03 追跡者

「ウルカが来る――!」


 迸る閃光の正体は、蒼白の光を身に帯びたウルカだ。闇祓いの力で身体能力を極限まで高め、瞬く間に距離を詰めて来る。跳躍の踏み込みで石の屋根を砕く音が、鼓膜を震わせる。


「すぐに追いつかれるわよ、どうするの!?」


「もう階段だ、一気に駆け上がろう!」


 苦し紛れだが、ユウリスには他の選択肢も思い浮かばない。


 逃げる足すら鈍りそうなほど、ウルカの接近速度は圧倒的だ。このままでは階段を登り切るよりも早く、闇祓いは眼前に立ち塞がるだろう。ユウリスは縋る思いで、彼女がチェルフェ抹殺の使命を帯びているわけではないという可能性を思い描くが、それはカーミラの声によって即座に否定された。


「ユウリス、なんか、首のうしろがちりちりするわ。これ、あの女の殺気ってやつ!?」


「どうやら本気みたいだ」


 微かな望みをも打ち砕く、強烈な圧迫感。


 白狼がユウリスへ視線を流し、頭を振った。自分が食い止める、先に行けと促す。相棒の気遣いに感謝しながら、ユウリスは即座に首を横に振り返した。


「ありがたいけど、クラウだけが相手じゃ、ウルカは容赦しない」


 彼女を止められる可能性があるとすれば、それは自分だけだ――石の街並みが途切れ、高い石段が眼前に伸び上がる。実際に目にすると、降りてきた階段の倍は距離がありそうだ。絶望的な気分で足をかけるユウリスに、カーミラが息を切らせながらぼやく。


「これ、オリバー大森林の樹より高いわよ」


「木登りは得意だろ」


「わたしが高すぎる樹に登って、下りられなくなったときのことを覚えている?」


「忘れないよ。君を迎えに行く為に俺も樹に登って、二人して戻れなくなった」


「わたしたちが夕焼けに感動していた下で、アルフレドは大泣きしていたわよね」


「笑える思い出だ」


「ええ、今回も笑って終わらせましょう!」


 それがカーミラなりの励ましだと気付いて、ユウリスの心から影が薄らいだ。彼女は、いつでも強くたくましい。


「最後まで諦めないぞ、絶対に!」


 石段を登りはじめながら、ユウリスは必死で思考を働かせた。この状況を突破するための方法を編みだせと、自身を鼓舞する。ウルカも無敵ではないはずだ。力量の差は知恵で埋める。


「駄目、追いつかれるわ!」


 カーミラが悲鳴じみて叫んだ。


 蒼白の流星が、石段の麓に舞い降りる。子供たちに突き刺さるのは、精悍な戦士の顔を見せるウルカの鋭い眼差し。それはユウリスの腕のなか、サヤに抱かれたチェルフェへと定まった。


 ≪ゲイザー≫の酷薄な気配が、極寒の冷気となって押し寄せる。


「ウルカ、事情があるんだ!」


 駄目で元々、ユウリスは説得を試みた。


 しかしウルカは口を開くことなく、無言の圧力しか返ってこない。彼女の片腕は、血にまみれていた。負傷自体は以前からのもので、治療に専念していたはずだが、闇祓いの秘儀を扱うと傷が開くらしい。ここへ到るまでに無理を通してきたのであれば、その本気度も伺える。


 ユウリスはなおも叫んだ。


「話も聞けないのか!?」


 腰を落としたウルカが、問答無用とばかりに背中の剣へ手をかける。一足飛びで襲いかかってくるだろうその瞬間、ユウリスも覚悟を決めた。サヤを片手で抱えなおし、ポケットから取り出した小瓶を握り締める。下水道の≪ゲイザー≫から託された霊薬。紫の液体が揺れる硝子の容器を、階段下へと勢いよく投げ放つ。


「カーミラ――割れた瓶に、火の魔術を!」


「やってやろうじゃないの、≪ゲイザー≫だかなんだか知らないけど、愛の力にひれ伏しなさい!」


 急な要求にも取り乱すことなく響き渡る、カーミラの魔術詠唱。人とエルフ、そしてこの世界には存在しない三つの言語が唱和する。彼女が掲げた手に収束する、魔力の胎動。赤い波動が可視化し、理は魔術へと昇華する。


「――原始の火よ此処へ――!

 ――Love is passion――!

 ――        ――!」


 小瓶がウルカの眼前、石段の麓に落下して砕け散った。飛散する紫の液体を、彼女はすぐさま霊薬だと見抜くが、しかし見た目から効果までは把握できない。


「――――っ!?」


 警戒して、ウルカは思わず後じさった。


 同時に、カーミラの生みだした赤い雫が指先から零れる。それは飛沫のように宙を舞って、紫の水溜りに落ち――刹那、そのかすかな一滴から巨大な火柱が広がり、螺旋を描いて伸び上がった。


「ユウリス、これでいいの!?」


「上出来、これで上手くいけば!」


 ウルカは魔術の炎を、闇祓いの剣で祓おうとしていた。だが、ユウリスの目論見は攻撃ではない。うねる焔が、霊薬に引火する。液体が熱によって蒸発を促され、気化した紫の煙が周囲に拡散をはじめた。


「みんな、絶対に煙を吸っちゃだめだ。身体が痺れる。いまのうちに走るんだ!」


 効果を確認することもなく、ユウリスは前だけを見て階段を駆け上がった。


「早く、上へ、上へ!」


 下水道の≪ゲイザー≫が説明してくれた霊薬の効能。


 駆けながらユウリスは、改めてその記憶を呼び覚ました。


 ――闇祓いの補助的な役割だ。

 ――怪物の口径へ直接流し込めば、破邪の力への耐性を下げることができる。

 ――敵が複数であれば、振りいてもいい。剣に塗っても構わない。


 そして、こうも言っていた。


 ――ただ、引火ですぐに気化するから気をつけて。

 ――人間が吸い込むと、しばらくはしびれて動けないからね。


 いまのユウリスには、最後の注意こそ必要な効果だった。


「やったかしら?」


「振り向かないで、いまは上へ!」


 長い階段をひたすら駆け上がり、なんとか無事に登り切る。それでもユウリスは安心できず、緊張した面持ちを眼下へ注意を向けた。息を切らしたカーミラが、心配そうに瞳を揺らすサヤの手を握る。特殊な霊薬の煙は、上昇することなく地上で滞留していた。紫の気体から、ゆっくりと踏みだす姿がある。


「――ウルカ」


 その名を呼んで、ユウリスは戦慄した。彼女に対する畏怖に指先は震え、胸が息苦しい。しかし霊薬の檻から抜けだした彼女も、階段を数歩上がったところで膝をついた。じろりと睨みあげてくる威圧感に翳りはないが、いますぐに動けるような状態でもないようだ。


 逃げる時間は稼げるか――ユウリスが胸を撫で下ろした直後、ウルカはベルトから小瓶を摘んで取り出した。おそらく霊薬だろう。それを一気に煽った彼女は、俯いたまま静止する。


「諦めたのかしら?」


 瞬くカーミラとは対照的に、白狼が注意を促すようにユウリスへ目を細めた。頷き返して、先を急ごうと洞窟へ向き直る。闇祓いの矜持を胸に刻むウルカに、諦めの文字はない。


「動けなくなったんじゃない、回復に集中しているんだ」


 いましがた飲み干した霊薬は、おそらく身体の自由を取り戻すためのものだ。そして再び追跡を開始した彼女が、同じ轍を踏むことは二度とないだろう。その予想が現実になったときの恐ろしさを、ユウリスと白狼は肌で感じていた。よほどの運がなければ、すぐに追いつかれる。


 味方にあって千人力の頼もしさは、敵になれば目も当てられない脅威だ。


「進もう、できるだけ先へ」


 そこでチェルフェが、不意に甲高い鳴き声をあげた。


「おにいちゃん、おろしてくれる?」


 ユウリスは腕から解放されたサヤが、ぱっと両手を広げた。少女の胸元から飛びだした火竜の子供が、四足歩行で洞窟のなかへと進みはじめる。


「チェルフェ、ここしってるみたい!」


 サヤが最初に走りだし、ユウリスとカーミラ、白狼もあとを追う。


「親が近くにいるのかしら?」


「それはそれで問題だ。子供を庇う親と、ウルカの戦いになるかもしれない。そもそも俺たちにだって好意的かどうかもわからないし」


「それにしても暗いわね」


 地下都市を照らす天井の光源は、洞窟に中にまでは及ばない。ユウリスは夜光石を掲げ、薄暗い空間を暖色で照らした。石畳は階段を登ってすぐに途切れてしまったが、足場は平坦で凹凸が少ないので、決して歩きにくいわけでもない。前の通路と同じく、石の臭いと冷たさが漂う。


「いや、炭の香り……?」


 夜光石で照らした岩壁には、大きな黒い線が幾重にもはしっていた。


「これ、もしかして――」


 ユウリスが黒い断層に注意をひかれた刹那、先を行くサヤから悲鳴が上あがる。岩壁の隙間から這い出た泥の人型が、子供たちの行く手を塞ぐように立ちはだかった。カーミラが息を呑み、ぎょっと身を竦ませる。


「なによあれ、砂の怪物!?」


 異様に細い身体に、長い手足。空洞のような暗い両目と口。岩の怪物≪ミミ≫だ。しかしサヤの危急に、チェルフェが牙を剥いた。


『キシュウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウ!』


 火竜の放つ炎が、≪ミミ≫に襲いかかる。しかし砂の怪物は熱波などもともろせず、片腕で薙ぎ払った。さらに流動する泥の手が、サヤを掴もうと素早く伸びる。間一髪、そこに割り込んだユウリスが短剣を引き抜いた。


「闇祓いの作法に従い――」


 胸の深い部分から呼び起こす、清廉なる力の鼓動。破邪の輝きが、刀身を青白く塗り替える。ユウリスは姿勢を低く、泥の腕を掻い潜った。そのまま肉薄し、全身のばねを使って一気に伸びあがる。


「はああああああああああああああああ!」


 闇祓いの刃が、怪物の腕を肘から斬り飛ばした。切断された手は刹那に塵と化し、≪ミミ≫の耳障りなうめき声が響き渡る。そこに、カーミラの警句が響く。


「ユウリス、あの女が来ているわ!」


 地下都市の方角に、青白い光が瞬いていた。ユウリスの恐れが、現実になる。そこに見えるのは、猛然と疾駆するウルカの姿。


「早い、もう回復したのか!?」


 ユウリスの指示を待ちながら、臨戦態勢で構える白狼。カーミラに助け起こされたサヤは、チェルフェを守るように腕の中で抱きしめた。≪ミミ≫も未だ健在だ。前後から迫る脅威に、ユウリスは一瞬の判断を迫られる。


「カーミラとクラウは、サヤを頼む。チェルフェを親元へ連れて行ってくれ!」


「ユウリスは!?」


「食い止める!」


 たたらを踏むカーミラへ夜光石を投げ渡し、早く、とユウリスは叱咤した。


「乱戦になればこっちが不利だ。サヤを狙われたら、防戦一方になってしまう!」


 不安そうに瞳を揺らすサヤの腰を、白狼の前脚が押しした。ユウリスも少女へ力強く頷きかけ、大丈夫、と笑いかける。


「おにいちゃん!」


「サヤ、行くわよ!」


 カーミラに肩を支えられ、サヤも走りだした。


 その行く手を阻むように、斬られた腕を再生した≪ミミ≫が手刀を撃つ。しかし白狼が飛びだし、銀の爪を一閃。泥の手は切り裂かれ、強力な一撃の余波で怪物の片腕から肩までが一気に破散した。さらに再生能力までも滞る。


 ――――!


白狼の爪は攻撃と同時に、≪ミミ≫が再生に使用する魔力までも吸収していたのだ。


 ……、…………。


 ユウリスと白狼の視線が一瞬だけ交わり、意思が重なる。


「クラウ、任せたよ」


 白狼はユウリスが無事に追いかけてくることを信じて駆けだした。


『キュオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ』


 魔獣の一撃によって魔力が枯渇した≪ミミ≫は、よろめきながら嗚咽を漏らした。カーミラたちが、砂の怪物を越えて洞窟の闇に消えていく。それを見送る間もなく、ユウリスは踵を返してウルカと対峙した。


「……ウルカ」


「邪魔だ、ユウリス!」


 暗闇を照らすのは、二人の闇祓いが纏う蒼白の輝き。

 ウルカの勢いは、ユウリスが立ちはだかっても衰えることはない。


「どうしてもやるんだね?」


「退けと言っている!」


 ウルカの剣に容赦はなく、横薙ぎの一撃が鮮烈に放たれる。ユウリスは覚悟を決めて、雄叫びを上げた。腰を落として踏ん張り、短剣を縦に振り抜いて応じる。切り結んだのは一瞬――筋力、技、霊力、全てにおいて圧倒する師の剣が放つ重厚な衝撃に、弟子の身体は軽々と押し弾かれた。少年は蹴鞠のように岩盤を転がり、舞い上がる土埃。


「――――っ!」


 集中を切らすな。


 それだけを考えて、ユウリスは固い地面にしがみついた。すぐに立ち上がろうとするが、眼前――すでにウルカの接近を許している。体勢を立て直す間もなく、少年の腹を鋭い蹴りが撃ち抜いた。身体が宙に浮き上がり、また地面に叩きつけられる。痛みすら遠く、意思が揺れる。


 そこにウルカの背後から迫る、片腕となった砂の怪物。


『キュオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!』


「ちっ、≪ミミ≫か、鬱陶うっとうしいぞ!」


 彼女を取り込もうと、細い泥の身体が蛇のようにうねり、とぐろを巻いて襲いかかる。しかしウルカの鋭い眼光は、冷静に怪物の核を見抜いていた。闇祓いの剣が、眩く呼応する。破邪の力が真価を発揮し、刀身に刻まれた幾つもの紋章が赤く明滅した。剣の一振りが、≪ミミ≫の核を的確に斬り裂く。


「冥府へ還れ!」


『キャヤアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!?』


 消失していく砂の怪物を振り返ることもなく、ウルカは洞窟の奥を目指して踏みだした。そんな彼女の前に、ふらつきながらもユウリスは身体を起こす。胃液を吐き、肋骨にひびが入った状態で、なおも師の前に立ちはだかるのは、意地と気力が肉体を超えているからに他ならない。


「……はっ、なにそれ、まだ隠している力があったの?」

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