02 赤毛のカーミラ
布をあてがったまま苦心して包帯を巻くと、処置は終わった。慣れない手つきのせいか、どうしても不恰好な包帯姿になってしまう。
「はい、終わり。身体が大きいから、薬もすぐなくなりそうだ。そろそろ家からくすねるのも限界なんだから、本当に早く治してくれよ――って、どうした?」
出されたものを食べ終えた白狼が、
「量が足りなかったのかな?」
瞬いていると、白狼は袋からオーモンの実の皮を取り出した。鼻を近づけて、丸まった皮を爪で器用に広げる。そしてユウリスが食べ残した実を、ぺろり、と舐めた。白狼の瞳孔が僅かに開くのを、少年は見逃さない。
「もしかして気に入った?」
少年を一瞥だけして、白狼は再び実の残りに舌を伸ばした。そして今度は皮ごと口に入れて、咀嚼をはじめる。オーモンの実の硬い皮がたやすく裂かれていくのを、ユウリスは口をあんぐりと開けて見届けた。
「……お前、すごいんだな」
そこで不意に、ドンドン、と扉を叩く音。
ユウリスの肩が、びくっと跳ねた。白狼が低い姿勢で、金色の
「ブリギット市警だ。中に誰かいるのか、開けるぞ」
ユウリスは今度こそぎょっとして、慌ててカンテラの火を消した。
外ではすでに太陽が昇り、扉が開かれると同時に穏やかな日差しが伸びてくる。ユウリスはすぐに、扉の前へと駆け寄った。息を呑んで、市警の制服に身を包んだ男を見上げる。
警官は少年の姿を確認するなり、不審そうに顔をしかめた。
「ここで、なにをしている? ブレイク商会の倉庫だと知って、勝手に入り込んでいるならいい度胸だ。たまにお前みたいな
ユウリスを乱暴に押しのけ、警官が倉庫の中へ踏み込もうとする。
暗がりに潜む
「あ、あの、待って、これには事情があって――」
「不法侵入者は、みんなそう言うんだ……ん、いや、待て、お前、もしかしてレイン
相手は望み通りに足を止めてくれた。しかし今度は、ユウリスが
「なるほどなるほど、なるほどなぁ?」
「ええと、これは、その、なんていうか……」
ユウリスは、ブリギットを統治するレイン公爵家の子供だ。その出自は少し複雑で、白狼の存在が露見するのと同じくらいに、自分の素性を知られたくはない。
「そうだろう、お前はレイン家の汚点、
レイン家の汚点、忌み子――その言葉がまさに、ユウリスの悩みの種だった。
ブリギット国を治めるレイン公爵家。
当代のセオドア・レイン公爵は清廉潔白で知られる人物だが、一度だけ世間を騒がせたことがある。隣国ヌアザの姫を妻に
「人違いだよ、俺はこの辺りの浮浪児で――」
「嘘つけ、この辺りの育った奴が、自分を浮浪児だなんて言うもんか。だいたい黒髪は、ブリギットじゃ目立つんだよ。それにこの生意気そうな目つき」
嫌みったらしいこの警官の指摘は、腹立たしいがもっともだ。
ブリギット人は赤毛か金髪で、目は
母親の素性は外国の娼婦だとか、妖精にそそのかされて一夜を共にしたのだとか、どちらにせ
「お前の噂はいろいろ聞くんだよな、忌み子さんよ。公爵夫人に煙たがられ、街を歩けば呪われた子供だって嫌がられる――いやあ、よく耐えられるもんだよ。なあ、お前に触ると、病気になるって本当か?」
「さあね。でも本当だとしたら、同じ空気を吸っているいまも危ないんじゃないかな」
「そういうとこが生意気なんだよ、お前。知ってるぜ、神学校でいじられてんだよな。お前を殴っても、誰にも怒られないって本当かなあ。公爵閣下の息子なのにな、なんでだろうな、ユウリス・レイン?」
口元を
しかし頭では理解していても、反骨心が
「だったら、さっさと殴れば?」
「ふん、やらねえよ。ちっとは
「会話になればね。最後に口を利いたのは、いつだと思う? たぶん年明けの挨拶だよ」
市民に嫌われ、
「ああ、そういえばお前、ブレイク商会のカーミラお嬢さんと
「いや、それは――」
底意地の悪い笑みを見せる警官に、ユウリスは
「とにかく中を確認させてもらう。それから駐在所で事情を聞くからな、そこで待っていろよ」
「ああ、いや、だめ、ちょっと待って!」
「なんだ、なにか見せられないものもあるのか、いいから退け!」
行く手を遮るユウリスに腕を振るい、警官が中へ踏み込もうとする。魔獣が闇の中で、狩人の本能を研ぎ澄ませる気配。今度は白狼を止めなくてはいけないと、ユウリスが顔色を変えたところで――不意に飛んできた少女の勝気な声が、状況を一変させた。
「ちょっとそこの警官、わたしの倉庫で何をしているの!」
赤毛の少女だ。
仕立ての良い
ユウリスは胸を撫で下ろし、彼女の名を呼んだ。
「カーミラ。よかった、来てくれたんだ」
警官はぎょっとして、回れ右をした。カーミラの姿を認めると、出会ってはいけないものと遭遇したかのように表情をこわばらせる。
「か、かかかか、カーミラお嬢さん!」
「ごきげんよう、わたしのユウリス。それからそこの警官、あなた、不法侵入の現行犯よ。誰の許可を得てブレイク商会の倉庫に足を踏み入れているの?」
「これは、お嬢さんのお父上――旦那様から頼まれて、自分は、見回りを!」
「ええ、存じ上げているわ。お父様からお金を渡された警官が、勤務外の用事で制服を着て
「そんな、勘弁してください、自分は、旦那様に頼まれて……」
「ならばその娘であるわたし、カーミラ・ブレイクが命じます。倉庫から出なさい。そしてここには二度と来ないで。お父様への報告も不要よ。ああ、でも待ちなさい、大事なことを聞き忘れていたわ――中にあるものを、見たのかしら?」
「中――いいえ、いいえ、なにもみておりません。何があるというんです?」
「いい答えね、けっこう。本当に、もういいわ。わたしの気が変わらないうちに、ここを立ち去りなさい。ほら、わたしは寛大よ、今なら忘れてあげるわ。五、四、三、――」
「し、失礼しました!」
敬礼した警官が、慌しく立ち去っていく。ユウリスは、脇目も振らずに走り、転びそうになっている彼の後姿を不憫そうに見送った。大きく息を吐いてから、カーミラへ向き直る。
「いまの数字、ゼロになったらなにが起きていたの?」
「よくないことよ。知りたい?」
「いや、知りたくない。それより謹慎は終わったんだね、よかった」
「あら、わたし、家から出られないだけだったのよ。ユウリスが訪ねてくれるぶんには一向に構わなかったのに、どうして来てくれなかったのかしら?」
「お、お父さんがいい顔しないだろ、俺が行くと」
「ユウリスを邪険にしたら、お父様だって許さないわよ」
「カーミラに目をつけられたら、この街じゃ生きていけないね」
「どういう意味よ!」
わかるだろ、そう言いたげにユウリスはとぼけた顔をした。
カーミラが頬をふくらませて、詰め寄ってくる。ユウリスはすぐに両手をあげて降参すると、身体をずらして背後の白狼を示した。
「こいつの様子、見に来たんだろ。ずいぶん元気になったよ。でもずっと世話してたのは俺だから、カーミラには噛みつくかも」
「ああ、そうだったわ。いいえ、いいえ、違うのよ、ユウリス。そのワンコのことじゃないの。大変よ、大変なことが起こったの!」
カーミラは白狼を
ユウリスはなぜだか頬が熱くなり、戸惑うように目を泳がせた。
「あの、カーミラ?」
「助けて、ユウリス!」
「え、ああ、もしかして、こいつのことがばれたとか?」
「あんなワンコのことはどうでもいいの。いまは忘れてちょうだい。ああ、でも、どうしたらいいのかしら、わたし、とんでもないことをしてしまったのよ!」
「とんでもないこと……?」
ユウリスは思わず声を上擦らせた。
どうして女の子は、こんなに良い匂いがするのだろう。香水は親に禁止されていると以前に聞いたが、今日は違うのだろうか。
至近距離で見つめてくる、カーミラの瞳。覗き返すだけで、心臓の鼓動は早鐘を打つ。身体の奥底からどうしようもなく溢れてくる、不思議な衝動。
「あ、その、どうしたんだよ、カーミラ。なんだか、いつもと違う」
揺れる瞳は健気で儚い。普段の男勝りで勇敢なカーミラからは、考えられない姿だ。警官さえも追い払う恐れしらずの彼女が、何に怯える必要があるのだろう。ユウリスは雑念を振り払うように、首を左右に振った。カーミラの肩を掴んで、軽く押し返す。
「落ち着いて、カーミラ。何があったの?」
「ああ、それが、あのね、昨日の夜、家を抜け出してオートマティスムで遊んだの」
「オートマティスムってたしか――」
実際に参加したことはないが、ユウリスも知っている遊びだ。元は妖精や精霊、
オートマティスム。
子供たちの間では深夜の
・五人以上の複数人で実施すること。
・火を点した
・クジで憑依の依り代を決めて座らせ、道具一式を目の前に置く。
・他の参加者は手を繋いで依り代を囲み、秘密の呪文を延々と唱える
・召還が成功すると、憑依者が羽ペンを取る。
・他の参加者が質問をすると、憑依者が羊皮紙に答えを書く。
・質問はどれだけ続けてもいいが、手を離してはいけない。
・立ったままの参加者が蝋燭の火を息で吹き消せば儀式は終了。
・手順を守れない場合、恐ろしい災いが起こる。
「女の子は、ああいうのが好きだよな。でも夜中に抜け出したなんてばれたら、また謹慎になるじゃない?」
「あら、わたし、謹慎が解けたなんて一言も口にしていないわ」
それは大変だ、と苦笑するユウリスは、闇の向こうで白狼が動くのを見た。背を向けているカーミラは気づかず、言葉を続ける。
「わたし、ユウリスも誘うつもりだったのよ。でもアルフレドが、ユウリスはもう誘ったって嘘をついたの。あいつ、あとでお仕置きだわ」
アルフレドはユウリスの義弟で、レイン公爵家の
ユウリスは肩を竦めた。アルフレドと
「これからもオートマティスムには誘わないでいいよ。あんなの子供の遊びだろ、興味ない。アルフレドがいるなら、なおさらね。それで、どうしたの?」
「わたしたち、北区で待ち合わせをして、オリバー大森林の教会へ行ったの」
「オリバー大森林!」
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