01 黒い水

 世のあらゆる災厄を封じた地を、トゥアハ・デ・ダナーンという。女神ダヌは絶望の大陸に取り残された命をうれい、よこしまな勢力に反抗する者たちへ祝福を与えた。怪物の血を焼き、人心の影を払う術を用いて、光と闇のはざまで命の調和を見守る存在。人々は彼らを、ゲイザーと呼んだ。




 仄暗ほのぐらい水のおりに、うつ伏せに沈んでいくひとりの少年。


 夜色の髪は泳ぐように広がり、焦げ茶色の瞳はうつろに揺らいでいた。深い闇は薄ら寒く、底のみえない深淵しんえんが、陶器とうきのような白い肌を呑み込んでいく。


 思考は判然とせずにぼやけて、なにもかもがはっきりとしない。


 黒い運動着は濡れて重く、腰のベルトからは愛用の短剣が消えている。凍えるような冷たさだ。溺れているわけではないが息苦しく、生臭さに吐き気をもよおす。


 これは夢だろうか?


 このまま零度の暗黒に身を委ねていれば、やがては目覚めるのかもしれない。


 そう考えて、即座に否定する、違うと心が叫ぶ。


 胸の内が苦しい。

 身を蝕むもの、これは悪意だ。

 何度も繰り返す、夢魘むえんの前兆。

 悪夢は決まって、闇に引きずり込まれる場面からはじまるのだから。


 なにかが近づいてくる。


 同時に腹の底が締めつめられ、口の端から気泡きほうがこぼれる。

 逃げようと試みるが、極寒ごっかんに囚われた身体は指先ひとつ動かない。


 どこからか、耳に届く声がある。

 鼓膜こまくではなく、魂を鷲掴む悪意の響き。


『――――レイン』


 奈落に、赤い眼光が灯った。


 途端に、呼吸が奪われる。

 肺に重い水が流れ込み、のどからせり上がる大きなあぶく。

 酸素は、すぐに絶えてしまう。


 苦しい。

 水を吐き出せない。


 痛い。鼻の奥が、目の奥が。助けて、助けて――。


『ユウリス・レイン――忌み子の、ユウリス!』


 もがきながら沈みゆく先で、少年を出迎えるのは黒い怪人だ。

 悪魔の形相で彩られた仮面を被り、黒衣を纏った長身の魔導師。


 袖から伸ばされた腕は、銀の甲冑かっちゅうに包まれ、鈍い光沢の指先に赤紫の光芒こうぼうほとばしる。


 邪悪な気配。


 少年は手足を必死で動かしながら、なんとか逃れようとした。


 悶え、もがき、足掻く。


 内臓が喉の奥から溢れてしまいそうな不快感、死の恐怖。


『ユウウウウウウリス・レイイイイイイイイイイイン!』


 妄執の叫び。


 銀の指先から放たれた赤紫の閃光が、流星のように少年へ伸び、その腹部を貫く。


 焼けるような激痛、視界に広がる赤黒い血液。


 窒息の苦悶、怨嗟への恐慌。


 命の消失を自覚する。

 魂が喰われる。


 心臓を握り潰される。肉を裂かれ、内臓を啜られる。


 この仄暗い水のなかで、永遠に。




 ……、…………。




 ほおを舐める、ざらついた舌の感触。


 身体の下から揺り動かされる感触に、少年――ユウリスはハッとまぶたを押し上げた。見開いた目に、厚い曇り空が映る。


 梅雨入りして久しいブリギットでは、曇天どんてんが続いていた。草をさあさあと撫でる風の声は涼しげだが、肌に纏わりつく空気は湿気で生温い。昨晩に降った雨の名残だろうか、芝生の青臭さを妙に生々しく感じる。


 ユウリスは目を擦り、浅い呼吸を繰り返した。

 そして酸素を求め、肺一杯に空気を吸い込む。


「――――」


 腕をあげて、額に乗せる。

 眠気は残っているが、意識を閉ざすのが怖い。


 不意に頭のうしろで、柔らかいものが動いた。


 寝床ねどこにしていた白狼が身をよじらせ、顔を近づけてくる。そのざらついた舌に、ぺろりと、頬をくすぐられた。目覚めたときと同じ感触だ。悪夢から救ってくれたのは、白狼だとすぐにわかった。


「ありがとう、起こしてくれたんだな。助かったよ」


 夢見が悪かったせいか、ひどい汗をかいている。額や首筋、黒い運動着の下までぐっしょりと濡れていた。身体を起こしても、じめっとした空気の流れが乾かしてくれることはない。


「着替えないと。午前の訓練でも、だいぶ汗をかいたし。お前も鼻が利くから、汗臭いのは嫌だよな」


 白狼の滑らかな毛並みを撫でる。言葉にできないほどの優しい触り心地。訓練で疲れたあとに寝そべると、瞬く間に睡魔が襲ってくるほどだ。


 四肢を伸ばせば大人ほどもあるこの白い狼は、本来ならば北方に棲息せいそくしている魔獣まじゅうだ。それがどうしてか大陸中央のブリギットへ現れ、いまはこうしてユウリスに懐いている。


 両腕を目一杯に伸ばして気怠けだるさを発散すると、ひざの上から一冊の本が落ちた。


 …………、……。


 白狼が興味深そうに前脚を伸ばすのを見て、ユウリスは慌てて注意した。


 紙の本は高級品だ。ブリギットを治めるレイン公爵家こうしゃくけの子でなければ、手に取ることは叶わないだろう。間違っても爪で表紙を破くようなことがあってはならない。


 …………。


 白狼は無音の狩人と呼ばれる通り、不満を声にこそ表さないが、それくらいわかっていると言いたげに目を細めた。そして肉球で本を手繰たぐり寄せると、項を爪で器用にめくりはじめる。


 その様子に、ユウリスは思わず目を丸くした。


「人の言葉がわかるお前を、いまさら疑ったりはしないけれど……まさか、文字まで読めるのか?」


 半信半疑ながらも、この賢狼けんろうならばありえない話ではないと息を呑む。白狼はからかうように、上目遣いで軽く鼻を鳴らした。ゆったりと捲られていく紙面の左半分は挿絵、右半分には文字が連なっている。ブリギットの古い伝承を纏めた本だ。主神ダヌをはじめとする神々の逸話に絡めて、天からの至宝しほうが次々と登場する。


「――ユウリス」


 背後から呼ばれて、少年は思わず肩を跳ねさせた。


 油断していた。


 そして声の主は、気の抜けた姿をいちばん見られたくない相手だ――ユウリスが振り向くと、怪訝けげんそうに眉をひそめる女の姿がある。年齢は二十代の前半。そばかすが特徴的な、凛々りりしい顔だち。ユウリスは、闇祓やみばらいの師である彼女の名を呼んで応えた。


「ウルカ」


 彼女もスカートをいて、平素の無愛想な表情を和らげてみれば、普通の街娘に見えなくもない。しかし実際にウルカが身につけているのは、動脈を守る厚手のパンツと、ジャケットの上に装着した銀の胸当てだ。使い込まれた背中の剣には、戦士の風格がにじんでいる。手に刻まれたいくつもの細かい古傷にも、物語があるのだろうか。


「なんだ、私の手が恋しくなったのか?」


「訓練のたびに殴ってくる、その手を? 冗談でしょ。いや、その包帯、まだ取れないんだなって」


 指摘したのは、もう片方の腕だ。肘から指先まで覆う、包帯と禍々まがまがしい呪符じゅふ。怪我とは少し違うらしいが、治療が長引いている。まじまじと見ていたことがうしろめたくもあり、ユウリスは誤魔化ごまかすように明るい表情をつくった。


「午後は用事があるって言ってなかった?」


「ああ、そしてお前は同行の申し出もしなかった」


「師匠の私用に弟子がついていくって、公私混同な気がするけれど……」


「敬意の問題だ。もっと私の役に立つように勤めろ」


 腕を組んで、彼女――ウルカが不遜ふそんに言い放つ。うなじで結った亜麻色の髪と思慮深しりょぶか紺碧こんぺきの瞳は、ブリギット人の特徴ではない。彼女は大陸諸国をまわる、怪物退治の専門家≪ゲイザー≫だ。


 ユウリスは彼女に師事しているが、まだ見習いである。その証拠にウルカの影は芝生になく、ユウリスの影だけが伸びていた。生粋きっすいの闇祓いは、日に晒されても影を地に落とさないという。


「顔色が悪いな、どうした」


「ウルカといっしょで、お化粧しないからかも」


「生意気な弟子だ。だが、隠しごとは下手だな」


 ウルカの慧眼けいがんが、ユウリスの闇を見抜く。


 おどける弟子に目を細めて、師は小さく鼻を鳴らした。

 十四歳のユウリスが張る見栄など、一回り以上も大人のウルカには通用しない。


「また悪夢を見たな?」


「――っ、ただの夢だよ」


 認めたくないといわんばかりに、ユウリスは視線を逸らした。


 悪夢は心の弱さだと思っている。


 ウルカの薫陶くんとうを受け、闇祓いへの道を歩みはじめたユウリスにとって、それは恥ずべきことに感じられた。悪夢はここ十数日に渡って続いており、頻繁ひんぱんに安眠を妨げている。


「べつに咎めているわけじゃない」


「わかってるけど、いちいち話題にしたくない」


 春先から関わった幾つかの怪事のなかで、ユウリスは何度か死のふちに立たされていた。その経験は、たしかに急速な成長の糧となったのであろう。しかし反面、恐怖という名の楔が、心に綻びを生んでしまったことも否めない。その隙間をむしばむものがなんであれ、ウルカに見逃すつもりはなかった。


「どんな夢だ?」


「いつもと同じだよ」


「同じ夢などないはずだ。三日前には、寝室しんしつに≪ジェイド≫が現れ、寝ているお前を剣で切り刻んだ。五日前は、≪リッチ≫に四肢をもがれる夢だったか。それで、今回は鍋で煮られでもしたか?」


 影の国の騎士≪ジェイド≫は、ユウリスが闇祓いに目覚めてから最初に退治した怪物だ。邪神に遣えるその騎士も、夢に出てくる。先ほど現れたのは、魔導王≪リッチ≫。ユウリスは市庁舎の戦いに参加し、≪リッチ≫の魔術によって腹を貫かれ、瀕死ひんしの重傷を負っていた。


 そのことを思い出したとたん、胃と胸が同時に苦しくなる。


 少年の苦痛を察して、白狼が本から顔を上げた。


  ……、……!


 大丈夫だよ、と白狼に笑いかけてはみるが、この気持ち悪さは拭えない。


 ユウリスの顔からは血の気が失せていた。


「こんなはずじゃ、なかったのに」


「なんでも最初からは上手くいかない。ゆっくりでいい、話してみろ」

 

 ウルカに促され、ユウリスは服の上から胸を押さえながら悪夢の内容を途切れ途切れに吐露した。細かい内容はもう記憶になく、ただ根ふいた恐怖だけが唇からこぼれ落ちる。


「≪ジェイド≫と戦った後にも、うなされたことくらいあったんだ。でも、そのときはすぐに普通の生活へ戻れたし、こんな風にはならなかった」


「だが、今回は違うな?」


「最近は≪リッチ≫ばかりじゃなくて、≪ジェイド≫まで夢に出てくる。俺を、殺そうとするんだ。これは、怪物の呪い?」


「呪いと片付けてやれば、お前の気は安らぐだろう。だがあいにくと、邪悪な気配は感じない」


「じゃあ、やっぱり俺の心が弱いせいか……」


「逆だ、お前は強くなった。≪ゲイザー≫の力は、心によって洗練される。むしろ闇祓いの作法は、より深くお前のなかへ根づいるといっても過言ではない。あれからも≪スペクター≫や≪ワイト≫と問題なく戦えているのが、その証拠だ」


 ユウリスは不安を紛らわすように、白狼の耳へ手を伸ばした。そよぐような手つきで撫でられ、魔獣が口元をむにゅむにゅと動かす。


 そんな白狼の手元に、本が開かれていることにウルカは気づいた。


「まさか文字を読んでいるのか?」


「どうなんだろうね、でもありえそう」


「とんでもない魔獣だな」


 規格外の魔獣に小さく驚嘆しながら、彼女は少年のかたわらに腰を下ろした。ユウリスに撫でられ、ご機嫌に尻尾をぱたぱたと揺らしている白狼。しかしウルカがなんとなく手を伸ばすと、気安く触るな、と弾かれてしまう。


 白狼がユウリス以外に厳しいのは、彼女の密かな不満だ。


「俺、ちゃんと成長してるかな?」


「ほんの少しくらいはな」


 ウルカが意地悪く唇を吊り上げた。


 ちゃんと褒めてよ、と茶化せるくらいには、ユウリスの声にも生気が戻る。


 それでも顔色が悪い弟子の頬を、ウルカの指が無造作につねった。


「い、痛いっ、なに!?」


「意味なんかない。お前の痛がる姿を見ると気分がよくなる」


「だから最近、午前の稽古けいこ容赦ようしゃがないのか……」


「ブリギットの雨季は長いからな。太陽が出ていないと気が滅入るだろう」


「天気が悪いからって理由で、昼食が食べられないくらいに滅多打ちするのはどうかと思うんだけど……」


「身体を動かすのは気持ちが晴れる」


 いまいち会話が噛み合わない。


 おどけるふりをしながら慰めようとしているのではないと、ユウリスは知っていた。悪夢にうなされた日、気持ちよく起きられた今朝、調子が良くとも悪くとも、午前の日課である戦闘訓練に慈悲はない。


 つねられた頬をさする少年に、ウルカがニヤリと白い歯を見せる。


「血色がよくなったんじゃないか?」


れたんだよ!」


 声を荒げるユウリスに、ウルカが朗らかに肩を揺らす。


「お前は、たまに面白いことを言うな」


「いや、ぜんぜん笑えないんだけど……はあ、弟子入りする相手、間違えたかな」


 出会って間もない頃は、厳しさのなかにもユーモアのある大人の女性だと思っていた。しかし最近は、彼女に遊ばれているような気がしてならない。そんなユウリスの懊悩おうのうなど知る由もなく、ウルカは軽い調子で肩を叩いた。


「死の恐怖を知ったのは、悪いことじゃない。強くなるほど、命のやり取りは増えていく。しばらくは悪夢も心の修行として、耐えてみろ。どうしても無理そうなら、心を落ち着ける薬を調合してやる」


「戦っているときには、乗り越えたと思ったんだけどな」


「戦闘時の興奮状態はあてにするな。心の在り方も、能力値も、平時にあるものこそ真実だ。さて、私は行く。今日は遅くなる。朝に伝えた通り、午後の座学は中止だ」


「わかった、いってらっしゃい」


 立ち上がったウルカを見送るために膝を伸ばすと、不意に怪訝そうな眼差しを向けられた。基本的に思い切りよく言葉をする彼女だが、たまに視線で不満を訴えてくることがある。しかし鬱憤うっぷんの原因を推察できるほど、少年は成熟していない。


「……えと、なに?」


「いつものことだが、私がどこに行くかを聞かないな」


「聞いてほしいの?」


「まさか、笑わせるな。どうしていちいち行き先を教えてやる必要がある。男と会うかもしれないんだぞ」


「まあ、いい年だし――って、痛っ、殴った!? いま、グーで殴った!?」


「たまたま拳が丸まっていただけだ。そんなことより、年上のお姉さんが親身になって教えを授けているんだ。お前はもう少し、そのことをありがたく思った方がいい」


「はあ……?」


「いい反応だ、もういっかい殴られたいのか」


「やっぱり殴ったんじゃないか!」


 けっきょくなにが言いたいんだと、今度はユウリスの顔に不満の色が浮かんだ。


 ウルカもまさか、弟子に関心を持たれないのが気に食わないのだとは口にできない。彼女に残るのは、弟子を殴って憂さ晴らしをしたという奇妙な後ろめたさだ。普段の訓練では、良心の呵責かしゃくなど皆無だが。


「ウルカ、ちゃんと言ってくれないとわからない」


 弟子の追及に、ウルカは眉をひそめた。


 このまま立ち去ってしまうこともできるが、少しばつが悪い。彼女はふと、我関せずと本を読み耽っている白狼へ視線を落とした。ちょうど捲られたばかりの項が、話題を逸らす天啓だ。


 綴られた女神の至宝の名を、ウルカが呟く。


「クラウ・ソラス」

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