08 ブリギットの闇
「ファルマン警部から話は聞いている。お前たちが、この下水道の住人か」
姿を現したのは、成人した男女数名。年はまばらで、若者から老人まで様々だ。
掲げられた剣や鉈は手入れされており、日常的に使用されているのが垣間見える。姿はサヤと同じように黒ずんでいた。髪は脂まみれ、服もぼろぼろで、都市部に住む人間とは思えない様相だ。
代表格らしい三十代の男が一歩踏み出し、鉈を振り上げる。
「俺はボイド、ここを取り仕切っている者だ。まずはその子を返せ。それから身に着けているものをすべて置いていけ。そうすれば命までは取らずに帰してやる。俺たちが誰かを知っているのなら、わかるはずだ――ここは、お前らみたいな上の人間が来るところじゃあない!」
「はっ、笑わせるな。どこの世界だろうと、武器を振り回して金品を要求する奴は強盗だ。無断で領地に入ったのが気に食わないというのなら、謝罪くらいはしてやるさ。だが私からなにかを奪おうとするならば、覚悟がいるぞ」
退くつもりはないとばかりに、ウルカが前に出る。
そこでようやく
しかしボイドだけは鼻息荒く腰を落とし、握る鉈を震わせて鬼気とした形相を変えない。そこに、小さな影が割って入る。
「やめて、おとうさん!」
サヤが一触即発の二人を止める。
大人同士の緊迫したやり取りに、尻込みせず割って入る小さな背中――ウルカは感慨深く目を細めた。数ヶ月前に立ち寄った村で、似たような気骨の娘に出会ったことを思い出す。仕方がないと嘆息して、彼女は剣を下げた。
ボイドもまた、両手を広げて侵入者を庇う娘に困惑していた。
そんな父親に、サヤは賢明に訴える。
「あたしを、たすけてくれたんだよ。おにいちゃん、おばけがえるに、かまれたの。おねがい、おとうさん。おくすり、わけてあげて」
ユウリスが怪我をしたのは自業自得で、噛まれたのではなく尾で刺されたのだが、それを訂正するほどウルカも野暮ではない。
とうとうサヤは、鼻をすすりながら泣き出してしまった。振り上げた鉈をどうすべきか
「おとうさん、おねがい! おねがい! おねがい!」
ぼろぼろと涙をこぼす娘の懇願に弱り果てたボイドは、背後の仲間たちに判断を仰いだ。談合は短く終わり、彼はあからさまに不満そうな溜め息をつきながら、顎を振って下水道の奥を示した。
「ついてこい。俺たちの
「構わないが、素人が魔獣なんてどう――いや、そうか、失言だったな。好きにしろ」
こんな環境では、食うにも困るのは明らかだ。異形を食す文化自体は、それほど珍しくはない。察したウルカは剣を鞘に納めて、ユウリスを肩に担ぎ上げた。
都市部のぬるま湯につかっていたのは自分も同じだったようだと自嘲する。
「好意はありがたいが、急ぎの用がある。距離はどれくらいだ?」
「地上に戻るよりは近いだろう。言っておくが、サヤがいなければ、お前たちを無事には帰しはしなかった」
「そんな台詞をこれまでに何度も聞いたが、二度と同じ口を利く奴はいなかった。娘を悲しませたくないなら、下手な挑発はしないのが賢明だ」
魔獣の死骸を回収したボイド達に案内され、下水道を進む。
道中には地図に記されていない横穴がいくつもあり、集落はその先にあるようだ。
サヤはユウリスのことが気に入ったようで、背負われた少年の指を握ったまま、ウルカの傍らを歩いている。
「サヤ、といったな。私はウルカ。さっきは助かった、礼を言わせてもらう。お前は、どうして自分がここに住んでいるのかを知っているのか?」
「しってるよ。むかし、ひどいあらしがあって。でも、えらいひとは、たすけてくれなかったんだって。だから、ばいばいしたんだよ。あたしたち、ずっとここにいる」
ウルカは目を細めて、それから前を歩くボイドに視線を移した。
「私の背中でへこたれている未熟者に、ここの事情を話しておきたい。構わないか?」
そう問いかけると、やはり憮然としながらもボイドは小さく頷き返した。
「どうせ俺たちを変人扱いでもするだけだろう」
「どう感じ、どう考えるかは本人次第だ」
ウルカは毒で痺れているユウリスへ、彼らのことを語って聞かせた。
「しゃべれないだろうから、耳にだけ入れておけ。これが、ファルマン警部がお前に話さなかったことの正体だ。彼らは、かつて起こった大洪水のあと、ブリギットを棄てた者達の子や孫らしい」
水資源が豊富なブリギットは、その恩恵によって発展を遂げた。しかしそれは水害と隣り合わせであり、
現在に至ってこそ万全の警戒態勢が敷かれているのは、一世代前に起こった想定外の天災が教訓だ。数十年前、強烈な嵐が運河と川の氾濫を招いたことで、ブリギットは大災害に見舞われた。
近代史上最大の水害として記録されるブリギット大洪水は、当事国のみならず、大陸各国に知れ渡った。ウルカも当然、概要は把握している。
「ブリギット大洪水――私も話には聞いたことがある。街の大半が浸水、死者数万、行方不明者数千、ひどい災害だったらしいな」
「災害だと!? ふざけるな、あれは人災だ!」
ボイドが声を荒らげ、鉈を煉瓦の壁に叩きつける。
サヤがビクっと震え、悲鳴を上げた。怯えた様子でユウリスの腕にしがみつく娘の姿が、ボイドには歯痒い。
果たしてこの怒りは、次の世代まで引き継がれるであろうかと。
「当時のレイン公爵家は都市開発にばかり頭がいって、洪水への対策をおろそかにしていたんだ。挙句の果てに立ち退きを拒否していた南区の住人を、洪水を利用して見殺しにした。許されることじゃない」
「飛躍した陰謀論だな」
「あんた、その髪と目の色は余所者だろう、外の連中にはわからないさ。俺が物心ついたときには、もう大洪水から数年が経過していた。それでもあの頃のブリギットは、本当にひどかった。暴力、略奪、異教徒狩り――まるで洪水が、冥府を運んできたかのようだった」
国際的にも、ブリギットの復興政策は評価が割れていた。
壊滅寸前の状況から大陸三大都市国家のひとつと数えられるほどに成長した手腕を称える声もあれば、初動の遅れが甚大な二次被害をもたらしたと非難する学者もいる。
「いまのブリギットは、役人が嵐を利用して再開発した呪われた街だ。上にある綺麗な景観は、数え切れない人々の屍によって築かれている。行政は洪水を利用して、街を更地にした。信じられるか、そこに住む人々の犠牲など、なんとも思っちゃいない」
「確かに私は旅人だ。歴史書程度の知識しか持ち合わせていない。だがヌアザをはじめとする他国の援助も受けて、ブリギットは被災者に十分に補償をしたとも聞いている」
「死者が確認された遺族に対しては、だ。行方不明者の家族や、ただすべてを流されただけの者には、その半分にも満たない手当てしかでなかった。いや、金の話じゃない。奴らは新しい街を築き、洪水の記憶を消し去ろうとした。
「治水対策を怠ったレイン家の統治する、新しいブリギット……それが嫌で、地下に潜ったのか。気に入らないのなら、外国へ行くこともできただろう」
実際、下水道で魔獣を食糧にする気力があるのなら、別の国でやり直すこともできたはずだ。それをしないのはなぜか。彼ら自身か、あるいは親の代から受け継がれる妄執に、いまも取り憑かれているからだ。
「俺たちがここにいるのは、ブリギットに歴史を刻み込むためだ。あの悲劇を、なかったことにはさせない。我々はいつまでも忘れないのだと、貴族どもに知らしめる。ここに住み続けることが、あの人災を風化させないための抵抗なのだ!」
「思想は自由だ。だがそれを自分の娘にも言い聞かせて、この穴倉で生涯を終わらせるつもりか?」
「余所者になにがわかる!」
「ブリギットの人間ではないからこそ思うのさ。お前たちがここでどんな主張をしようと、私の見る街の人々に洪水の影はない。忘れ去って、あるいは折り合いをつけて、普通に暮らしている。ここを否定する気はない。だが何十年も変わっていないのは、お前達だけなんじゃないのか?」
「貴様――っ!」
「いや、出過ぎたことだな。失礼した」
憎しみのこもった眼差しを向けられると、さすがのウルカも言い過ぎたかもしれないと反省する。ボイドは、クソ、と憤りを吐き捨て、あとはひたすらに進むばかりだ。
「ファルマン警部は下水道で彼らと鉢合わせることを危惧し、公爵夫人は事情を知った彼らに邪魔をされることを警戒していた。警部は先に交渉すべきと言ったが、私が断った。敵にまわる可能性があるなら、遭遇しない可能性に賭けて進めばいいと。出くわしたら出くわしたで、なんとかなると思っていたが、ここの闇は想像以上に根深い」
ユウリスの意識が
「≪ゲイザー≫は人心の闇を祓う役目も帯びている。だが、私に彼らを変える力はない。ユウリス、お前はどうだ。≪ゲイザー≫になったお前は、彼らの闇にどう向き合う。闇祓いは、ただ怪物を倒すだけの存在ではない」
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