01 闇祓いの少年
世のあらゆる災厄を封じた地を、トゥアハ・デ・ダナーンという。女神ダヌは絶望の大陸に取り残された命を
ブリギット市の夜に浮かぶ、二つの月――幽玄の
土と水の香りを孕む、冷たい夜気。
苗が植えられて間もない田んぼの
「…………」
彼の名は、ユウリス・レイン。
夜に溶けるような黒髪、
「いつかこの街を出たら、次はこういうのどかな場所に住むも悪くないと思うんだ」
独りごちた少年が、彼方へ向けていた視線を正面へ定める。
ジージーという低い虫の声。風が薙いでも、稲の葉が
それは闇に
ユウリスは臆することなく、尋常ならざる気配を見据えた。腰の短剣に片手をかけ、軸足を引き、黒い運動着に包まれた身体を低くする。
この辺りでは最近、農家の人間に牙を剥く黒い怪異が現れるという。襲われた百姓たちは生気を吸われ、いまも教会で寝たきり状態だ。その凶事が盟主レイン公爵の耳に届いたのは今日の昼間――豊穣国ブリギット国は即日、闇祓いに怪物退治を依頼した。
そして畦道の向こうに揺れる
フードの奥で、赤い眼光が妖しく明滅する。
ゆったりと滑るような移動が、不意に止まった。
『あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あっ、あっ、あっ、あっ、――』
フードの奥から聞こえる声は、形容しがたい。強いていうなら、アという音を
そして怪物の発する響きは、見えざる波動となって闇を
健全な精神を
『あ、あ、あ、あっ、あっ、あ、あ、あ、あっ、あああ、あっ、――』
常人ならば、晒されるだけで発狂してしまうだろう、邪悪な肌触り。だが
「一度しか言わない、よく聞いてくれ」
産毛が総立ちになる不快感のなか、ユウリスはゆっくりと声をかけた。せめて己の意思で、この地から立ち去ってほしい。そんな願いを込めて。
「聖ダヌの下へ名を還し、聖なる理想郷ティル・ナ・ノーグへ旅立て」
女神ダヌの名を口にした瞬間、ユウリスを侵す亡者の嘆きがわずかに鈍る。しかし幽鬼は
「無駄みたいだな」
ユウリスは説得を諦め、
『あア、あアア、あっ、あああ、ア、あっア、ああ、あああアア、あア!』
掲げられたカンテラに、青い火が灯る。冷たい揺らぎは、苦悶に満ちた人の顔へと
「――――」
ユウリスは肉眼を断ったまま、特殊な呼吸で身体に意識の根を広げた。閉ざした視界の向こうでも、邪悪な気配は察知できる。迫りくる亡者に対する恐怖心で、すくみそうになる身体。あるいは自分に怪物退治ができるのかという
「けれど、それでも……」
次々と胸に去来する負の影。それらを払拭するように、感覚を研ぎ澄ます。
「冷たい感情に、抗う光を」
時間の流れが変わる、ひと時が永遠に凝縮されるような、
精神が、神経のように指先まで行き渡る。
そして胸の奥底で、冷たい情熱がたぎった、その瞬間。
「闇祓いの作法に従い――」
唱えるのは、大いなる女神からもたらされたという力の召喚式。
「黒い衣は通用しないぞ!」
眼界を取り戻しながら、ユウリスが腰の短剣を抜き放つ。
鞘から生まれる銀の刃が、静かな蒼白の揺らぎを宿して一閃した。
眼前に攻め寄る死人の
焦げ茶の瞳が群青の色に塗り変わり、そこに発現するのはまやかしを見破る能力――闇の虚構を暴く、真実の瞳。少年の眼光が、紅い
「それがお前の正体か」
『あア、アアあ、あ、アっ、あアっ、あ、あっ、アあ、あ、あアアア、あっ』
フードローブの奥に、
生者の活力、魂を欲してさまよう亡霊――ユウリスは破邪の刃を大きく引いて構えを取り、師から聞かされていた怪物の名を呼んだ。
「哀れな≪スペクター≫」
赤いローブの内側から、あるいはカンテラから、
ユウリスは怯まず、青い
「死者の忘念は、祈りのためにあればいい」
五体に隅々までみなぎる破邪の力。身体能力が極限まで高まり、雄々しく土を蹴れば、その姿は
『アアあ、あ、アっ、アっ、あ、あっ、ア、アアア、あっ、アッアッアッあ!』
「そこ――!」
邪道を
『あっ、あア』
その詰まったような音が、≪スペクター≫の断末魔だった。
痩躯が塵となり、かすかな夜風に吹かれて
「……や、った?」
勝利の安心感を得て、集中を切らした少年の瞳と刃から破邪の
しかし≪スペクター≫が滅びても、ユウリスの魂を狙う亡者の大半は残留したままだ。そればかりか格好の
「か、は……けほ、っ、やみ、ばらいの、作法に……」
再び闇祓いの力を発現させようと試みるが、群がる魑魅魍魎に精神を蝕まれ、集中が保てない。今しがた倒したばかりの≪スペクター≫に比べれば、それらは
だが破邪の力を使い果たしたユウリスの身体は、そんな
「あ、……っ、くそ」
意識はおぼろげに、視界が霞む。足が震え、立っていることもままならない。心臓の音が遠ざかる。
――――――――!
ユウリスの精神が死者に呑まれ、魂にまで魔手が伸ばされようとした、まさにその瞬間――どこからともなく、無音の咆哮が放たれた。
人の鼓膜を震わせることなく、しかし闇の存在を祓う力を秘めた
声無き叫びの波動が、群がる忘念をことごとく駆逐する。
「この、力は……」
つい先程までは誰の影もなかったユウリスの背後。
そこに希薄な存在感で佇む、白い狼。
……、――――。
唸ることはなく、呼吸すらも耳に届かない、無音の狩人。
夜風にそよぐ、雪のような白い毛並み。人間の大人ほどある体躯は、威圧感よりも
「白狼……!」
名を呼ばれた白狼は足音もなく踏み出し、ユウリスのかたわらへと歩み寄った。膝から崩れ落ちる少年の身体を、柔らかな背で受け止める。滑らかでふんわりとした毛皮に、ユウリスは安堵したように息を吐いた。
――――!
少年を背負ったまま、白狼は虚空の彼方を見据え、じろりと睨みを利かせた。新たに接近を試みていた亡者たちが、恐れをなして散り散りになっていく。
――、……。
得意げに鼻をひくつかせるしぐさも、やはり音として届くことはない。
そしてもう一人、畦道のなかに現れた姿があった。すっきりとした味わいの
「まだまだ詰めが甘い」
うなじで結った亜麻色の髪。化粧気のない肌に浮んだそばかす。怪物狩りの女戦士。闇祓いの≪ゲイザー≫。名はウルカ。彼女は低い声でぼやきながら、のっそりと立ち上がった。
「怪物と人の狭間に立つ≪ゲイザー≫には、政治に関わらない、権力を持たない、家庭を築かないという不文律がある。
唐突に姿が現れたのは、ユウリスの戦いを見守るため、ウルカが姿を隠す結界を張り巡らせていたからだ。しかし共に身を潜めていた白狼が飛び出したことで、
「まったく、鐘一つ分の時間を費やした結界が台無しだ」
白い魔獣との付き合いはウルカの方が長いが、なぜだか懐かれているのはユウリスだ。白狼の背で虫の息になっている少年へ歩み寄ると、彼女はつまらなそうに鼻を鳴らした。
「それにしても過保護な白狼だ。まさか母親にでもなったつもりか?」
毒づきながら、ウルカは懐から聖水の小瓶を取りだした。栓を抜かれた瓶の中身は、普通の水と変わらない、透明な液体だ。それを≪スペクター≫の遺した外套と、カンテラに振り撒く。すると赤紫の蒸気がジュワっとあがり、すぐに消え失せた。
カンテラを外套に包んで回収した彼女が、意地悪げに白い歯を覗かせる。
「それにしても、さすがは影の国の騎士≪ジェイド≫を倒した公爵家の王子様だ。勇敢な戦いぶりだったな」
「嫌味なら直接的過ぎるし、
「身体が、すごく寒いんだ」
「死に近づいている証拠だ。まだまだ、霊力を扱うには経験不足だということを思い知れ」
「優しさがほしい……」
闇祓いの力も亡者に奪われ、からっけつになっている。
冬場の
白狼が追い払った亡者の気配が、再び周囲に漂いはじめる。標的は無論、弱り切ったユウリスだ。
「ねえ、ウルカ。あの亡霊だか悪霊だか、完全な退治って無理じゃないかな。どこからでも、うようよ沸いてくる」
「生まれた数だけ死んでいくのが命だ。人間の寿命は数十年足らずだが、≪ゴースト≫の寿命は四百年近いといわれている。死んでからの方が、人生は長い」
「ああいうのを、≪ゴースト≫って呼ぶの?」
「≪ゴースト≫は、魂の
「ウルカでも勝てない怪物がいるんだ」
「単純に勝ち負けではかれるものではないが、そういうことだ。話を戻すが、身近なところならオートマティスムの起源もそれだ。あれは死の世界へ旅立った者――≪ゴースト≫から、魔女たちが神々の
「ぜんぜん身近じゃないし、思い出したくもない」
ほんの一ヶ月ほど前、オートマティスムという占いの儀式が発端で、ユウリスは痛い目を見たばかりだ。その事件の
「このブリギット領から、邪悪な存在を遠ざけていた加護―—先の事件で、その聖なる守りは失われた。おかげで、私たちのような闇祓いは大忙しだ。今夜のような怪物騒ぎは、そこかしこで頻発している。特に≪スペクター≫をはじめとする死霊の発生は、信じられないほど容易になった」
そのため、ユウリスとウルカは住民の求めに応じて、夜ごと怪物退治に勤しんでいるというわけだ。
「また、うようよ寄ってきた……ウルカ、オリバー大森林の加護が戻れば、元の平和なブリギットに戻るんだよね?」
「どうかな。ワインは一度でも栓を抜くと、
沈んだ気持ちで頭上の亡霊を見上げるユウリスの視界に、ウルカの腕が入り込んだ。彼女の手には、小ぶりの巾着袋が揺れている。
「ウルカ、それは――」
なに、と問う前に、ユウリスは表情を歪めた。ウルカの瞳に、
少年の頭上で、上下逆さまにしなる巾着袋。中に詰まっていた大量の白い粉が降り注ぎ、黒髪を真っ白に染め上げていく。
「げほっ、げほっ、え、うそ、なに!?」
思わず喉の奥まで吸い込んでしまい、ユウリスは激しく咳き込んだ。さらに得体の知れない粉末を
…………!?
申し訳なさそうに目尻を下げつつも、距離を取る白狼。ユウリスが
「熱を
「それは、どうも、アリガトウ。でもできたら、やる前に一言ほしいところだけどね。ていうか、霊薬は貴重なんだろ、子供のお守にしては
先ほどの仕返しに、嫌味を言い放つ。しかしウルカは気にした風もなく、得意げに唇を歪めた。
「消費期限がとっくに切れている霊薬だ、気にするな。
「権力は持たないのに、金にはあこぎなんだな。さすが伝説の≪ゲイザー≫様、一筋縄じゃいかないよ」
「なんだそれは、もしかして嫌味のつもりか?」
「あー、もう、うるさいな。ていうか俺、全身真っ白なんだけど。これ、すっごい苦いし。いつまでこうなわけ?」
「白い粉はデンプンと
「家に帰ってから風呂に入るよ」
ナウエリがなにかは知らないが、ろくでもない怪物であることは想像にかたくない。
ふらつきながら立ち上がるユウリスの身体に、すかさず白狼が寄り添う。
「ありがとう。友達はお前だけだ」
「ほんとうに、ずいぶんと懐かれたな。長く旅をしてきたが、人間に友好的な魔獣は見たことがない。同じ森の住人同士で、共生関係ということは稀にあるが……」
「戦友だからね」
ユウリスが戦友と呼んだ白狼は、大陸北部を生息地としている魔獣だ。しかしブリギット市は大陸中部にあたるため、本来はこの辺りにいるはずがない。それが数奇な縁で絆を結び、ふたりは良き友人となった。
「オリバー大森林では命を預けて戦ったんだ。ウルカはいなかったけどね」
…………!
「≪ゲイザー≫になれば、魔獣の言葉もわかるようになるかな?」
「そういう流派もある。だが過度な期待はするな。≪ゲイザー≫といっても、元はただの人間だ。女神ダヌの加護を受けて特殊な力を得はするが、専門家という域をでない」
「どういうこと?」
「≪ゲイザー≫は職業であって、種族ではないということだ。人智を超えた力を得ても、扱うのはしょせん、ただの人間だ」
「なんかわかりにくい。ウルカってさ、もう少し遠まわしじゃない言い方はできないの?」
「この
「はいはい、ウルカは大人だよ」
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