17 悲劇を越えて

 北風は冷たく、蒼白の月から注がれる光が黄金の稲穂を幽玄ゆうげんに染め上げる。薄紅の月は隠れ、今夜の空を支配するのは寒々しい片割れの女王のみだ。


 トリアス伯爵の屋敷からブリギットの市街地までは、徒歩で数十分。視線を伸ばせば明かりは絶えず、耳を澄ませば歌や楽器の音色が微かに鼓膜を震わせる。


 二階のバルコニーから、ユウリスは都市の景色をじっと眺めていた。


 その肩に、そっと羊毛の織物があてがわれる。


「旦那様、風邪をひいてしまうわ」


「ロディーヌ」


 毛布は直前まで彼女が羽織っていたのか、温もりが残っている。ユウリスは羊毛を広げると、ネグリジェ姿で手を擦り合わせるロディーヌを傍らへ招いた。


 房毛をぴんと立たせた少女が、躊躇ためらいながらも婚約者に身を寄せる。


「こんなところでなにをなさっていたの?」


「え、ああ、うん、ブリギットを見ていたんだ。夜に外から街を見る機会って、あんまり無くて。怪物退治で夜に出掛けても、のんびりしている余裕はないからさ」


「ブリギットは素敵な街ね。ルアド・ロエサやノドンスほどの煌びやかさはないけれど、活気があって、土や水が豊かで、豊穣国の名に相応しい都だわ――でも、旦那様には優しくないのね」


 ユウリスは静かに肯定した。


 自分を忌み子とさげすむ故郷が嫌いで、いつかは旅立ちたいと夢見ている。


 理由が婚姻でなければ、今すぐに出奔しても構わない――そう思っていた、春先から続く多くの怪異に関わるまでは。


 こぼした吐息が、白く霞む。


「この街には、嫌な思い出ばかりだった。道を歩けば白い目で見られるし、学校では陰口を叩かれる。将来の希望も、楽しい明日もない。どうして俺だけこんなに不幸なんだろうって、ひとりでいじけていた。自分が何者かを探す振りをして、向き合う問題から逃げていたんだ」


「キルデアに来れば、やり直せるわ」


「そうかもね。でも、いまはブリギットに少しだけ未練がある。この半年で、いろいろなものに触れた。なにを考えているかわからない妖精だったり、知らない世界に住む人々、怪物と人間の関わり方、年の離れた友達――その全部が良い出会いってわけじゃないけれど、自分の心が変わるのを感じた」


 凍りついていた時間は、はじめて闇祓いの光を宿した瞬間に動きだした。


 閉ざしていた意識を解放してくれたのは、地下に住む少女との邂逅だ。


 師と父に対峙した経験を経て、彷徨うばかりの心は矜持と信念を宿した。


 そしていまも、意識は変化を続けている。


「それは、ブリギットを離れるつもりはないということ?」


 不安げなロディーヌに、ユウリスは頭を振った。


 婚姻を受け入れるつもりはないが、自立を諦めもしない。


 レイン家に籍を置かずとも、信念は貫ける。


 かつて≪リッチ≫との戦いで口にした矜持の火は、いまもこの胸から消えていない。


「俺の守りたいものは、俺の手で守る。このままブリギットに居ても、大きく変わることはできないんじゃないかって気持ちは変わらない。ただ、何かをやり残したまま背を向けられないって、そう思うんだ」


 厳しさを感じる故郷も、見方を変えればぬるま湯だ。


 旅立ちたいという気持ちは一層、強さを増している。


 それはロディーヌと心をぶつけあったことで、自分の気持ちを確かめられたからに他ならない。


「セント・アメリア広場でロディーヌに言われたこと――忌み子の境遇に酔って甘えているだけって、その通りだと思う」


「旦那様、あれは!」


「ごめん、責めているわけじゃないんだ。ただ、あのときは君の言葉にすごく苛立った。胸が苦しくて、ただ感情に任せて怒鳴り返すしかできなかったのは、それが目を背けたい自分の弱さだったからだと思う」


 賊のいた薬が原因で気分が昂ぶったのは承知している。罵りあったのもお互い様だ。ユウリスは困ったようにはにかんで、頭ひとつ分は小柄なロディーヌを見下ろした。


 義妹と同じ年の少女に内面を見透かされたのは、少し気恥ずかしい。


「おかげで目が覚めた。今まで俺が立ち向かおうとしていたのは、自分で何とかできる範囲だけだったんだ。本当に理不尽だと思うことは大きすぎて、形も掴めなくて、最初から手を伸ばすのを諦めていた」


 忌み子の災厄。


 赤子の頃に起きた凶事の因果を証明する手段はない。


 だから幼馴染のカーミラが与えてくれた同情に身を委ね、心を偽った。違う、呪われていない、そう叫んでも、先に待つのは茨の道だ。


 街の人々を敵にまわし、家族に疎まれ、友人が離れていくのに怯えて逃げていた。


「ロディーヌの言う通り、戦うべきだったんだ。自分が間違っていないと思うなら、そう口にしなければ誰にもわかってはもらえない。俺はいろんな言い訳をして、けっきょく自分を信じきれていないだけだったんだ」


「違う、違うわ、旦那様、そんな風に言わないで!」


 自らを追い込むような少年の胸に、ロディーヌは両手を伸ばして縋りついた。碧の瞳を揺らした少女が、ユウリスの相貌をじっと見上げる。


「広場で口にしたのは、旦那様に向けた言葉じゃない。あれは全部、私自身のことよ。境遇に酔いしれて、しょうがないんだって言い訳して、可哀想だと自虐して、偉いわって自分を褒めて――自分の夢が叶わないから、貴方に八つ当たりしたの。本当に最低だわ」


「ロディーヌの、夢?」


「……私、お医者様になりたいの」


 ユウリスの脳裏に浮かんだのは、ナルニア・ブルックウェル医師の姿だ。そういえば女医は、ロディーヌが朝から天幕の付近をうろついていたと証言した。野外病院の手伝いを申し出たのも、医者の勉強をしたかったからだとすれば得心がいく。


 目を丸くする少年から視線を外して、ロディーヌは田園の景色に顔を向けた。


「お母様は、強盗に殺されたの」


 詰まる息を吐き出すように、ロディーヌは紡いだ。


 呼気が白い煙となって、夜闇に溶けていく。


 少女の房毛が緩やかに揺れるが、感情は読み取れない。


 記憶を辿る声だけが、静かに鼓膜を震わせる。


「私が八つで、妹が六つのとき。観劇の帰り道に馬車が襲われて、護衛も行者も命を奪われた。男はお母様を馬車から引きずりだして、ネックレスや指環を奪った挙句、私と妹を攫おうとしたの」


「ロディーヌ、顔色が悪い。なかに入ろう」


「いいえ。いま聞いてほしいの。強盗は、私と妹が乗ったままの馬車を奪おうとしたわ。必死で止めようとしたお母様は胸を刺されて、泣き喚いた妹はのどを裂かれた。私は怖くて、ただ震えて――」


 真っ青な顔で唇を震わせる少女の身体を、ユウリスは包むように背後から抱きしめた。羊毛の暖かさよりも熱を帯びた人肌の温もりが、惨劇の記憶からロディーヌを守る。


 零れ落ちる涙が、少年の手を濡らした。


「けっきょく、騒ぎを聞きつけた兵士が駆けつけてくれたおかげで、強盗は逮捕されたわ。でもお母様は即死で、妹は喉から溢れる血が止まらなくて、私はただ必死に傷口を押さえることしかできなくて――そんなとき、ひとりのお医者様が通りかかったの」


 行きずりの女医は手持ちの道具でロディーヌの妹を助けた。


 針と糸で傷口を縫合し、気道を確保して呼吸を止めず、野次馬を怒鳴りつけて湯や包帯を集め、路上の処置で終わるはずの命を救った――その女性こそナルニア・ブルックウェル医師だ。


「ブルックウェル先生が⁉」


「ご実家がキルデアの開業医なの。その夜はブリギットから帰省されたばかりで、偶然に居合わせたそうよ。ただ突っ立っているだけの私にも、ナルニア先生は容赦なく指示したわ。声をかけろ、必死で呼びかけろ、家族の声に勝る治療はないって。お母様の亡骸が横たわる隣で、妹の手を握って、たくさん話しかけて、ダヌ神に何度もお祈りしたわ」


 そして妹が目を開けてくれた瞬間の喜びは、いまも忘れられない。


 物心ついたばかりのロディーヌに、最愛の母を目の前で亡くした悲しみは想像を絶する苦しみを与えた。夢に見る、強盗の下卑げびた舌なめずり。鼓膜こまくに張り付いた、母の悲鳴。


 それでも心を塞がずにいれたのは、声を失った妹を守るという姉の意地と、新たに抱いた夢のおかげだ。


「ロディーヌは、ブルックウェル先生に憧れて医者を目指したの?」


「ええ、そう。でもナルニア先生は、私の顔なんて覚えていませんでしたけど。今日も触らせてもらえた患者は旦那様だけだったし、あとは消毒液の補充とか包帯の洗濯で一日があっという間に終わってしまって。帰り際に、余った薬草を少し分けて頂けたくらい」


 ユウリスは首を傾げて、少女の言葉を疑問視した。


 記憶力は抜群の女医が、患者の家族を忘れるだろうか。


 ロディーヌは、仕方ないわよね、と残念そうに肩を竦めた。


「私、医者になろうと必死に勉強したわ。ぬいぐるみで包帯の巻き方を練習して、妹も手伝ってくれて。でも、私はトリアス伯爵家の娘。医者になる夢が叶わないことくらい、わかっていたはずなのに……」


 キルデアを治めるモルゴ・トリアスは臣下の忠言に耳を貸さず、再婚を拒んだ。さらに教会を通じて冥府の婚礼を実施し、女神の御許へ魂を還した妻と添い遂げるという誓いを立てたという。


 モルゴには二人の娘がいるが、世継ぎの男子がいない。しかし一方、ブリギットの法では婚姻を条件に女子の家督相続も認められている。必然的に姉妹のいずれかは婿を取り、爵位を継ぐのが規定路線――そこまで聞いてユウリスは、眉をひそめて唸った。


「あれ、なんか引っかかるんだけど……」


「言葉を話せない妹には、せめて自由に生きてほしかったの。貴方との縁談を持ちかけられたとき、私は覚悟したわ。婿を取り、跡継ぎを産んで、キルデアに尽くすって」


「いや、そうじゃなくて、あ、そうだ、それなら俺は婚姻だけ結んで、爵位はロディーヌが継げばいいんじゃないの?」


 家督はユウリスが継ぐように話が進められているが、法に照らせば爵位の継承先はロディーヌでも問題はない。庶子とはいえ公爵家の子であるユウリスに、モルゴが義理を通したのだろうか。


 婚約者の頭に浮かぶ疑問符に、ロディーヌは小さく舌をだして白状した。


「ごめんなさい。旦那様に爵位を押し付ければ、まだ私が医者になる道も残されるかなと思って」


「あ、ロディーヌ、ずるい!」


 抗議したユウリスの胸元に、ロディーヌが後頭部を擦りつけてじゃれつく。二人の楽しげな囀りが静かな夜を彩り、屋敷の警備に立つ門前の兵士たちが指笛を鳴らして茶化した。


 少女はすっかり上気した顔に喜色を浮かべ、少年の腕を愛しげに撫でた。


「旦那様は、私と結婚したくはないのよね?」


「君と結婚したくないっていうわけじゃなくて、いまは誰とも――」


「同じことよ。私みたいな可愛らしい淑女を袖になさるのだから、カーミラ・ブレイクは女神様の生まれ変わりなのかしら」


 言葉に詰まるユウリスに、少女の胸がちくりと痛む。


 ロディーヌは大きく息を吐いて、するりと少年の腕から抜けだした。赤く晴らした目が再び熱を帯びるのを悟られないように、軽やかな身のこなしで背を向ける。


「私、お父様に話してみるわ」


「ロディーヌ?」


「医者になる夢、内緒にしていたの。ちゃんと伝えて、お父様にも自分にも向き合ってみる」


 トリアス家を継ぐ義務に変わりはなく、妹に押し付けるつもりもない。それでも行動しなければ、より良い未来を手放してしまう。不器用で鈍感な婚約者に、自分が手本となって道を示そう――そう考えると、ロディーヌの心は困難に立ち向かうのがむしろ楽しみになった。


 成長した自分でなければ、きっと彼には振り向いてもらえないと思うから。


「ついでに婿選びも考えなおしてもらいますね。いくら剣術道場の姉弟子さんでも、女性に倒されて気絶する男なんて情けないもの」


 バルコニーから室内に一歩踏み出し、ロディーヌは肩越しに振り返った。笑おうと決めて、その通りに。溜め込んだ熱い雫を散らして、精一杯に華やぐ。


「だから貴方も、自分の未来を諦めたりしないで。大丈夫よ、ブリギットにいる間は婚約者として私が支えてあげますから。おやすみなさい、旦那様」

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