07 影の国の戦い

≪悪しき鼓動を感じる。≪ジェイド≫が現界したな。プークはどうなった? ダメだ、こちらも、もう抑えられない――≫


「プーク、もう一度だけ結界を!」


 しかし妖精たちは応えない。戦いの結末を見届けるように、空を旋回するばかりだ。


「そう何度も手助けはしてくれないっていうのか……まったく、妖精は勝手だよな」


 ならば今度こそ、闇祓いを名乗るウルカに助けを求めるべきだろうか。いや、いまさらそんな余裕はないだろう。妖精の結界は消え、影の国の騎士は力を取り戻した。この事態を打破できるのは他でもない、自分だけだ。


「おびえるな、ユウリス。ここまできたら、俺がやるしかない」


 震えそうになる脚に力強くかつを入れるのは、隣に佇む白狼の尻尾だ。独りで戦うわけではない、そう勇気づけるように、金色の瞳が頷きかける。魔獣と人間は相容れないという教えを、ユウリスはこの瞬間に笑って否定した。


「白狼、頼むぞ」


 一度は折れかけた心を奮い立たせて、剣を構える。


 街の道場で学んだ剣術と闇祓いの作法、血肉として宿る二つの力をいまは信じるしかない。かたわらに並んだ白狼が、牙を剥いてユウリスに応える。


「女神ダヌ、どうか星刻せいこくの導きを!」


 剣を横に払って駆け出すユウリスに、≪ジェイド≫が片腕を掲げて手首を返した。瞬間、少年の足元から突きあがるのは、魔術によって生み出された巨大な赤い針。容赦なくえぐり殺そうとする力に晒され、身体に風穴が開く寸前――白狼がとっさにユウリスの襟首えりくびくわえ、その窮地きゅうちから救いだす。


 ――――!


 さらに足元の草花を散らし、白い毛並みの魔獣が高々と跳躍する。咥えた少年を宙で放り投げると同時に、行け、とばかりに見開かれる金色の双眸そうぼう。絶妙な体勢で、ユウリスが破邪の剣を振り上げる。


 みなぎる力、たぎる意思、少年を衝き動かすのは戦士の衝動。


「やってやる!」


『――、……、――!』


 対して、ミックの声帯を失った首なし騎士は、もう声を響かせることもできない。しかし確実に邪悪な意思を撒き散らしながら、その片腕で妖しくうごめくのは淀んだ瘴気しょうき。≪ジェイド≫の魔術が発動し、今度は数本の赤い針が殺意と共に競りあがる。


「またっ、しつこい!」


 ユウリスはぎょっとして、夢中で剣を振るった。襲い来る魔術の凶刃を、力強く薙ぎ払う。しかし、そのすべてをさばくことはできない。避け切れない二本が、少年の肩と脇腹を鋭く抉る。傷口は瞬く間に黒ずみ、空中で鮮血が尾を引いた。


「っ――!?」


 切り裂かれる痛みを通じ、身体の中に入り込もうとする悪意。


 味わったことのない不快感と吐き出しそうな苦痛を味わいながらも、ユウリスは負けん気で歯を食いしばった。その決意に呼応するように、傷口を包む闇祓いの蒼白い光。破邪の抗体が邪悪な意思に拮抗し、痛みが和らげてくれる。


「闇祓いの作法に従い――!」


 言葉と共に、刀身を覆う光がよりまばゆく、色彩を増した。


 振り抜かれた≪ジェイド≫の大剣と、ユウリスの刃が三度交錯、衝突する。黒騎士の背後から、喰らいつこうとする白狼。しかし魔獣の攻撃は、赤い針の魔術に阻まれて届かない。


「≪ジェイド≫、お前を討つ!」


 鍔迫つばぜり合いながら地面へと着地したユウリスが、渾身の力を込めて叫ぶ。少年の勇姿に応えるように、赤い針の群れを華麗な体捌たいさばきで突破した白狼が、雄々しく挟撃きょうげきをしかけた。獰猛どうもうな野生を解き放ち、黒騎士の腹部を噛み砕く牙。陶器が砕ける音が響き、破壊された鎧――その内側には、なにも存在しない。深淵しんえんが、ただ底もなく広がるばかりだ。


「なんだ、こいつ……中身が、ない!?」


 ぞっとして息を呑むユウリスの端から、再び赤い針が迫る。今度は刃を交わしているため、避けることも防ぐこともできない。


「くそっ!」


 ユウリスが死の気配に息を呑んだ刹那、その軌道に白狼が割り込んだ。少年の盾となった白い体躯を、容赦なく串刺しにする赤い針。雪のような毛並みが黒い淀みと赤い血に染まり、飛び散った鮮血がユウリスの頬を濡らす。


「――白狼っ!」


 しかし白狼は闘争心を失わない。


 力強い眼差しをユウリスへ向け、雄々しく牙を剥いて頷きかけた。赤い針の魔術は、同時に数箇所へは発動できない。魔獣は戦いのなかで、そう学んでいた。


 ――、――――ッ!


 いまだ、やれ、決めろ、倒せ、どんな言葉が正しいのか、ただ伝わる覚悟と信頼に、ユウリスの胸が熱く震える。それは同時に≪ジェイド≫の焦燥につながった。奇襲の失敗に加えて、影の国の侵食が市街地の手前で抑え込まれていることにも、黒騎士は苛だちを隠せない。


『――、――……っ!』


 そして注意が散漫になる瞬間を待ちわびていたかのように、プークの群れが一斉に指をまわした。砕かれた甲冑の深淵に灯る、ひとつの光。同時にユウリスの左胸も、まばゆい閃光を発する。まるで互いの急所を示すかのように輝く、その印こそ妖精の啓示。


 ――――――ッ!


 声なき白狼が雄々しく吼えた。天高く響き渡る無音の遠吠えが、遠くにいるウルカたちの胸を直に震わせる。彼女は、ここが正念場と察した。凛々しい声が、ユウリスの背中を押す。


≪影の国を押さえ込む! お前はあとで説教だ、ユウリス・レイン。だが、いまだけ許してやる。行け、闇祓いの作法を信じて――ぶちまかしてこい!≫


 ウルカが最後の力を振り絞る。影の国を押し戻そうとする霊力の抵抗を受け、凍れる空に広がるいびつな波紋。それがほんの一瞬、首なし騎士の集中を乱した。その隙を見逃さず、ユウリスは猛然と押し込む。


「ああああああああああああああああああああああああああああああ!」


 均衡が崩れ、ユウリスの刃が黒の大剣を外側に弾いた。


 そして闇祓いの瞳が、がら空きになった黒騎士の胴体――砕かれた甲冑の内側に灯る光を見据える。≪ゲイザー≫の力が肉体と精神の距離を縮め、理想が現実に重なる瞬間。流れるような動作で剣を水平に構え、身体を引きしぼる突きの姿勢。


『――、……、――、――――!』


 そんな勝機を嘲笑うかのように、甲冑の深淵から黒い手が猛然と伸びた。勢いまかせにユウリスの首へ襲いかかるのは、触れるだけで生者から精気を奪う闇の魔手。


 そこで突然、宙に浮かんでいたミックが目を覚ました。


「ふあああ、よく寝た。あれ、みんなは……って、ええええええ!?」


 最後の記憶では、友人たちと遊んでいたはずだ。誰かがカーミラにお似合いの相手を問いかけたら、アルフレドこそが相応しいと筆記しなければいけない。それなのになぜだか、いまは裸の赤ん坊たちに囲まれて空に浮いている。ミックは錯乱し、両手両足をばたつかせて暴れだした。


「え、え、なにこれ、なんだよ、こいつら、あ、ああ、僕は高いところがダメなんだよお!離して! 地面におろしてぇ!」


 妖精たちは、すぐに彼の要望を聞き届けた。


 魔術から開放され、悲鳴を上げて落下するミック。ユウリスの首を捉える寸前だった黒い手は、彼の巨体に押し潰された。


「うわああああああああああ、なんだこれええええええええええ!?」


 ミックに残る妖精の加護が、邪悪な瘴気を掻き消した瞬間――すべての因果が、ユウリスの一撃に収束する。


「終わりだ、≪ジェイド≫!」


 仰向けに倒れたミック。その腹に力強く踏み込んだユウリスの刃が、射抜くように突き放たれた。破損した甲冑の深淵を、破邪の力を宿した刀身が貫く。


 女神の加護を受けた輝きが、≪ジェイド≫を内側から燃やすように染め上げた。


 怪物の心臓とも呼ぶべき核を斬り裂く、闇祓いの剣。


 邪悪な胎動が、足掻あがく。消えたくないと、まだ終わらないと、最後の抵抗を試みるが――やがて虚しく、跡形もなく霧散した。


『――、……、――っ!』


 首なしの黒騎士≪ジェイド≫の全身から、紫の煙が際限なく立ち昇る。自身の敗北を認めないように、あるいは冥府への道連れを求めるように、最後の力を振り絞って大剣を掲げる怪物。


 その執念に、ユウリスも戦慄した。化生の本懐、恐怖をかてとする者の矜持きょうじとも呼ぶべき怨嗟えんさが、戦いを求め続ける。


『――、……、……………………、……』


 しかし刃が振り下ろされることはない。


 切っ先が空を示したところで、影の国の戦士が揺らぐ。この世界から存在自体を否定されたかのように、その姿は空気に溶けて消失した。怪物の最後を見届け、剣を地面に突き立てるユウリス。


 柄を握る手が震え、膝が笑う。呼吸が苦しい。


「はぁ、はぁ……」


 忘れていた傷の痛みが、急速に戻ってくる。わめき散らしてしまいたいほど、身体はひどく悲鳴を上げていた。けれどこれは、生きている証だ。


 ≪ジェイド≫の残滓が完全に散じるのを、最後まで目に焼きつける。


 そして二度とこんなことは御免だという万感の想いを込めて、ユウリスは呟いた。


「亡霊は、冥府へ、還れ……」


 主を失った凍れる世界が、静謐せいひつに溶けていく。


 空に開いた小さな穴から、あるいは市街地の境界から、解き放たれた緑と光の景色が広がりはじめた。ひらり、ひらりと舞い、次々に戦場を後にする妖精たち。最後に残ったプークが悪戯っぽく笑って、くるりと指をまわした。


 その姿を、ユウリスは夢心地で眺める。


「……終わった」


 きゃっきゃ、と弾むような音色のさえずりと、花の心地よい香りを孕んだ風が、ユウリスを優しく包み込んだ。とたんに強烈な疲労と眠気に襲われる。全身全霊を尽くして戦い抜いた怪物狩りの少年には、睡魔に抵抗する力など残っていない。


 彼は崩れるように倒れこみ、気絶しているミックに折り重なった。


 突き立てられた剣に、穏やかな日差しが反射する。安寧あんねいの墓地に残る寝息が、戦いの終わりを静かに告げていた。

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