09 マザー・チェルフェの恩返し

「まったく。ここまでどんな冒険をしてきた?」


 え、と振り向いたユウリスの目に映ったのは、ウルカの呆れたような表情だ。彼女は親指で≪マザー・チェルフェ≫をさした。死を覚悟したほどの敵意が、跡形もなく消え去っている。我が子の反抗と、ワオネルが懐いている姿、それが母親の憤怒を鎮火させていた。


「チェルフェが……」


 小さなチェルフェが親の爪から飛び降り、サヤの胸へ飛び込んだ。火竜の子供は、香ばしい種に興味津々だ。サヤが恐る恐る、≪マザー・チェルフェ≫へ伺いを立てる。


「あげて、いい?」


 野太い声を漏らし、怪物の母親が首肯した。サヤが花の咲くような明るさで、ありがとう、と口にする。チェルフェが種をかじる音は、ワオネルよりも豪快に木霊した。


「おいしい?」


『キュウウウウウウウ!』


 好物の気配を察したのか、ワオネルの姿は更に増えていく。普段から交流があるのか、≪マザー・チェルフェ≫を恐れる様子はない。好物の実が食べ尽くされても、小さな縞模様しまもようは地下世界に居座った。広い空間を駆け回り、湯を泳いで地下世界を満喫する。


 ユウリスは不思議そうに、目を瞬かせた。


「どうして、ワオネルがここに?」


「ドワーフの遺跡都市から、ずいぶんと上へ登った感覚がある。地下迷宮を進んでいたつもりで、この辺りは意外と地上に近いのかもしれない」


 ウルカがあごで示したのは、岩肌に空いた小さな穴だ。人では子供でも通れないような狭さだが、ワオネルは自在に出入りをしている。地上へ戻ろうとするワオネルと、地下へ潜ってきたワオネルが鉢合わせ、互いに譲らず喧嘩けんかをはじめていた。≪マザー・チェルフェ≫が屈み、増した体積の分だけ湯の水が押し寄せてくる。傷には響くが、火傷をするほどの熱さではない。


「私はここまでだ。あとは、お前たちが決めろ。ユウリス、これを傷にかけておけ」


 ウルカは身を引く前に、緑の液体が揺れる小瓶を差し出した。反射的に受け取ったそれは、命脈の霊薬と呼ばれたものだ。彼女が受けた傷の回復を見る限り、効能は折り紙つきだ。オリバー大森林の事件で腕に負った傷には使用していないようで、効果の薄い部分もあるのかもしれない。ただウルカは貴重な品だとぼやいていた。


 受け取れないと、ユウリスは返そうとする。


「ウルカ、これは――」


「うるさい。私の依頼主はレイン公爵だぞ。その息子を半殺しのまま放置したなんて報告ができるか。霊薬の代金は、いつも通り請求する。お前はもう少し、素直に甘えることを覚えろ」


 一歩引いたウルカの横顔は、ひどく無愛想だ。ユウリスは照れ隠しだと忍ぶように笑い、小瓶の栓を開けた。緑の液体を身体の傷へ注ぐ。


「冷たくて、なんか気持ちいい」


 特にひどいのはまぶたと腹だ。霊薬はすぐに反応し、身体の奥底から煮えるような熱が湧き上がった。緑の液体が泡立ち、傷を見る見るうちに塞いでいく。全身を巡る見えない火は、脳にまで達して意識を揺らした。


 よろけるユウリスの身体を、白狼が支える。


「と、ごめん。ほんと、助けられてばかりだ。まだ残っているから、クラウも――」


 差し出した小瓶を、クラウがくわえて受け取った。そして間髪入れず、ユウリスの残った傷に振り掛ける。空になった小瓶をウルカへ投げ返し、白狼は前脚を上げて少年の頭を撫でた。


「く、クラウ!?」


 ……、……。


 たまには自分のことを一番に気遣え、そう言わんばかりに。その首に両腕をまわし、ユウリスはきつく白狼を抱きしめた。


「ありがとう、クラウ」


 身体を前倒しにした≪マザー・チェルフェ≫の顔が、少年少女たちに近づく。鋭利な歯は恐ろしいが、ユウリスは不思議と威圧を感じなかった。


「さっきより優しい感じがする」


 ウルカの見せた追跡者としての姿のほうが、よほど恐ろしい。そう思った瞬間、当人に頭を小突かれる。声には出していないのに、とユウリスが驚いた顔をすると、今度は耳を引っ張られた。


「ちょっと、ユウリスは怪我人よ。誰かさんのせいでね!」


 鼻息荒く割って入ってくる赤毛の少女を嘲笑あざわらうかのように、ウルカは鼻を鳴らした。その態度も気に食わないカーミラが、肩を怒らせる。そこに響いたサヤの悲鳴じみた声。


「だめ、それ、いたい!」


『キュイイイイイイイイ!?』


 痛心を表すように、幼いチェルフェも細く鳴いた。≪マザー・チェルフェ≫が自らの鱗を剥がそうと、脇腹に爪を立てている。熱にうなされながらも立ち上がったユウリスも、なんとか自傷行為を制止しようと声を上げた。


「やめてくれ、チェルフェ。なにをやってるんだ!?」


 爪の動きを止めた≪マザー・チェルフェ≫が、困惑するように低い声で唸る。なにがいけないのかと苦慮くりょする怪物と同様に、子供たちには奇行の意味が理解できない。


 ユウリスが白狼へ助けを求める。


「クラウ。≪マザー・チェルフェ≫がどういうつもりか、わかる?」


 今度は白い魔獣が思いわずらう番だ。


 ≪マザー・チェルフェ≫の意思を把握できても、ユウリスへ言語化する手段がない。普段の以心伝心とは訳が違う。白狼はけっきょく、ウルカへさじを投げた。お前ならばわかるだろう――そんな視線を受け取り、しかたなく闇祓いの女傑が口を開く。


「子供を助けてもらった恩返しのつもりだ。こいつは自分のうろこが、人間にとって価値あるものだと理解している。チェルフェは本来、大人しい性格の怪物だ。普段は地下深くの溶岩地帯に棲息して姿も見せず、栄養源は溶岩や黒焔石で、肉食でもない。こうして地上付近に姿を見せても、ワオネルと上手くやっているのがその証拠だ」


「ウルカ、それは怪物っていうの?」


「怪物と魔獣の線引きをしているのは、ヌアザの神官どもだ。私の知ったことか。チェルフェは義理堅く、知能も高い。とにかく礼をしないと気が済まないのさ」


「いや、そんな痛々しいお礼はいらないよ」


「だが間違いなく金になるぞ。大きな鱗が取引されているのを目にしたことがある。一枚でもそれこそ、サヤの仲間たちが十年は食うに困らないだろう」


「ウルカ、それは密猟者みつりょうしゃたちと変わらない考えだ」


 ユウリスはサヤへ顔を向けた。旧下水道の集落が困窮こんきゅうしているのは明らかだ。彼らは地下に巣食う怪物すらかてとし、地上の支援を受けなければ医療にも事欠いている。だが損得勘定など考えず、ユウリスたちは危険な地下世界を旅した。チェルフェの子供を家へ帰したい、その一心で。


 みんなの気持ちは、たしかめるまでもなくひとつだ。

 サヤは口をへの字に曲げて、≪マザー・チェルフェ≫へ迫った。


「だめ、いたいのは、めっ!」


 サヤが本気で叱りつける。


 ユウリスとカーミラは顔を見合わせ、晴れやかに表情を和ませた。そして二人揃って、≪マザー・チェルフェ≫に頷きかける。母親の行為を哀しむように、小さなチェルフェが鳴いた。


『キュウウウウ、キュウウウウウウ!』


 さらに人間たちの気持ちに偽りはないと、白狼が肯定する。


 …………。


 ≪マザー・チェルフェ≫は、ようやく爪を下ろした。しかし納得はしていないようで、太い首が躊躇ためらいいがちに左右に揺れる。カーミラは腰に両手を当てると、子供を𠮟りつけるときのように胸を張った。


「お礼なんて気にしなくていいのよ、チェルフェ。わたしたち、ここまで大変だったけれど、けっこう楽しかったわ。最後に誰かさんが来なければ、もっと最高だったのに」


 カーミラから目のかたきにされても、ウルカは相手にしない。≪マザー・チェルフェ≫は任せたと、完全にあさっての方向へ顔を背けてしまった。ユウリスは、自分たちに委ねてもいいのか、と彼女へ問いかける。


 歴戦の闇祓いは、いまさらだと言わんばかりに肩をすくめた。


「ここで親子を共にしとめれば、他の仲間が復讐に来るだろう。ブリギット市が巨大なチェルフェの群れに蹂躙じゅうりんされても、私に責任は取れない。その危険性も踏まえて、市に報告する。もちろん、お前たちのこと含めてだ」


「ちょっとあなたねえ、少しは人の心ってものがないわけ。ユウリスがこんなになってまで――」


「カーミラ、いいから。ウルカ、市や父上がそれでもチェルフェの討伐とうばつを依頼したら、次はどうするの?」


「さあな、そうなったら考えるさ。だから報告の場にはお前も参加しろ、ユウリス。自分の通した道の行く末を、その目で見届けるといい」


「そこで流れを変えられるかどうかも、俺次第ってこと?」


自惚ううぼれるな。政治の世界は、お前が考えるほど甘くはない。レイン公爵に父親としての慈悲を期待しているなら――」


「黙って聞いてれば、なんなのよ、あなた。ここまで来たユウリスに、レイン家は関係ないじゃない!」


「さっきからわめいていた小娘が、いつどこで黙っていたんだ?」


「小娘じゃないわ、カーミラよ。カーミラ・ブレイク。ユウリスひとりに行かせたりしない。いいわ、市長と公爵様にわたしたちで意見しましょう。あなたはせいぜい、子供に出し抜かれた言い訳を考えておくことね。折衝せっしょうはよろしく、お・ば・さ・ん!」


 カーミラが得意げに鼻を鳴らすと、ウルカのこめかみがぴくっと動いた。女性同士、仲良くできないのだろうかと、ユウリスがため息を吐く。その横顔を眺めながら、原因はお前だ、と白狼が呆れたように目を細めた。


 すっかり存在を忘れられた≪マザー・チェルフェ≫が、身体を揺すって注意を引き戻す。再び押し寄せる、熱い波。サヤが湯にひざをつき、手をばしゃばしゃと遊ばせた。


「きもちいい! おにいちゃん、からだ、あらったほうがいいよ。ち、いっぱい」


「え、ああ、そうだね。まさかこんな場所に、天然の温泉があるなんて――」


 ユウリスはそこまで口にして、あ、と目を丸くした。カーミラも遅れて察し、表情を輝かせる。同じ考えに到った二人は向き合い、ぱちんと手を打ち鳴らした。


 ≪マザー・チェルフェ≫は恩返しができないことに苛立ち、爪で岩盤を削り始める。亀裂に流れ込んだ湯の川に、幼いチェルフェが飛び込んで飛沫をあげた。湯は傷に障らないようだ。サヤも浸かりたそうにするが、まだ深さが足りない。ユウリスは≪マザー・チェルフェ≫の爪に触れた。


「チェルフェ、お願いがあるんだ――」


 ユウリスの願いは、温泉の提供だ。ワオネルの通る穴を拡張すれば、人間の行き来も可能になる。市外を経由する必要はあるが、旧下水道の住人も天然の湯を使えると考えた。そこに嬉しい誤算が生まれる。幼いチェルフェが意図を察し、ひとつの小さな横穴に火を吹きはじめた。ユウリスが覗き込むと、先は落盤で塞がっている。


「行き止まり――いや、上が崩れたんだ。地震が原因かな」


 そこで不意に、小さなチェルフェが地面に転がり暴れはじめた。


『キュウウウウウイ、キュウウウイ!』


 癇癪かんしゃくを起こした我が子を見かねて、≪マザー・チェルフェ≫が陸に上がる。ずっしりとした巨体が動くたび、ユウリスたちの頭はジンジンと痺れた。


「こんなにデカいんだ!」


 長い尾が揺れ、飛沫が雨のように降り注ぐ。≪マザー・チェルフェ≫は子の暴れる姿からなにかを察したのか、爪の先を岩肌の一か所に向けた。すると子供のチェルフェが嬉しそうに頷く。


『キュッキュイイイイイイ!』


 つまり、ここを掘れ、と言っているらしい。


 子の訴えを聞き届けた≪マザー・チェルフェ≫の爪が、塞がれた穴を掘りはじめる。大きな爪が穴を拡張していく音に、ユウリスたちは思わず耳を塞いだ。


「すっごい音だ……クラウ、大丈夫?」


 …………っ。


 聴覚に優れた白狼は身を伏せ、前脚で耳を押さえて耐え忍ぶしかない。カーミラとサヤも手を頭の左右に押しつけて我慢し、ウルカは顔をしかめたまま佇んでいる。ワオネルは辛抱し切れず、一目散に地上へと逃げ去った。


「あたま、いたーい!」


「ちょっとユウリス、わたし、なんかフラフラしてきたわ!」


「ああ、待って、もう終わるみたいだ」


 爪が穴の先まで貫通し、岩の削れる音は不意に途絶えた。≪マザー・チェルフェ≫が、壁に埋まった太い腕を引き抜く。縦横共に、大人でも余裕で通れるくらいの広さだ。


 上層へ緩やかな坂を描く空洞に幼いチェルフェが嬉々として飛び込みんだ。


『キュウウウウウウウ!』


 そのうしろを子供たちが追いかけ、白狼とウルカも遅れて続く。暗い石窟の向こうに、いくつもの篝火が揺らいでいた。不意に、チェルフェが立ち止まる。最初に追いついたユウリスが、後続に手をかざして静止を呼びかけた。


「みんな、待って――誰かいる」


 幼い火竜も、人の気配を警戒して動きを止めていた。ユウリスはチェルフェの前へ歩み出て、じっと坂の先を見据える。


「あれは、明かり?」


 穴の向こう側では、鈍い銀の質感が火に照らされている。相手は武装しているようだ。白狼がユウリスのかたわらへ寄り添い、小さく鼻先を動かした。そして、よく視ろ、と言わんばかりに金色の瞳を細める。


 穴の向こうから、威嚇するような男の声が響いた。


「そこに誰かいるのか、何者だ!」


 松明と斧を掲げた男が、鼻息を荒くして踏みだした。機転を利かせたカーミラが、男の足元へ夜光石を放り投げる。ぎょっと身を竦ませる男を、暖色の光が照らした。


 その姿を見たユウリスとサヤが、同時に声を上げる。


「ボイドさん!」

「おとうさん!」

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