02 赤毛のカーミラ

 布をあてがったまま苦心して包帯を巻くと、処置は終わった。慣れない手つきのせいか、どうしても不恰好な包帯姿になってしまう。不憫ふびんだが、自分より大きな身体を手当てするのは難しいものだ。医者が嫌なら、いまは我慢してもらうしかない。


「はい、終わり。身体が大きいから、薬もすぐなくなりそうだ。そろそろ家からくすねるのも限界なんだから、本当に早く治してくれよ――って、どうした?」


 出されたものを食べ終えた白狼が、わらの上に置かれた麻袋へ鼻を近づけた。伸ばした前脚で、中を探る。


「量が足りなかったのかな?」


 瞬いていると、白狼は袋からオーモンの実の皮を取り出した。鼻を近づけて、丸まった皮を爪で器用に広げる。そしてユウリスが食べ残した実を、ぺろり、と舐めた。白狼の瞳孔が僅かに開くのを、少年は見逃さない。


「もしかして気に入った?」


 少年を一瞥だけして、白狼は再び実の残りに舌を伸ばした。そして今度は皮ごと口に入れて、咀嚼をはじめる。オーモンの実の硬い皮がたやすく裂かれていくのを、ユウリスは口をあんぐりと開けて見届けた。


「……お前、すごいんだな」


 そこで不意に、ドンドン、と扉を叩く音。


 ユウリスの肩が、びくっと跳ねた。白狼が低い姿勢で、金色の双眸そうぼうに冷たい戦意をみなぎらせる。カーミラが来たのかもしれないと、ユウリスは片手を上げて白狼を制した。しかし耳に届いたのは、聞き覚えのない男の怒声だ。


「ブリギット市警だ。中に誰かいるのか、開けるぞ」


 ユウリスは今度こそぎょっとして、慌ててカンテラの火を消した。


 外ではすでに太陽が昇り、扉が開かれると同時に穏やかな日差しが伸びてくる。ユウリスはすぐに、扉の前へと駆け寄った。息を呑んで、市警の制服に身を包んだ男を見上げる。


 警官は少年の姿を確認するなり、不審そうに顔をしかめた。


「ここで、なにをしている? ブレイク商会の倉庫だと知って、勝手に入り込んでいるならいい度胸だ。たまにお前みたいな浮浪者ふろうじが根城にするからな、こうして見回って正解だぜ。他にも誰かいるのか、中をあらためる。退け!」


 ユウリスを乱暴に押しのけ、警官が倉庫の中へ踏み込もうとする。


 暗がりに潜む白狼はくろうが、侵入者への警戒を敵愾心てきがいしんに変えた。その気配を背後から感じ、思わず警官を遮るユウリス。しかしとっさの言い訳も思いつかず、目が泳いでしまう。


「あ、あの、待って、これには事情があって――」


「不法侵入者は、みんなそう言うんだ……ん、いや、待て、お前、もしかしてレイン公爵家こうしゃくけのユウリスか?」


 相手は望み通りに足を止めてくれた。しかし今度は、ユウリスが窮地きゅうちに立たされる。あからさまに嫌そうな顔をする少年に、ははーん、と彼がニヤニヤといやらしく唇を歪ませた。


「なるほどなるほど、なるほどなぁ?」


「ええと、これは、その、なんていうか……」


 ユウリスは、ブリギットを統治するレイン公爵家の子供だ。その出自は少し複雑で、白狼の存在が露見するのと同じくらいに、自分の素性を知られたくはない。


「そうだろう、お前はレイン家の汚点、み子のユウリスだ。なんでこんなところにいるんだ」


 レイン家の汚点、忌み子――その言葉がまさに、ユウリスの悩みの種だった。


 ブリギット国を治めるレイン公爵家。


 当代のセオドア・レイン公爵は清廉潔白で知られる人物だが、一度だけ世間を騒がせたことがある。隣国ヌアザの姫を妻にめとって日の浅いうちに、外の女と子をもうけた。母親の素性は誰にも明かさぬまま、赤子だけを連れ帰ったのである。その赤子こそが、ユウリスだ。


「人違いだよ、俺はこの辺りの浮浪児で――」


「嘘つけ、この辺りの育った奴が、自分を浮浪児だなんて言うもんか。だいたい黒髪は、ブリギットじゃ目立つんだよ。それにこの生意気そうな目つき」


 嫌みったらしいこの警官の指摘は、腹立たしいがもっともだ。


 ブリギット人は赤毛か金髪で、目は碧色へきしょくが大勢を占める。ユウリスの黒髪と、焦げ茶色の瞳は余計に悪目立ちした。据わったような目つきも、大人受けは悪い。


 母親の素性は外国の娼婦だとか、妖精にそそのかされて一夜を共にしたのだとか、どちらにせいやしい生まれだと、様々な噂話は十四年が経った現在も市中を巡っている。


「お前の噂はいろいろ聞くんだよな、忌み子さんよ。公爵夫人に煙たがられ、街を歩けば呪われた子供だって嫌がられる――いやあ、よく耐えられるもんだよ。なあ、お前に触ると、病気になるって本当か?」


「さあね。でも本当だとしたら、同じ空気を吸っているいまも危ないんじゃないかな」


「そういうとこが生意気なんだよ、お前。知ってるぜ、神学校でいじられてんだよな。お前を殴っても、誰にも怒られないって本当かなあ。公爵閣下の息子なのにな、なんでだろうな、ユウリス・レイン?」


 口元をいびつにつり上げる警官を、ユウリスはじっとにらみ据えた。忌み子と呼ばれる自分に、いろいろな噂があることは知っている。どれが事実で、どれが虚構なのか、そんなことにもう興味はない。声を上げ、真実を究明するより、ただやり過ごす方が賢明であると学んでいるからだ。


 しかし頭では理解していても、反骨心がからを破ってしまうときもある。


「だったら、さっさと殴れば?」


「ふん、やらねえよ。ちっとはおびえろよ、可愛げのない子供だな。あの性格キツそうな公爵夫人だって、少しはゴマすりでもしたら変わるんじゃねえか」


「会話になればね。最後に口を利いたのは、いつだと思う? たぶん年明けの挨拶だよ」


 市民に嫌われ、義母ははに厭われ、いっそ養子にでも出されていればよかったと思う。しかし父であるレイン公爵は、手元に置いて育てることだけは譲らない。それがユウリスにとって、決して幸福なことではないとしてもだ。そんな庶子の葛藤など知るよしもなく、警官が軽く手を叩く。


「ああ、そういえばお前、ブレイク商会のカーミラお嬢さんと懇意こんいにしているんだったな。まあそれはそれとして、このことは報告するぞ。やましいことがないなら、別にいいよな?」


「いや、それは――」


 底意地の悪い笑みを見せる警官に、ユウリスは狼狽ろうばいした。魔獣をかくまっていることが家に知られたら、義母や義弟おとうとにどんな嫌がらせを受けるかわかったものではない。


「とにかく中を確認させてもらう。それから駐在所で事情を聞くからな、そこで待っていろよ」


「ああ、いや、だめ、ちょっと待って!」


「なんだ、なにか見せられないものもあるのか、いいから退け!」


 行く手を遮るユウリスに腕を振るい、警官が中へ踏み込もうとする。魔獣が闇の中で、狩人の本能を研ぎ澄ませる気配。今度は白狼を止めなくてはいけないと、ユウリスが顔色を変えたところで――不意に飛んできた少女の勝気な声が、状況を一変させた。


「ちょっとそこの警官、わたしの倉庫で何をしているの!」


 赤毛の少女だ。


 仕立ての良い臙脂色えんじいろのワンピースをまとい、腕を組んで鼻を鳴らしている。歳は十代中頃、ユウリスと同じくらいの身長だ。あごを引いて睨みつける勝気な眼差しは、全てを見下すような威圧感に満ちている。


 ユウリスは胸を撫で下ろし、彼女の名を呼んだ。


「カーミラ。よかった、来てくれたんだ」


 警官はぎょっとして、回れ右をした。カーミラの姿を認めると、出会ってはいけないものと遭遇したかのように表情をこわばらせる。


「か、かかかか、カーミラお嬢さん!」


「ごきげんよう、わたしのユウリス。それからそこの警官、あなた、不法侵入の現行犯よ。誰の許可を得てブレイク商会の倉庫に足を踏み入れているの?」


「これは、お嬢さんのお父上――旦那様から頼まれて、自分は、見回りを!」


「ええ、存じ上げているわ。お父様からお金を渡された警官が、勤務外の用事で制服を着て威張いばり散らしているのよね。そういうの、通報するのはどこがいいのかしら。議会も捨てがたいけど、やっぱり新聞社よね。あなた、お名前は?」


「そんな、勘弁してください、自分は、旦那様に頼まれて……」


「ならばその娘であるわたし、カーミラ・ブレイクが命じます。倉庫から出なさい。そしてここには二度と来ないで。お父様への報告も不要よ。ああ、でも待ちなさい、大事なことを聞き忘れていたわ――中にあるものを、見たのかしら?」


「中――いいえ、いいえ、なにもみておりません。何があるというんです?」


「いい答えね、けっこう。本当に、もういいわ。わたしの気が変わらないうちに、ここを立ち去りなさい。ほら、わたしは寛大よ、今なら忘れてあげるわ。五、四、三、――」


「し、失礼しました!」


 敬礼した警官が、慌しく立ち去っていく。ユウリスは、脇目も振らずに走り、転びそうになっている彼の後姿を不憫そうに見送った。大きく息を吐いてから、カーミラへ向き直る。


「いまの数字、ゼロになったらなにが起きていたの?」


「よくないことよ。知りたい?」


「いや、知りたくない。それより謹慎は終わったんだね、よかった」


「あら、わたし、家から出られないだけだったのよ。ユウリスが訪ねてくれるぶんには一向に構わなかったのに、どうして来てくれなかったのかしら?」


「お、お父さんがいい顔しないだろ、俺が行くと」


「ユウリスを邪険にしたら、お父様だって許さないわよ」


「カーミラに目をつけられたら、この街じゃ生きていけないね」


「どういう意味よ!」


 わかるだろ、そう言いたげにユウリスはとぼけた顔をした。


 カーミラが頬をふくらませて、詰め寄ってくる。ユウリスはすぐに両手をあげて降参すると、身体をずらして背後の白狼を示した。


「こいつの様子、見に来たんだろ。ずいぶん元気になったよ。でもずっと世話してたのは俺だから、カーミラには噛みつくかも」


「ああ、そうだったわ。いいえ、いいえ、違うのよ、ユウリス。そのワンコのことじゃないの。大変よ、大変なことが起こったの!」


 カーミラは白狼を一瞥いちべつだけして、困ったように眉を下げた。そしてユウリスの腕を掴み、倉庫の中へと引っ張り込んでしまう。扉をすぐに閉められ、彼女はユウリスを壁際に追い詰めた。すがるように顔を近づけ、長いまつげに縁取られたあおい瞳を不安そうに揺らす。


 ユウリスはなぜだか頬が熱くなり、戸惑うように目を泳がせた。


「あの、カーミラ?」


「助けて、ユウリス!」


「え、ああ、もしかして、こいつのことがばれたとか?」


「あんなワンコのことはどうでもいいの。いまは忘れてちょうだい。ああ、でも、どうしたらいいのかしら、わたし、とんでもないことをしてしまったのよ!」


「とんでもないこと……?」


 ユウリスは思わず声を上擦らせた。


 どうして女の子は、こんなに良い匂いがするのだろう。香水は親に禁止されていると以前に聞いたが、今日は違うのだろうか。


 至近距離で見つめてくる、カーミラの瞳。覗き返すだけで、心臓の鼓動は早鐘を打つ。身体の奥底からどうしようもなく溢れてくる、不思議な衝動。


「あ、その、どうしたんだよ、カーミラ。なんだか、いつもと違う」


 揺れる瞳は健気で儚い。普段の男勝りで勇敢なカーミラからは、考えられない姿だ。警官さえも追い払う恐れしらずの彼女が、何に怯える必要があるのだろう。ユウリスは雑念を振り払うように、首を左右に振った。カーミラの肩を掴んで、軽く押し返す。


「落ち着いて、カーミラ。何があったの?」


「ああ、それが、あのね、昨日の夜、家を抜け出してオートマティスムで遊んだの」


「オートマティスムってたしか――」


 実際に参加したことはないが、ユウリスも知っている遊びだ。元は妖精や精霊、死霊しりょうを呼び出す召還の儀式らしく、大人から禁止されてはいる。だが、それを律儀に守る者はいない。


 オートマティスム。


 子供たちの間では深夜の度胸試どきょうだめし、占いの遊戯として親しまれている。呼び出された超常の存在が参加者の一人に憑依ひょういし、不思議な力で末来の出来事や他人の秘密を教えてくれるというのだ。その儀式には定められた手順がある。


 ・五人以上の複数人で実施すること。

 ・火を点した蝋燭ろうそくを一本、インクと羽ペンの道具一式を用意する。

 ・クジで憑依の依り代を決めて座らせ、道具一式を目の前に置く。

 ・他の参加者は手を繋いで依り代を囲み、秘密の呪文を延々と唱える

 ・召還が成功すると、憑依者が羽ペンを取る。

 ・他の参加者が質問をすると、憑依者が羊皮紙に答えを書く。

 ・質問はどれだけ続けてもいいが、手を離してはいけない。

 ・立ったままの参加者が蝋燭の火を息で吹き消せば儀式は終了。

 ・手順を守れない場合、恐ろしい災いが起こる。


「女の子は、ああいうのが好きだよな。でも夜中に抜け出したなんてばれたら、また謹慎になるじゃない?」


「あら、わたし、謹慎が解けたなんて一言も口にしていないわ」


 それは大変だ、と苦笑するユウリスは、闇の向こうで白狼が動くのを見た。背を向けているカーミラは気づかず、言葉を続ける。


「わたし、ユウリスも誘うつもりだったのよ。でもアルフレドが、ユウリスはもう誘ったって嘘をついたの。あいつ、あとでお仕置きだわ」


 アルフレドはユウリスの義弟で、レイン公爵家の嫡男ちゃくなんだ。義理の兄弟はとにかく仲が悪い。アルフレドはカーミラに好意を抱いているが、彼女が気にかけているのはユウリスだ。出自ばかりか色恋沙汰でも対立しているため、仲間はずれにされるのはよくあることだ。


 ユウリスは肩を竦めた。アルフレドとめると、義母の怒りを買う。それで家に居づらくなるくらいなら、多少は我慢した方がましだ。


「これからもオートマティスムには誘わないでいいよ。あんなの子供の遊びだろ、興味ない。アルフレドがいるなら、なおさらね。それで、どうしたの?」

「わたしたち、北区で待ち合わせをして、オリバー大森林の教会へ行ったの」


「オリバー大森林!」

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