02 教会の依頼

 世のあらゆる災厄を封じた地を、トゥアハ・デ・ダナーンという。女神ダヌは絶望の大陸に取り残された命をうれい、よこしまな勢力に反抗する者たちへ祝福を与えた。怪物の血を焼き、人心の影を払う術を用いて、光と闇のはざまで命の調和を見守る存在。人々は彼らを、ゲイザーと呼んだ。




「家鳴り、か」


 スコット・ラグの家で起きた怪事――レイン家の応接間で、ウルカは億劫そうに眉を寄せた。


「家鳴り、なぁ」


 二度も繰り返した彼女は、あらましを説明したメイウェザー神父から視線を逸らし、かたわらのユウリスに向けて肩を竦めた。


「家鳴り」


 三度目。

 そして手にしたグラスの水を一気に飲み干すと、ウルカは面倒そうに結論づけた。


「酒の飲みすぎでイカれたんじゃないか?」


 日差しの強い、真夏の昼下がり。彼女は普段の装備を解いており、袖を捲くったチェニックとズボンでソファに身を沈めている。歳は二十代の前半、ブラウンの髪とそばかすは、素朴な街娘の印象だ。しかし手元のロングソードは使い込まれ、片腕を覆う包帯と呪符が壮絶な戦いの痕を物語る。


「ユウリス、水」


 空のグラスを手渡され、ユウリスは腰を上げた。夜色の髪と焦げ茶色の瞳は異国の血を髣髴とさせ、日に焼けない白い肌には生々しい打ち身の傷が刻まれている。斜に構えたよう目つきで誤解されがちだが、素直な十四歳の少年だ。灰色の半袖と、茶色の膝丈ズボンには汗染みが浮かんでいる。


「ユウリス様」


 動こうとしたユウリスを、控えていた侍女が留めた。


「私がご用意致します」


「ありがとう、ジェシカ・バーグ。神父様の分もお願い」


 ユウリスからグラスを受け取った侍女は、三人分のグラスを盆に載せて台所へ下がっていった。少し前から働き始めた、妙齢の女性だ。銀の髪色は、大陸北部の出自を匂わせる。そんな彼女の背中に、なにか果物も、と要求したウルカが、からかうようにユウリスへ肩を寄せた。


「あの女中、お前にも優しいな」


「この国の出身じゃないみたいだし、ブリギットの事情にはあんまり興味がないのかも」


 ユウリスはブリギットを統治するレイン公爵家の長男だ。しかし婚外子のため、嫡男ちゃくなんの資格はない。公爵家に引き取られはしたが、義母ははである公爵夫人からは殊更ことさらに嫌われていた。


 様々な理由で使用人からも敬遠されるユウリスに、他の家人と同様の扱いで忠義を尽くしてくれるのがジェシカだ。理由を尋ねたことはない。


「それよりウルカ、神父様の話を――」


「そうだったな」


 気乗りしない様子のウルカに、ユウリスは眉を寄せた。彼女は≪ゲイザー≫と呼ばれる一流の闇祓いだ。直近の三ヶ月余りで解決した凶事は、既に指の数を超えている。もちろん空振りもあるが、依頼の段階で怪物や妖精の関連が疑問視される事案にも、彼女は手を抜かない。


 現場まで赴き、調査をおこたららない姿勢を、ユウリスは密かに尊敬していた――それなのに、今回は態度が悪い。


「もし体調が悪いなら、俺が代わりに行くよ」


「図に乗るな、ユウリス。闇祓いとしての成長は認めるが、巣立ちには程遠い」


 春先に巻き込まれた事件を契機に、ユウリスは闇祓いの道を歩んでいた。ウルカに正式な弟子と認められ、力をつけた自負もある。師である彼女を信頼はしているが、今回の後ろ向きな態度は納得ができない。


 そこに飲料水と水菓子を用意したジェシカが戻ってきた。


「お待たせいたしました。果物はパルナです。今年は例年より甘くて美味しいですよ。神父様もどうぞ召し上がってください。ウルカ様、ユウリス様、他に御用はございますか?」


「ありがとう。ジェシカも少し休んで、なにかあったら呼ぶから」


 東部の農園で収穫される黄色い果肉は、一年を通して愛される故郷の味だ。にじむ汁から漂う甘い香りが、自然と舌を湿らせる。


 ウルカは不満げに、ジェシカを引き止めた。


「待て、これは昨日も食べた。オーモンの実があったろう?」


「ああ、いえ、その、オーモンの実は、白狼様が……」


 困り果てたジェシカの眼差しと、ウルカの舌打ちが同時にユウリスへ突き刺さる。


「ええ、俺……?」


 地下の氷室ひむろには、白い狼が棲みついている。猛暑を嫌う、雪原の魔獣だ。ユウリスは相棒の魔獣を慰めるため、好物であるオーモンの実を買い与えていた。


「睨まないでよ、オーモンの実は俺が自分のお金で買ったんだから!」


「師である私に貢がず、魔獣に食わせるのが気に食わない」


「じゃあ次はウルカの分も買うよ。ジェシカ、出されたもの以外には手をつけないように言い聞かせているんだけれど、そのあたりは平気?」


「え、ああ、その、たまに貯蔵庫や氷室に入られているのをお見かけしますが――」


 恐る恐る告白したジェシカの視線に晒され、ウルカの表情が険を帯びた。ユウリスが問い質したのは白狼の盗み食いだ。すぐに間違いを察した侍女は、顔色を変えて頭を下げた。


「し、失礼しました。あの、白狼様はとても利口で、用意した食事以外には手をつけません。厠へも自分で行かれますし、鼠も退治してくれるので、むしろ助かっています」


「それは良かった。なにかあったら、すぐに言って」


「では、僭越せんえつながらひとつだけ――」


 彼女が顔を上げた瞬間、テーブルのグラスが揺れて水が吹き零れた。ユウリスはハッとして足元を見下ろし、ジェシカは反射的にソファの影に屈み込む。


 同時に、地面から突き上げる振動が、大きく屋敷を揺らした。


 暖炉に置かれた木彫りの小人たちが床へ身を投げ、傾いた絵画の額縁が何度も壁を叩く。窓の木枠が悲鳴を上げ、耳障りに硝子の軋む音は数十秒続いて、やがて止んだ。


 ウルカがなんでもない様子で肩を竦めた。


「とうとうレイン家も呪われたか」


「ウルカ! 神父様、ジェシカ、二人は大丈夫?」


 軽口を叩くウルカを諌めながら、ユウリスは二人を気遣った。


「ええ、びっくりしましたが、なんとか」


「ユウリス様も、お怪我は?」


 神父は額の汗に手ぬぐいをあてがい、ジェシカも火元を気にして早々に台所へ足を向けた。ブリギットでは梅雨の頃から地震が頻発している。神父は女神への祈りを捧げ、目尻に心痛のしわを刻んだ。


「オリバー大森林の加護が失われて以来、教会を訪れる皆様のお顔も晴れません。市庁舎占拠事件やひんぱつ発する地震を、凶事の先触れと感じる方が多いようです」


 凶事の先触れという言葉に、ユウリスは複雑な心境で口を閉ざした。


「凶事……」


 ある出来事が原因で、ユウリスは幼少期からみ子とさげすまれ続けている。凶事の度、忌み子のユウリスの呪いだ、と罵りを受けてきた。


 馬鹿馬鹿しい、とウルカは挑発的に鼻を鳴らす。


「信仰を否定する気はないが、女神の奇跡を待つ間にブリギットは悪意に呑まれて消え去るだろう。オリバー大森林の失われた加護について、教会の調査はどうなっている?」


「本山――神聖国ヌアザへ伺いを立てております。秋には調査団が来る予定ですが……」


「秋? 随分と遅いな。オリバー大森林の加護が失われたのは春先だぞ?」


「いえ、それは、もう、仰るとおりです。ここだけの話ですが、ダグザとエーディンに不穏な動きがありまして、本山は迂闊には動けないようです」


「なるほど、六王戦役の再来を疑い、ブリギットに関わることを恐れているのか」


 話についていけず、ユウリスは悩ましげに首を傾げた。神学校の教師も勤めるメイウェザー神父が、不勉強な生徒にやんわりと質問を促す。


「ユウリス君、ダグザとエーディンのことがわからないのですか?」


「あ、いえ、そこはわかります。六王戦役は授業で教わりました」


 かつて六つの国が大陸を支配した六王国時代。


 聖王国ダグザの民を圧政で苦しめていた暴君が、臣下に暗殺されるという事件に端を発し、大陸全土を巻き込む六王戦役の火蓋は切られた。


 ユウリスは恥をかかないようにと、慎重に歴史の記憶を辿る。


「最終的に聖王国ダグザを支配したのは、暗殺を成し遂げた王位簒奪者ウェディグ家。旧王家キャストゥスは北東へ逃れ、新たに新聖帝国エーディンを興した、ですよね?」


「よくできました。そう、六王国の終焉、七王国時代のはじまりです」


「だからダグザとエーディンの仲違いはわかります。でもどうして、永世中立のヌアザと、この平和なブリギットが関わってくるんですか?」


 いい質問だね、と穏やかに頷く神父に、ウルカが片手を上げて待ったをかけた。ここから授業がはじまっては堪らないと、先に答えを明示する。


「ブリギットは地理的に、ダグザとエーディンの中間に位置している。仮に両国が戦争になれば、ブリギットは要所だ。無関係ではいられない。永世中立国をうたうヌアザが、そんなブリギットに近づいてみろ、多方面から勘繰かんぐられないほうが難しい」


「ダグザとエーディンが戦争を始めたら、ブリギットが巻き込まれるってこと?」


「東のオェングス次第だろう。ブリギットとオェングスの陣営が分かれた場合、面倒なことになる。最悪、ブリギットは最前線だ」


 いがみ合う両国間に、豊穣国ブリギットと黄金郷オェングスが挟まれているのは問題だ。そこでユウリスは、幼馴染の旅行先を思い出して目を見開いた。


「カーミラは夏の間、ダグザにいる。両親が参加する通商会議について行ったんだ、戦争なんかはじまったら大変じゃないか!」


「ああ、あのやかましい娘、見ないと思っていたらそういうことか。安心しろ、そうすぐに事態が動くことはない。戦争にも段取りがある。互いに牽制けんせいして、つばを掛け合って、どうしようもなくなるまで、少なくとも一年は掛かるだろう」


 ユウリスはひとまず胸を撫で下ろしたが、戦争の気配には漠然ばくぜんとした不安が募る。台所から戻ったジェシカが濡れたテーブルを拭いて、グラスを新しいものに換えてくれた。


「どうぞ、ユウリス様。冷たいので気分も和らぎます」


「ありがとう、ジェシカ」


 言われた通りに冷たい水を飲んで、ユウリスは気分を落ち着つけた。ジェシカの手で絵画の向きは正され、落ちた小人の人形たちも暖炉だんろに戻る。


 神父は居住まいを正し、改めてウルカに調査を依頼した。


「ウルカ殿、どうか家鳴りの件を調べて頂けないでしょうか。本来でしたら相談を受けた教会から人を派遣すべきなのでしょうが、恥ずかしながら手が足りておりません。最近、妙な事件が立て続けに起きておりまして……」


 重いため息を吐く神父に、ユウリスとウルカは顔を見合わせた。実は二人とも、教会が忙殺されている事情に心当たりがある。ここ数日、遺体安置所から火葬前の遺体が消える事件が頻発ひんぱつしていた。


 ただ人の遺体は不浄なものとされ、司法関係者、処刑人、葬儀屋、教会関係者以外がみだりに扱うことは許されていない。闇祓いも管轄外だ。


 ウルカはつまらなそうに鼻を鳴らした。


「女神ダヌに祈ったらどうだ。神様が助けてくれるんじゃないのか?」


「ウルカ、そういう言い方は!」


 メイウェザー神父は複雑そうな表情で、じっと耳を傾けていた。あんまりな言い草だとユウリスがたしなめても、ウルカは不遜ふそんな態度を崩さない。


「どうせ医学生が勉強目的で盗んだか、怪しげな魔術の儀式に使われているんだろう。ブリギットは不浄や浮浪者に厳格だ。物乞いが逮捕の対象になる潔癖けっぺきさは、逆に闇を育む」


「それ、なんかすっごく嫌な感じに聞こえる。市は生活困窮者に住居や仕事を与えているし、物乞いがいないから観光客も安心して来てくれるんだ。父上は間違っていない」


「綺麗に取りつくわれ、不満や弱者の隠された街は美しいだろう。やり方としては認める。だがユウリス、この街は歪だ。大洪水、六王戦役、その復旧を公爵は急ぎ過ぎている」


「どうして余所者のウルカにそんなことがわかるんだよ!」


 あまりに失礼な物言いだと、ユウリスは咎める勢いのまま立ち上がった。その拍子に肩が侍女の腕に当たってしまい、盆の上でグラスが揺れる。


「ごめん、ジェシカ」


「いえ、私こそ失礼いたしました」


 そんなやり取りの間もウルカを見つめていた神父だが、やがて諦めたように息をひとつ吐いた。


「仕方ありませんね」


 やがて水と果物の礼を告げると、神父はおもむろに腰を上げた。


「お忙しいなか、無理なお願いでしたね。申し訳ありませんでした」


「神父様、なら俺が行きます、住所を!」


「ユウリス!」


 ウルカが声を荒げて、弟子を一喝する。しかしユウリスは叱られるようなことをした覚えはないと、師を睨み返した。


「だってウルカが!」


 ウルカは舌打ちをして、卓上を指で叩いた。


「神父、住所を教えろ。受けるかどうかは、少し考える」


「お心遣いに感謝いたします。場所は北区エルウッド通り、東のスコット・ラグ。女神ダヌは貴女の善意を見てくださいます。それがウルカ殿の光とはならないとしても」


「言いたいことがあるなら、はっきりと口にしたらどうだ?」


 ウルカの視線は、あからさまな敵意を孕んでいる。しかし神父に不快な様子はない。首から提げた女神のロザリオを手にして、彼は短い祈りを捧げた。


「迷える子らに、星刻の導きがありますように」


 ウルカに一礼した神父は、ユウリスへ温和な顔を向けた。


「ユウリス君、途中まで送ってくれるかな?」


「ええ、もちろん」


 ユウリスはちらりとウルカの機嫌を確認した。行ってくるね、と声をかけるが、彼女は虫の居所が悪そうに唇を引き結んだまま話そうとしない。


「すぐ拗ねる」


 ユウリスは腰を上げ、侍女に呼びかけた。


「あ、ジェシカ。そういえばさっき、なにか言いかけたよね。地震の前――」


「ええ、そうでした。氷室の戸を開けるたび、白狼様が顔を上げるのです。でも侍女と分かると、残念そうに寝そべる姿が可哀相で。たまには顔を出してあげてくださいね」


「朝晩は顔を見せているんだけどな。わかった、帰ったら会いにいくね。あと、ウルカのつまみ食いは大目に見てあげて。冷静ぶっているけれど、食い意地が張っているんだ」


「聞こえているぞ、ユウリス!」


「聞こえるように言ったんだよ!」


 忙しなく応接間を出る直前、ふと暖炉の上の置かれた木彫り人形と目が合った。炭鉱の妖精を象った代物で、隣国オェングスの土産物だ。五体並んだ人形のうち、一体だけが向きが異なる。なぜそんなことが気になるのか、理由は判然としない。どうかしましたか、と玄関から呼ぶ神父の声にハッと意識を戻し、ユウリスは人形の前を過ぎ去った。


 口答えばかりする弟子を見送り、ウルカは暖炉の上に視線を寄せた。ユウリスは最後に、何を見ていたのだろうか――木彫りの人形が並んでいる。ゴブリンに似た骨ばった顔つきは、炭鉱に棲む妖精コブラナイだ。


「…………?」


 五体揃って正面を向いている人形を一瞥だけして、子供の興味はわからない、とウルカは欠伸を零してソファに寝そべった。楽しげにつるはしを掲げた人形の口角が少しだけ上がったとしても、気付く者はどこにもいない。

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