03 白猫と吸血鬼

 トリアス伯爵の別荘は、二階建ての古い佇まいだ。


 定期的な手入れを怠らず、庭や屋内は小奇麗だが、壁の染みやひびが長い年月を感じさせた。


 かつては家族、臣下が談笑した食堂のテーブルは長く、片側九人掛け、両端に一人ずつ、計二十の椅子が並んでなお、空間にはゆとりがある。


 ユウリスは傍らに座るロディーヌの手を握りながら、向かいに佇む壮年の男を見据えた。


 先ほどから彼は、白い猫と言い争っている。


ひとえに誠意をもって接すれば、斯様かよう匹夫ひっぷの如き振る舞いをせずとも良いはず。故人曰こじんいわく、大局を力で捻じ伏せるは、運河の流れを剣で変えんとするに同じ。機を読み、礼節を重んじれば、百願ひゃくがんも成せようというのに!」


「あんた、バッカじゃないの。川の流れが気に入らなければ、土石を雪崩なだれ込ませればいいのよ。こっちは追われる身だってのに、悠長に挨拶してるヒマなんかあるわけないでしょうが!」


 ロディーヌが、なんとかして、と視線でユウリスに訴える。


 少年少女の戸惑いに気付いた男が銀の髪を撫でつけ、青白い肌の相貌そうぼうを痛ましげに歪めた。燕尾服えんびふくを着こなし、えりの長い黒の外套を纏う姿は凛々りりしく、口を開かねば婦人の視線を一身に集めようかという貴公子だ。


「ご無礼、ユウリス殿。改めて名乗りましょう、我が名はブラム・シェリダン。先ほどお屋敷に害を成したるは、我が主であるリュネット姫。と、失礼、そちらのお嬢様、お名前は?」


「わ、私はロディーヌ・トリアス。彼の婚約者よ。ねえ、なんで猫がしゃべっているの?」


「猫にして猫に在らず、猫似の妖精か、はたまた猫が妖精似かは議論の余地もございましょう。婚礼の誓約は未来の約束に同じ。故に奥方様とお呼びしましょう。奥方様、改めてご挨拶申し上げる。宵の静けさを乱した所業、お許し願いたい」


 大きく振り上げた片手を胸元に添え、ブラムが慇懃いんぎんに礼を執る。


 テーブルの上の白猫はツンと鼻先を上向け、悪びれた様子もなくそっぽを向いた。


 ロディーヌは慣れない呼称に戸惑い、奥方様、と鸚鵡返おうむがえしに呟き続けている。ユウリスは胡散臭そうに夜の訪問者を睥睨へいげいした。


「それで、御用はなんです?」


「おお、我らの救世主、妖精の守護者、遠き未来の岐路に立つ者、ユウリス・レイン殿。お招き頂き、幸甚の至りにございます。衷心ちゅうしんよりお礼申し上げる!」


「招かないなら屋敷を壊すと脅したのは、そちらです。だから仕方なく入れました。だいたい扉を壊して勝手に侵入しておいて、いまさら招かれたなんて言い訳は通用すると思っているんですか?」


「巡りたる星の齟齬そごは天命にて。毀損きそんした家屋は我が手で修繕をお約束いたしましょう。しかして之、我が過誤にあるまじきと思うが如何かな、姫?」


「そうね、壊したのはあたし。認めるわよ、悪かったわね。そういうわけでブラム、あんたが直しなさい」


「御意、我が姫。いや、しかし修繕は後ほど。誤解を与える前に、ユウリス殿と奥方様には事情をご説明せねばなりません。実のところ、我が身は招かれねば他人の屋敷へ立ち入れぬのです」


 それは当たり前のことよ、と言いたげに広げられたロディーヌの片手を掴み、ユウリスは椅子を倒して立ち上がった。


 招かれなければ、他人の家の敷居を跨げない――その台詞が怪物の知識と瞬間的に結びつき、本能が危険を訴える。腰の短剣を引き抜き、婚約者の少女を背に庇う。


 そして意識を心臓の奥底、心の深淵しんえんに鎮め、肉体と精神の狭間に宿る破邪の火に呼びかけた。


闇祓やみばらいの作法に従い――!」


「悪手ですぞ、ユウリス殿」


 ユウリスの全身が蒼白の光を帯びるのと同時に、ブラムの両腕が黒い霞と化した。濃霧のうむのように拡散する闇は瞬く間に食堂を覆い尽くし、赤い双眸そうぼうが無数に瞬く。


 ロディーヌは膝をつき、女神に祈りを捧げながら戦慄せんりつした。


「なに、これ、ああ、女神ダヌよ。邪悪なるものを退けたまえ。ねえ旦那様、どうして身体が青いの?」


「おや、奥方様はご存じない。ユウリス殿は勇猛なる闇祓い。蒼炎は魔神の血を焼き、深き青の瞳は人心の闇を祓う。その名も≪ゲイザー≫!」


「黙れ。お前を知っている、図鑑で読んだことがあるんだ。招かれなければ、扉が開いていようと他人の屋敷には入れない。水を渡れず、鏡に映らず、日の光を嫌う怪物」


 漆黒に浮かぶ双眸が、輪郭を宿す。


 充満する気体から飛び出すのは、無数の蝙蝠こうもりだ。一匹は子供の頭ほどで、鋭い爪と吸血の牙を剝く怪物――≪アフール≫の幼体。


「体内に怪物を飼い、呪術を駆使し、人の生き血で糧とする存在――ノスフェラトゥ!」


 あるいは吸血鬼とも称される、人の姿に似た魔神の眷属だ。


 ユウリスは周囲を埋め尽くす≪アフール≫の群れに突破口を探すが、ロディーヌの安全を考えると妙案は浮かばない。


 口角を吊り上げたブラムは、鋭く尖った犬歯を晒した。


「お見知り頂き光栄の至り。ご明察の通り、ノスフェラトゥなれば。よわい九百の時を重ね、ヴァンパイア・ロードとも」


 ヴァンパイア・ロードは吸血鬼の最上位種だ。


 ぎょっとするユウリスに、ブラムは愉悦の表情で床を踏み鳴らす――それを合図に、≪アフール≫の群れが動く。


 瞬間、静観していたケット・シーが高らかに鳴いた。


 白い毛並みが発光し、清廉な声の波動が闇の霧を晴らす。吸血蝙蝠は背を向けて逃げ出し、その姿は薄らいで消えた。


 白猫が威嚇するように歯を剝きだしにして、怒鳴り散らす。


「あんたら、いい加減にしなさい! これじゃ、いつまで経っても話が進まないでしょうが! だいたいブラム、なんで襲おうとしてんのよ! この坊やが死んだら、ぜんぶ台無しじゃない!」


「我が姫、今の状況では致し方なし。斯様な舌戦ぜっせん、緊迫の場面で興に乗らぬは紳士の恥!」


「黙りなさい、ブラム。いい、大事なことだから二回言うわよ、黙りなさい、ブラム・シェリダン。それと坊やも刃を納めなさい。あたしは、良い話をもってきたのよ」


「坊やじゃない、俺はユウリス・レインだ!」


「ええ、よくわかっているわよ、坊や。ほら、ブラム。あんたのせいで話がこじれたわ!」


 しゅんと項垂れるブラムを横目に、ユウリスは警戒を解かない。短剣を構え、破邪の光を宿したままケット・シー――リュネットを見据える。


 ふん、と鼻を鳴らし、彼女は悠然と紡いだ。


「坊やは、ブリギットの指環を探しているのでしょう。在り処を教えてあげるわ。だから引き換えに、あたしと結婚しなさい」

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