01 家鳴り

 オリバー大森林の教会で、日替わりの鐘が鳴り響く。

 人々の眠りを妨げない、おごそかな音色だ。


 本格的な夏を迎えたブリギット市の夜は蒸し暑く、多くの母屋は窓を開け放って空気の循環をしている。観光に訪れた外国人は泥棒の心配をするが、その対策は夜警やけいと教会の仕事だ。多少の金銭は必要だが、夜警の巡回と教会の札は不心得者ふこころえものを遠ざける。


 北区エルウッド通り、スコット・ラグ邸の軒先に教会の札はない。地域で金を工面する夜警と異なり、教会の札は自由購入だ。スコットが異教徒ではなければ、単純に費用不足だろうと近所の者は笑う。


 神罰を恐れない盗賊がいるとしても、締め切られた夏場の母屋は汗と熱気の溜まり場だ。立ち入るのは、悪臭に耐える勇気が必要であるだろう。


 揺らぐように明滅するランプの火。


 酒を容れる空のみか――陶器製の酒瓶がいくつも床に転がり、テーブルにはかびの生えたチーズや食器が放置されていた。荒れた室内から目を背ければ、油を買い足す必要はないだろう――スコットは自嘲気味に唇の端を吊り上げ、握った酒瓶を傾けた。粗末なひと雫が舌へ落ち、あとはいくら揺すっても薄い香りが漂うだけだ。


「ちくしょう、安酒の分際で量までケチってやがる!」


 スコットは悪態をついて、酒瓶を壁に叩き付けた。安い陶器が粉々に砕けても、散らばる破片を片付ける者はいない。スコットは少し前に妻と別れ、子もいないかった。亡くなった両親から受け継いだ家で、気ままな一人暮らしだ。


 勤め先の農園は給金も悪くはないが、胸の内に燻る不満が絶えることはない。


「俺はこんなところで終わる男じゃねぇ。転機さえありゃ、もっとでかいことができる。ああ、ああ、クソ、それがなんだ、なんだよ、この有様は、クソ。それもこれも、あの女が悪いんだ。ぜんぶ、あいつが俺の前からいなくって、おかしくなった。俺は悪くねえ、どいつもこいつも俺を馬鹿にしやがって!」


 農学校の卒業後から農園で働き、二十年が経つ。農場主に認められ、数年前には農園の監督役に抜擢された。給料は多少上がったが、所詮は雇われ農夫だ。他人の畑を耕すだけの日々に、充実感はない。


 鬱憤うっぷんのはけ口を酒に求める夫を見限り、妻はとうとう別れを切りだした。


「あの女が、ぜんぶ悪いんだ。妻は、夫を支えるものだろうが。クソ、クソ!」


 床に座り込み、転がった酒瓶を一本ずつ拾い上げる。未練がましく口元に傾けるが、同じ行為を何度繰り返そうとも酒精が湧くはずもない。酒を買う金も、賭場とばに吸い上げられた。最近は勝率も悪く、苛立ちはつのるばかりだ。


 ねずみがチーズを求めて部屋の隅を走るのを目にし、スコットは空瓶を投げつけた。不運にも瓶底びんぞこは害獣に直撃し、細く伸びる悲鳴が気持ちが軽くしてくれる。ぐったりと倒れ、痙攣けいれんする様子が可笑しくて、唇を歪めたスコットは何度も肩を揺らした。同時に指も震えるが、酒精中毒しゅせいちゅうどくの自覚はない。


「ざまあみろ、人間様の食事に手を出すからだ。虫にでも食われちまえ!」


 そろそろ眠ろう、明日の仕事に差し支える。スコットは手を床について腰を浮かせ――家鳴りに気付いたのは、まさにその瞬間だった。


「あ――――?」


 突然、建物全体が歪むような錯覚に襲われる。家全体が自重に耐え切れず、潰れてしまいそうな、深刻で低い音。ブリギットは一ヶ月前の大地震以来、小さな揺れに何度も襲われている。


「また地震か、クソ、クソったれ、レイン家はなにをやってやがる。忌み子だ、忌み子なんか飼ってやがるから、なにもかもがおかしくなる。さっさと殺せばいいんだ!」


 レイン家には忌み子と呼ばれる男児がいる。ブリギットの凶事はすべて、その子供が原因だと聞いた。自分がこんな惨めなのも、家が揺れるのも、金や酒がないのも全部、忌み子の男児が悪い。


 国が悪い。

 レイン家が悪い。


「俺は何も悪くない――!」


 刹那、家の軋みは最高潮に達した。内臓が揺れるほどの不快感。視界がまわる。耳障りな音、木材の悲鳴。座り込んだ尻から脳天まで、痺れるような振動。


 この付近の通りは古い母屋が建ち並ぶ。顔馴染みと最近、いつか地震で家が潰れるかもしれないと笑ったことが脳裏を過ぎる。そのときは真っ先に逃げると余裕を見せたが、いざとなると身体が動かない。近場に掴まるようなものはなく、縋るように手近な酒瓶を拾って抱きしめた。


 なぜだかじっと、鼠を凝視してしまう。

 

 家の絶叫は長く続いた。

 数十秒後にようやく、外へ逃げることに思い至る。


 そこで、気づいた。


 建物全体は、今にも崩れそうな音を立てている。だが揺れや、実際の軋みを、視覚では確認できない。テーブルは揺れず、重ねた食器が音を鳴らすこともなく、黴だらけのチーズも、酒瓶も静止していた。鼠の鳴き声だけが、徐々に細く潰えていく。


 ギィ、と戸の金具が軋む音がした。


 ぬるま湯のような息を呑んで、首をぎこちなく動かす。寝室の扉が、僅かに開いた。立て付けの悪い金具の残響が、まだ耳に残る。気付くと、家鳴りは止んでいた。代わるように、視線が――。


「だ、誰だ――!?」


 戸の隙間から、目が覗いている。


 ドアノブより低い位置で、寝室の暗がりに浮かぶ輪郭。スコットは腕を伸ばし、震える手でテーブルのランプを掴んだ。肘に押された皿が落下し、割れた陶器とうきからこぼれたチーズが床に散乱する。鼠がひときわ、甲高い声をあげた。


 スコットがランプを掲げる。


「ここは俺の家だ、出て行け、出て行けぇ!」


 明かりに浮かび上がるのは、ふっくらとした老人だ。


 緑の帽子を被り、土色の長衣とベルト、革の靴。オーモンの実のように張り艶の良い赤いほっぺた、肌は全体的に赤銅しゃくどう色だ。茶色の巻き毛と口髭、茂みのような眉毛。上目遣いに覗きこんでくる、青い瞳。


 スコットは喉をひきつらせた。


 怯え混じりに投げつけた酒瓶が、老人の頭上を抜けて寝室の闇へ吸い込まれ、音もなく消えてしまう。老人は寝室から出ることなく、ゆっくりと扉を閉ざしはじめた。最後まで何かを憂い、懇願こんがんするような、そんな表情で。


 戸が完全に閉まる。


 スコットは茫然自失のまま、荒い呼吸を繰り返した。ランプを床に落とし、尻餅をついて後じさる。手の平が、ぐしゃっと柔らかい感触を潰した。腐敗したチーズに沸いた虫が、スコットの指でうごめく。


 エルウッド通りには盛り場もなく、壮絶な夫婦喧嘩や、乳飲み子の夜泣きは余すことなく周囲に知れ渡る。だがスコットの家の家鳴りに気づく者はいない。床に転がったランプが、鼠の死骸を照らしていた。


 老人が姿を見せたのは一度切りだったが、家鳴りはそれからも毎晩続いた。

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