01 白狼と少年

 世のあらゆる災厄を封じた地を、トゥアハ・デ・ダナーンという。女神ダヌは絶望の大陸に取り残された命をうれい、よこしまな勢力に反抗する者たちへ祝福を与えた。怪物の血を焼き、人心の影を払うすべを用いて、光と闇のはざまで命の調和を見守る存在。人々は彼らを、ゲイザーと呼んだ。




 東の空が明るくなる頃、ブリギット市の運河港は、すでに昼間のような賑わいを見せていた。船から続々と荷揚にあげされていくのは、朝の市場に並ぶ野菜や魚だ。商人や漁師の競りや交渉が熱を帯び、税関係員が忙しなく走りまわるなか、水夫たちの歌声が高らかに響き渡る。



 お日様の欠伸あくびは聞きたかねえ

 夜明けの前に荷をげろ

 朝早くから声枯らし

 ヤァ、ハッハ、セイハッハー!

 ヤァ、ハッハ、セイハッハー!


 怠けた奴は逆さに吊るせ

 商人どもは金よこせ

 朝っぱらケチるなよ

 ヤァ、ハッハ、セイハッハー!

 ヤァ、ハッハ、セイハッハー!


 酔うのはそれが生き甲斐だ

 港の男よ街へ行け

 今朝の荷揚げは楽勝だ

 ヤァ、ハッハ、セイハッハー!

 ヤァ、ハッハ、セイハッハー!



  歌声響く港沿いの歩道を、ひとつの影が駆けていた。


 夜に溶ける、漆黒の髪を揺らす少年だ。年の頃は十代の中頃。瞳は焦げ茶色、陶器とうきのような白い肌。帯締めされた黒の着物は、上等な布地だ。麻袋を両腕に抱えながら軽やかに石畳いしだたみを蹴る身のこなしには、年若くも戦士の兆しがうかがい知れる。


 寝ぼけ野郎はパイ漬けだ

 ベリーか、ニシンか、パルナか

 女どもが待ってるぜ

 ヤァ、ハッハ、セイハッハー!

 ヤァ、ハッハ、セイハッハー!


 女はシーツを変えておけ

 帆上げまでは寝かせねえ

 働け歌え明日のため

 ヤァ、ハッハ、セイハッハー!

 ヤァ、ハッハ、セイハッハー!


 ヤァ、ハッハ、セイハッハー!

 ヤァ、ハッハ、セイハッハー!



「ユウリス!」


 歌声に混じって名を呼ばれ、少年は走る足を緩めた。声の主を探す前に、上がった呼吸を整える。麻袋を落とさないよう抱え直し、額に浮かんだ汗を袖口で拭うと、少年――ユウリスは声の主を探して視線をさまよわせた。


「ユウリス、ユウリス・レイン、こっち、こっち!」


 港の方から大きく手を振ってくるのは、同じ学び舎に通う八百屋の娘だ。大きな木箱を抱えており、片手を掲げたせいで落としそうになっている。家の手伝いでもしているのだろうか。しかし彼女とは、普段から声をかけあうような仲ではない。


「……?」


 いぶかしみながら、ユウリスは同じように手を上げて応えた。



 堤防を降りれば近づけるが、そんなに時間の余裕はない。

 家人が起きる前に、麻袋を目的地へ届ける必要がある。


 きっと、ただの挨拶だろう――そう解釈して、ユウリスは再び足を動かそうとした。


 そんなせっかちな少年を、彼女が慌てて呼び止める。


「あー、こら、待て、ユウリス。なんであんた、そんなに空気読めないのよ、ほら、これ、持っていって!」


 彼女は木箱を足元に置いて、中から赤い実をひとつ取り出した。そして大きく腕を振り、そら高くへと放り投げる。叫ばなければ声も届かないくらいの距離だが、放物線を描いた果実は見事にユウリスの手に落ちてきた。


「え、これ、オーモンの実?」


 南国ルーの名産物、オーモンの実。お尻にいくほどに色が濃くなる、赤い果物。厚みのある皮に隠れた実の、清涼感のある甘さが特徴だ。ダーナ神教の理想郷に例えられ、ティル・ナ・ノーグの果実とも呼ばれている。じゅくして、とろけたものが食べごろだ。


「このあいだ、荷物運ぶのを手伝ってくれたお礼だから、食べて!」


 そんなこともあっただろうか、とユウリスは肩をすくめた。大声を出すのは苦手だったが、ありがとう、と叫び返す。彼女は、聞こえなーい、と戯れるように笑った。


「ぜったいに聞こえてるだろ。ありがとう、もらうよ!」


 苦笑しながらもう一度だけ礼を告げ、果物を高く掲げて大きく手を振り返した。


 その場で羊皮紙ようひしのように厚い皮を噛み切ると、熟れたみずみずしい果肉がこぼれる。すっきりとした香りに生唾を呑みながら、ユウリスはオーモンの実を傾けた。角度を変えるだけで流れてくる、白い果肉。高い糖度だが、しつこすぎない上品な甘さを堪能する。


「うわ、最高。こんなの、うちでもめったに出てこないのに……」


 急がなくてはと思いつつも、オーモンの実はしっかりと堪能した。きのうは道場でしごかれたせいで、本当は早起きがつらくてしかたなかったが――不思議と、活力がみなぎる。余った皮を麻袋に入れて、ユウリスは再び港沿いの道を再び走り出した。


「ほんと、うまい。ブリギットもオーモンの実をつくればいいのに」


 四季が巡り、肥沃ひよくな大地の恩恵を与る豊穣ほうじょうの国ブリギット。穀物こくもつの生産においては大陸全土の三割を誇る。さらに市街地の再開発に成功したことで、近年は観光客も増加している一大都市だ。


「南のモルフェッサは果物がなんでも美味しいって聞くけど、その代わり年中暑いって言うよな。冬でも半袖なんて、どういう気分なんだろ。せめて運河がつながっていれば、いつか行ってみようとも思えるのに」


 ブリギットは海に接しない内陸の領土だ。しかし大陸を北東から南西へ横断する運河の中継地点として、交易にも秀でている。それ故、ブリギットが大陸有数の大国であることに異論を唱える者はいない。


 しかし富む街には必ず貧者ひんじゃも生まれる。


 ユウリスが辿りついたのは、港近くにある貧民窟ひんみんくつだ。


「この辺りも来年には再開発されるって聞くけど……」


 この寂れた景色が、どう変わるのだろうか。


 真っ当にいけば、不足している宿場が第一候補かもしれない。あるいは港が近いので、運河人が息抜きできるような遊技場。ほかにも西区の賭博場を移転させるような話も噂されている。


「ブレイク商会なら、なにか知ってるかな。いや、カーミラに聞くのはダメか。逆に迷惑かけるかもしれない」


 ともあれ、貧民窟の通りに人の姿はない。


 表向きは市の失業者対策、実際は再開発に向けた立ち退き計画――その一環で、貧民窟の住人には、中流の住宅街に引っ越すための補助金が捻出された。さらに港や工場の雇用を促進する政策が実施されており、好んで居続けようという者は多くない。


「でも何割かは、けっきょく仕事が続かずに戻って来るっていうけど……」


こうして歩いている限りは、人の気配もない。もう港が開いているので、単純に仕事へ出ているのかもしれないが。それでも治安の悪い貧民窟の静けさは、どこか不気味でおどろおどろしい。


 怖さを紛らわすように、ユウリスは港で聞いた歌を口ずさんだ。


「陽の欠伸は聞きたかねー、夜明けの前に荷を揚げろー、朝早くから声枯らし……」


 幸いにも遭遇したのは野良犬だけで、目的地である小さな倉庫には難なく辿り着いた。持参した鍵で錠前を外し、金具のきしんだ扉を慎重に開いていく。


「食事、持ってきた。入るよ?」


 幾分か緊張した声をかけながら、暗い倉庫の中に踏み入れる。すると闇の向こうで、金色の双眸が瞬いた。敷き詰めたわらの上で音もなく、『それ』は立ち上がる。


「お願いだから、怖がらせないで。言葉なんか通じないだろうけど、何度でも言うよ――俺は、お前を、害したり、しない」


 ユウリスの早鐘を打つ心臓を落ち着けるように、深呼吸をした。『それ』を刺激しないように、片手を掲げて慎重に近づいていく。


「灯りをつけるから、座っていて。ほんとうに、ただ食事を持ってきただけなんだ。食べないと、傷も治らないだろ」


 抱えてきた麻袋を足元に置き、ユウリスは隅に転がっていたカンテラを拾い上げた。油を足して火を点し、壁の釘にひっかける。そしてようやく視界が明るくなった。


「今日は鹿肉を持ってきたよ。あと、木の実もたくさん。見ていると肉より木の実の方が好きみたいだし、多めにね。ギルムの実は、殻を割っておいたから」


 扉を閉めながら、ユウリスは小さく吐息をこぼした。自分の一挙一動を注視する、金色の瞳の持ち主――白い、大型犬。いや、狼。白狼はくろうだ。


 体躯たいくは子供のユウリスよりも、一回り大きい。四肢を伸ばせば、成人男性ほどはあるかもしれない。雪のような毛並みは神々しくもあり、触れた感触は羽毛よりも心地よい。しかし白さの一部は、痛々しく血に染まっていた。背中から腹部にかけての裂傷だ。ここ数日の手当てにも関わらず、まだ完治していない。


「そっちに行くからね。ほら、座って、……そう、いい子だ」


 父の書斎にある本で調べたところ、この白狼は大陸北部に棲息せいそくする魔獣であるらしい。現在地であるブリギット市は、大陸中央部だ。北部から歩いてきたとすれば、ずいぶんと長い旅をしてきたことになる。


「こんな遠くまで、お前はいったいなにしに来たんだろうな」


 先だって口にした通り、魔獣に言葉が通じるわけでもない。なんとはなしに話しかけて、ユウリスは白狼のかたわらにひざをついた。患部に顔を近づけて、じっくりと観察する。毎日替えている包帯には、いまもまだ血が滲んでいた。やはり素人の手当てでは限界がある。


 ユウリスは心配そうに眉をひそめた。


「やっぱり医者に見せたほうがいいんじゃ……」


 そう口にすると、白狼がうめき声も上げずに牙を剥いた。本には、白狼が人の言葉を理解するという記載はない。だが金色の瞳はユウリスの意思を読み取り、明確に拒絶の意思を示しているように感じられた。


「しょうがないか。うん、もう少し様子を見よう。医者に診せても、通報されて駆除されることになったら元も子もないし」


 わかったよ、と肩を竦めて、ユウリスは今日もまた医者に診せることを諦めた。医療の知識はないが、出血は日に日に減っている。体力さえもてば、快復は近いと信じるしかない。


「ほら、じゃあご飯だ。しっかり食べて、早く治そう。恩返しは期待してないけど、いっかいくらいは背中に乗せて走ってくれよ」


 家の保管庫からくすねてきた生肉や果実を、麻袋から取り出して並べる。白狼は再び寝そべって、食料の臭いを嗅ぎはじめた。まるで毒の混入や腐敗を疑われているようである。毎日欠かさずに世話をしているユウリスからすれば、実に心外な光景だ。


「いいかげんに信用しろよな。ほら、ゆっくりと噛んで食べるんだぞ。よし、じゃあ薬と包帯を替えるから、じっとしていて」


 ブリギットの犬はよく吼えるが、この白狼は出会ってから一声も発しない。図鑑には、無音の狩人と書いてあった。もしかしたら声がない生物なのかもしれない。承知したと云わんばかりに食事にありつく様を見ると、ほんとうに頭はいいのだろうと感じる。


 包帯をナイフで慎重に切り、まずは患部の具合を確かめる。どす黒い切り傷は、鋭利な刃物で裂かれた痕と見て間違いない。どこか背筋の寒くなる、邪悪な気配を感じた。それでも出会った頃に比べれば、怪我はだいぶ塞がっている。


「ほんと、元気になってよかったよ」


 思い返すのは十日ほど前、友人と二人で歩いる最中の出来事だ。川辺の草むらに横たわっていた白狼は、発見した当初から虫の息だった。友人の少女――カーミラは弱った白狼を見て、駆除を提案したほどだ。


「これなら私の魔術で倒せるわ。見てて、ユウリス!」


 魔獣は人間にとって外敵である。しかしユウリスが、勇ましく呪文を唱えようとした彼女を止めた。いくら魔獣とはいえ、実害の有無もはっきりとしないものを殺す道理はない。それに弱ってはいたが、白狼の視線には油断のならない鋭さがあった。


「あのとき、もしカーミラが魔術を使っていたら……いや、やめよう。助けてよかった、そう思わせてくれよ」


 同情心に動かされたユウリスは、白狼を助けると決めた。そこからはちょっとした冒険のようで、少し楽しかったのを覚えている。カーミラは豪商として知られるブレイク家の娘で、空き倉庫のひとつくらいは簡単に手に入った。


「人目につかないように待ち合わせを夜にして、日替わりの鐘が鳴る頃にお前を倉庫へ運んだんだ。誰かに見つかったらどうしようってドキドキしながら、こっそりと」


 道中は無事に済んだが、問題は家に帰ってからだ。けっきょく二人とも、深夜の無断外出が露見して親に叱られている。とりわけカーミラの家は厳しく、今日に至ってもまだ謹慎中だ。そういうわけで白狼の手当てや食事は、ユウリスがひとりで世話をしている。


「消毒を塗るから、少し染みるぞ……この色、消えないな」


 いつまでも消えない、傷跡の黒ずみ。ユウリスは眉をしかめながら、消毒液を染みこませた布をあてがった。白狼はわずかに身じろぎすると、果物をかじるのもやめてしまう。だが決して、声は上げない。


「大丈夫、大丈夫だから、じっとしてて」

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