声優学校での相田
六月も終わり、いよいよ夏本番の季節が近づいてきた証を誇示するように日差しがギンギンに降り注ぎ皮膚を焼く。これだから夏は苦手だ。梅雨は分厚い雲が遮ってくれたから程よい暑さで痛くもないが、この夏特有のじりじりと肌が焼かれる感触が苦手で夏場は引きこもりたいぐらい。
しかしそういう日に限って部活だの予定が組み込まれる。今日は相田にちょっとついてきてほしいということで再び繁華街に来てしまっているのだ。
「あっつ。本格的に夏が来るわね」
半袖の白一色の涼しそうなワンピースを着ている相田だが、額からは大きめの汗をぼとぼとアスファルトに影を落としていた。
「こんな暑い日に何の用事だ。俺、夏は苦手なんだよ」
「ちょっと渡会さんに見てほしいのがあるの。もうちょっとしたら目的の場所につくからそこで涼しむことができるわ」
見てほしいもの? なんだろう、演劇に役に立つ者だろうか、それともプレゼントか何かかな。
そぞろとアスファルトからの照り返しを受けながら相田についていくと一棟の雑居ビルの中に入っていった。
ここって、相田が通っている声優学校があるビルじゃないか。
古そうな外観とは違い最新式のエレベーターに乗り込み、『推田声優学校』がある階にまで上がる。声優学校に連れてくるなんて俺に声優でもやらせるつもりなのだろうか。
揺れもなく静かに目的の階に到着して声優学校に入る。当たり前だがいつも通っている学校とは違い校門も細かく分けられた教室もない、一つ扉を抜けた先がその教室である。
「相田さんおはよう。おや今日は彼氏君も同伴なんだ」
「ちょっと見学に来てもらいたくて、先生よろしいですか」
「いいよ。じゃあ相田さんは練習から始めようか」
先生と呼ばれたあごひげを蓄えて恰幅の良い男性に相田が一礼すると、すぐ隣の部屋に入っていった。その部屋は少し奇妙なつくりで、部屋全体が一望できるぐらいの巨大な窓ガラスが張られていた。部屋の中には相田のほかに何人かの人が入っていてみんな画面の前で並び立っていた。
「じゃあ。『家庭科室の御厨君』第四話のシーン百二十からやってみよう」
先生が機械を操作すると、画面にアニメ版『家庭科室の御厨君』の映像が流れると二人の男女がマイクに声を入れる。あれは相田さんが前にやってくれた吹き込みだ。
相田と同じ声優の卵たちは先生の指示のもと何も声が入っていない画面に向かって声を入れる。彼らの力量は素人の俺から見てもわかるほど実力がある人とない人の差が激しい。そして相田が前に出て他の人たちと同じく声を入れるが、最初の一言目からはっきりと違うとわかる。
うまいのだ。最初に俺の前で見せてくれた時よりも格段に上手くなっていて、このまま本放送で流れてもおかしくない具合に仕上がっていた。
「うんいいよ相田さん。そのまま続けてシーン百二十一に行ってみよう」
「はいっ!」
嬉しくなっているのか声が上ずったが、別のシーンに移行したらすぐに元に戻った。
「相田さんうまくなったな」
「学校でいっぱい練習したっすから」
「ほぉ。じゃあ彼氏君の君が相田さんとマンツーマンで練習に付き添ってあげたということかな」
先生のもじゃもじゃの口ひげの下から白い歯が見えるほどにんまりとする。正確には俺の方に付き合わされたのだけど。
「君、何かやっているのかな。演劇とかお話に関係するものとか」
「演劇部に入っているっす」
「なるほど、演劇か。俺のアドバイスをちゃんと聞いてくれていたんだな。若い子の中にはなんで演劇なんかと無視してしまうのもいるから、アドバイスをきちんと聞いれる子は強いよ」
なるほど演劇鑑賞の仕方を教えたのはこの人だったのか。
再び相田の方に顔を向けると、相田はよどみなく与えられたキャラを見事に演じきっていた。途中先生が役を別の女の子や果ては子供に変えても、そのキャラに合うように声色を変えていく。それはさながら声のマジックショーだ。
「やっぱりすごいな相田。あんなに色んな演技ができるなんて」
「それでも数万と居る新人声優の卵に過ぎないよあの子は」
さっきまで相田のことを褒めていたはずの先生が、急に冷たい口調で突き放した。
「でもこんなに演技がうまいのだから」
「そういう人間はこの教室のほかにもいっぱいいるんだ。それに色んなことができるということは、何か一つ特化していないという可能性もある。逆に子供の演技がうまい、女性声優なのに少年の声ができる、もっとコアなところならおばさんや老婆だってできる人がいる。声優は上手いだけじゃだめ、可愛い声きれいな声それだけでは生き残れない。演技の幅に役柄、自分が苦手と感じる役でもそれを演技に表さずに乗せるのが仕事だ」
一つ一つの言葉が拷問に使われる石抱きを一つ一つ乗せられたかのようにのしかかってくる。俺はまだ甘い認識をしていた。あんなに上手く、意識も高く練習しているのからのだからきっとオーディションも声優も何もかもうまくいくと思い上がっていた。でもそんなの部外者から見た視点に過ぎない、本人からしたら多数の相田以上に上手い人たちの中から選ばれるように練習して、それで何度も選ばれなかったのだ。だから藁にも縋る気持ちで、どんなに細かいことでも演劇部の練習を見に来ても意識を高くしないと生き残れないのだから。
「声優という職業はアニメの人気もあってこの数年だいぶ増えて、人気職業になっている。人気になるということはその分競争相手も何百倍にも増えることでもある、彼女のように夢のために追いかける生徒だっていっぱいいる。夢と好きだけじゃ生き残れない世界だよこの業界は」
また一つ石が置かれた。楽しく演劇をする。自分がしたいことをしたいことをやっているのとは次元が違う現実に、追いつくことができない。
「って、彼氏君にこんなこと言ったら困るよな。大事な彼女がオーディションに受かるように応援しないといけないというのに。でも相田さんは他の子よりも一番努力家で、きっかけがあればオーディションには合格できる。そこから何度かオーディションをくぐり抜けて一つぐらい飛びぬける才能を見出せるかもしれない」
向こうの部屋で流していたシーンが終わると先生は機械を止めて「小休止。ちょっと見直してみようか」と重たい体を支えてギシギシと音を立てていたパイプ椅子から立ち上がる。
「ま、ちゃんと彼女を支えてやんなさいよ彼氏君」
そう言って俺を応援してくれた先生は相田がいる部屋の中に入った。窓越しに見ると、中では他の生徒を後ろにやって相田にだけ個別に指導を始めていた。
個別に指導をするということは、それほど期待されていることの表れだ。相田もその期待に応えるために必死にオーディションに受かろうと努力している。
じゃあ俺は? 何をすればいい?
俺はただの、遊びの延長でやっている一学校の演劇部員にしか過ぎない。大した指導も、アドバイスもできない。じゃあ彼氏としてデートをするべきか?
自分にできることは何かと考えて教室の中を歩いていると赤い塗装で塗られていた自動販売機に目が着いた。百円を入れてミネラルウォーターを購入したちょうどのタイミングで相田が部屋から出てきて、さっき買ったミネラルウォーターを差し出した。
「お疲れ相田。はい水」
「ありがとう」
受け取ったミネラルウォーターの蓋を開けると、女の子らしい飲み方なんて関係ないぐらいにぐびぐびと一気に飲み、途中口の端からあふれ出たミネラルウォーターが
筋を描いていた。
「ぷはぁ、今日先生長くシーンやったから、もうのどカラカラで。あとでお金返すね」
「いやいいよ。にしても今日俺を連れてきたのはどういう」
「いつも放課後に私の練習に付き合わせてもらっているから、お礼に声優学校の見学を先生にお願いしてみせてあげたくてね。すごいでしょ、声優学校」
俺は「みんな熱気がすごいな」と言わざる得なかった。そう言わないと失礼だった。自分と違う世界にいて、過酷な競争をしている人間を無碍になんてできない。
「それでこの後どうする。どこか寄って行くのか。俺もついていくけど」
「う~ん。もうちょっと練習しておくよ。来月の演劇部の劇がある前日にオーディションあるから、それまでしばらく帰宅時間ぎりぎりまで練習したいし。一応先生に帰宅時間ぎりぎりまで渡会さんも居てもいいって許可取ってあるからじっくり見学してていいからね」
相田はまたペットボトルの水を少し口に含んで喉を潤すと、さっきの部屋に戻りまた練習を始めた。窓から彼女の横顔を見るとまっすぐ画面にしか見ていなかった。自分の夢のためにどんなことを犠牲にしても、努力をしても勝ち取るためにその切れ長目をその一点にだけに。
ふらっと席を外して、外に出た。まだ太陽がじりじりと照り付けているが涼しくも熱気がある教室の中よりましだった。
ちょっとあの中は俺には居心地が悪いな。
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