08 アフールの奈落
「――アルフレド!」
「ユウリス、まだ危険よ!」
ユウリスが制止を振り切って駆け出すと、今度は白狼も邪魔をせず、傍らに付き従ってくれる。ユウリスは辺りに漂う
「ははうえー、ははうえー、ははうえー!」
どこからともなく、義弟の咽び泣く声がする。
遅れて追いついたカーミラが、無事みたいね、と安堵の息を吐いた。倒壊した壁の向こうには、奈落が広がっていた。母を恋しがるアルフレドの慟哭が、地底へと続く空洞から
「ははうええええええええええええええ!」
ユウリスとカーミラは、顔を見合わせて苦笑した。
「カーミラ、夜光石で奥まで照らせる?」
「だめ、深くて見えない」
カーミラがが夜光石を掲げても地の底は見えないが、アルフレドからは光源が確認できたようだ。喚き声が大きくなる。
「カーミラ、そこにいるんだね! 僕は大丈夫だ! でも足を
とってつけたように八つ当たりされ、ユウリスは溜め息をついた。
しかしブリギット方面、
「見た目ほど下にいるわけじゃないかも」
「カーミラ、瓦礫を超えて助けを呼びに行ってほしい。クラウ、カーミラの護衛をよろしく。俺は下に降りて、アルフレドの様子を見てくる。いっしょに来たいっていうかもしれないけれど――」
「いっしょに行くわよ!」
先んじた少年の言葉を遮り、カーミラが声を大にして主張した。白狼もこれみよがしにカーミラの傍らに佇み、ユウリスの指示に真っ向から反対する。叫び続けて喉が枯れたのか、途絶えるアルフレドの声。義弟の安否を気にしながら、ユウリスは慎重に説得を試みた。
「いまのは、けっこう大きな地震だった。もし次が来たら、今度こそ生き埋めになるかもしれない。全員で遭難したら最悪、誰にも見つけてもらえないんだ。誰かが助けを呼びにいくのが最善だ」
「だったら尚更、いっしょに行くわ。わたしは魔術が使えるのよ。剣でどうにもならない障害物も、魔術なら排除できる。クラウだって、魔獣なんだから鼻が利くでしょう。さっきワオネルと同じで、すぐに危険を察知していたわ。全員が生き残るなら、いっしょに行動すべきよ。それともユウリス、まさかアルフレドと心中するつもり?」
「ああ、もう、こういうときばっかりクラウと仲良くするんだな! いや、でもやっぱり駄目だ、全員で行くのは危険だよ。クラウも、お願いだから言うことを――」
刹那に地下のアルフレドが、この世の終わりを告げるような声を上げた。怪物だ、助けろ、早く、と悲痛な訴えが続き、ユウリスは選択肢を奪われた。
「灯りを!」
そうカーミラに告げ、ユウリスは奈落の淵から身を躍らせた。すかさずかざされた夜光石が、行く手を阻む瓦礫を照らしだす。
「ユウリス、すぐに追いかけるわ!」
「大丈夫、任せて!」
ユウリスが踵を滑らせて斜面を降下するなか、間髪入れずに白狼も飛びだした。白い毛並みが、少年に併走する。
「クラウ、先に! アルフレドを頼む!」
足は白狼の方が速い。
“
同時に、ユウリスも流れるような動きで腰の短剣を引き抜く。滑降を続けながら、臨戦態勢へ。アルフレドの悲鳴が近い。
「アルフレド! すぐに助ける、持ちこたえろ!」
そこに耳を塞ぎたくなるような怪物の金切り声。
『ギヤアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!』
鳥の糞に似た、癖のある臭いが鼻腔をつく。
白狼の爛々と輝く金色の瞳が、闇のなかで動きを止めた。
ユウリスは自らの胸元に意識を集中する。心の奥底、眠れる破邪の胎動へ精神を同化し、呼び覚ますのは心臓よりも深い場所、内界に
それこそが≪ゲイザー≫の作法。
「闇祓いの作法に従い――」
焦げ茶色の瞳を群青に染め上げ、銀の短剣が蒼炎を纏う。
カーミラが頭上から夜光石を投げ入れ、地底に視界が広がった。
顔を涙でぐしゃぐしゃにするアルフレドは、まだ無事だ。そこに襲い掛かる、巨大な
――――!
切り裂かれた怪物の首は、アルフレドの手に落下した。彼は、うぎゃあ、と叫んで生首を放り投だすと、そのまま白目を剥いて気絶しまう。
「アフール!」
ユウリスは巨大蝙蝠の名を口にした。
いちばんの脅威は鋭い牙だ。吸血行為と同時に、酩酊状態を誘う毒素を注入する。一度でも毒牙にかかれば、あとはされるがまま魔獣の餌袋だ。暗い洞窟に棲息するアフールは、闇のなかでも獲物を捉えることができるよう、赤い双眸に熱源を映しだす。しかし夜光石の明るさが、その視界を惑わした。
巨大蝙蝠は互いに翼をぶつけあい、混乱している。
「クラウ!」
肌を刺す冷えた空気のなか、見える範囲で残る敵は三体。
ユウリスの呼びかけに、白狼が無音の雄叫びで応えた。
「クラウ、そっちは任せた!」
ユウリスは岩壁で放心しているアルフレドを背に庇い、剣を構えた。
――――ッ!
魔獣同士の戦いは、実力差が歴然だ。
白狼の爪が、蝙蝠の頭を力任せに叩き潰す。
残る二体は二手に分かれる。片方は白狼。片方はユウリス――いや、気絶したアルフレドを狙って飛翔した怪物が、さらにもう一体。夜光石の光が届かない天井に潜んでいた三体目の蝙蝠が、急降下でしかける。
「お前たちとの戦いかたは知っている」
ユウリスは焦らずに、腰を低くして構えた。アルフレドを庇う背中の先には、壁しかない。翼を広げた怪物は、互いの翼が邪魔になって同時には襲ってこられないはずだ。
『ギアアアアアアアアアアアアアアアア!』
案の定、正面の一体が先に牙を剥いた。頭上のアフールは旋回して横手からの攻撃に軌道を切り替える。つまりこの一瞬は、正面の巨大蝙蝠と一対一。
「いくぞ!」
「――次ッ!」
華麗に着地を決めても、動きを止めることはない。
流れるような動作で身体を反転させ、側面から襲ってくるもう一体へ対峙した。仲間を倒され、動揺したアフールの勢いが鈍ったその隙を突くように、ユウリスは一足飛びで肉薄する。
「はあああああああああああああああああああ!」
巨大蝙蝠の喉へと容赦なく撃ち放つ、闇祓いの刃。
邪悪を討つ蒼い軌跡が、巨大蝙蝠の首を貫いた。
断末魔を上げることすら許さず、最後のアフールを一息に屠る。
…………。
ユウリスより一足早く戦いを終えた白狼が、ゆっくりと近づいてきた。成長した少年の太刀筋を目にして、満足げに頷く。しかし続いて甲高い少女の声が響くと、やれやれといった様子で尾を垂らした。
「寒いッ。ちょっと、なにここ、すごく生臭いわ!」
遅れて降りてきたカーミラは、アフールの悪臭に嗚咽を漏らした。すぐに巨大蝙蝠の死骸に気付き、気持ち悪いと表情を歪める。そんな彼女も、白目を剥いて倒れているアルフレドの姿には動揺を露にした。鼻を摘んだまま、悲痛そうに
「そんなアルフレド、本当に死んでしまうなんて!」
「まだ生きているよ。カーミラ、叩き起こして」
闇祓いの光を鎮めたユウリスが夜光石を拾い上げると、そこには荒い岩肌ばかりの世界が照らしだされた。舗装はされておらず、凹凸が激しい足場。一歩進むだけでも、
ユウリスは指先をぺろりと舐めて、風に晒した。
空気の流れは感じられない。
「参ったな、上まで登るのもきつそうだ」
放水路へ戻ろうにも、傾斜は決して緩くない。降りるのはなんとかなったが、怪我をした義弟を連れては登るのは困難だ。臭いに慣れるしかないと覚悟を決めたカーミラが、ようやく鼻から手を離した。
「こんなことになったのも、全部アルフレドのせいよ。あとで折檻が必要ね」
「いや、地震のせいだと思うけど……」
「地震が起きたらアルフレドが死ぬ決まりを追加しましょう」
それはあんまりじゃないかと半眼のユウリスを無視して、カーミラはアルフレドの前に屈み込んだ。彼女は容赦なく手を振りかざし、景気の良い音を何度も彼の頬で打ち鳴らした。
「カーミラ、なにしてるの!?」
「ユウリスが起こせって言ったんじゃない。ほら、アルフレド、さっさと目を覚ましなさい!」
「え、え、ふえ!?」
頬を真っ赤に腫らしたアルフレドが、びくつきながら目を覚ます。
「か、カーミラ……カーミラ、カーミラだ!」
アルフレドは叩かれていることに怯えるどころか、それも愛情だと好意的に解釈し、カーミラへ抱きつこうとした。しかし素早い身のこなしでかわされてしまい、ブリギット次期公爵の顔が岩盤に埋もれる。
「ひどいよ、カーミラ。僕は怪我してるんだよ!」
「わたしとユウリスのデートを邪魔した罰よ!」
「ず、ズルしたくせに!」
「なによ、アルフレド。わたしに負けろっていうの!? わたしが勝って喜ぶ姿を見たくないわけ!?」
なんだかんだと息の合った様子で言い合う二人に苦笑し、ユウリスは洞窟の端々をもう一度だけ確認した。枝分かれはなく、左右のどちらかに進むしか道はない。
「クラウ、どっちかいいかわかる?」
ユウリスは、相棒の狩人に判断を仰いだ。任されたと頷く白狼が、地面に顔を寄せて鼻を動かす。やがて少年へ視線を戻し、片方へ首をもたげた。
「そっちだね。ありがとう、クラウ。よし、じゃあ行こう。アルフレド、立てるか?」
「立てるわけがないだろう、僕の足がどうなっていると思ってるんだ……あ、いや、待て、僕はそんなに弱い男じゃない見てろよ、いいか、立つぞ、立つぞ……痛い、やっぱり痛いよお」
一度は唇を尖らせたアルフレドだが、カーミラの前だと気付いて見栄を張った。壁に手をついて、何とか立ち上がろうとする。しかし挫いた足の痛みは正直で、すぐに座り込んでしまった。
「まったく、だらしないわね」
「そんなこと言ったって、僕はあんな高い場所から落ちたんだよ?」
「いいよ、カーミラ。これ、持ってて」
ユウリスはカーミラへ夜光石を預けると、義弟の傍らに屈み込んで肩を貸した。
「ほらアルフレド、腕をまわせよ」
「馬鹿言え! お前の肩を借りるくらいなら、ここで野垂れ死んだほうがマシだ!」
「ですって、ユウリス。置いていきましょう」
「カーミラ、僕を見捨てるの!?」
「わたしとユウリスが地上に出たら、あなたの救助を頼むわよ」
カーミラの酷薄な台詞は効果覿面だ。アルフレドは悔しそうに唇を引き結びながら、ユウリスの肩に腕をまわした。
「くそう、屈辱だ」
「ユウリス、うるさくするようなら置いていきましょう」
夜光石で足元を照らすのは自然とカーミラの役目になり、白狼は
さすがにカーミラも文句は言わず、ユウリスのことを気にかけて進んだ。白狼は静謐の空間が気に入ったのか、目つきが普段より生き生きとしている。しかし白い魔獣の安寧は、アルフレドの不満が爆発したことで打ち破られた。
「ああ、もう、なんなんだよ、ここ。なんか生臭いし、足場は悪いし!」
「ブリギットの地下に、こんな洞窟があるなんて知らなかったな。ちゃんと外に続いているといいんだけど」
「ふざけるな、ユウリス。全部、全部、お前のせいだ! お前さえいなきゃ、こんなことにはならなかったんだ!」
「耳元で騒ぐなよ。あんまりうるさいと、本当に置いていくぞ」
「ああ、そうか。やっぱりお前は、僕が爵位を継ぐのが納得いかないんだろう。だからここで僕を亡き者にしようと――っ、痛い、痛いよ、カーミラ、いま蹴ったの、挫いてる足だよ!?」
「ねえ、アルフレド。わたし、ユウリスを批判する人間が大嫌いなの。でね、次に嫌いなのが状況の読めない男よ。大きな声を出したら、また怪物が寄ってくるって思わないのかしら。ああ、可哀相なアルフレド。わたし、本当にあなたを置いていきたくなってきたわ」
涼しい笑みを浮かべるカーミラの目は笑っていない。アルフレドは尋常でない恐怖に怯えて身震いした。そこまで恐れる相手に好意を抱き続ける義弟の心中が、ユウリスには理解できない。
「……アルフレド」
「うるさいうるさい、もうしゃべるな!」
アルフレドが口を閉ざすと、あとは互いの息遣いと足音だけが響く。それから時計の長針が一周するくらいは休まずに進んだが、悪路のせいで歩いた時間に距離が比例しない。
最初に黙り込んだのはアルフレドだが、最初に根を上げたのもアルフレドだった。無事な片脚への負担が大きいのか、足の裏が痛いと蚊の鳴くような声で訴える。
「ちょっとアルフレド、このまま此処でミイラになってもいいわけ?」
「カーミラ、僕、怪我しているんだよ。そんな言い方しなくたって――」
「ふたりとも、言い争いはなしだ。でもカーミラの言う通り、ここで休むのは危険が大きい」
「おいユウリス、僕はレイン家の次期当主だぞ。お前がこれからも家にいられるかどうかは、僕にかかっているんだ。わかったら優しく――」
「俺がアルフレドをおぶっていくよ。少しでも進んだ方がいい」
戯言は無視して、ユウリスは義弟を地面に降ろした。
「もう、ユウリスは甘いんだから」
屈もうとするユウリスの腕を、カーミラが掴んで心配そうにさする。仲睦まじい二人の様子に、アルフレドが表情を歪めた。
「僕の目の前でイチャイチャと……!」
嫌がらせにユウリスのズボンを脱がしてやろうかと手を伸ばすが、挫いた足をカーミラに踏まれて悶絶した。
「無理しないで、ユウリス。あなただって疲れているはずよ」
「平気だよ。ウルカに毎日、鍛えられている」
ウルカの名前を口にした途端、カーミラはあからさまに機嫌を損ねた。ユウリスはどうかしたのかと呼びかけるが、そっぽを向むかれてしまう。
ざまあみろ、と舌をだすアルフレド。しかし自力で歩かなくて済むこともあり、それ以上は口を挟まない。
白狼は相変わらず、周囲の気配に神経を研ぎ澄ませていた。
「クラウも、疲れたらちゃんと言ってね。ほら、アルフレド、背中に乗って!」
アルフレドを背負ったユウリスは、その軽さに驚いた。
「あれ、なんか軽い」
「はあ? お前におんぶされたことなんてないぞ、ユウリス」
「ランドロフとミックに俺を押さえつけさせて、よく飛び乗ってきてる」
「うわ、アルフレド、あなたってほんとうに最低」
夜光石に照らされたカーミラの眼光は、普段の数倍は凄みがある。余計なことを言うな、と耳打ちしてくる義弟を無視して、ユウリスは再び足を動かしはじめた。彼を軽く感じるのは、ウルカとの訓練で鍛えられている証拠に思える。
「ちゃんと、成果が出てるんだな」
しかし慣れない足場での行軍には、想像していたよりもずっと多くの体力を奪われた。冷えた空間でも、じんわりと汗ばみ、呼吸が荒くなる。不意に、アルフレドの手がユウリスの口元へ伸びた。皮の水筒が差し出される。
「アルフレド?」
「馬鹿、黙って飲め。お前が倒れたら、誰が僕を運ぶんだ!」
そうだな、とユウリスが笑って水筒に口をつけた。傾けられた水が喉を潤すと、心にもゆとりが生まれる。義弟の腰を叩き、もういい、と合図して引っ込めさせた。アルフレドはまだ中身の残った水筒を、カーミラへと掲げる。
「カーミラ、僕、お水を持ってるんだよ。君も飲む?」
「嫌よ、アルフレドと回し飲みなんて!」
「……まだユウリスしか飲んでないけど」
「飲むわ、寄越しなさい!」
奪い取ろうと伸ばされたカーミラの手から、アルフレドは水筒を遠ざけた。そのまま飲み口を自分で咥え込み、一気に水を飲み干してしまう。ぷはっ、と息を切らしながら水筒を下げた彼は、鼻息を荒くして赤毛の幼馴染を睨みつけた。
「なんだよ、ユウリスユウリスって、カーミラは僕に冷たすぎるんだよ! 僕だって一生懸命なのに、なんでわかってくれないんだ!」
「いい度胸ね、アルフレド。いつからわたしに、そんな口を利くようになったのかしら!」
カーミラの拳が飛んだ。アルフレドはユウリスの襟を掴んで、馬のように操って回避する。首を絞められたユウリスは体勢を崩し、そのまま仰向けに倒れた。
「あ、馬鹿、ユウリス!?」
「アルフレド、首、首!?」
背負われたアルフレドは後頭部を硬い地面にぶつけ、ユウリスの重みに潰されてしまう。カーミラが、ざまあみろ、と意地の悪い笑みを浮かべた――まさにその瞬間、警戒を報せる白狼の爪音が響いた。
――――!
暗がりの向こう、高い位置に掲げられ火が揺らめき、徐々に近づいてくる。
松明だと察して、ユウリスは慌てて身を起こした。尚も騒ぐアルフレドの口を手で塞ぎ、黙って、と指先を立てて示す。何度も頷く義弟から手を引いて、その面倒をカーミラに任せた。
「二人とも、そのまま動かないで」
ユウリスは忍び足で白狼の傍らに並んだ。もうずいぶんと大声をだしている上、夜光石の明かりもある。互いの存在に気付いていることは疑う余地もない。慎重に腰の短剣に手を掛け、身構える。
「カーミラ、夜光石を俺の足元へ転がして」
前方の篝火が、少し離れた場所で止まった。
成人男性ほどの輪郭がひとつ浮かび、更には別の気配が幾つも控えているのがわかる。
カーミラが息を呑んで、ユウリスの指示に従った。
白狼がそっと離れて闇に身を潜め、足元に転がった光は黒髪の少年だけを照らしだす。
「俺はユウリス。ブリギットの子供だ。さっきの地震で、友達といっしょにここへ落ちてきた。だから助けてほしい。話し合いはできる?」
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