばかりではないけれど、味方になってくれる人もいる。真剣に考えてくれている証拠だわ。でもこんな大事になってしまって、いまさらだけど大丈夫なのかしら」


「いいんだよ、迷惑を被るのは父上だ。親には迷惑をかけていいって、最近は割り切っている。物分りが良すぎるのは駄目だって、そう教えてくれた友達もいるしね」


 片目を瞑ったユウリスは、晴れやかに口元を綻ばせた。寄り添う二人の腕に抱かれたリュネットも、そうね、と忍ぶように笑う。


「坊やとお嬢ちゃんの気持ちが響いたってことでしょう。初めて会った日は頼りない子供だと思ったけど、二人ともよくやったわ。さすがあたしの花婿と元二号さんね」


「それに関しては意義ありよ、リュネット。あくまで私が一号さんだわ」


「いまとなっては、どっちでもいいわよ。だってお嬢ちゃんは今日で脱落。坊やの心を射止めたのは、あたしになるわけだし」


「ちょ、ちょっと、一夜限りの偽装結婚よね。そんなの、し、真実の愛ではないわ。女神ダヌもお許しになりませんから!」


「あたしはべつに、ダヌの信徒じゃないもの。むしろ大ッ嫌い。あらあら、いまさらヤキモチかしら、元二号さん?」


「リュネット、私を怒らせるつもり!?」


 鼻の穴を大きく膨らませたロディーヌが、リュネットに掴みかかる。白猫は華麗に跳躍し、ユウリスの頭に避難した。


 そうしてはしゃぐ少年少女を、厩舎きゅうしゃの入り口で待つ姿がある。最初に気がついたのはロディーヌで、房毛をぴんと立たせて息を呑んだ。遅れてユウリスも会釈を送る。


「ブルックウェル先生、どうしてここに?」


「私は大会の救護責任者だ。好きで槍を突き合って怪我をする奴の診療など、本当は御免蒙りたいが、医師会の当番は免れない。それはともかく優勝おめでとう、ユウリス・レイン」


「ありがとうございます。でも、ええと、すみません、怪我をしました」


「ああ、君の処置を担当した医師から聞いている。せっかくだ、改めて私が診てやろう。ロディーヌ」


 背筋を伸ばしたロディーヌが、はいっ、と力強く応えた。普段の彼女からは想像もできないような野太い発声に、ユウリスとリュネットが思わず顔を見合わせる。


「なんだか……」


「お嬢ちゃんも立派になったわねぇ」


 そこにあるのは利発な貴族の令嬢ではなく、夢に邁進する見習い医師の姿だ。


 ナルニアは控え室の長椅子にユウリスを押し倒すと、容赦なく服を剥いた。恥ずかしがる少年の口に、ロディーヌがガーゼを詰め込む。


「旦那様、黙って。医療は時間が勝負よ」


「肺の欠損はないという診察だが、間違いはないようだ。だが鬱血がひどい、少し血抜きをしておこう。私の鞄を広げろ。短刀と消毒、麻酔瓶と針、布を五枚。湯を沸かし、大きめの桶で運んでこい。それからキルデアに帰ったら、私の実家を訪ねろ。話は通しておく、よく学べ」


「はい、先生――って、え、あの、それって!」


 目を見開くロディーヌを一瞥もせず、ナルニアは赤黒い患部を指で押しながらユウリスの反応を確かめ続けている。


 目に涙を浮かべる少女に、無愛想な医師は変わらぬ平坦な声だけを返した。


「復唱」


「は、はい! 肺に欠損なし。鬱血うっけつを、血抜きで対応。短刀と消毒、麻酔瓶と針、布を五枚用意。沸かした湯を、大きい桶で用意します。それから、先生のご実家で勉強します。私、必ず先生みたいな医者になってみせます。だから、だから――」


「最後のは復唱しなくていい。教えを忘れるな。医療は時間が勝負だ」


 鼻水と涙を手の甲で拭って、ロディーヌは背を向けた。指示された器具を手早く用意し、湯を沸かしに駆けていく。


 前脚を器用に動かしたリュネットが、少年の口からガーゼを抜きだした。ユウリスが大きく息を吐くと、脇腹が強烈に痛む。


 痛み止めの薬が切れたのでなければ、ナルニアが遠慮なく指で押しているのが原因だろう。


「ブルックウェル先生は、ロディーヌに最初から気付いていたんですよね?」


「患者の顔も、家族の顔も忘れない。私は医師だからな。救ったあとは、元気に過ごしていれば構わない。二度と医者にかかるな、それが私の願いだ。感謝も尊敬も必要ない」


 それから少し言い淀んで、ナルニア・ブルックウェルは手を止めた。切れ長の目が、遠い過去を見据える。


 惨劇の夜。


 母親は手遅れとなり、命を取り留めた娘は声を失くした。


「彼女にとって、私は良い記憶ではないと思っていた」


「ロディーヌは、貴女に感謝していますよ。ブルックウェル先生が救ったのは、命だけじゃない。母親を亡くした彼女に、希望を与えました」


「生意気な口を利けるくらいには元気だな。いい機会だ、血抜きもロディーヌにやらせよう。縫合も実技で学ぶ機会は少ない。安心しろ、ユウリス・レイン。麻酔の瓶は満杯だ」


「え、ちょっと待って、それは、え、俺を実習の材料にするつもりですか!?」


 抗議しても、ナルニアは耳を貸さない。ひどい、と恨み言を漏らすユウリスの足元で、リュネットだけが見ていた――普段は感情を表にださない医師が目元を和らげ、口元に弧を描く、そんな優しい瞬間を。

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