07 傷痕

「こっちよ」


「痛いっ、いたたたた、誰!?」


「お馬鹿ね、黙りなさい」


 凛々しい女の声が、呆れたように返る。


 まるで雑踏の仕組みをすべて理解しているかのような手際の良さで、気付けば人垣の外側へ連れ出されていた。


 キーリィの声が、ひときわ大きく耳に届く。


 誘導されたのは、選挙の関係者のみが立ち入りを許される舞台袖らしい。


 目を白黒させるロディーヌの乱れた襟を、謎めく先導者がそっと整えた。


「素敵な衣装ね。キルデアは織物も上等と聞くけれど、本当ね。川向こうにルアド・ロエサがあるせいで目立たないのかしら」


「あ、ありがとうございます。その、ええ、流行はルアド・ロエサから始まります。でも、キルデアの洋裁師ようさいしは優秀なので時好性じこうせいには囚われず、伝統を重んじています」


「完璧な回答ね。見習いなさいよ、ユウリス」


 勝気に頬笑むのは、波打つ金の髪が目を引く少女だ。


 身体の線を強調した、露出の多い紫のドレスに身を包む彼女――竜の意匠いしょうを施した仮面をまとってはいても、ユウリスはすぐに正体を看破した。


「イライザ!」


「あんた、婚約者の前で情けないわね。この子、不安がっていたじゃない。家庭をもつなら、妻を不安にさせるような男になるんじゃないわよ」


 仮面越しに額を突かれ、ユウリスは曖昧に笑んで肩を竦めた。


 イライザは、レイン公爵家の長姉だ。腹違いの義姉あねであり、そして春先から続く凶事の犯人候補でもある。


「まさかこんなところで出くわすなんて……」


 夏の事件で疑惑を深めて以来、ユウリスは彼女を避けてきた。


 信じてきた義姉の容疑を正面から問い質したいと思う一方で、追求できる材料は乏しい。師と話し合いの結果、ひとまずイライザの嫌疑は保留にすると決定した。


 しかしレイン家の長姉は街一番の才媛さいえんと呼ばれるだけあり、洞察力も鋭い。弟の違和感を、明け透けに指摘する。


「あんたとまともに会話をするのは、ずいぶんと久しぶりね。最近、私を避けているでしょう。生意気よ、ユウリスのくせに。言いたいことがあるなら、はっきりと口になさい。溜め込むのは、悪い癖よ。まあいいわ、お祭りの間はね。肩の猫はなに、可愛らしいこと。ああ、それより、お隣がトリアス家のご令嬢ね――いえ、挨拶はそのままで」


 礼をるために仮面を外そうとしたロディーヌを、イライザの手がそっと制した。レイン家の長姉が優雅にドレスの裾を広げて腰を折り、形の良い笑みを浮かべる。


「イライザ・レインよ。ユウリスをお願いね、キルデアの姫」


「ロディーヌ・トリアスです。先程は、助けて頂いてありがとうございました」


 二人は名乗り合い、淑女らしく季節の花を話題の皮切りに、最後には互いの故郷を称え合う。いくら収穫祭の最中とはいえ、初対面の挨拶なら素顔を晒しても良いのではと首を傾げるユウリスに、イライザが耳打ちした。


「トリアス家との縁談、あんたがすんなりと受け入れるとは思っていないわ」


 イライザは婚姻の破談を前提にしていた。


 素顔で挨拶を交わせば関係も深くなるが、仮面越しなら余計なしがらみに囚われない――収穫祭の慣例で、俗世の因果は無意味だ。それは詭弁でしかないが、屁理屈を弄して義姉の右にでる者はいないと、ユウリスは頬を引きつらせる。


「いまさらだけど、イライザは婚約のことを知ってるんだ?」


「昨晩、お父様から伺ったのよ。ヘイゼルは落ち込んでいるし、アルフレドは食事も喉を通らないくらいに衝撃を受けていたわよ。お母様が聞いたらなんて言うかしら」


「……義母上は、喜ぶんじゃないかな」


 ユウリスは、義母にあたるグレース・レインと折り合いが悪い。


 片や実の母親が知れず、引き取られた家で冷遇され続けた私生児。片や夫の不貞に憤り、怒りの矛先を血の繋がりのない息子に向けた正妻。二人が口を利くのは年に数度で、互いを疎んでいるのは明白だ。


 イライザは珍しく唇を舐め、言い淀む仕草をみせた。


「イライザ、なに?」


「いいえ、なんでもないわ。ユウリス、これからあんたが本当に家を出ることになって、そのときにお母様がなにを言っても、許すことはないわよ。そんなときまでいい子にならなくていいんだから、よく覚えておきなさい」


 ユウリスは義姉の意図がわからず、返答に窮した。


 キーリィ・ガブリフの熱弁も終盤に差し掛かり、ブリギットに変革を、と熱狂が渦巻く。もうすぐ終わりね、と呟いたイライザが、ユウリスたちを舞台の裏手に導いた。


 レイン家の三女ヘイゼルも、侍女に連れられて見学に来ているという。


「そもそも人混みにあんたを見つけたのは、ヘイゼルよ。ちゃんとお礼を言いなさい」


「ヘイゼルが? そもそも、イライザはなんでここにいるの?」


「選挙の手伝いよ。私、今回はキーリィ・ガブリフの後援事務所に入ったの。ヘイゼルはなんで来たのかしらね。あの子だけは、私にも読めないわ」


 ユウリスは眉をひそめて、疑わしげに義姉を見据えた。


 やはり最近のイライザは、行動に不審な点が目立つ。政治家や資産家の宴に足繁あししげく通う理由は、人脈作りだと聞いていた。市長選でキーリィを応援するのも、彼女の目論見に関係するのだろうか。


「イライザはどうして、キーリィ・ガブリフを支持するの?」


「秘密よ。でもそうね、あんたが私を避けている理由に、少しは関係があるかもしれないわ」


 見透かすような視線と共に、イライザが嫣然と口許を綻ばせた。


 真意を問い質そうとするユウリスの唇に、彼女の指先が添えられる。聞くな、あるいは答えるつもりはないという意思表示だ。


「ほら、あんたは私よりもヘイゼルを気にかけてあげなさい。服、ちゃんと褒めてあげるのよ」


 舞台裏は天幕が張られ、休館中の市庁舎入り口に繋がっている。


 木箱に腰掛けていた少女が、ユウリスに気付いて腰を上げた。肩まで伸ばした緩やかな癖の金髪、白いブラウスと桃井の膝丈スカート、左胸には紫の花のコサージュ、纏う仮面は青いちょう――レイン家の妖精とも呼ばれる三女、ヘイゼル・レインだ。


「ユウリス」


 喜怒哀楽の薄い、か細い声が呼びかける。


 ユウリスは屈んで、義妹の頬に手を添えた。可愛いね、と笑いかけると、ヘイゼルは碧い目を左右に動かして顔を赤らめる。しかしロディーヌが堂々と挨拶をすると、レイン家の末妹まつまいは俯いて表情を曇らせた。


 気まずい雰囲気に包まれる婚約者と義妹いもうと――二人を気にかけるユウリスの耳元で、リュネットが密やかに身を竦ませる。


「さっきの姉といい、こっちの妹といい、坊やの家って化け物の巣窟ね」


 聞き咎めたユウリスが眉を寄せるが、リュネットはそっぽを向いて発言の意図を明かそうとはしない。ヘイゼルが不思議そうに白猫を見上げ、それからセント・アメリア広場から聞こえる今日一番の拍手喝采に視線を移した。惜しまれながら退場したキーリィが舞台裏に姿を見せると、つぶらな碧い瞳がユウリスに問いかける。


「ユウリス、あの人はどういう人?」


「キーリィ・ガブリフ議員だよ。いま元老院で一番、勢いがある。今回の市長選は五人の候補者がいるけど事実上、現職のキャロット市長と彼の一騎打ちじゃないかな。ご婦人にもすごく人気なんだ。ヘイゼルも握手してもらうといいよ」


 わかりやすく説明したつもりだが、そう、と目を伏せるヘイゼルの反応は薄い。握手しない、とも拒絶された。少女はもういちど顔を上げ、今度は長姉に同じ質問を投げかける。


 噂のキーリィ・ガブリフはユウリスに気付くと、秘書の男性を伴い真っ先に足を向けた。近づいてくる議員に向け、イライザがドレスの裾を摘んでお辞儀をする。そして妹の疑問にさらりと答えた。


「悪い男よ」


「誰が悪い男なんだい、イライザ嬢?」


愚弟ぐていのユウリスですわ、ガブリフ議員。男友達より女性との交友が多いなんて、生意気ですもの」


「ほお、僕の知らないユウリス・レインだ。君も隅におけないね。今日は僕の応援に?」


 上手く話を繋げたイライザに苦笑して、ユウリスは曖昧に頷いた。個人的な親交のある彼には悪いが、市長選挙では現職のキャロット市長に投票するつもりだ。苦し紛れにロディーヌを紹介すると、キーリィは予想外に驚いた。


「トリアス伯のご令嬢とは、また絶妙な婿入り先だな」


 顔をしかめたキーリィは、男同士の話だ、と口にすると、ユウリスを舞台裏の隅に招いた。


「ロディーヌ、ごめん。すぐ戻るから」


「ええ、私のことは気になさらないで。レイン家の皆様とお話をしているわ」


 少年の肩の乗る白猫は、当然のようについてくる。二人きりになるなり、キーリィは前置きもなく本題に入った。


「ユウリス、望んだ結婚ではないね?」


「さすがキーリィ・ガブリフ、ご明察だ。将来は闇祓いになるって話をしたら、父上に反対された。勝手ができないようにキルデアに封じるって。無茶苦茶だよ」


「貴族の縁談は、親の意向で結ばれるのが常だ。忌み子と呼ばれる君も、レインを名乗るならば致し方ない。だが、まさか素直に受けるつもりはないんだろう?」


 もちろん、と頷きはするが、まだ突破口は開けていない。


 ロディーヌと顔を合わたのも、つい昨日だ。


 一晩、考えを巡らせた。


 いっそ街から逃げ出してしまおうかとも考えたが、以前に追っ手を差し向けると警告された経緯もあり、踏み切れない。


 縁談を断る口実はないものかと頭を悩ませるユウリスに、支柱に背を預けたキーリィが軽やかに頬を緩めた。


「馬上槍試合に出場してみるのはどうかな」


「え――あ、優勝者は、レイン公爵に願いを聞き届けてもらえるってやつ?」


「そうだ。婚姻の破談を申し出るなんて前代未聞だが、やってみる価値はあるだろう」


 盲点だった、とユウリスは天啓を得たように表情を明るくした。


 どちらにせよケット・シーの依頼を果たすために馬上槍試合の出場は決めている。竜の牙の杖を手に入れるには優勝しかないので、まさに一石二鳥だ。


 お役に立てたようでよかったよ、と白い歯を見せるキーリィの背後で、不意に天幕がめくり上あがる。


 そこに飛び込んできたのは、妙齢の婦人だった。


「キーリィ様! ずっとお慕いしておりました!」


 想いを認めた蜜蝋みつろう便箋びんせんを握り締めた婦人は、それを無理やり受け取らせようと彼の手首を掴んだ。人気者は大変だな、とユウリスが苦笑した瞬間、キーリィの目つきが変わる。


 紅蓮の瞳を爛々と燃え滾らせ、彼は乱暴に婦人を振り解いた。


「うわあああああああああああああああああ!?」


 そのままキーリィは息を詰まらせると、胸元を押さえてよろめいた。


「ぼ、僕に触るな、触るな、触るな、触るなアッ!」


 普段の冷静沈着な姿からは想像もできない取り乱しように、ユウリスは息を呑んだ。倒れそうになる彼を慌てて支えているうちに、異変を察知した職員たちが駆けつける。


「ガブリフ議員!?」


「何事です!?」


「その女を捕らえろ!」


「警察! 警察!」


 侵入者の婦人は選挙妨害の容疑で警察に連行され、イライザは居合わせた全員に騒ぎを外へ漏らさぬように厳命した。


「大事な選挙前よ! なにが票の流動に繋がるかわからないから、細心の注意を払いなさい!」


 そしてキーリィ・ガブリフは意識が失うと、ユウリスたちも舞台裏を追い出された。


 ロディーヌが不安げに房毛を揺らし、眉をひそめる。


「旦那様、ガブリフ議員はどうなさったの?」


 どうだろうね、とユウリスは眉尻を下げてお茶を濁した。


 発言内容や状況から察するに、キーリィが錯乱した原因は闖入者の婦人だ。


「あの人……というか、女の人を怖がっていた?」


 女性恐怖症という病が真っ先に思い浮かぶ。


 神学校に男性恐怖症の女子生徒が在籍しているので、逆があっても驚きはない。


 しかし以前、リジィという少女に抱きつかれたキーリィは、なんの異常も示さなかった。


「子供は平気で、大人が駄目なのかな。そういえばイライザはさっき、気絶したキーリィを俺に運ばせた……まだ独身だし、そういうこともある?」


 完璧な貴公子とばかり思いこんでいたキーリィの意外な一面に、ユウリスは衝撃を受けていた。


 演説の終了したセント・アメリア広場は閑散かんさんとして、人の流れは南区へ向いている。


 肩のリュネットが聞き耳を立て、運河で船舶を舞台にした水上演劇が繰り広げられるようだと教えてくれた。


「坊やが気を揉んでもしょうがないわよ。ほら、気分を変えてお祭りを楽しみましょう。ミアハの子は特に氣の巡りが精神状態に左右されて――」


 前脚でぐりぐりとユウリスの頬に押さえるリュネットの声は、ロディーヌの短い悲鳴に掻き消された。


 少女の視線を向ける先で、少年同士の喧嘩が勃発している。


 片方は体格の良い赤毛の少年で、もう片方は線の細い金髪の少年だ。


 その光景を認めたユウリスは、思わず目を見開いた。


「アルフレド⁉」


 レイン家の嫡男ちゃくなんにして、ユウリスの義弟おとうと――アルフレド・レインは赤毛の少年に打ちのめされ、石畳の上に身体を沈めた。


「なにやってんだ、あいつ」


 取り囲む野次馬から三人の少年少女が飛び出し、アルフレドを助け起こす。赤毛の少年は腕を組み、侮蔑の言葉を吐いて勝利を宣言した。


「ざまぁないな、アルフレド。お偉い公爵家も、跡取りがこれじゃ先が思いやられるぜ!」


 喧嘩は祭りの華とばかりに観衆が沸き立つ。


 アルフレドは仲間たちに連れられて、退散を余儀なくされた。


 呆然とするユウリスの耳元で、リュネットが声を尖らせる。


「あの赤い髪の子供、ペローの気配がするわ!」

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