16 ひたむきな心

「旦那様!」


 突然に姿を見せた婚約者に驚くユウリスを、ロディーヌは小さな身体を精一杯に伸ばして抱きしめた。まだ幼い手が、少年の黒髪をぎこちなく撫でる。リュネットも一足飛びで肩に乗り、ユウリスの頬をぺろりと舐めた。


 二人の花嫁に慰められると、少年の昂ぶる気持ちも徐々に落ち着いていく。


「ありがとう、ロディーヌ。リュネットも」


 ユウリスは肩越しに老婆へ振り向いた。


 うつ伏せで寝そべるスージーの目には怯えの色がある。彼女は、忌み子の災厄が、分の息子が仕組んだ自作自演である可能性を危惧していた。


 借金から逃れるために、善良な少年の人生を台無しにしたのではないかと。


「ユウリス・レイン。もし息子のサイモンがよからぬ企てで保身に走り、忌み子の災厄なんてものをでっちあげたのだとしたら――」


「もしサイモン・ウォロウィッツが故意に俺を貶めたのなら、絶対に許しません」


 項垂れるスージーから視線を外して、ユウリスは前を見た。


 ロディーヌの房毛が不安げに揺れている。


 頬ずりしているリュネットの毛並みは心地よい。


 彼女たちに恥じない人間で在りたいと、ユウリスは強く願った。


「でもいまはウォロウィッツ司祭を恨んではいません。そうでないときもあるけれど、それは心が弱った自分です。ちゃんと考えて、暗い気持ちは乗り越えていきます。俺が言うことじゃないかもしれないですけど――息子さん、見つかるといいですね」


 少年の答えを聞いた老婆は、唇を噛みながら顔を伏せた。鼻水を啜るウォロウィッツ夫人から、ありがとうねぇ、という声が小さく漏れる。


 吐息を零したユウリスは、それから晴れやかに頬笑んだ。


 これ以上にかける言葉はないが、胸のつかえは取れた気がする。


「ロディーヌも、ありがとう」


 気恥ずかしそうに身体を離したロディーヌが、視線と房毛をさまよわせる。


「もう、大丈夫なの?」


「うん、ばっちり!」


 快活な少年の答えに、少女は嬉しそうにはにかんだ。


 しかし、ここでユウリスは首を傾げた。


「そういえばロディーヌは、どうして此処に?」


 服も質素な部屋着姿の彼女は、仮面も纏っていない。


 水を向けられらロディーヌは、途端に目を泳がせた。


「あ、えと、その、たまたま近くにいたら、旦那様が見えて。それで、天幕の裏に隠れていたら、お婆様とのお話が聞こえてきたの。なんのことかわからなかったけれど、覗いたら旦那様が、すごく辛そうで、だから、我慢できなくて――」


 気がつけば飛び出し、抱きしめていた。


 そう語るロディーヌの視線は熱っぽく、ユウリスは思わずドキリとしてしまう。


「ロディーヌ、それって……」


 頬を上気させた少年の黒髪を、ナルニアが乱暴に掻きまわした。


「此処は病院だ。青春は外でやれ」


 そのままずいっと額を近づけた女医が、ユウリスと鼻先が触れ合う距離で視線を合わせる。


「だがユウリス・レイン、私の助手として勉強をしたいのなら話は別だ。君は物覚えが良いし、手際も悪くない。さあ、白衣を貸してやろう」


「え、遠慮します。手が足りないなら、中央病院に応援を呼びに行きましょうか?」


「いや、手は足りている。だが将来的に私の助手になる人材を育成したい。私は早口で無駄が嫌いだ。言うことを一度で聞き取れて、かつ違わずに反芻できる者は多くない。さあ、仮面を外せ。白衣に着替えろ。医療は良いぞ。人の身体は面白い。さあ、さあ、さあ!」


 強引に迫るナルニアに、ユウリスが顔を強張らせた。困っているなら助けるのはやぶさかでもないが、率先して収穫祭に医療を学びたいとも思わない。


 そこにロディーヌが裏返った声で、はい、と片手を上げた。


「私が手伝います!」


 緊張した房毛をぴんと逆立て、ロディーヌが小鼻を膨らませる。


 ナルニアは唸りながら、意気衝天の少女を見据えた。


「君は午前中から、ずっと私を見ていたな。医者に憧れているのか?」


「はい! 私、立派なお医者様になって、病気や怪我で苦しむ人を助けたいと思っています!」


「良い心掛けだ。では良く聞け。腰痛に効く薬草はヨルグの葉だが臭いがきつい。微塵みじんにしたハギサリの葉を五分の一の割合で用意し、り潰したカロボロの根に混ぜて塗るのが効果的だ。また薬は半日で洗い流さねば皮膚がかぶれる。洗い流す際は温い湯が望ましい――復唱!」


「え、あ、あの、腰痛に効くのはヨルグの葉で、臭いを消すのに、ハル、ハルギリの葉を微塵にして……」


「却下。一度で聞き取れない者は不要だ。出直して来い」


 冷然と言い放つナルニアに、ロディーヌは拳を震わせて俯いた。


「そんな……」


 悔しそうに引き結ばれた唇と、小刻みに動く鼻先は悔しさの表れだ。彼女が病院の手伝いを申し出た理由は定かでないにしろ、ユウリスにもひとつだけわかることがある。


 ロディーヌは朝から野外病院を眺め、医療従事者として働く自分を夢見ていたのだ。その健気な想いを、少年は見過ごさない。


「あの、ブルックウェル先生の助手でなくても、此処の手伝いに人が居て困ることはないんじゃないですか。それに最初から何でも完璧な人間はいません。俺も最初は暗唱が苦手で、霊薬の調剤を学ぶために暗記術を教わりました」


「なら君が暗記術を彼女に教えてから、私の元へ寄越せばいい」


「いいえ、それが賢明とは思えません。いくら上辺だけ言葉を連ねても、実技を伴う経験には勝てないはずです。霊薬の調合も同じで、聞くのと実践はまったく違いました。やる気のある優秀な人間が欲しいなら、現場で育てるべきです」


「ユウリス・レイン、医療の現場は学校ではない」


「彼女が包帯の巻き方も、薬の塗り方も知らないのなら、追い返せばいいと思います。でも基礎があるなら、現場は実践と学びの機会にもなります」


 闇祓いとしては見習いながらも、大人も対応に苦慮するような怪事にユウリスは対峙してきた。ナルニア・ブルックウェルは夏に起こった禍事の当事者として、この少年の活躍を目の当たりにしている。


 諦めきれずに顔を上げたロディーヌも、女医に真剣な眼差しを注いだ。


「本格的な治療の経験はありません。でも簡単な処置の仕方は勉強しました。擂鉢すりばちも使えます。汚れ物だって洗います。お願いします、私を使ってください!」


「闇祓いは現場で独り立ちしても、常に学びを必要とすると師は言いました」


 実際は、初めて遭遇した怪物の対処は遭遇してから考える、という趣旨の発言だが、ユウリスは前向きに解釈して言葉を重ねた。


「現役の医者だって、現場で学ぶ経験は多いんじゃないですか。お願いします、彼女を此処で働かせてください。聞いてくれたら、俺も一日くらい付き合いますから!」


「お願いします、ブルックウェル先生! 私、きっと役に立ちます!」


 気がつけば他の患者や医療従事者も固唾を飲んで見守っている。


 ナルニアは広い額を片手で押さえると、やがて渋々と頷いた。


「しかたない。君には救われた恩もある。だが、使い物にならないとわかれば放りだすぞ。医療の現場は甘くない」


 これを聞いたユウリスとロディーヌは破顔して手を叩き合い、天幕は拍手喝采に沸いた。


 騒ぐな、病院だ、と一喝する女医の表情もまんざらではない。


「ありがとう、旦那様。私、頑張るわ!」


 背丈に合う白衣がなく、白い前掛けを着用することになっても少女の気概は衰えない。ナルニアの指示を受けた彼女は早速、使用済みの包帯を桶で洗いはじめた。


「がんばれ、ロディーヌ」


 奮闘する婚約者に相好を崩したユウリスは、そのまま野外病院を後にした。


 するとこれまで口を開けずにいたリュネットが、鬱憤を吐き出すように少年の耳元で文句を垂れはじめる。


「んもう、なんなのよオスロットとかいうヒゲ、あったまきちゃう! あのお婆さんもわざわざ坊やの嫌がりそうなこと聞くことないじゃない! さっきの医者の女は目力ありすぎよ! だいたいロディーヌはなんであんなところにいたわけ!? それから坊やはもっとわがままになりなさい。怒って、暴れて、ねえ、ちょっと聞いてるの!?」


「聞いてるよ。さっきは慰めてくれてありがとう。整理がつかない気持ちもあるけど、スージーさんと会えたのは良かった。なんだか少し、胸が軽くなった気がする。それもロディーヌとリュネットがいてくれたおかげだ」


「な、なによ、素直じゃない、坊やのくせに。い、いいわ、感謝の気持ちは捧げもので表しなさい。さっきから焼けたトウモロコシの良い匂いがするのよね!」


「ああ、なんか俺も空腹。よし、でもトウモロコシの出店、けっこうあるよ。美味しそうな店、臭いで探せる?」


「任せなさい。鮮度、焼き加減、味付け、このリュネット様が妖精の鼻でばっちり嗅ぎ分けてあげるわ!」


 リュネットの意気込みに肩を揺らし、意気揚々と北区の噴水広場に踏み出したユウリスだが、その表情は瞬く間に固く強張った。


「げっ――!」


 視線の先に映るのは、広場の一角を占有する木製の舞台だ。


 訓練用の道着に身を包んだ若い女性が壇上から声を張り上げ、武術大会の参加者を募っている。計十六人の剣士がトーナメント方式で戦い、最終的な勝者に賞金が支払われるという仕組みのようだ。


「あれはヤバい」


 ユウリスは喉の奥で呻きながら、そっと広場を離れようと試みた。


「どうしたの坊や、トウモロコシの屋台はあっち――って、なんだか顔色が悪いわよ?」


「あれ、ほら、すぐ向こうにある舞台、俺が通ってる、剣術道場の催しなんだ」


「あら、それなら参加すればいいじゃない。あたしは人の文字もちゃんと読めるのよ、参加費は銀貨一枚で、優勝すれば金貨五枚がもらえるわ。坊や、金貨五枚ってどれくらいの価値があるの?」


「え、ええと、レリンの果実水一万杯分くらいかな。いや、無理だよ。俺、知ってるんだ、あの大会には道場の門下生も参加する。わざわざ銀貨一枚を捨てるなんて馬鹿らしいよ」


 武術大会には一般の参加者に混じり、主催者枠で道場の門下生も出場する。彼らの圧倒的な実力を知る地元民は高みの見物で、事情を知らない外国人から参加料が徴収される仕組みだ。


 ちなみに優勝賞金は毎年、きちんと用意されている。しかし過去に部外者が手にした例はなく、道場の運営が潤うばかりだ。


 そうとは知らないリュネットが、ユウリスの及び腰を憤然と批判した。


「坊やって、自己評価も低いね。これまで≪リッチ≫や≪ジェイド≫と渡り合ってきた勇者が、いまさら人間相手に怯えてどうすんのよ!」


「わかってない、リュネットは全然わかってない、お願いだから安全が確保できるまで黙ってて――」


 姿勢を低くしたユウリスは、人混みに身を投じた。相棒である白狼の呼吸を真似て、気配を殺す。迅速に、かつ目立たずに広場を離脱しなければならない。


 神経を研ぎ澄まし、人の流れを感覚で掴み、徐々に後じさ――ろうとした背後に、不意の気配が三つ。


 同時に通るのは、落ち着いた男と、冷徹な男と、甘い女、どれも若い声。


「ユウリス君、奇遇ですね」


「ユウリス・レイン、気配は殺すのではない。溶かすのだ」


「ユウちゃん、もしかしてぇ逃げようとしたぁ?」


 咎めるような三つの声が、ユウリスに絶望をもたらした。


「見つかった……」


 リュネットも視線や気配もなく現れた三人に、ぎょっと目を剥いて警戒する。


 少年の背後に佇んでいるのは、舞台上の娘と同じ道着に身を包んだ二十代前後の男女だ。


 彼らに取り囲まれたユウリスは、もはや愛想笑いを浮かべるしかない。


「師範代、兄弟子、姉弟子、お疲れ様です」


「嫌だな、ユウリス君。道場ではないのだから、そんなに気を張る必要はないよ」


「いいや、師範代。常在戦場の心構えなくして成長無し。ユウリス・レイン、調子はどうか?」


「そんなことよりぃユウちゃん、お願いがあるんだけどぉいいかなぁ。武術大会のぉ、参加者がね、ぜんぜん足りないのぉ」


 道場の上下関係は厳しく、一門下生に拒否権はない。


 師範代がやんわりと出場を打診し、兄弟子が問答無用でユウリスの襟を掴む。不幸中の幸いだが、強制連行の見返りに参加費用は免除された。


 茫然自失の少年に、リュネットが小声で喝を入れる。


「ちょっと坊や、やるからにはがんばりなさい! あたしがついているわ! 声が枯れるまでばっちり応援してあげる!」


「そ、そうだね。俺も成長したし、やれるところまでやってみるよ」


 しかし前向きな心は、半時も経たずに折れた。


 初戦と二回戦、隣国オェングスの斧使いとエーディンの騎士を難なく撃退したユウリスだが、幸運は長続きしない。


 続く準決勝を迎えた少年は、姉弟子が放つ神速の剣舞に為す術なく敗北した。


 同門であろうとも、剣を握れば慈悲はない。


 滅多打ちにされて白目を剥いた彼が担架たんかで運ばれた先は、臨時の野外病院――傍らの寝台で眉をひそめるスージーに見守られながら、ロディーヌは初めて任された患者に頬を引きつらせた。


「旦那様、なにをしていらっしゃるの?」


 答える気力もない少年に代わり、リュネットが半眼で舌を伸ばした。


「なにも聞かないでちょうだい。坊やだって、がんばったのよ」

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