07 果たされない約束
「知らないっ!」
ブラウスの袖で目元を拭い、
傍らに付き従う白狼が珍しく、ユウリスへ非難するような視線を向けた。
お前が悪い――そんな意訳が間違っていることはないだろう。
泣いている少女、必死で追いかける少年。大人が誰も声をかけないのは、白狼、ブレイク商会の令嬢、忌み子のユウリスという取り合わせ故か。あるいは子供の痴話喧嘩と思われたのか。その全部が理由かもしれない。
検問をどう抜けたのかも覚えていないまま、ユウリスはいつの間にか市外へ出ていた。運河に掛かる巨大な吊り橋を渡っていると、事情を知らない商人や旅人が白狼に驚く。目を真っ赤に晴らして、鼻水を垂らしたカーミラを案じる声もあったが、彼女はすべてを無視して歩き続けた。
「カーミラ!」
粘り強い呼びかけに彼女が応じてくれたのは、目的地である放水路の手前だった。ブリギット市外、街道からも外れた雑草の茂る先。高い防壁に覆われた街の下、運河の支流が流れていく水路の入り口。
カーミラは足を止めて、ユウリスへと向き直った。泣き腫らした目を手首で擦り、赤くなった鼻に手拭をあてがう。
「ユウリスは、あのウルカって女が好きなの?」
なんだって、と聞き返す言葉は飲み込んだが、ユウリスはまさにそんな表情で顎をつきだした。好き、というのはつまり、男女の恋愛という意味だろうか。確認するのも馬鹿馬鹿しいが、質問はもっと的外れに思える。
ユウリスは心のなかで両手の指を組み、女神ダヌへ祈った。
どうか無事にこの試練を乗り越えられますように。
「誤解だよ、カーミラ。ウルカはそういうのじゃない。俺は彼女から
「誤魔化さないでちゃんと教えて、闇祓いってなに? どんな教え? あの女をどう思っているの?」
闇祓いに関して、ユウリスはまだ怪物退治の作法という以外の答えを持っていない。授けられた技術や知識も、門外不出だとウルカに強く言い含められている。それでも必死に食い下がるカーミラ、ありのままを伝えた。詳細を話せないことに少しごねられもしたが、最後は彼女が折れてくれた。
「わかったわ。わたしも、魔女の掟で話せないことはあるから、わかるもの。それで、あの女のことは?」
「ウルカのことは、そうだな、年の離れたお姉さんって感じだよ。身になることを教えてくれる彼女には、感謝している。困っていたら助けたいと思うし、友達みたいに話すこともあるよ」
「ちゃんと話して、ユウリス。わたしは、あなたの気持ちを知りたいの」
「うん、わかってる。彼女にとっては、俺の面倒を見るのも仕事なんだ。父上から給金が出ている。用が済めば、ウルカは街を出て行く。そのとき、俺はいっしょには行かないよ。なんなら、カーミラといっしょに送り出すさ。ウルカに恋愛感情はないよ」
ウルカにとっては、自分との関係も業務だ。そう口にするのは、少しだけ胸にもやついた感情が過ぎる。それだけではない絆もあるとは思う。ただそう感じる気持ちがどういうものか、ユウリス自身にも判然としない。それでもカーミラは満足してくれたようで、うん、と小さく首肯した。
「でもユウリス、あなたはいつかブリギットを出て行くのよね?」
「――――え?」
「わかるわ。たまに遠いところを見ているもの。あなたはひとりで、ううん、もしかしたらそこのワンコといっしょに、この街から離れたいと思っているはずよ。違う?」
本当によく見てくれているんだな、と目を丸くして、今度はユウリスが頷く番だった。それまで大人しくしていた白狼が、少年の脇に鼻先を寄せる。ついていくぞ、と言われているような気がする。ユウリスはもちろんと笑いかけた。
「わたしも――!」
「カーミラ?」
ぎゅっと拳を握り、彼女がずんずんと距離をつめてくる。丸めた両手をユウリスの胸に押し当て、指先を服にかけた。カーミラの瞳が間近で揺れる。吸い込まれそうな碧の宝石。しかし距離に反して、紡がれる声は力強い。
「わたしも連れて行って。ブリギットから旅立つときには、わたしもあなたといっしょに行くわ。お願いユウリス、約束してちょうだい。わたしをひとりにしないで」
「でも、君には――」
「わたしにブレイク商会のことを言うなら、あなたにだってレイン家があるわ。でもあなたは、育ててくれた恩に背を向けて、いつか、いいえ、できるだけ早いうちに家を出ようと思っているのよね。わたしも同じよ、お母様とお父様のことは好きだけれど、なにかひとつを選ばなければいけないのなら、ユウリス、わたしはあなたを選ぶわ」
息の詰まるような熱意だった。どうしてそこまで、と正直な疑問も浮かぶ。
カーミラとの関係がどのように始まったのか、実はユウリスもよく覚えていない。
ひとりだった自分に、いつからか彼女が声をかけてくれるようになっていた。自分の気持ちは果たして彼女に釣り合うだろうか、ユウリスにはそんな迷いがある。けれど自分の問題はともかくとして、いまは彼女の想いに応えなければいけない。
そして考えるまでもなく、湧き上がる気持ちは自然と言葉になった。
「いいよ、カーミラ。そのときに君の気持ちが変わっていなければ、いっしょに街を出よう。クラウもいっしょだ、三人で」
「二人と一匹よ?」
「三人だよ。いっしょにくるなら、クラウとも仲良くして欲しい。クラウもね。ウルカに取るような態度を、カーミラにはしないでくれよ?」
ユウリスの仲介を経て、赤毛の少女と白狼が顔を見合わせる。
どことなく刺々しい眼差しが交錯するなか、先にカーミラが動いた。おずおずと手を伸ばし、頭を撫でる。白狼は表情こそ動かさないが、毛並みを撫でる手を邪険にはしない。
「とりあえず休戦よ、クラウ」
…………、……。
相変わらず挑発的な口調のカーミラに、仕方がないと白狼が目を細める。それがなんだか可笑しくて、ユウリスは思わず肩を揺らした。
そこで不意に、水路の奥から壁を叩く音が鼓膜を震わせた。
鈍器を打ち付けるような、鈍く重い反響だ。カーミラが何事かと目を丸くし、水路の暗がりを覗き込んだ。
「まさか、本当に怪人なんてことないわよね……」
「危なそうだし、やっぱり止めない?」
「それは駄目よ。わたしがアルフレドと舞踏会に行ってもいいっていうの!」
それも仕方がないと諦めたはずのユウリスだが、いまは少し面白くない。
水路の経路をあらかじめ把握しておけば、勝率がぐんと上がるのは確実だ。ユウリスが覚悟を決める間にも、カンカンカーン、と不規則な反響音は止む気配がない
「カーミラ、明かりは?」
「もちろん準備万端よ、夜光石を持ってきたわ。朝からたっぷり日差しに晒しておいたから、夜まで持つんじゃないかしら」
カーミラは得意げに胸を張り、布に包まれた黒い石を取りだした。闇に掲げると、蓄積した光が解き放たれた。目に優しい淡黄が、数歩先までは問題なく視界を広げてくれる。
どちらからともなく頷き、二人は並んで地下水路へと踏み出した。
存在を忘れられた白狼が、不満げに後へ続く。
「音、けっこう近いみたいだ。なにかいたら、俺の後ろにすぐ隠れて」
「ありがとう、ユウリス。でもわたし、あなたよりきっと強いわよ?」
格好をつけたつもりはなかったが、ユウリスの自尊心は少しだけ傷ついた。
カーミラは魔術の使い手だ。往々にして剣よりも魔術は強い。そういえばいつだったか、義姉のイライザにもそんなことを言われた。物語に登場するような可憐な娘は、なぜかユウリスの傍には現れない。
「思ったんだけどさ、カーミラとイライザってちょっと似てるよね」
「イライザお嬢様に? それは嬉しいわ。ブリギット婦女子の憧れよ」
婦女子ってどんな意味だっけ、とユウリスは間抜けなことを考える。それが顔に出たのか、横からカーミラに肘で突かれた。
得体の知れない反響音は止む気配もなく、足取りは自然と慎重になる。
「ちょっと生臭いわね」
「下水道ほどじゃないよ」
「なによそれ、まさかアルフレドに閉じ込められたの?」
「違うよ。市庁舎へ潜入するとき、下水道を通ったんだ。ここは下水道とは違うけど、運河の水だからね。外にいると気付きにくいけど、やっぱり臭いはあるんだと思うよ」
鼻の利く白狼は大丈夫だろうかと、背後を振り返る。案の定、白狼の表情は険しい。
一心不乱に壁を叩く奇妙な音が近くなる。カーミラは緊張した面持ちで、夜光石を高く掲げた。淡い暖色の照明が範囲を広げ、音の正体を露にする。
「あら――!」
「……あっ!」
急な明るさに驚いたのか、ぎょっとして固まった小さな姿。
まん丸とした黄色の目が、ユウリス達を捉えた。毛皮から覗く黒い手にギルムの実を握り締め、堅い殻を壁に押し当てたまま硬直している。灰色と黒の
一匹ではないようで、続々と仲間達が暗がりから姿を現す。
「ワオネルよ、ユウリス!」
「そうだね、こんな水路にも入り込むんだ」
可愛い、と両手を合わせ、カーミラが頬を
ユウリスも口元を綻ばせて、小さな動物達に手を振った。
ブリギットで生まれ育ち、ワオネルと遊ばなかった子供はいないだろう。ワオネルは特別、人懐こい動物だ。カーミラの好意的な声を耳にして、尻尾をくるくると幾重にも巻き始めた。子供の頃はそれが、遊ぼうという合図に見えたものだ。いまは単純に、臨戦態勢が解けたのだと知っている。
「わたしたちはともかく、あのワンコ――クラウを怖がったりはしないのかしら?」
控えている白狼は悠然と佇んで、暗闇に金色の双眸を光らせている。しかし白い毛並みの魔獣に敵意がないことを、ワオネルは本能的に感じていた。ユウリスとカーミラにばかり視線を向けて、白狼を気にする気配はない。
「動物の方が、クラウを見た目で判断しないんだよ。でも白狼は山で角鹿や水兔を狩るって、図鑑に書いてあった。お腹が空いたら、ワオネルも食べちゃうかも」
ユウリスの軽口に反応したのは白狼で、前脚で尻を蹴り、そんな節操のないことはしないとばかりに鼻を鳴らす。ごめん、と謝るユウリスだが、白狼は顔を背けてしまった。
カーミラがいっしょにいると、白狼は自分が蚊帳の外にいる気がして面白くない。
「なあに、クラウ。もしかしてわたしにユウリスをとられて、ヤキモチを焼いているの? 逆よ、逆。ユウリスはわたしのものよ。だから普段はわたしがあなたに、ユウリスを貸してあげているの。勘違いしないでちょうだい」
「カーミラ、クラウとは仲良する約束だろ。挑発しないで。あ、こっちに来るよ」
キュイ、キュイ、と可愛らしい声をあげて、数匹のワオネルが近づいてくる。他のワオネルは変わらず壁にギルムの実を叩きつけていた。ギルムの実は頑強な殻のなかに、
「音の正体、これだ。怪人じゃなくてよかったよ」
「そうみたいね。人騒がせなワオネルだわ。帰ったら、役所に教えてあげましょう。最近、大人はみんな神経過敏なのよね。ワオネルの遊び場まで、怪物退治だって荒らしてしまいそう」
足元に擦り寄ってきたワオネルに、カーミラが屈み込んで手を伸ばした。顎を撫でようとした返した手のひらに、殻付きの実が落とされる。足元にも、ぱらぱらと固い実が供え物のように撒かれた。カーミラが気まずそうにユウリスを見る。
「ねえ、ユウリス。もしかしてわたしたち、お菓子をねだられているのかしら?」
この小さな動物達は、人間のお菓子や果物も遠慮なく口にする。消化器官に優れ、腹を下すこともない。子供たちは家から食べ物を持ち出して、ワオネルが差し出す木の実と交換するのだ。
食べ物を交換した人間と小動物は仲良くなる――ブリギットの伝統だ。
だからワオネルは人間の子供を見ると、率先して木の実を差しだしてくる。
「わたしたち、まだいっしょに遊ぶような年に見えるのかしら」
「まあ、大人でもないから、仕方ないよ。けど困ったな、お菓子も果物も持ってない。あるのは、屋台でもらった同じギルムの種だけだよ?」
「どうせ種しか食べられないんだし、いいんじゃないかしら。わたし達はユウリスの剣で殻も割れるし、種はこの子たちにあげましょう」
そうだね、とユウリスも快く頷いた。足元に巾着袋を置き、すっと前へ差し出した。ワオネルたちがひときわ甲高い声をあげて、我先にともみくちゃになりながら手を伸ばす。袋からは散らばった
「この顔、久しぶりに見たわ。小さいのにとっても食いしん坊!」
「他の動物に餌を取られないためらしいよ」
ユウリスが放り出された巾着袋を拾い上げて中を覗き込むと、もう一粒も種は残っていなかった。散らばった殻付きの実を袋に仕舞い込んで、ベルトに吊るす。
そこで不意に、ワオネルたちが耳と尻尾をピンと垂直に伸ばした。
カーミラが怪訝そうに顔をしかめ、怪物の存在を危惧したユウリスは短剣の柄に手をかける。そんな少年の袖を白狼が咥えて、強く引いた。
「クラウ――?」
外へ、白狼にそう促されている気がする。
理由を問いかけようとした瞬間、ワオネルが一斉に走り始めた。小さな足をばたばたと小刻みに動かし、一目散にブリギット市方面へと駆ける。十数匹の群れが波のように動いた先で、上擦った少年の悲鳴が木霊した。
カーミラが声の方へ夜光石を向けると、ワオネルの突撃に驚いているアルフレドの姿が浮かび上がる。彼はへっぴり腰で壁に縋りつき、下唇を突き出しながら震えていた。
「うわあああ、なんだよ、なんで襲いかかって来るんだよ!?」
情けない声をあげるアルフレドに構わず、縞模様の群れはあっという間に闇の彼方へ消え去った。ワオネルの突飛な行動は、ユウリスにも理解が及ばない。そうでなくとも、アルフレドの登場に思考を持っていかれた。
「アルフレド、お前、何してるんだ?」
「う、うるさいぞ、ユウリス。お前がズルをするんじゃないかと思って、こっそり後をつけてきたんだ。こ、この卑怯も――の!?」
次の瞬間、大きな衝撃が水路を襲った。全員の足元から強い振動が競りあがった。身体を縦に貫くような、力強い突き上げ。視界がぶれ、立っていることもままならない、
強烈な大地の胎動。
水路の壁に音を上げて亀裂が走り、ブリギット方面から運河の水が大量に押し寄せてくる。大きな飛沫を上げる
「カーミラ!」
ユウリスは押し寄せる波から彼女を守るように、強く抱きしめた。白狼も身を屈め、そばに寄り添う。
「アルフレドは?」
視線を向けたユウリスへ、手を伸ばす
「アルフレド、こっちへ!」
ユウリスは喉が裂けんばかりに声を張り上げた。しかし激しさを増す地震に、何もかもが呑まれていく。天井が、壁が、一斉に崩落をはじめた。アルフレドが縋る壁も、一気に瓦解する。倒壊した瓦礫に消えていく、義弟の姿。思わず走り出そうとするユウリスの腰を、カーミラが両腕で掴んで留めた。行く手を白狼が遮る。
「ダメ、行かないで!」
必死にしがみつくカーミラと、白狼の強い眼差し。ユウリスは無力さに打ちひしがれながら、悔しげに力を抜いた。唇を噛んで、アルフレドがいた空間を睨みつける。
すぐに土埃が舞って、視界は白い煙に覆われた。
脳が揺れ、嘔吐感を覚えるほどの大きな揺れ。どれだけ続いたのか、ユウリスにも判断はできなかった。しかし地鳴りはゆっくりと遠ざかる。災害はやがて、大きな爪痕を刻んで終息した。
「――アルフレド!」
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