07 暗がりの少女

「追うな」


「でも、こんなところに子供を――」


 瞬間、下水道の向こうから女の子の悲鳴が上がった。今度はウルカが先に動く。ユウリスも追いすがろうとするが、浮かぶ蝙蝠の死骸に転倒しかけて出遅れてしまう。


「闇祓いの作法に従い――」


 ウルカの清廉せいれんな誓いと共に、蒼い光が空洞の闇を明るくする。彼女の瞳が紺碧から群青に塗り替わり、剣は蒼白の光を帯びた。それは怪物狩りの作法、闇祓いの発現。


 破邪の光に照らされ、少女に襲い掛からんとする異形の姿が露になる。


「ああ、くそ、≪サムヒギアン≫か!」


 怯えて尻餅をつく女児を背に庇い、ウルカが舌打ちをした。


 嗚咽のような鳴き声で威嚇いかくするのは、成人男性ほどの体躯を誇る大蛙おおがえるだ。でっぷりと腹の出た体躯には手足がなく、代わりに翼のような胸ビレと、先端のとがった長い尾がうねっている。白い肌を滑るヌメっとした光沢に、ユウリスは生理的な嫌悪感を覚えて身を震わせた。


「ユウリス! 毒をもつ魔獣だ。子供をつれて離れていろ!」


 思わず身を竦ませていたユウリスだが、ウルカの指示ですぐに動いた。


「任せて! 君、危ないからこっちへ!」


 汚水の中で座り込んでいる少女の腕を引っ張り、後退しようと試みる。しかし思わぬ抵抗が、それを妨げた。掴んだ相手の小さな指が、ユウリスの肌に食い込む。


「イヤっ――」


「大人しくしてくれ、君を助けようとしているんだ!」


 少女からはツンと鼻につく、えた臭いがした。


 改めて見れば、赤毛は脂で汚れ、肌は黒ずみ、貧民窟ひんみんくつの浮浪児がまともに思えるほどに不衛生な姿をしている。思わず顔をしかめるユウリスに、少女は傷ついたように目を見開いた。幼い瞳が揺れる。


 大罪を犯したかもしれない――ユウリスは自分の態度が不用意だったことを自覚して、すぐに謝罪した。


「――っ、ごめん」


 そのまま有無をいわさずに少女を両手で抱きかかえ、巨大蝙蝠の死骸をまたぎながら急いで後退する。視界の端では、ウルカと≪サムヒギアン≫の戦いがはじまっていた。


「沼地に棲息せいそくしている奴よりでかいな。ぶくぶくとえたものだ!」


 ≪サムヒギアン≫が胸ビレを汚水に叩きつけ、突き出た腹の弾力で天井すれすれまで跳躍する。ウルカを丸呑みにしようと開かれた大きな口と、並ぶ牙に滴る毒々しい緑の唾液。


「――ウルカ!?」


 暴れて腕から抜け出そうとする少女を放すまいと力を込めながら、ユウリスはすぐにウルカの異変に気付いた。喰らいつかれそうになれば動きを読んで回避し、鋭利な尻尾が振るわれれば剣で弾くが、一向に反撃しようとはしない。


「どうして戦わないんだ!」


「お前は黙って、そっちの娘を守っていろ。いつ矛先を変えるかわからない!」


「でも!」


 ユウリスの気掛かりは、彼女の片腕だ。


 巨大蝙蝠との戦いを見る限り、基本的な動作にかげりはみえない。しかしサムヒギアンとの対峙では、明らかに精彩せいさいを欠いている。そんなユウリスの疑問に答えたのは、腕のなかの少女だった。


「オバケガエル、きずをつけると、すごくおおきなこえ、だすの。みみ、きこえなくなって、たっていられなくなっちゃう」


「え――?」


 驚いて腕のなかを見下ろせば、怯えながらもたどたどしく口を開く少女の姿。ユウリスは力を緩めて、彼女を解放した。


「あの怪物を知ってるの?」


「みんなしってる」


 眼前に佇む少女は、もう逃げ出そうとはしなかった。ユウリスは下水に膝を落とし、同じ目線でそっと肩を抱く。そのまま額を寄せ、近い距離から彼女を見つめた。


「さっきは本当にごめん。傷つけるつもりはなかったんだ。許してほしい」


 心からの謝意を込めて告げる。


 少女が首を横に振る。そのしぐさでは、否定なのか肯定なのかは判断できなかったしかし小さな手が、少年の頬に触れる。そしてたどたどしい声で、いいよ、と許しを与えてくれた。


「ありがとう」


 心から安堵した様子のユウリスに、少女が気恥ずかしそうにうなずく。


「オバケガエルのこと、しりたい?」


「ああ、うん、教えてくれたら助かる。ウルカ――あの戦っているお姉さんは、お化けガエルに大声を出させないために、わざと傷つけないでしのいでいるのかな?」


「しの、ぐ?……そうだよ、すごいこえなの。きいたらあたまがまっしろ、うごけなくなって、たべられちゃうの!」


 ウルカは相変わらずの防戦一方だ。


 少女の言う通り、下手な反撃は不可避の絶叫を誘発と警戒しているのかもしれない。そうでなくとも≪サムヒギアン≫の猛攻は留まることを知らず、ウルカの持つカンテラがヒレに弾かれ、宙を舞う。両手で柄を握れるようになっても、彼女の剣に冴えは戻らない。


「あのお化け蛙を倒すには、どうしたらいいのかわかる?」


「おおきなえさをたべているときに、うしろからさすの。あたまのうえから、べろまで」


 頭と舌を同時に貫いて、一撃で決めるということか――利に適った戦法だと、ユウリスは得心する。しかし怪物狩りの専門家であるウルカにも当然、≪サムヒギアン≫退治の心得はあるはずだ。それでもアフールのように迅速な処理が行われないのは、その準備が足りないからだろう。


「なにかできることがあるはずだ……」


 自分がなんとか活路を切り開かなくてはいけない。


 そう決意して、ユウリスは少女に視線を戻した。


「俺はユウリス。君の名前は?」


「……サヤ」


「サヤ。俺が戻るまで、ここを動かないでほしい。他にも危険な怪物がいるかもしれないから、どこにもいかないで。俺は君を傷つけたりしない。あいつを倒して、君を安全な場所まで送り届けるよ。約束する」


「あたし、きたないよ?」


 うつむき加減でこぼれた声に、ユウリスの胸を締め付けられた。


 きっと自分が出会い頭に浮かべてしまったような表情や、もっとあからさまな態度や言葉に、この少女はずっと傷ついてきたのだろう。


 ユウリスは胃の奥からあがる重いものを呑み込んで、脂ぎったサヤの髪を撫でた。それから足元を流れる汚水を両手ですくいあげ、頭からかぶって笑いかける。


「これでいっしょだ」


「そのみず、あたしよりきたない」


「え、それひどくない?」


 望んだのと違う反応に、ユウリスが口をあんぐりと開けた。その情けない表情に、たまらずといった様子で吹き出すサヤ。


 でも笑ってくれたのなら、それでいい。


 サヤにカンテラを預け、ユウリスは膝を伸ばすした。下水道の空気を吸い込むことにも、ようやく慣れてきたところだ。深呼吸をして、覚悟を決める。そしてユウリスは、一息に駆けだした。


「ウルカ、俺がおとりになる!」


「馬鹿、来るな! ≪サムヒギアン≫には毒があると言っただろう!」


 構わずに肩を突きだし、ユウリスは≪サムヒギアン≫に体当たりをしかけた。手傷を負わせるのが目的ではない。魔獣がびくともしないのも織り込み済みだ。


「こっちも餌がいるぞ、かかってこい!」


 ≪サムヒギアン≫の巨大な胸ビレが豪快にはためき、ユウリスに襲いかかる。


「意外と素早い!?」


 至近距離からの攻撃を避ける術はなく、見た目のしなやかさからは想像もできない強烈な衝撃に晒され、ユウリスは壁際まで弾き飛ばされた。


 新たな獲物を認識した≪サムヒギアン≫が、腹を膨らませて跳び上がる。大きく開かれた口に呑まれる寸前、ユウリスは壁を蹴って前方に身を投げ出した。獲物を逃した毒牙が、下水道の壁を噛み砕く。


 しかし≪サムヒギアン≫のぎょろっとした目は、未だ少年を見逃してはいない。再び跳ね上がった巨体が、うつ伏せに倒れたユウリスを容赦なく圧し潰す。


「かはっ――!」


 さらに鋭利に尖った尾の先が、ユウリスの顔面を狙う。


 迫る死の恐怖。


 汚水に圧し沈められながら、ユウリスは無我夢中で短剣を振るった。刃が運よく魔獣の尾を弾いたのと同時、手の甲にはしる熱い刺激。尾の先端が、手首から中指までを浅く裂いている。


「ユウリス!」


 ウルカの纏う蒼白の光が尾を引いて、魔獣へと一直線に疾駆する。


 ユウリスに気を取られていた≪サムヒギアン≫が、グエッ、と鳴き、ぎょろり目と動した。だが既に遅い。ぶつかりあう寸前まで肉薄したウルカが瞬間、闇祓いの輝きを格段に際立たせる。


「冥府へ還るがいい!」


 下方から斬り上げられた破邪の刃が、怪物の首を一刀両断――胴から頭を切り離された≪サムヒギアン≫は、断末魔を上げることすら叶わずに絶命した。


「ユウリス、怪我は!?」


「う、うわ、げほ、げほ……あ……あ、れ……」


 眼前に落ちた大蛙の首と、切断面から溢れる体液に、ユウリスはむせ返った。返事をしようとするが、舌がまわらない。それどころか、ユウリスは自分の身体すら動かないことに気がついた。


「か、からだ」


「動かないのか?」


 ≪サムヒギアン≫の下敷きになったユウリスの腕を引き、ウルカが力任せに救出する。彼女はすぐに、少年の異常を察知した。


「魔獣の毒にやられたな。痺れがあるほかには……いや、いい、しゃべるな。この手か。まったく、言わんこっちゃない」


「……おにいちゃん、だいじょうぶ?」


 待たせていたはずのサヤが、カンテラの明かりを揺らしながら駆けつけた。≪サムヒギアン≫の凄惨せいさん亡骸なきがらには顔色ひとつ変えず、心配そうにユウリスを覗き込む。


「あのね、オバケガエル、どく、あるんだよ?」


「そうみたいだな。だがこいつには言うだけ無駄だ、人の話を聞く気がない」


 ウルカの声に混じる、静かな怒気。ユウリスは怪物よりも彼女のほうが怖いと、心中で毒づいた。


 身体はひきつけをおこし、指先は震え、足に力が入らない。


 頭もボーっとして、徹夜明けに早起きを強要されたような、最悪の気分だ。


 サヤが巨大蝙蝠の死骸を運んでくる。ユウリスのかたわらに、また魔獣の死骸が増えた。アフールの上に寝かせるよう提案する少女の気遣いに、ユウリスの産毛が逆立つ。汚水のなかよりましだが、実際に横たわってみると鳥糞の臭いがひどい。嗅覚までは麻痺しておらず、まるで生身で冥府にいるようだ。


「≪サムヒギアン≫の毒は、痺れた獲物をゆっくりと食べるためのものだ。致死性はない。だが作戦は中止だ、お前を連れて地上へ戻る」


「そうはいかない、そこを動くな!」


 下水道の闇の向こうから、敵愾心てきがいしんに満ちた声が響き渡る。ウルカがユウリスを庇うように前に立ち、闇祓いの光を失った剣を構えた。


 深淵しんえんの向こうに、人の輪郭がいくつも浮かんでいる。ウルカはサヤから受け取った灯りを掲げて、陰に潜む者達を照らし出した。


「ファルマン警部から話は聞いている。お前たちが、この下水道の住人か」

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