08 ゲイザーと少年

 西日の熱にうなされ、ユウリスは重いまぶたを上げた。柔らかな羽毛に包まれているような、不思議な感覚だ。記憶がはっきりとしない。なぜ自分はここに寝そべっているのだろか。


「ん、んん、ここは……?」


 かすむ視界に、夕焼けに染まるオリバー大森林が映る。


 墓地と教会を、大人たちが忙しなく歩き回っていた。


 ひどい夢を見ていたようで、気分はあまり良くない。悪夢のなかでは教会が倒壊し、墓地は見るも無残な残骸ざんがいと化していた。しかし目の前の光景には、悲劇さの欠片かけらも見当たらない。


「……そうか、ぜんぶ夢か」


 起き上がろうとして地面に伸ばした手が、柔らかく滑らかな毛皮に触れる。


 驚いて振り向くと、巨大な白狼が目を閉じて横たわっていた。包帯の量は倉庫で手当てをしていたときの比ではなく、心なしかせて見える。おそるおそる手を伸ばして、垂れた耳にそっと触れてみた。白狼は薄く瞼を上げて黄金こがね色の瞳を垣間見かいまみせるが、すぐにまた閉ざしてしまう。


「夢じゃ、ない?」


「夢のほうがよかったかもな。お前は英雄じゃない、ユウリス・レイン。忠告に従わなかった不始末、レイン公爵にたっぷりと叱られるがいい。そのあとは私の番だ。苛だちがつのっている、覚悟しろよ」


 聞き覚えのある声から不意にとがめられて、ユウリスは視線を上げた。


貴女あなたは……」


 妙齢の女性が佇んでいる。亜麻色の長い髪が風に巻かれて、頬にちりばめられたそばかすをくすぐっていた。使い込まれた鋼の胸当ては戦士の風格を漂わせ、紺碧こんぺきの瞳は厳しい力強さをたたえている。彼女の声と背中の剣、そして西日に晒されながら影を持たないという特徴で、相手が何者なのかをユウリスは十分に理解した。


「伝説の≪ゲイザー≫は影を持たないって、本当だったんだ。貴女が、ウルカ?」


「改めて名乗ろう。≪ゲイザー≫のウルカだ。よくも私の忠告を無視したな」


 軽く頭を小突いてくるが、言葉ほど怒っているようには見えない。じっと観察するユウリスの視界を遮るように、ウルカは眉をひそめて手を振った。


「もう少し横になっていろ、迎えの馬車を手配してある。いまは鎮痛剤で痛みがないだろうが、お前はそこの白狼と同じくらいに重症だ。怪物の刃や魔術に、普通の治療は効果が薄い。しばらくは痛みで眠れない日が続く」


「なんで嬉しそうなの?」


 ウルカは脅かすような口振りだが、唇は楽しげにつりあがっている。


「正直、良い気味だと思っている」


「ひどい……」


 彼女は不敵に鼻を鳴らして、少年の傍らに腰を下ろした。ユウリスも改めて、自分の身体を見下ろす。白狼に負けじと包帯だらけで、白い布地には黒い血がにじんでいた。


 次第に戦いの記憶がよみがえり、怪我の数々を思い出すと血の気が引く。ひどい現実から逃げるように、ユウリスはあさっての方向へ視線を投げた。


「……あれは」


 すると教会の前にカーミラとアルフレド、リジィ、ランドロフの姿が見える。義母にきつく抱きしめられているアルフレド以外は、保護者に叱られているようだ。しかし耳を澄ませば、アルフレドを案じて泣き喚く義母ははの声ばかりが聞こえてくる。大好きなカーミラの前で醜態を晒すはめになったのは、義弟おとうとにとって最大の屈辱だろうとユウリスは笑った。


「みんな、どうしてここに?」


「儀式を検証するために呼んだ。首なしの黒騎士≪ジェイド≫は、子供の遊びで召喚できるような小物じゃない。魔神バロールの加護を受けた、闇の眷属けんぞく……お前は肌で感じただろうが、あれは本当に強力な怪物なんだ。顕現けんげんした経緯を明らかにする必要がある」


「魔神バロールって、まさか聖書の内容を本気にしているんじゃないよね。いや、信仰を馬鹿にする気はないけどさ」


「≪ゲイザー≫の秘奥である闇祓いの作法は、女神ダヌの祝福がもたらした奇跡の恩恵おんけいだ。その力の一端を行使したお前が、すべてを聖書の空想で片付けるのか?」


 ウルカの声色は決して意見を押しつけるものではなかったが、考えろと言われているように感じる。ユウリスは静かに頷いて、もう一度カーミラたちを見た。平手打ちまではじまった説教を不憫ふびんに思ったのか、騒ぎの収束に駆けつけていた若い赤毛の元老院議員がいさめに入っている。普段は我慢強いリジィが抱きついて助けを求めているのを見るに、相当きつく叱られているようだ。


「プークはけっきょく、俺たちを助けて犠牲になったんだよな」


 儚く消えてしまった妖精を偲ぶユウリスに、ウルカは渋い顔で口をつぐんだ。その横顔を不思議そうに見上げる少年に、彼女は言葉を選びながら応えた。


「プークはべつに、人間の味方というわけじゃない。妖精は、その行動の根幹に物語を楽しもうとする性質がある。停滞した日常、行き詰った物語、揺れる善悪、そこに悪戯いたずらをしかけて、慌てふためく様を見て楽しむ――特にプークは、その傾向が強い。自分たちを攻撃してくる相手に反抗くらいはするだろうが、取引もなく、率先して味方になることは考えられない」


「取引……あ、蜂蜜はちみつミルクを持っていったよ」


「なるほど、それはいい考えだったな。だが覚えておけ、プークの悪戯は即効性のあるものばかりとは限らない。ここで妖精の仕掛けた何かが、いずれお前の、あるいはお前に関わる誰かの運命を、大きく変えるかもしれないぞ」


「また脅し?」


「どうかな。ほら、馬車が来た。ここまで呼んできてやる。車酔いで吐いたりしないよう、いまのうちにせいぜいきれいな空気を吸っておけ」


 ユウリスの髪をそっと撫で、ウルカは立ち上がった。


 白狼の長い尻尾がユウリスに纏わりつき、自分に寄りかかれといわんばかりにくすぐってくる。それを見咎みとがめ、ウルカは不満げに片方の眉を上げた。


「ずいぶんと懐いているな。半年近くもいっしょに旅をしてきたのに、私は寝床ねどこにさせてもらった覚えがない」


「え、こいつ、ウルカの連れなの?」


 今度はユウリスが驚く番だった。しかしウルカが言うには、ある村から勝手について来ているというだけの関係らしい。


「少し前にふらりといなくなって、今日が久々の再会だ」


 そう聞かされて、ユウリスはハッとした。白狼の首に顔をうずめ、耳元にそっと囁きかける。


「お前もしかして、あの黒い騎士を追ってブリギットに来たのか?」


 いまユウリスにも刻まれている黒い傷は、首無しの騎士に斬られた証だ。白狼が教会に現れたのも、カーミラから邪悪な匂いを嗅ぎ取ったからに違いない。白狼は≪ジェイド≫になんらかの因縁があり、決着をつけるために共闘してくれた――そう考えると、すべてに辻褄つじつまが合う。


 しかし白狼が応えない。軽く頭をもたげると音のない欠伸をして、また寝そべってしまう。馬車を呼びに歩き出したウルカの背中を、ユウリスは慌てて呼び止めた。


「ウルカ、もうひとつ教えて。あ、やっぱりふたつ!」


「後にしろ。お前の治療と、今回の召喚事件を調査するため、私は公爵に雇われた。しばらくはブリギットに滞在するから、時間はいくらでもある」


「じゃあせめてひとつだけ。ミックはどうしたの、どこにもいないみたいだけど」


肋骨ろっこつを数本折って、一足先に入院した。お前ほど重症じゃないが、絶対安静だ」


 良かった、と安堵する反面、ふと妙な胸騒ぎに襲われた。ミックは、妖精に落とされたから骨折したのだろうか。いや、それほどの高さではなかったと思う。そこでようやく首無しの騎士を撃破した瞬間を思い出して、ユウリスはあんぐりと口を開けた。


「うそ、その怪我ってもしかして……」


「靴跡を見たが、いい踏み込みだった」


 ウルカの意地悪げな笑みから視線を背け、ユウリスは乾いた息を吐き出した。そのまま尻尾の誘惑に負けて、ふわふわの毛並みに身体を沈める。


 どうして教会や墓地が無事なのか。


 あのプークたちはどこへ消えたのか。


 まだまだ聞きたいことは山ほどあったが、再び耐えがたい睡魔が襲われる。薬のせいかもしれないが、理由はどうでもいい。


 心地よい毛並みで寝返りをうてるのだ。次に目覚めたときにも、この白狼がそばにいてくれたら嬉しい。ユウリスは霞んでいく意識のなかで、そう切に願った。


「帰ったら、オーモンの実を食べよう。お小遣いを全部はたいて、いっぱい買ってやるから」


 寝ぼけていたのか、あるいは願望による幻聴か――ユウリスの耳元で、くうん、と可愛らしい声が小さく応えた。

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