04 命の天秤
「……はっ、なにそれ、まだ隠している力があったの?」
未だ底の知れない彼女の実力に、ユウリスは甘さを痛感した。少しなら時間稼ぎが出来ると、自惚れていた自分が恥ずかしい。それが叶わぬほどに、師は強い。≪リッチ≫や≪ジェイド≫と戦いで死の恐怖に駆られはしても、希望はどこかにあると信じられた。しかしウルカを前にしたいまは、その展望がまったく開けずにいる。
「まあ、あのときも希望の大半はウルカだったし、仕方がないか……、まいったな」
「…………」
「聞いてくれ、ウルカ。確かに、チェルフェは人を殺した。でも、嫌がる怪物の子供から、無理やり鱗を剥がしたのは密猟者だ。人間が存在しているだけで正しくて、それを害したものは全部悪いなんて、そんなのはおかしい!」
腕が痺れる。骨ばかりか、内臓にも痛みは鈍く残り、いますぐにでも胃から全てを吐きだしてしまいたい。そんな苦痛に歯を食いしばりながら、ユウリスは短剣を構えた。間合いはウルカのロングソードが遥かに有利だ。彼女は腕に怪我を負っているが、闇祓いの秘儀にも警戒をしなくてはならない。
間合いを詰めるには、どうすればいい?
不利を有利に変える方法、逆転の秘策を考えろ!
そう必死で頭を働かせるユウリスに、ウルカが複雑そうな表情で立ち止まる。
「ブリギット市が駆逐命令を出した。私は市長とレイン公爵が捺印した依頼書に基づいて、ここにいる。退け、ユウリス。話はあとで聞いてやる」
「命令があれば、なんでもやるのか。俺だって、人殺しはいけないことだってわかるよ。密猟者にだって家族や、死を悼む人がいるかもしれない! でも、だからって――」
「ユウリス、落ち着いて聞け。他にも犠牲者がいる」
ユウリスの目が困惑に見開かれていく様子に、ウルカは下唇を噛み締めた。嘘だ、と思わず口にした弟子の夢想を、師は努めて冷静に否定する。
「上の部屋に住んでいた、老婆と少年だ。死因は、火事の煙を吸い込んだことによる中毒死。病気で動けない老婆を、同居していた少年が運ぼうとして逃げ遅れたらしい。他にも、逃げ遅れた数名が意識不明の重体になっている。現在は治療を受けているが、難しい容態だ」
ウルカが淡々と紡いだ事実に、ユウリスは頭を鈍器で殴られたかのような衝撃を受けた。他に犠牲者が出ていることなど、
ウルカは大きく溜め息を吐き、やりきれないとばかりに首を左右に振った。
「現場の集合住宅に住んでいたのは、ほとんどが
キーリィ・ガブリフの秘書からは聞いていない話だった。ユウリスは唇を震わせるが、思えば現場に行き当たったのは警官隊が突入する前後だ。ウルカが口にしたのは、後の調査でわかったことだろう。
「前に言ったな――例え悪人であろうと、怪物の命と天秤に賭けるのなら、私は人間を選ぶ。それでも自業自得で死んだ密猟者の
なにも言い返せず、ユウリスはただ短剣を握り締めた。
悪人は殺されても仕方がないとまでは思わない。それでも今回、先に害されたのはチェルフェのほうだ。自衛の抵抗が生んだ結果の殺人であれば、いくら怪物とはいえ命を奪うまでの
けれど無関係の、ただ上の階に住んでいただけの老婆と少年の犠牲は――その二人の死は、理不尽でしかない。
「その様子では、他の犠牲者については知らなかったようだな。屋敷に帰ってから、お前が納得できるまで話を聞くと約束しよう。だからいまは
闇祓いの光を霧散させたウルカが、再び歩みだす。ユウリスは無意識に下げていた目線を上げ、揺れる瞳で彼女を見据えた。
チェルフェはこれから、彼女に駆除されてしまうのだろう。
その理由は、人を殺したからだ。危害を与えた密猟者だけではなく、同じ建物で暮らしていた少年と老婆の命を奪った。いまも治療を受けているなかには、そのまま助からない者もいるかもしれない。
だからウルカは間違っていない。
市の判断も当然だ。
自分がここで邪魔をする道理はないと、ユウリスは確かに認めた。
そのはずだった。
「ユウリス、どういうつもりだ?」
再びウルカの鋭い視線に晒されて――ユウリスはようやく、自分が短剣を構えなおしていることに気がついた。距離はまだ、師の間合いだ。いまひとたび彼女が剣を振るえば、こちらは反撃の間もなく圧倒されるだろう。
それでもユウリスは軸足の膝を折り、片脚を引いて襲撃の姿勢をとっていく。
「ウルカ、俺は――」
「考えがまとまらないうちから、身体が反応しているのか」
ウルカは切っ先を上げて、正眼の構えをとった。破邪の光は発現しない。ただ返答に関わらず押し通ると、無言の圧力をかける。しかし彼女は不思議と、踏み込むことを
ウルカは遅れて、この感情は期待かもしれないと自覚した。
同時に、こんな子供になにを、と思わず自嘲気味に鼻を鳴らす。
「つい春先まではただの子供だったお前が、この私になにを聞かせるつもりだ?」
「俺は。俺は、俺は……!」
師の問いかけ。
ユウリスの脳裏で、いくつもの言葉が浮かんでは消えていく。胸が締めつけられるように苦しい、頭の後ろが、刺されたように痛む。ほんとうにそうだ、自分はなにをしているのだろうか。
チェルフェを守る、その意思は揺らいだ。
無関係な人の死を招いてしまった怪物に咎が向くのは、当然かもしれない。それでもなにか、例えようのない感情が
「頭ではウルカが正しいとわかってる。でも心が、違うと叫ぶんだ。俺は、どうしてもチェルフェを見捨てられない」
「情、か。心と感情を否定するつもりはない。だが想像してみろ。もし火事の巻き添えで亡くなったのが、あのカーミラという小娘だったらどうだ。お前はそれでも、怪物を許せるか?」
酷な問いかけだ。
非難したくなるのを堪えて、ユウリスは鼻息を荒くして唇を噛んだ。
カーミラが火事で命を落としたと仮定して、その原因がチェルフェだとわかったら? たしかに許せないかもしれない。顔も知らない他人の死は許容できても、近しい友人が犠牲者ならば復讐を考える。それは、たしかに身勝手な考えだ。
破裂しそうなほどに、心臓が早鐘を打つ。
「許せないと、思う。もし犠牲者のなかにカーミラがいたら、俺はウルカを止めていないと思う。それどころか自分の手で、チェルフェの息の根を止めようとしたはずだ」
「ユウリス、それは――」
「それでも!」
諭されるまでもなく、自分勝手な考えであることは重々承知だ。闇祓い失格の烙印を押されても、文句はない。ただ自分の将来、あるいは可能性の未来を理由にして退けるほど、ユウリスは物分りがよくなかった。れは開き直りだと情けなさけを痛感しながらも、そのなかで晴れ渡る思考。呼吸が落ち着き、胸の鼓動と心が重なる。
「ウルカを納得させられる答えが、いまの俺にはだせない。だからごめん、自分の気持ちだけで剣を握るよ。やっぱりここは通せない」
「ボイドから、おおよその事情は聞いている。サヤには気の毒だろう。だがなぜ、お前がそこまであの怪物にこだわる。あの子を悲しませないためか?」
問われてみれば、まったくその通りだとユウリスは思わず肩を竦めた。
チェルフェとはほんの数時間、行動を共にしたに過ぎない。師との関係、闇祓いへの道、それらを閉ざす危険を冒してまで守るほどの愛着はなく、サヤとの約束にしhても、別の犠牲者が出ていたとなれば話は変わる。道理は弁えるべきだ。そこまでわかっていて、なぜ今も退くことができないのか?
胸に残った最後の焦げつきが、剥がれていく。
いまこうして剣を握っている理由は、単純なものだ。
「俺は、納得がいかないんだ」
「…………?」
「チェルフェやサヤのためってだけじゃなくて、この状況そのものを受け入れることができない。無関係な人が犠牲になったのだとしても、それが自分の身近にふりかかってくる未来を想像しても、ただチェルフェを殺せばいいとは思えないんだ。いま物分りのいい振りをして退いてしまったら、俺は自分の心を裏切ってしまう」
「笑わせるな。望んだ通りに、すべてが叶うとでも思っているのか?」
「そうじゃない。でもこれが、俺の気持ちなんだ。どうしても譲れない」
「信念は時に、己の不利益に目を
ユウリスの答えを、ウルカは子供の
「無関係な人が亡くなったことを、無かったことにするつもりはない」
「
「そうだとしても、チェルフェを殺すことが罰になるとは思えないんだ」
「また人を殺すかもしれない。怪物は怪物。決して人間とは相容れない」
「違う。俺は白狼と分かり合えた。チェルフェとサヤも同じだ。
ユウリスの頭に冷静と情熱が巡る。言葉に思考が追随するのを感覚。湧き上がる心の声に、理性が縋る。死に対する
「子供を殺されたチェルフェの親が、人間に復讐心を抱くかもしれない。そうしてまた人が殺されたら、今度は親を殺し返すの?」
「それが人と怪物の生存競争だ。人間同士ですら、戦いの呪縛からは逃れられない。理想はわかる。だが現実は甘くない。お前が頭のなかでぽっと思いついたような幻想は、哲学者がもう何百年も前に書き記している」
「本に記すだけで誰もやり
「下水道で私が言ったことを忘れたか。お前に特別なものなどない」
ウルカの教えを、忘れてなどいない。闇祓いの資質自体は珍しいものではない。きっかけがなく、自らの力を知らない者が多いだけだ。ユウリスが宿す程度の力はありふれたもので、もっと稀有な才能は多く眠っていると。
「覚えてる、ちゃんと覚えているよ!」
この胸に、ウルカの言葉は確かに刻まれている。彼女はこうも言った――才能も運命も関係なく、剣を握ると決めたときの気持ちだけは、ユウリスだけの特別なものだと。
「俺に特別なものはいらない。ウルカは言った、≪ゲイザー≫は人と怪物の
「その考えが思い上がりだというのだ。馬鹿が。師弟の
「この想いを
言葉は尽くした。
ユウリスとウルカが同時に瞼を落とす。
身の内に秘めた破邪の力が、互いに呼応して脈打ち、闇祓いの胎動が青の波を沸きあがらせる。身に宿る蒼白の輝き。同時に開かれた瞳を塗り替える、群青の色。
そして紡ぐ声は厳かに、揺らぐことなく。
「闇祓いの作法に従い――ウルカッ!」
「闇祓いの作法に従い――ユウリス!」
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