02 夜の訪問者
「そうではなくて、子作りをするのかと聞いているのです」
ぶっ、と音を立てて、ユウリスはスープを吐き出した。
そんなまさか、と表情で訴えるが、彼女には届かない。
ロディーヌは眉間に皺を刻み、汚いわ、と呟いて席を立った。
「旦那様、食事の作法は心得ていて?」
「まぁ、義母上から一通りは叩きこまれたけど……って、そうじゃなく!」
「ほら、動かないで、旦那様」
ナプキンを片手に長いテーブルを迂回したロディーヌが、伴侶となる少年の口許を甲斐甲斐しく拭った。そのあいだ、ユウリスはカラクリ人形のようにぎこちなく首を動かすことしかできない。
「ロディーヌは結婚の話、本気で受けるつもりなの?」
彼女と引き合わされたのは、ほんの数時間前だ。
珍しく父のセオドアが客人を家に連れ帰り、ユウリスだけが昼食の席に招かれた。
その場でキルデア辺境伯モルゴ・トリアスと彼の娘であるロディーヌを紹介され、年が明ける前の婚姻を唐突に告げられたばかりか、今夜から収穫祭の終わりまで、この屋敷で二人きりの生活をするように命じられて現在に到る。
「最初はトリアス伯も、この屋敷に泊まるはずだったのに!」
「お父様とセオドア様は六王戦役の戦友ですもの、積もる話があるからレインの屋敷に身を置いているんでしょう。それに、私だってお父様と同じ屋敷で同衾というのは、少し恥ずかしいわ」
「ああ、もう、それだっておかしいよ。ダーナ神教では、婚姻前の、その、そういうことは、ふしだらだって!」
顔を真っ赤にするユウリスに、ロディーヌは呆れた果てた顔で溜め息をついた。そして隣の椅子に腰を下ろすと、幼子に言い聞かせるように伴侶の手を取り、両親の策謀を説く。
「いいこと、私はキルデアの領主モルゴ・トリアスの娘よ。手をつけて、そのまま袖にできるはずがありません。つまりお父様たちは、私たちが収穫祭のあいだに恋仲となることを望んでいるのよ。貴方が縁談を嫌がっているのを知っているから、既成事実をもって納得させようという魂胆ね」
「で、君は率先して、その謀略の片棒を担ごうとしているんだ。なんで、どうして?」
「おかしなことを言うのね。お父様とセオドア様がお決めになったことよ。でも、貴方の気持ちもわかります。懸念は承知しているから、早いうちに話し合っておきましょう」
「そうか、やっぱり知っているよね、俺のこと……」
彼は、豊穣国ブリギットを治めるレイン公爵家の長男だ。
しかし父の不義によって産まれた私生児であり、嫡男ではない。そればかりか赤子の時分に起きた凶事の原因とされ、街では
年端もいかない少女が、その重さを理解しているはずはないと、ユウリスは首を横に振った。
「ごめん、本当は書斎で君を紹介されたときに言うべきだったんだけれど……」
「それはどうかしら。あの場で他の女性の話を持ち出すのは、紳士的ではないと思うわ」
「ああ、俺は忌み子と呼ばれていて――え、女性?」
「忌み子? ああ、忌み子のユウリスね。キルデアでも噂は聞きます。でも、そうではなくてブレイク商会のご令嬢よ。妾は許すけれど、せめて子供が産まれてからにしてほしいの」
「ごめん、待って」
子供。赤ん坊。反芻して、どうにかなりそうだ、とユウリスは頭を抱えた。
「俺、まだ未成年だよ」
「年を越えれば成人なさるでしょう。私も、その、準備は出来ています」
ブリギットの男性は十五歳で成人となる。女性の場合は時期が曖昧で、初潮がくれば一人前だ。
気恥ずかしさを紛らわすように咳払いをして、ロディーヌは整然と続けた。
「できれば二人、男児がほしいわ。子供が神学校に、いえ、歩けるくらいになるまで待ってくれたら、うるさいことは言わないと約束します。でも父親としての役目はきちんと果たすのよ。それと、妾の子供は
「待って、待って待って待って待って待って、待って、待ってったら!」
とうとう大声をだしたユウリスに、ロディーヌの肩を跳ねた。驚かせたことを謝罪して、握られていた手をやんわりと離す。認識に隔たりがある、とても大きな溝だ。
彼女は心外だとばかりに目を白黒させ、居住まいを正して伴侶となる少年を見上げた。
「カーミラ・ブレイク。恋仲なのでしょう。隠す必要はないわ。貴方が婚姻を拒む理由と聞いているから、私なりに考えたの。妻として、家と子をないがしろにさせるわけにはいきません。でも、恋は引き裂かれるほど熱をあげると本で読んだの。だから貴方に、条件付で自由を与えます。ただ彼女は一人娘と聞いているから、そちらの子供はブレイク家の籍へ入れることになるでしょうけど」
「カーミラのこと、誰から聞いたの?」
「答えるまでもないでしょうけど、お父様とセオドア様よ。ああ、でも相手が別の殿方を見つけるようなら、大人しく身を引いてくださいね。新しいトリアス伯が女の尻を追いかけるなんて、キルデアの恥になるわ」
ユウリスは両手で顔面を覆い、身体を丸めた。
父への苛立ち、年下の少女に妾の気遣いをさせた恥ずかしさ、周到な計画に対する無力感、様々な感情が渦巻く。
ロディーヌが身を乗り出して背中をさすってくれるが、惨めさは増すばかりだ。
「今日になって突然、聞かされた婚姻ですもの。混乱するのも無理ないわ。大丈夫よ、問題は二人で乗り越えていきましょう。でも一度、カーミラ・ブレイクとは顔を合わせておきたいの。明日にでも、紹介してくださる?」
「カーミラはダグザだよ。街道が封鎖されて、夏からブリギットに戻れていない。あと彼女は恋人じゃなくて、幼馴染。好意は、否定はしないけど」
開戦の緊張が高まる聖王国ダグザと新聖帝国エーディンは共に街道を封鎖し、他国との往来を禁じている。
夏にダグザを訪問していたカーミラは、未だ帰還を阻まれていた。
レイン家の公爵夫人も三男と次女を連れて神聖国ヌアザに帰省しており、首都ノドンスから動く気配はない。
恩人を弔うために北へ旅立った師も、エーディンで足止めをされていると報せを受けた。
「こんなときに結婚なんて、やっぱりおかしいよ。だいたい、俺が忌み子って呼ばれているのを知っているのに、どうして君は平気なの?」
「貴族の婚姻は親が決め、子は従うのが慣わしです。我が侭を言うより、建設的に考えたいの。貴方が忌み子と呼ばれた過去は変えられないけれど、未来は違うわ。私が貴方を、立派なトリアス伯にしてみせます。あの素晴らしい伯爵様も昔は忌み子と呼ばれていたのよ、首都の人たちは見る目がないわ――そう言われるくらいの、名君になりなさい」
彼女の額から垂れる一房の髪が、鋭利に伸びた。碧い瞳は真っ直ぐで、息を呑むほど鮮烈な光を称えている。同時に、自らを追い込むような覚悟も感じた。
小さな花嫁候補を案じて、ユウリスは眉尻を下げる。
「貴族の務めはわかったよ。でも、君の気持ちはどうなんだ。初めて会った相手と結婚を決められて、子供の心配までして、なんで一気に全部を背負おうとするの?」
「私はトリアス伯の娘です。爵位のため、家族のため、領民のため、身を捧げるのは当然でしょう」
「ロディーヌ、それは――」
そこで不意に、ドアベルが鳴らされた。
ロディーヌとユウリスが顔を見合わせ、同時に首を傾げる。
「どなたかしら?」
「さぁ、でもこんな時間に訪ねてくるなんて……」
門前には領邦軍の衛兵が控えており、夜の来客は取次ぎしないと聞いていた。あるいは屋敷の持ち主であるトリアス伯爵は例外だろうが、それならばベルを鳴らす必要はない。所有者として、鍵を所持しているはずだ。
不安そうに表情を曇らせる少女の肩に、ユウリスは軽く手を置いた。
「俺が出るよ。ここで待っていて」
「いえ、駄目よ、私も行くわ!」
ロディーヌは震える手で、食事用のナイフを握り締めた。
来客相手に過剰な反応とも思うが、彼女の鬼気迫る表情は軽口を許さない。
ユウリスも自然と腰に吊るした短剣を意識して、玄関の前に立つ。不思議と人の気配は感じない。覗き口の
舞台役者のような、芝居掛かった口調だ。
男だが、若々しい響きと、
「
ユウリスは思わず覗き穴の蓋から手を引いた。変人だ、と顔をひきつらせる。
「え、なに言ってるんだかさっぱりわからない。あの、人違いです!」
ユウリスは咄嗟に応え、すぐに後悔した。
居留守を貫けばよかったと嘆息しながら、奥に避難しようとロディーヌの手を引く。しかし彼女は怪訝そうに眉を歪め、扉をナイフで示した。
「貴方の名前を知っているわ」
「声を抑えて、ロディーヌ。そりゃ、ブリギット人ならみんな知ってるよ。忌み子のユウリスは有名人だ。それより、変な人が迷い込んだみたいだ。バルコニーから衛兵を呼ぼう」
声は抑えたつもりだが、訪問者は耳が利くようだ。
扉の向こうで踊るような気配を醸しだしながら、悠々と声は続く。
「人里に下りた隠者の如き扱い、是非もない。されどユウリス・レイン殿。刻限に追われるが故、明朗なる我が願いを聞き入れたし。星の巡りを弄びし時の
プーク――その妖精の名はユウリスに、雷で打たれたかのような衝撃をもたらした。
ほんの僅かな親交のなか、共に命を賭けて大敵に挑んだ戦友だ。実際に妖精がどう思っていたかはともかく、少年自身はプークに並々ならぬ恩義と友情を感じている。
「旦那様。プークって、お話に登場する、あのプーク?」
「そうなんだけど……」
しかし知己の名を引き合いにされても、簡単に夜の客人を信用はできない。
相手が狼藉者であれば、危害はロディーヌにも及んでしまう。
日が昇る頃に出直してもらおうと決めたところで、扉の向こうから新たな声が伸びた。
透明感のある、鈴を転がすような女性の響きは冷然と。
「まどろっこしいわね。こっちは時間がないのよ!」
刹那、扉の僅かな隙間から白い光が溢れる。
ユウリスは瞠目し、咄嗟に少女へ飛び掛った。
「ロディーヌ、目を閉じて!」
「え、きゃっ! だ、旦那様!?」
その小さな身体を抱きしめ、ユウリスが床に転がる――同時に分厚い木の扉が内側に弾け飛ぶ。金具が宙を舞い、戸板が激しく床を叩くなか、ロディーヌの悲鳴が木霊した。
「な、なんなの!?」
「ロディーヌ、俺から離れないで!」
衝撃の余波が起こす耳鳴りに顔をしかめながら、ユウリスは腰の短剣を抜いて立ち上がろうとした。その眼前に、一匹の猫が舞い降りる。
「ご機嫌よう、凡庸な人間」
猫が口を利いた。
先ほど耳にしたのと同じ、女性の声だ。
夏の雲を思わせる、繊細な白い毛並み。長く伸びた耳の先端と脚の先は、快晴の空色だ。三角眼は紫に縁取られ、金色の瞳はじっとユウリスを見据えている。
つんとした澄まし顔のまま、猫は高らかに告げた。
「光栄に思いなさい、坊や。あたしはリュネット。ケット・シーの姫として、あんたの花嫁になってあげるわ!」
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