10 少年の選択

「ボイドさん!」

「おとうさん!」


 そこに佇むのは、サヤの父――ボイドは斧を振り上げたまま、サヤ、と短く呼びかけた。娘の無事に唇を震わせて安堵し、何度も浅い呼吸を繰り返す。


 岩穴が通じた先は旧下水道。

 それもサヤたちの住む集落のすぐ近くのようだ。


「サヤ、ああ、よかった。いまそちらへ行く。怪我はないか?」


 目頭を熱くするボイドとは対照的に、サヤは控えめに手を振るのみだ。喧嘩別れをした父に、チェルフェが受け入れてもらえるかを不安に思っているようだった。急いで坂道を駆け下りはじめたボイドだが、立ち昇る硫黄を吸ってむせこんでしまう。


「おとうさん、だいじょうぶ!?」


 サヤが駆け寄り、親子が抱き合う。


 駆除されかけた記憶が尾を引いているのか、幼いチェルフェはまだ警戒するように唸っていた。ユウリスは肩越しに、ウルカを盗み見た。彼女の表情は険しい。チェルフェがボイドに危害を加えようとすれば、今度こそ闇祓いの剣は役割を果たすだろう。


「ウルカ……」


 怒り狂った≪マザー・チェルフェ≫との決戦が待ち受けているとしても、彼女はきっと躊躇ためらわない。ユウリスの憂鬱な気持ちを察したように、カーミラが傷だらけの手を握ってくれる。


「大丈夫よ、ユウリス。わたしたち、がんばったわ。ダヌ神はきっと見ていてくださる」


「カーミラが神頼みするときって、本当にどうしようもないときだよね」


「そうね。だからあなたと舞踏会に行くことについては、お祈りもしていないわ」


 はにかむカーミラの頬は熱を帯びて、どこかつやめいて見える。胸の鼓動が強く跳ね上がるのを自覚して、ユウリスは思わず視線を前へと戻した。


 サヤがボイドの手を引いて、幼いチェルフェに向き合う。


「チェルフェ、ごめんなさい。おとうさん、もう、なにもしないよ。きずつけたり、しない。チェルフェ、ゆるしてくれる?」


「その、なんだ、チェルフェというのか。娘と仲良しだと聞いた。さっきはすまなかった。この通り、許してほしい」


 ひざをついたボイドが、怪物の子供に頭を下げた。ユウリスは思わず目を丸くして、サヤを見る。短い再会のなかで、いったいどんな魔術を使ったのか。その答えは、気まずそうに顔をあげた本人が教えてくれた。


「チェルフェと仲直りしないことには、サヤは帰らんといっている。人に危害を加えないなら、いっしょに集落へ来ても構わない。みんなは俺が説得する。だから頼む、許してくれ」


「チェルフェ、おとうさんと、なかよくしてくれる?」


 チェルフェの眼光が、鋭くボイドを刺す。しかし不安そうなサヤの表情は、頑なに怪物を嫌う人間の大人のみならず、火竜の敵愾心てきがいしんすらも削ぎ落とした。幼い火竜が小さく鳴く声は、可愛らしく歌うようだ。


『キュウウウウウイイイイイイン!』


 チェルフェが素早くサヤの腕のなかに飛び込み、胸に頬ずりをした。そして赤い鱗に覆われた頭を、ボイドへ傾ける。


「なでなでだよ、おとうさん!」


「俺が、撫でていいのか?」


 大丈夫なのか、とボイドがユウリスへ伺いを立てる。そこで彼はようやく、少年が傷だらけであることに気がついた。


「なんてことだ」


 サヤとカーミラも無惨むざんな汚れ具合だが、ユウリスはその非ではない。片方の目は腫れて開かず、生々しい血と傷が全身に刻まれている。


「ユウリス、まさか娘の為に――」


「優しく」


「なに?」


「優しく撫でてください」


 ユウリスは自分の傷など、もう微塵みじんも気にしていなかった。この瞬間の為に、ここまで踏ん張ったのだ。助言を返されたボイドは、チェルフェの頭へぎこちなく手を乗せた。石のような鱗は、触れてみると存外に滑らかだ。ごつごつとした指が擦れるたび、幼い火竜がくすぐったそうに身をよじる。


『キュウウウウウ、イン!』


 気がつくと、ボイドの表情も緩んでいた。


「ははは、意外と人懐っこいんだな!」


 上で待たされていた他の住人たちも、しびれを切らして降りてくる。ボイドは彼らに、チェルフェを刺激しないように呼びかけると、改めてユウリスへ向き直った。


「ひどい傷だ。大丈夫なのか?」


「平気――って答えたら強がりだけど、なんとか立っていられる。俺がここまで頑張れたのは、サヤのおかげです」


「娘のために身体を張ってくれたこと、どう感謝していいかわからん。本当に、ありがとう。だが、まずは聞かせてくれ。いったい、何があったんだ?」


「言葉にするより、見てもらったほうが早い。ああ、でも絶対に、大声で驚かせたりはしないでください」


 ユウリスが悪戯っぽく唇の端を上げる。不安そうに表情を曇らせたボイドは、巨大な≪マザー・チェルフェ≫との対面で腹の底から悲鳴をあげた。


「な、なんだ、これは!?」


「大声を出さないでって言ったのに」


 温泉、チェルフェ、師との戦い、これまでの経緯をユウリスは丁寧に説明した。信じてもらえたのは、ウルカの存在が大きい。弟子が述べた内容を、彼女が補足して裏づけたからだ。


「まあ、おおむね間違いない。私が負けたのではなく、単なる時間切れだったことを除けばな」


 そして訪れた大勢いの人間を、≪マザー・チェルフェ≫は静かに受け入れた。地下の住人たちが、着の身着のまま温泉につかりはじめる。まだ信じられないと、ボイドは自分の目を疑っていた。


「こんな温泉が手に入ったばかりか、あんな恐ろしい怪物が我々を受け入れてくれるとは……」


「チェルフェ、おそろしくないよ!」


 サヤが唇を尖らせ、ユウリスに同意を求める。そうだね、と頷いて、彼は少女の髪を撫でた。


「俺たちの、大事な友達だ」


「うん!」


 そこで幼いチェルフェが、少女の手を離れる。そして湯気の昇る湖に飛び込み、地下の住人たちを驚かせた。足湯を楽しむカーミラが、その光景に目を細める。


「ああ、ようやく終わったわ」


 白狼は熱気を嫌い、洞窟の端で寝そべっていた。


 ……、…………。


 ウルカは離れた場所で、下水道の≪ゲイザー≫と言葉を交わしていた。その様子を気にかけながらも、ユウリスは万感の思いで安堵の息を吐いた。そしてボイドに向き直る。


「ここのことは、俺からレイン公爵と市長に話します」


「黙っていてもいいと思うが。そうすればチェルフェのこともとがめられまい?」


「ウルカは市から怪物退治を依頼されました。彼女に報告の義務があることを除いても、真実を隠すことが問題の解決になるとは思えません」


「だが最悪の場合、ここまでの苦労が水の泡になる可能性もあるぞ?」


 ボイドの瞳が、不安の色にかげる。


 それでもユウリスに、意思を曲げるつもりはない。旧下水道の住人と地上の市民。彼らは互いに、もっと歩み寄るべきだ。ウルカとの戦いで、気持ちがすれ違うことも大切なのだと実感した。肯定を得るばかりではなく、なぜ否定されるのかを考えることも重要なのだ。


「わかってくれる、なんとかなる、それでもいいと思います。でも本当に大切なこと――自分の信念、譲れない気持ち、そういうものを伝える努力を怠ってしまったら、人はずっとわかりあえない」


「地上の人間が、我々のような地下の人間を理解してくれると、本気で思うのか?」


「わかりません。だって俺は、まだそれを試していない」


 試す。


 それはボイドの耳に、不思議な響きとして届いた。試さずともわかる。ひっそりと街を歩くとき、例え物陰に居ようとも市民の視線は突き刺さる。薄汚れた風体ふうてい忌諱きいし、理由を知ろうともしない。安寧あんねいを脅かす存在に蓋をしようとする、それが政府の体質だ。


 ボイドの凝り固まった失望を、しかしユウリスは否定した。


 自分はまだ、なにも試していない。


「チェルフェには害がないこと、温泉が地下の人たちに必要なことも、まだ理解を求めていません。市にきちんと話す努力を、なに一つもしてないんです。ダメかもしれないからってなにもしなかったら、ずっとここから先へは進めない。それは気持ちよくないと思います」


 気持ちよくない。


 その言葉にボイドは思わず笑いだしそうになった。子供のようなことを言うなと苦笑して、目の前にいるのは本当にまだ少年なのだと改めて思い知る。


「君は……」


 ボイドはいつの間にか、ユウリスをひとりの男だと認めていた。子供であることに変わりはないが、彼は純粋な想いを強い意思で貫き、娘を危機から救ってくれた。


「ユウリス・レインか」


「え?」


「いや、たいしたものだと思ってな」


 地上の人間。


 そんなことを口にしている自分が、ボイドは馬鹿らしくなった。同時に、ユウリスにはこれ以上の辛い経験をさせたくないとも思う。


「君の気持ちはわかった。正直、耳が痛い。だが、ユウリス。もし上手くいかなかったら、どうするつもりだ。集落と繋がった温泉はともかく、チェルフェは人を殺していると聞いた。市が怪物の駆除を譲らなかったら?」


 ボイドの危惧は、ユウリスも憂慮していた。チェルフェの火が原因で、命を奪われた無関係な人間がいる。その罪は、誰かが背負わなければいけない。


「わかっています。それは、父上も有耶無耶うやむやにはしてくれないでしょう」


ただどうしても、その罪禍をチェルフェに負わせることに納得ができない。ならば、と考え抜いた結果を、ユウリスは口にした


「ひとつ、考えがあります。ただそれにはボイドさんと、地下に住むみんなの協力が必要だ。全力を尽くして交渉します、どうか俺に力を貸してください」


「……我々の協力?」


 少年の双眸そうぼうには、思い詰めたような厳しさが宿っている。ボイドはひざを落とし、ユウリスと視線を合わせた。忌み子とさげすまれてきた故か、全てを自分で背負い込もうとする危うさを感じる。


「君は、なにを考えている?」


 問われてユウリスは、一度だけカーミラへ視線を向けた。足を湯につけたまま、仰向けに寝転んでいる。自分の決断に迷いはないが、彼女にだけは後ろめたさを覚える。


「それは……」


 未練を断ち切るように、ユウリスは正面へ顔を戻した。


「俺を、この旧下水道の集落に住まわせてほしいんです。もちろんちゃんと働いて、自分の糧は自分でなんとかします。そしてチェルフェが本当に安全であると、自分の目で見続ける。それを市に報告することで、納得してもらいます」


「ま、待ちなさい!」


「え、おにいちゃん、あたしと、いっしょにすむの?」


 難しい話に欠伸あくびをしていたサヤも、ユウリスが地下に住むと聞けば瞳を輝かせて顔を上げる。そんな娘を片手で制し、ボイドは軽い眩暈めまいを覚えた。


「すまない、いま、なんと?」


「なんど聞いても、答えは同じですよ」


 口にしたユウリス自身も、ボイドの戸惑いは理解できる。地下の暮らしは過酷だ。怪物を食糧とし、満足に身体も洗えず、夏は酷暑で、冬は極寒。そんな環境に、地上の人間が耐えられるわけがない――そう視線で訴えるボイドにも、少年の眼差しは揺らがない。


「途中で投げ出したりしないと、約束します。姓は捨てることになるかもしれないけれど、いまはユウリス・レインの名に誓って」


 突拍子もない申し出に、ボイドはうめいた。助けを求めるように、少年の背後へ視線を投げる。下水道の≪ゲイザー≫と話を終えたウルカが、いつの間にか佇んでいた。その気配を背に感じながら、ユウリスは真摯に言葉を紡ぐ。


「チェルフェの安全をわかってもらえたら、俺はブリギットを出て行きます。できればそのときには、闇祓いとして。ウルカの教えを受けられないとしても、俺はきっと≪ゲイザー≫になってみせる」


 ユウリスは大きく息を吐いて、ゆっくりとウルカへ向き直った。彼女は感情の色をなにも浮かべず、引き結ばれている唇は拒絶すら感じさせる。


「ウルカ」


 それでもユウリスは伝えずにいられなかった。これが自分の進むべき道だと。


「俺は、ウルカのような闇祓いにはならない。例え怪物が人に危害を加えても、そのすべてを斬るべきだとは思えないからだ。これから先、怪物と人間の命を天秤てんびんにかけるときが訪れたとしても――いまのように悩み抜いて、答えを心に委ねる」


 チェルフェの火が奪った、人間の命。


 何度も考えを巡らせ、深憂しんゆうを重ねた。人生を奪われた者の無念。被害者が自分の知己であったらという想像。わかったのは、ひとつの正答など存在しないということだけだ。同じことが別の状況で起こるなら、その度に思い悩むのだ。苦しくても、逃げずに立ち向かう。


 それがユウリスの答えだ。


「俺にはまだ、見極める力が足りない。私利私欲や情に曇らないよう、これから鍛える。だからいまは、これが精一杯の答えだ。チェルフェのことは、俺がぜんぶ背負う。同じ場所で生きて、自分の選択が間違いじゃないって証明してみせる」


 ウルカの唇が薄く開かれ、吐息が漏れる。瞼を落とし、緩く首を振る。感情は相変わらず判然としない。普段は凛々りりしい彼女の声が、色もなく小さく零れた。


「馬鹿め。人生が百回あっても足りはしない」


 そのまま彼女は、旧下水道へ繋がる穴へと踵を返した。ユウリスも、それ以上は返す言葉が見つからない。想いは伝えた。ウルカの気持ちも聞きたいとは思うが、しかし反発を貫いた弟子が望めることでもない。


 落ち込む少年の背に、ボイドの黒ずんだ指がかかる。


「とにかく、俺も市長と公爵の元へ行こう。サヤも来なさい。ここまでのことになったのは、お前の責任だ。ユウリスにだけ、すべてを負わせることはできない」


「うん、わかった。おにいちゃん、チェルフェ、だいじょうぶ?」


 不安そうなサヤに、ユウリスは柔らかい表情で頷いた。ここまで来たのだ、あと少し踏ん張ろう。決意を新たにしたところで、袖が引かれる。


「え、クラウ?」


 いつの間にか近寄っていたクラウが、少年をカーミラの方へと促した。赤毛の少女は、相変わらず寝そべっている。ユウリスが目を瞬かせて動かずにいると、白狼に尻を強く押された。


「クラウ、いったいどうした……いや、まさか――カーミラ!?」


 ユウリスはそこでようやく、カーミラの異変に気付いた。胸の辺りが激しく上下し、腕や指が脱力している。駆け寄ると、少女の顔は真っ赤に染まっていた。呼吸が乱れて荒く、額に添えた手は熱い。


「カーミラ!」


 ユウリスは顔色を失いながら、彼女を両腕で担ぎ上げた。剣も握れないほどだった疲労を忘れ、ボイドに出口への誘導を頼む。心配そうに表情を強張らせたサヤに、チェルフェが寄り添う。


「おねえちゃん、どうしたの!?」


「わからない、わからないけど!」


 ユウリスは無我夢中で走った。


「さっき、顔が赤かった。くそ、気付けなかった――」


 言葉にならない。思考が暴発しそうなほどに巡り、視界が滲む。地上へ辿り着くまでのことは、よく覚えていない。病院へ駆け込むと同時にユウリスの疲労も極まり、意識を失ったのだ。

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