11 アルフレドの失恋
ユウリスが目を覚ましたのは、翌日のことだった。
ぼやけた視界に細い雨が映る。換気の為、窓は開かれていた。しっとりと濡れた、ブリギットの街並み。暗い空模様で時刻は把握できないが、まだ雨雲の彼方には日があるようだ。
雨に、はしゃぐ子供の声が耳に届く。
ユウリスは無機質な石の天井をぼんやりと眺めた。薬品の臭いに混じる、花の香り。窓の反対側で、カーミラが花瓶の水を替えている。彼女は摘んでいた黄色い花を揺らし、悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「おはよう、お寝坊さん。あんまり起きないから、舞踏会はアルフレドに譲ったわよ。包帯男が来たら、みんな怖がるしね」
包帯男――ユウリスの素肌が露出しているのは、顔の半分と足くらいだ。瞼の切れた片目、首や両腕はきつく包帯が巻かれている。自分の姿に苦笑しながら、ユウリスはカーミラの無事に安堵した。
倒れるまで不調に気づけなったことを謝罪すると、彼女は緩く首を横に振った。
「あなたのほうが、よっぽど重症じゃない。それに気遣われるのは
「さすがカーミラ。君はすごいよ。いつ、目を覚ましたの?」
「今朝よ。ちなみに、あの冒険は昨日。ユウリスってば丸一日、寝ていたんだから。その間も大変だったのよ」
カーミラは夜明けと共に目を覚まし、すっかり快復していた。倒れたのは魔力の枯渇による衰弱が原因で、一晩も眠れば活力は蘇る。家に連れ帰ろうとする両親に彼女は猛反発し、大喧嘩の末、ユウリスの病室に残ったのだと胸を張る。
「もう、大変だったんだから」
カーミラはベッドの淵に腰掛け、ごめん、と項垂れる愛しい少年の頬をそっと撫でた。
「愛情に感謝するのが先でしょう。わたしに心配をかけたことは、怒っているのよ。でも謝罪を受け入れるわ。寝言で名前を呼んでくれたし、許してあげる」
「え、うそだろ、呼んでないよ」
「照れちゃって、可愛いんだから。でも、そういうことにしておいてあげる。わたし、ユウリスの気持ちがわかって機嫌がいいのよ?」
ユウリスはとたんに恥ずかしくなって、熱くなる顔を手で隠そうした。しかし包帯を固定する金具のせいで、肘が曲がらない。他に何か余計なことを口走りはしなかったかと、心配になる。そんな彼の反応を、カーミラは
「他の寝言は、わたしの胸にしまっておくわね。それよりユウリス、アルフレドは誰を舞踏会に誘ったと思う?」
「舞踏会に出られるってことは、アルフレドの
カーミラは首を横に振って、含むように口角を上げた。ユウリスが他の答えを探す前に、身を乗り出してきた彼女が耳元に唇を寄せる。他の誰がいるわけでもない個室で、内緒話をする意味がわからない。ふんわりと漂う花の香りに、少年の頬が上気した。
しかしそんな浮ついた気分も、続く言葉によってすぐに吹き飛んだ。
「アルフレドはね、ナダを誘ったのよ」
「ナダッ⁉ ナダって、あのナダ⁉」
「そうなの、びっくりでしょう! 今朝、アルフレドがサヤとナダを連れて、お見舞いに来たの。そのときに舞踏会の招待状を譲ったら、あいつその場でナダを誘ったのよ!」
「じゃあ、もしかして今夜は二人で?」
「残念、その場で丁重にお断りされたわ。そのうえサヤに、あたしがいっしょにいってあげようか、って慰められて」
カーミラは堪え切れずに吹きだす。ユウリスは
「あのアルフレドが、ナダを……」
「あんまり笑ったら、いくらアルフレドでも気の毒だよ。でも確かに驚いた、年も離れているし――」
「ユウリスもそう思う⁉」
足をばたつかせ、喜色に酔うカーミラの顔色が変わった。急に思いつめたような表情で、ユウリスを凝視する。
「そうよね、わたしもそう思っていたわ。絶対そうよ」
おかしいことを口にしただろうかと、ユウリスは瞬いた。ナダの実年齢は不明だが、外見的にはウルカより少し若い。それでもブリギットでは、十代後半で結婚するのが一般的だ。彼女からすれば、アルフレドは子供にしか見えないのではないだろうか。
「そこまで決めつけると、ちょっとアルフレドが可哀相な気もするけれど」
「じゃあユウリスは、あの女――じゃない、ナダのことを、将来の伴侶として想像できるっていうの?」
「ああ、まあ、さすがに難しいかな。俺が大人になる頃には当然、ナダも年を重ねているわけだし」
「ユウリス!」
その答えに感極まり、カーミラは両手を広げて抱きつこうとした。とっさに受け止めようとしたユウリスの手に、ベッドの下から顔を上げた白狼の
「クラウ、いたのか⁉」
「ちょっと、いま良い雰囲気だったのに。なんで起きてくるのよ!」
居たら悪いのか、と言わんばかりに白狼が二人へ視線を巡らせる。
「いや、そんなことないよ。お疲れさま、クラウ」
ユウリスは首を横に振り、白い毛並みを労るように撫でた。そこで不意に、戸を叩く音がする。そして応じる間もなく、扉は開かれた。姿を見せたのは、
「イライザ」
「あら、けっこう元気そうね。先に言っておくけれど、お見舞いじゃないわよ。私はお父様――レイン公爵の、お使い。市からあんたへの召喚状を届けにきたの。今夜六時、ブリギット仮設市庁舎へ出頭なさい」
滑らかなシルクの生地を優雅に揺らし、イライザがベッドへ歩み寄る。そしてブリギットの国章で
「ほら、これ使いなさい」
ユウリスは礼を告げて受け取り、封を切った。中身はチェルフェの騒動に関連して開かれる、審問会へ召喚状だ。それを覗き込んだカーミラは、いよいよね、と息を呑むと、公爵家の令嬢へ簡易的な礼をとった。
「御機嫌よう、イライザお嬢様。わたしの分は家に?」
「あなたはブレイク商会の娘でしょう。舞踏会の出資者なのだから、ご両親についてなさい。私といっしょに行くわよ。ドレスを見繕ってあげる」
「そんな、わたしもユウリスと――」
「レイン公爵は、あなたを呼んでいないわ。カーミラ・ブレイク、我を通す場面は心得なさい。いまはユウリスの不利になる」
最愛の人を盾にされ、カーミラが言葉に詰まる。イライザは続けて、白狼も留守番だと告げた。今度はユウリスが、どうして、と疑問の声をあげる。
「さあ、知らないわ」
イライザも白狼を遠ざける理由は聞かされておらず、肩をすくめた。
「せっかくだから白狼も舞踏会にいらっしゃい。きっと盛り上がるわよ」
誘われた白狼は、興味なさそうにそっぽを向いた。袖にされたイライザは、まあ、と眉を歪めて不満そうだ。カーミラは納得がいかない様子で、市庁舎へ行く口実はないかと頭を悩ませている。
「ああ、もう、いちばん大切なときなのに、なんでこうなるのよ!」
「カーミラ、いいかげんになさい。ほら、行くわよ」
それでもイライザに出発を促されると、カーミラも従うしかない。
「ユウリス、ごめんなさい」
「あなた、ユウリスを甘やかしすぎよ。そうね、私からも一つ言っておこうかしら」
イライザは去り際、ユウリスの耳元へそっと顔を寄せた。
「白狼を遠ざけるよう仕向けたのは、ウルカよ。理由は本当にわからない。その頼みは私がお父様へ届けたの。見返りに、彼女から地下での出来事を教えてもらったわ。面白い冒険をしたわね、ユウリス。あんたがチェルフェのためにしようとしていることも聞いたわ。カーミラがいると、やり難いでしょう。私が審問会の出席者から外させたのよ。感謝なさい」
「イライザ、俺は――」
「貸し一つ。レイン家の男なら、受けた恩は返すのよ。特に私が相手なのだから、貸し逃げは許されないわ。どこへ行くにしろ、いつになったとしても、ね。悔いのないようにやり遂げなさい、ユウリス・レイン」
イライザは弟の額を小突くと、片目を
「イライザはいつまでも、イライザだよな」
一日前の会話を思い出し、ユウリスは肩をすくめた。
アルフレドがイライザにも追い縋ろうとしているのなら、素直に尊敬する。
…………。
クラウがベッドへよじ登り、身を寄せてくる。珍しく甘えるような仕草だ。ユウリスは白い毛並みを、そっと抱きしめた。
「どこに行ってもクラウとはいっしょだ。ついてきてくれるよな」
旧下水道での暮らしは、鼻の利く魔獣にとっても過酷な環境だ。それでもユウリスは、相棒と離れることなど
風が荒びはじめ、窓枠を超えて雨粒が吹き込んでくる。
暗雲に心を乱すことなく、ユウリスはじっと彼方を見据えた。
季節は巡る。梅雨も遠からず、明けるはずだと。
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