09 ウルカの教え

 案内に任せたまま、どれほど歩いたのだろうか。


 暗がりの向こうに、火のたぎりが浮かぶ。篝火かがりびに照らされた、他と変わらぬ下水道の景色――ではない。汚水が入らぬよう煉瓦れんがが詰まれ、階段の上には外敵の侵入を阻むさくの扉。


「ここが、お前たちのねぐらか」


「ねえ、けんかしないで、おにいちゃんに、はやく、おくすり!」


 剣呑けんのんな空気を察して黙り込んでいたサヤが、控えめに主張した。見慣れた家に帰り着き、緊張がほぐれたようだ。


 ボイドが入口の見張りに話を通し、ウルカとユウリスを集落に招き入れる。


 市街地のように整然とした広い通路の左右には、丸くかれた横穴が等間隔に並んでいた。各穴の入り口に布が下げられ、私生活は保護されている。その隙間から物珍しそうに来訪者を覗き見るのは、集落の住民たちだ。ウルカは気にした風もなく、本当にこんなところで生活が成り立つのかと、無遠慮に視線をまわした。


「横穴を掘って居住区にしているのか。水はどうしている?」


「わきみず、あるの。きちょうだから、むだは、だめ!」


 衛生面にまわす余裕はないにしても、こんな下水道でも飲み水の確保ができると聞けば、さすがは水源豊かなブリギットだと感心する。


 やがてボイドから、案内役だと妙齢の女を紹介された。彼女の案内に従い、ウルカは横穴のひとつにユウリスを運び込んだ。無造作に置かれたマットに寝かせ、頬を叩く。


「瞳孔と呼吸は問題ない、命の心配はいらないだろう。いまさらだが、≪サムヒギアン≫の解毒薬は本当にあるのか?」


「さむひあ……?」


「≪サムヒギアン≫。オバケガエルだ」


 律儀に反応するサヤとは裏腹に、案内役の女性は無言だ。彼女は棚から緑の液体が詰まった小瓶を取り出し、薄汚れた小皿に満たした。


 簡潔に、オバケガエルの解毒薬だと告げる。


 ウルカは受け取らず、指を液体に湿らせて香りを確かめる。覚えのある匂いに眉を寄せ、そのままぺろりと舐めた。


「これは……霊薬か。≪ゲイザー≫の霊薬。まさか、ここに≪ゲイザー≫がいるのか?」


 女は答えなかった。


 先ほどのように無視されたわけではなく、明らかに困惑の色が浮かんでいる。≪ゲイザー≫というのが何かわかっていない様子だ。


 サヤも同様で、げーざー、と疑問符を浮かべて首を傾げている。


 ウルカは嘆息すると、礼を伝えて霊薬を受け取った。麻痺して動かないユウリスの唇を薄く開かせ、そっと小皿を傾ける。幸い、飲み込むくらいは自力で問題ない。


「私は少し歩いてくる。サヤ、こいつを頼んでいいか?」


「まかせて!」


 ウルカはサヤの頬を軽く撫で、立ち上がった。


 世話役の女はそのまま残るようだ。サヤが楽しげに話しかけているのを見る限り、危険はないだろうと放置する。


 ユウリスの身体に自由が戻ったのは、ウルカが出て行ってからしばらくのことだった。時間にすれば、屋敷の丘を往復するのにも満たない程度だ。それでも手足が不自由な状態からの快復は、文字通り生き返ったという実感が沸く。


「ありがとう、サヤ。おかげで助かったよ」


 起き上がって笑いかけると、サヤは恥ずかしがって、かたわらに座る女の背に隠れてしまった。


 母親だろうか。


 視線を向けるユウリスに、彼女は首を横に振った。ナダという名で、この集落で唯一の医者であるという。


「腕や足の痺れはどうかしら。視界にぶれがないといいけれど。意識や記憶の断続性は?」


「ぜんぶ大丈夫みたい。動けなかったあいだも、頭は働いていたし。ウルカとボイドの会話も聞こえていた。サヤが手を握ってくれていたのも覚えてるよ。本当にありがとう」


「おにいちゃんは、あたしを、たすけてくれたから」


「じゃあ、隠れてないで出てきてよ」


 いや、とサヤが照れたようにそっぽを向く。ユウリスが朗らかに口元を緩めると、警戒心から硬い表情を見せていたナダの目元も和らいだ。


 そこにウルカが戻ってきて、皮肉っぽく唇の端を吊り上げる。


「元気そうじゃないか、良かったな。オバケガエルは麻痺させた相手をゆっくりと味わって食う習性がある、少しくらい焦らしてもよかったんだがな」


「やめてください!」


 ウルカの軽口を、ナダが強い口調でたしなめる。彼女はサヤの耳を両手で塞ぎ、やるせない感情を吐露した。


「小さくて覚えていないようだけれど、サヤの母親は、この子が見ている前でオバケガエルに殺されたんです」


「そうか、配慮が足りなかった。謝ろう」


 急に耳を塞がれ、きょろきょろと不思議そうに目をまわすサヤに、ウルカは胸に手を当てて頭を下げた。ナダの手からするりと抜けた少女が、今度はユウリスの背に隠れる。


「また、けんか?」


「大人は喧嘩ばっかりで嫌だね」


「いやだね!」


 ユウリスが悪戯っぽく笑うと、サヤも可愛らしくさえずる。


「おいで、サヤ」


 ユウリスはサヤを持ち上げ、膝のうえに乗せて後ろから抱きしめた。えた臭いも、脂ぎった髪も慣れはしないが、いまはこの少女がたまらなく愛おしい。


「それでウルカ、ここに他の≪ゲイザー≫がいたの?」


「少し見てまわったが、正直わからない。誰も私の質問には答えないし、判断材料は影がないことくらいだが、該当者はいない。≪ゲイザー≫のことはまあいい。それより事情を話したら、ボイドが怪物のいない経路で市庁舎まで案内してくれるそうだ」


「ずいぶんと仲良くなったね」


「私たちが無事に辿り着かなければ、次は警官隊がここへ押し寄せてくると脅してやったのさ」


「さすがウルカ。よし、じゃあ行こうか。アルフレドが領邦軍を突入させるなんて、思いつかないうちにね」


「おにいちゃん、いっちゃうの?」


 膝のうえで身体を反転させ、向かい合ったサヤがつぶらな瞳で別れを惜しむ。ユウリスは出会ったときのように、こつん、と額を合わせ、少女の頭を柔らかく撫でた。


「サヤのお父さんが良いって言ってくれたら、また遊びに来るよ。いま、俺の父親が悪い奴に捕まっているんだ。それを助けにいく」


「そうなんだ、おとうさん、きっとだいじょうぶだよ!」


「ありがとう、サヤ」


 サヤを下ろして、ユウリスは立ち上がった。


「また遊びにくるから」


「やくそくだよ!」


 サヤも見送りに出ようとするが、ナダが肩に手を置いて留める。ばいばい、またね、と涙まじりに届く少女の声に後ろ髪をひかれながら、ユウリスはウルカと共に再び歩みだした。


「ウルカ、ここは闇なんかじゃないよ」


「どうだろうな。だが光でないことも確かだ。言葉だけでは、なにも変わらない。あの子やこの場所を見て、お前は自分の思い出にすることできるし、別の何かを成すこともできる。焦ることはないが、感じたことに満足するだけの男にはなるなよ」


 感じたことに満足するだけの男にはなるな――その言葉は、ひどくユウリスの胸を揺さぶった。その通りだ、この劣悪な環境で必死に生きている人たちがいる。


 子供が暮らすには過酷だと胸を痛めるだけならば、それは誰にでもできる自己満足だ。いますぐにできることはないが、それでもいつかは何かをと、ユウリスは力強く頷いた。


「わかった」


「それはそれとして、だ。ユウリス――」


 ウルカはサヤが見えなくなったのを確認してから、何気ない口調で少年の名前を呼んだ――刹那、素直に顔を向けてきたユウリスの襟元を問答無用で掴み、力任せに下水道の壁に叩きつける。彼女は眉間に皺を寄せ、目を吊り上げ、荒い鼻息のかかる距離まで顔を近づけると、有無を言わさず怒鳴りつけた。


「私は、待てと、そう言ったぞ。なぜ言うことを聞かなかった!?」


「――っ、そ、それは……」


「ジェイドを退け、何体かの死霊をほうむり、それでいい気になったのか。自分は強い男になれる、特別な力を手に入れた、他の誰かとは違う、そう思い上がったか?」


 ウルカの強い口調が、先程とは正反対の意味でユウリスの胸をえぐる。


 言葉が出ない。首元を締め上げられて苦しいばかりではなく、まさに指摘された通りのことを考えていた。のどが渇く、嗚咽おえつのような声が漏れてしまうのが、ひどくみじめで情けない。そんなユウリスの揺れる瞳に構わず、ウルカは容赦なく続けた。


「いままで多少の無茶にも口を出さなかったのは、お前がレイン公爵の子供で、彼が私の雇い主だからだ。今朝も言ったが、お前のお守りも仕事のうちさ。闇祓いの力に目覚めさせてしまった責任も、多少は感じている。だが、それだけだ。ユウリス、お前は特別じゃない」


 どの街にも破邪の素質を秘めた子供はいる。ブリギットのような大都市では、なおさら多くの潜在者が存在するだろうとウルカは語った。ただ自らの秘めたものに気付かないまま、生涯を終えてしまうというだけの話だと。


「それほど珍しいものじゃないんだ、闇祓いの力は。自惚れるなよ、ユウリス。お前が切れ味のいい剣を手に入れたのは、ただの偶然だ。それ以外は、ただ賢しいだけの子供でしかない」


「――――っ」


 視界が滲む。


 泣きたいわけではなく、そんな姿は彼女に見せたくもない。そう思えば思うほど、目頭は熱くなっていく。膝にうまく力が入らず、ユウリスはそのまま座り込んだ。


 下水道の住人たちから、何事かと遠巻きに向けられるいくつもの視線。


 情けなさと恥ずかしさ、そしてなによりウルカに見限られたという寂しさと恐怖で、ユウリスは顔をうつむかせた。彼女の手は、いつのまにか緩んでいる。


「私がいきどおっている理由を、理解できるか?」


「…………」


「ユウリス、死ぬところだったんだぞ」


 ウルカの声が震えているのを感じて、ユウリスは思わず顔を上げた。


 目からこぼれそうになる熱いたぎりを手の甲で拭い、晴らした視界に彼女の姿を映す。その表情は、やはりまだ怒りに満ちていた。しかし浮かぶ色は、義母ははの眼差しに感じる憎しみとも、義弟の顔に浮かぶ蔑みとも違う。


 ウルカは本当にただただ、ユウリスの身を案じて憤っていた。


「怪物の恐ろしさを、お前はまだわかっていない」


 膝をついたウルカは壁に力強く手をつき、ユウリスを見据えた。語気はまだ荒いが、諭すような声が続く。


「あの毒が致死性のものであったなら、その場でお前は終わっていた。人生も、末来も、なにもかも奪われてしまうところだったんだ」


「ウルカ、俺……あの――」


「聞け。私は怪物が嫌いだ。≪ゲイザー≫は本来、人と怪物の狭間に立つ者だが、人か怪物のどちらかを選ぶとき、私は躊躇ためらいなく人の味方をするだろう。それが悪人であろうと、関係ない。ユウリス、お前はどうだ?」


「……それは、人が怪物に襲われていたら、俺だって人を助けるよ。だって怪物は恐ろしいもので、人間とは違うから」


「なら、相手があの白狼だったらどうだ。えた白狼がやむなくサヤをらおうとしたら、お前はどうする?」


「そんなの、別の方法を考える。別に食事を用意してあげたり、他にもなにか……」


「ユウリス、もしお前が闇祓いを志すなら、それができる時と、できない時が、いつか必ずやって来る」


 いつの間にか、ウルカの口調からはとげが消えていた。


 代わりに宿る、寂しさと厳しさ。


 改めてユウリスは、目の前の彼女は戦士なのだと実感した。上辺だけの論理ではない。きっとウルカは今日にいたるまでのどこかで、いま口にしたような場面に何度も遭遇し、選択を重ねてきたのだろう。


「すぐに答えを出さなくてもいい。考えろ、それが一生続いても構わない。お前がこれから何者になるのだとしても、障害となる者は現れるだろう。怪物、人間に関わらずな。そのときに必要なのは、相手をよく知ることだ。闇祓いなら怪物を、警官なら犯罪者を、政治家なら政敵を――そして、それを敵にするのか、別の何かとして捉えるのかも、自分で決めればいい」


 ウルカは壁から手を離し、ひんやりとした手でユウリスの頬に触れた。年上の女性に優しく撫でられ、心臓が高鳴る――ような展開はなく、そのままほっぺたつねられ、痛い、と喚き声をあげる。


「甘やかすつもりはない、これも覚えておけ」


 しかし手はすぐに頬から離れ、そのままユウリスの黒髪を乱暴に掻き乱した。


「自分でそれを決められるくらいに経験を積むまでは、私の言うことを聞け。駄目というものは駄目だ。だがいつか自分の気持ちを抑えずに済むすべも、教えてやる」


「ウルカ、それって――」


「学べ。才能はどこにでも溢れているとは言ったが、運命の転機はそう何度も舞いこんでくるものじゃない。墓地の戦いでそれを掴んだのは、お前自身の選択だ。才能も運命も関係ない。剣を握ると決めたときの気持ちだけは、お前だけの特別なものだ」


「……あの、……うん、ありがとう。それから、注意を破ったこと、ごめんなさい」


「何度も言わせるな、殊勝しゅしょうにしても甘やかす気はないぞ。立て、お前の説教に時間を取られて公爵にもしものことがあったら、さすがの私も後ろめたい」


 ウルカが膝を伸ばしながら、ユウリスの腕を引っ張り上げる。並んで立つと、ウルカの方が頭ひとつぶん以上に長身だ。


 いつか追い抜こう、とユウリスは心に決めた。


 背の高さはもちろん、闇祓いとしても、人としても。そんな羨望せんぼうの眼差しからくすぐったそうに視線を外し、ウルカが小馬鹿にしたように鼻を鳴らす。


「これからは叱られたくらいで、いちいちベソをかくなよ。泣く子供は嫌いだ」


「な、泣いてないから!」


「そういうことにしておいてやる。よし、思わぬ道草を食った。歩きながら、上に出たときのことを話しておこう。お前が市庁舎へ潜入したあと、私はゴーレムに察知されないよう、しばらくは地下に残る。先に言っておくが、魔術師と遭遇したら逃げに徹しろ。手数の少ないお前では、分が悪い」


 魔術師は、名の示す通り魔術の使い手だ。呪文を唱え、あるいは魔方陣を駆使し、様々な超常現象を引き起こす。闇祓いの力を得たとはいえ、ユウリスの基本は接近戦だ。魔術師は往々にして遠距離戦を好むもので、間合いの相性が悪い。


「あとはお前次第だが、なんらかの動きが見え次第、私も行動を起こす。ファルマン警部は陽動といったが、そのあたりは臨機応変にやるつもりだ」


「俺の状況は、どうやって判断するつもり? あ、オリバー大森林のときみたいに、離れていても会話する方法があるのか」


「あれは、あの異界だからこそ出来た芸当だ。他人と精神で繋がるなんていうのは、お前が想像しているほど都合のいいものじゃない。機の読み方はそのうち教えてやるさ」


「了解、よくわからないけど、それじゃあ任せるよ。思ったんだけど、外にはゴーレムもいるよね。父上たちをここから逃がすのはダメなのかな?」


「最悪の場合は選択肢として考えるべきだが、いまのところ賛成はできない。ボイドは道案内にこそ協力してくれると言ったが、この地下にくすぶる反政府の意思は根深いようだ。レイン公爵や市長を連れてくることで、違う火種が燃え上がる可能性もある。ファルマン警部もそれを考慮して、脱出経路を裏門に指定したんだろう」


 視線の先にボイドたちの姿が見えて、ユウリスは話題を切り替えた。救出作戦の再確認や、他の人質が騒いだときの対処法を、入念に打ち合わせていく。


「万が一、ゴーレムと戦うことになっても、剣が通じるとは思うな。奴らは土で創造された人形だ。多少斬りつけても、そもそも痛覚がないから動きは鈍らない。脚を失っても這いつくばって襲ってくるし、腕を斬り落としても体当たりで押し潰そうしてくるだろう。だが弱点は単純だ。首を切り離すか、額の文字を削れば、ゴーレムは活動を停止する」


「額の文字……?」


 こういう文字だ、とウルカはユウリスの掌に指先をあてがい、『E』という文字を描いた。ゴーレムはこの文字を動力源としており、頭を切り落として身体への供給を断つか、文字そのものを削り取れば活動を停止するのだという。


「そんなわかりやすい弱点、なんで隠しておかないの?」


「ゴーレムには制約が多いのさ。弱点を隠す方法論を売りに出せば、きっと一生遊んで暮らせるぞ」


 ボイドの案内で旧地下水道の闇を抜け、市庁舎に辿り着く。外の空気は冷え、日はゆっくりと西に傾きはじめていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る