02 白狼の森

 作戦決行は一週間後、満月と新月の夜に決まった。


「腹を満たしたばかりでは、≪アウチュー≫も誘いには乗ってこないかもしれない」


 怪物狩りの専門家に逆らう村人は、もういない。退治に必要な霊薬の精製にも時間がかかるため、彼女の邪魔はしない、と取り決められた──が、けっきょく不安は募り、迷信深い者たちの疑心暗鬼は消えない。そのあいだも大人たちの会議は何度か開かれ、ウルカも引っ張り出された。議題は頻繁に目撃される白狼への対応だが、騒ぐだけで話は進まない。


「白狼は恐ろしい怪物だって聞いたぞ!」

「なんでも音を立てずに近づいてくるそうだ!」

「森は危険だ、子供たちを絶対に入れちゃなんねぇ」

「大人だってヤバいだろう、白狼に襲われたらどうすればいい?」


 村人たちは、まだ誰も目にしたことのない≪アウチュー≫という怪物より、すでに姿を現している白狼を恐れていた。北原の魔獣には、自分たちの領域を侵す人間を襲う習性もある。しかし今回にかぎり、その可能性はないだろうとウルカは考えていた。


「村の周辺に魔除けの香を焚く。白狼が嫌う、水舐草を煎じたものだ」


 そう告げたウルカは適当な香を焚き、村人に白狼除けだと信じ込ませた。


「香の代金は別でもらうから、しっかり用意しておけよ」


 嘘も方便だ。実際、これ以降は一度も無駄な集会は開かれていない。


 食事の世話係を買って出たセリーヌは、その顛末を聞いて楽しげに吹き出した。


「わたしも、大人になったワオネルは人間を食べるって嘘をつかれたことがあるの」


 ワオネルは縞模様しまもようの可愛らしい獣で、、棲息地域が広い。寒さの厳しい北部と、砂漠地帯の多い南部を除き、大陸中で姿が見られる。霊薬の精製作業を進めながら、ウルカは自分のことなど棚にあげて肩をすくめた。


「それはひどい話だ」


「でしょう、まだ許してないの。許す前に、カリーヌはいなくなったから……」


「セリーヌ──」


「ごめんなさい、大丈夫よ」


 気丈に振る舞うセリーヌだが、決行の日が近づくにつれ、その表情からは色が失われていく。怖くないはずはない。ただ決して、弱音は吐かなかった。


 大陸を照らす二つの月――深蒼が満月で、薄紅が新月となる特殊な夜は、三ヶ月に一度だけ訪れる。伝説によれば双子のような二色の天体は実在の星ではなく、この世界を覆う結界の要であるという。真偽はともかくとして、二つの月が霊薬や魔術に及ぼす影響は大きい。


 今宵は、まさに土地の霊力が最大限に活性化する夜だ。


 集落はいつにない静けさに包まれていた。気配が多くては囮の意味がないと、村人たちには自宅待機を命じている。


 ウルカは土鳥つちどりの霊薬を塗った外套がいとうを身に纏い、準備を整えた。その魔術的な秘薬は、すり潰した影梟の肝が原料だ。聖水で清めた地元の土と混ぜ、黒銀くろぎんの混合水に溶かしたあと、最後に月の葉を浮かばせて一晩寝かせて完成する。精製した周辺地域限定の霊薬ではあるが、衣類に塗れば存在をぼかしてくれる。


 根が臆病な≪アウチュー≫は警戒心が強い。いくら少女を囮に使っても、他の大人が近づけば逃げられてしまう可能性がある。しかし土鳥の霊薬を纏えば、肉眼の届く距離まで接近を気づかれることはない。ウルカは何度か≪アウチュー≫退治を経験しており、これは実際に有効な方法だ。


 装備を整えて外へ出ると、セリーヌが待ち構えていた。本来はウルカが迎えにいくまで、家で大人しくしているはずだ。聞けば、祖父が土壇場になって囮役を引き留めようと泣きだしたので、逃げてきたのだという。


「セリーヌ、いまからでも止めることはできるんだぞ?」


「やめることはできるけど、そうしたら問題は解決しないでしょう?」


 震える手を握りしめながら応えるセリーヌに、それ以上かける言葉はない。ウルカは「必ず守る」と普段は口にしない確約を誓うと、セリーヌに古びた振り鈴を手渡した。


 くすんだ金色の手持ち楽器だが、揺らしてもかすかな音しか響かない。


「こんな小さな音で、ウルカに届く?」


「教会が作った特殊な鈴だ。普通の聴覚では捉えられない音域も、第六感なら感じとれる」


「怪物が出たら、この鈴を鳴らせばいいの?」


「そうだ、≪アウチュー≫は見た目に反して素早く動く。攻撃の射程も長い。逃げようとしても、すぐに捕まるだろう。だが警戒心も強いから、それを逆手に取る。じっと奴の眼を見つめて、慌てずに鈴を鳴らし続けろ。襲われるまでの時間が稼げる」


「そのあいだにウルカが駆けつけてくれる?」


「ああ、そこからは私の仕事だ」


 セリーヌは力強く頷いた。


 ウルカが隣を歩けるのは、森の手前までになる。村から歩いて、ほんの数分。それ以上は、同行者の存在を≪アウチュー≫に感づかれる可能性がある。いくら気配を誤魔化せる霊薬を塗っても、姿かたちまで消せるわけではない。怪物を確実に誘き出すためには、まずセリーヌがひとりで森をさまよう必要がある。


「セリーヌ、ひとつ懸念がある」


 森の入り口。鬱蒼とした木々の迷宮へと踏み出すセリーヌに、ウルカが声をかけた。少女は振り返らずに、首を振る。


「大丈夫よ、ウルカ。

 あの子は、本当に安全だから」


 小さな後ろ姿が、樹木の闇へと消えていく。


 その場に腰を下ろしたウルカは、あぐらをかいて両手を広げた。膝に乗せた手のひらを開き、上向きにする。瞼を閉じて、意識を心の奥底へ集中した。


 自然の気配が風を伝い、身体の内へと流れ込む。


 すると閉ざした彼女の視界が、眼球ではなく精神によって体外へ広がりはじめた。


 森の外に身を置きながら、森の中を探索する不可思議な感覚。


 肉体から解き放たれた意思が、樹海の奥深くへと根を張るように広がりはじめた。


 曖昧になる時間。


 現世と常世の境が歪む。


 精神が正常な五感を取り戻したとき、季節が変わっていても驚きはしない。


 精神と肉体の時間は違う。だからこそ魂だけの世界では、肉体に在っては捉えられないものにも気づくことができる。


 そう例えば、遠く離れた鈴の音。


 ――リン。


 振り鈴の、涼やかで神聖な声。


 それが、けたたましく。


「――――ッ!」


 森に根ざした意識が、たしかに神聖な鈴の声を聞き取った。


 セリーヌの鳴らす音色に間違いない。


 ウルカの意識が、急速に肉体へと帰化していく。目を開ける時間すら惜しみ、身体を起こして駆けはじめる。


 正常に戻った聴覚に、もう音は響いていない。


 すぐさま仰ぎ、月の傾きから時を計る。


 まだ夜明けには遠いが、セリーヌが森に入ってからだいぶ時が経過していた。


「くそっ、瞑想が長すぎた……!」


 視界が揺れ、足がもつれる。


 これは心を解き放った代償だ。魂の離脱は、肉体に大きな負荷をかける。本来ならば時間をかけて心身を馴染ませなければいけないが、いまは一刻の猶予もない。


 深酒で酔ったようにぶれる体幹のまま、精神の記憶を頼りに樹木の群れを抜けていく。


 リン──リン、リンリンリンリンリンリンリンリンリン!


「聞こえた!」


 今度は、はっきりと。


 神聖な鐘の連打に混じって、ウルカの名を叫ぶセリーヌの声も耳に届く。意識もようやく、肉体に馴染みはじめた。三重、四重だった世界がひとつに戻っていく。ふいに音が止んだ。だがもう近い――眼前に立ちはだかる厚い茂みに飛び込み、その向うう側へと躍り出る。


「セリーヌ!」


 生い茂る薮の向こうは、巨大な樹木が等間隔に並び、隆起した太い根が絡み合う開けた場所。そして怪物に食われかけている少女の姿がある。


 皺の多い土気色の三本腕に捕われたセリーヌが、涙混じりに声をあげた。襲われた際に落としたのか、鈴は草の上に転がっている。


「ウルカ!」


 少女を掴む鞭のような長い腕を視線で追っていけば、そこには醜悪な怪物の姿。納屋ほどの丸く大きな体躯に、焦げ茶色の毛並み――≪アウチュー≫。


「茶色の毛並み……最近は、ブリギット方面から流れてくる亜種が多いな」


 鼠じみた魔物の顔が、ウルカに向いた。察知していなかった存在の登場に、ぎょっとした怪物が動きを鈍らせる。しかしすぐに歯並びの悪い口を大きく開くと、つんざくような威嚇の咆哮をあげた。


 背負った剣の柄に手をかけたウルカが、不敵に鼻を鳴らす。


「悪いが、おしゃべりの時間はない」


 片手で颯爽と剣を抜き、後方へ流すように構える。


 夜闇を裂く白銀の軌跡。


 刀身にいくつもの紋章が刻まれた、破邪の剣。


 抜剣と同時に、ウルカは闇祓いの力を発揮した。紺碧の瞳は優麗な群青に染まり、怪物狩りの刃が夜明け前の空に似た蒼の光を帯びていく。


「闇祓いの作法に従い──」


 厳かに唱えたウルカが、およそ人の領域を超えた速さで夜闇を駆けた。尾を引く蒼白の光は正面から真っ直ぐに突き抜け、その戦法に小細工はない。怪物狩りの女は瞬く間に≪アウチュー≫へ肉薄するが、その軌道を阻むように怪物の長く不気味な腕が鞭のようにしなる。


 しかし正面からの攻撃にも彼女がひるむことはない。


 雄々しい気迫が、怪物を圧倒する。


「お前は境界を侵した」


 低い姿勢で敵の攻撃を掻い潜ったウルカが、すぐさま伸びあがるように刃を振りあげる――瞬間、刀身に刻まれた模様が、ボッと焦げるように青くきらめいた。破邪の力を宿した刃が、≪アウチュー≫の腕をたやすく切断する。


「魂の場へと還ってもらうぞ!」


 飛び散る体液が髪を焦がすが、ウルカは気にも留めない。


 間髪を容れず、彼女は無手の片腕を突き出した。


 手のひらに集中する、膨大な霊力の波。


 それは呪文を必要とする魔術の理とは一線を画す、神秘の体現――闇祓いの秘儀。


「穿て──!」


 空気を歪ませる色のない波動が、≪アウチュー≫へと放たれた。


 荒れ狂う力の奔流が大樹の幹を揺らし、余波で枝がへし折れる。不可視の衝撃が破壊の渦となってうねり、悪しき存在を屠った。破邪の咆哮を正面から叩きつけられた怪物の巨体は、なす術もなく仰向けにひっくり返る。


 すると捕まったままのセリーヌが大きく振り回され、思わず悲鳴をあげた――刹那、木々の隙間から伸びる白銀の軌跡。無音のまま現れた白狼が、矢の如く飛びかかる。そして少女を拘束する怪物の腕に、雄々しく牙を突き立てた。


 ――――ッ!


 声帯ではなく、魂から発する獰猛な唸り声。


 白狼が、土気色の腕を食いちぎる。


 しかし勢い余って、セリーヌが宙に放り出された。


「きゃっ⁉︎」


 助けようと動くウルカの眼前を、魔獣が悠々と跳躍する。その白い毛並みが、少女を華麗に受け止めた。自分と同じ身の丈を誇る白狼の背にしがみつきながら、セリーヌが涙ぐむ。


「ポチ、来てはダメと言ったのに!」


「冗談だろう、その名前はないな」


 ウルカは苦笑しながら剣を逆手に持ち替え、力強く地を蹴った。重力を感じさせない優雅な飛翔を披露した怪物狩りの女が、≪アウチュー≫の丸々とした腹に舞い降りる。


「ずいぶんと肥えた体だ。仕留めがいがある!」


 切先を下に向け、剣の柄を両手で握りしめるウルカの姿に、癇癪を起こした≪アウチュー≫が唸り声をあげた。激しく身体を揺さぶり、怪物狩りの女を振り落とそうとする。


「往生際が悪いな!」


 しっかりと股を開いて踏ん張ったウルカは、怪物の口内へ容赦なく剣を突き下ろした。乱雑な歯で刃を噛み砕こうと試みる≪アウチュー≫だが、蒼白の刀身には傷ひとつ与えることはできない。


「無駄だ! 霊鉱スフィアを鍛えた剣は、巨人が踏んでも折れはしない!」


 体重を乗せたウルカは、さらに怪物の奥深くへ刃を食い込ませていく。残された最後の力を振り絞った≪アウチュー≫が、腕を大きく振り上げた瞬間――ウルカは唱えた。


「冥府の炎に焼かれるがいい!」


 剣を媒介にした破邪の力が、アウチューの体内へと伝播する。刀身の模様が再び青い熱を帯び、そして魔獣の血に引火する特殊な炎が顕現した。


 怪物殺しの煉獄が≪アウチュー≫の傷口から広がり、燃え盛る。霊力の焔は一瞬で悪しき存在の血液を蒸発させ、魔力、精神、邪念に至るまでを容赦なく滅ぼした。


 力を失くした三本指が、ウルカの肩を撫でるように打つ。そして虚しく、すぐに地へ落ちた。怪物狩りの仕事は無慈悲に、断末魔の暇すら与えはしない。


 そして≪アウチュー≫は絶命し、焦げた血の悪臭だけが残る。


「やったわ、ウルカ!」


 白狼の背中から降りたセリーヌが、闇祓いの腰に抱き着いた。

 剣を鞘に納めたウルカが「怖い思いをさせたな」と少女の背を柔らかな手つきで撫でる。


 するとセリーヌの無事を見届けた白狼が、ゆっくりと踵を返した――刹那、あらぬ方角から魔獣に向けて矢が放たれる。しかし使い手は弓に慣れていないのか、狙いは大きく逸れた。白狼を外れた鏃は、代わりに≪アウチュー≫の死骸へ当たるが、焦げてもなお丈夫な毛皮に弾かれてしまう。


 ウルカ、セリーヌ、白狼、その視線が集まる先で、茂みから上半身を覗かせたのはセリーヌの祖父だった。


「おじいちゃん⁉︎」


 青い顔で次の矢を番えた老人が、白い魔獣を見据えながら唇を震わせた。


「やっ、やっぱりおった、おったぞ!

 白狼だ! 白狼もおったんだ!

 おい、あんた、追加の金を払う。その白狼も退治してくれ!

 こいつはセリーヌを狙っておる。殺してくれ、頼む!」


「おじいちゃん、違うの!」


 ウルカから離れたセリーヌが、白狼の首にしがみついた。身を挺して射線を塞ごうとする孫娘の姿に、老人が困惑を露にする。


「ど、どきなさい、セリーヌ!

 な、なぜ魔獣を庇う? どうなっておるんじゃ……?」


 ぐっと唇を引き結んだセリーヌは、白の毛並みに顔を埋めた。少女の哀しみを慰めるように、白狼も身を寄せる。


 幼子の視線が、ウルカに縋った。


「ウルカ……」


「いや、私は──」


 本来ならば関わるべき問題ではない、と怪物狩りの女は躊躇う――が、けっきょくは懇願に絆され、頷くはめになった。幼い身で≪アウチュー≫退治に身体を張ったのだ、それくらいの見返りはあってもいいと思い直す。


「まずは森を出るぞ。≪アウチュー≫がいなくなっても、夜の森は危険だ」


 本来ならば≪アウチュー≫の死骸を検分し、霊薬の材料として使えそうな部位を切り取りたいところだ。しかし幼子と老人を夜の森に居続けさせるわけにもいかない。


 心の中で舌打ちしながら、ウルカは渋々と帰還を選択した。


「白狼については、そう長い話じゃない。村に帰る道すがらでも、十分に話はできる」


 老人から弓を取りあげたウルカは、共に先を歩くよう促した。


「セリーヌは、あとからついてこい」


「うん、わかったわ」


 すると老人が「他の怪物が現れたらどうする!」と孫娘を案じるが、ウルカは「老いぼれよりも白狼のほうが守護者として適任だ」とはねつける。


 それからセリーヌは指示された通り、先を行く二人から距離を置いた。肩越しに振り向いたウルカの視線が、偶然にも白狼の眼差しと重なる。怪物狩りの女と魔獣──両者のあいだに、言葉とは異なる意思が交錯した。


「──、……?」


 ……、……。


 魔獣は多かれ少なかれ、知性を宿しているという。


 白狼の強い眼差しは、まるで「セリーヌのことは任せろ」と言わんばかりの真摯な光を秘めていた。


「おかしな魔獣だ」


 気を取り直したウルカは、隣の老人に視線を向けることなく、ため息まじりに口を開いた。


「これから話すのは、セリーヌから聞いた話だ」


 ウルカの記憶が、セリーヌと会った初めての夜にさかのぼる。


 大人たちの小屋から抜け出したあと、少女と交わした秘密の会話。


 姉を失った幼子が吐き出したのは、殺人の告白だった。


 一ヶ月前、セリーヌと姉のカリーヌは森で遊んでいたという。


 片方が森に隠れ、もう片方が相手を探すという遊びだ。隠れる側は、探し手に見つかれば負けとなる。逆に一定の時間内に見つからなければ、隠れた側の勝ちだ。誰もが知っている平凡な遊戯。


「あの日、隠れる側になったのはカリーヌで、わたしは探す側だったの……」


 姉の悲鳴が響いたのは、遊び始めてすぐだったらしい。


 駆けつけたセリーヌは、酒に酔った村の男がカリーヌを組み敷いている場面に遭遇した。


「いや、やめて──」


「うるせえ、黙ってろ!」


 とっさの判断で木の棒を拾いあげたセリーヌは、男の頭を殴打したという。


「カリーヌから離れて!」


「痛ぇっ⁉︎」


「カリーヌ、大丈夫⁉︎」


「セリーヌ、セリーヌ!」


 姉は危機を脱したが、半端な攻撃は泥酔した相手の反感を買った。腰から錆びたナイフを抜いた男が、今度はセリーヌに襲いかかり――その窮地を救ったのが、唐突に茂みから飛び出してきた白狼だった。


「白狼は一噛みで男の喉笛を食いちぎり、その命を容赦なく奪ったそうだ」


 二人は次に自分たちが殺されるのだろうと怯え、身を寄せ合った。しかし白狼は姉妹を一瞥すると、そのまま身を翻して立ち去ったという。


 姉妹は話し合い、男の遺体を森に埋めた。


 つまりセリーヌにとって、白狼は恩人ということになる。


 首を振ったウルカは、最初に村の小屋で口にした台詞を繰り返した。。


「白狼は無駄な狩りをしない」


 信じられないとばかりに、老人が身を震わせる。


「そんな、なんてことだ……」


「たしか、ひとり遺体の見つかっていない行方不明者がいたな」


「マシュマーだ、大酒呑みのマシュマー。いや、しかしどうして、それならば本当のことを話せばよかった。セリーヌたちはなにも悪くない、殺したのも白狼じゃないか」


「だからこそ、だろう。お前たち村の大人は事情を聞けば同情こそすれ、人を襲った白狼を危険視するに決まっているからな」


「セリーヌは、白狼を庇ったというのかね?」


「セリーヌと姉は、その後も何度か森に足を運んでいたらしい。食べ物を届けに行って、実際に何度も白狼と接触している。魔獣が人に懐く習性は聞いたことがないが、どんな種族にも例外はあるからな。とにかく二人は、白狼に恩と情があった。それにあの年頃だ、男に襲われたなんて話を他人の耳に入れたくはないだろう。この話を、村の大人たちにするのか?」


 そうなれば今度は、白狼殺しを依頼されるだろう。受ける気はないが、自分がやらずとも他の誰かが遂行するかもしれない。しかしウルカの懸念は杞憂に終わる。


 老人は躊躇いながらも、首を横に揺らした。


「怪物は死んだ。姿の消えた者は、すべて怪物の餌食になった。それでいいんじゃろう?」


 カリーヌは亡くなった日、ひとりで森に入ったという。友人の家に招かれていたセリーヌは不在で、姉は退屈していたそうだ。もしかしたら白狼に会うために森へ赴いた矢先、怪物の餌食になったのではないか──そうウルカは推測した。


「だとしたら……」


 ウルカはもう一度、肩越しに振り向いた。


 セリーヌに首を抱えられた白狼は、くすぐったそうに眼を細めている。

 ひょっとしたらこの魔獣は、カリーヌが命を落としたことに責任を感じて、≪アウチュー≫に復讐したのかもしれない。そんな考えが荒唐無稽に思えないのは、先ほど見た白狼の理知的な瞳のせいだろうか。


「いや、考えすぎか」


 村が近くなり、人の気配が濃くなると、白狼は自然と足を止めた。セリーヌも連れていけないことは承知しており、鼻先にそっと口づけて別れを告げる。


 祖父の様子を気にかけながら、少女はウルカを見上げて尋ねた。


「ポチはどうなるの?」


「私はなにもしない。だがこのまま村人に目撃され続けると、いずれは誰かに殺される」


 セリーヌの瞳が不安と恐怖で揺れた。


「そんな……」


 ウルカに白狼の存在を告白したのは、無害な友が間違って処理されるのを恐れたからだ。祖父に肩を抱かれながらも、少女の視線はじっと闇祓いの女に注がれたまま離れない。


 助けて、と口にする無責任さをセリーヌは心得ている。


 白狼は魔獣だ。人に忌み嫌われ、恐れられる。多くの平穏な民からすれば、≪アウチュー≫と白狼は同義の危険な怪物でしかない。


 ウルカは諦めたように嘆息すると、無遠慮にセリーヌの髪を撫でた。なんとかしよう、という意思表示だ。その厚意を受け取った少女が小さく「ありがとう」と口にする。


 すると闇祓いの女が視線を伸ばした先で、白狼はすべてを承知しているかのように小さく頷いた。


「まさか、人の考えがわかるなんて言うなよ?」


 魔獣は知性を宿すというが、白狼が人語や人心を理解するような例は聞いた覚えがない。


 無音の狩人はそれ以上なにも語らず、さっと身を翻した。


 白い毛並みは夜の森へと消える。


 あとには茂みの音ひとつ残さなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る