3 彼女が居なくなっても、乳の話は別腹だ。

 それで、俺はこの状況をどう解釈かいしゃくすればよいのだろうか。

 少しずつ取り戻す冷静さと、突然沸き上がる衝動しょうどうを交互に受けながら、俺は必死に頭をフル回転させた。


 美緒とは小さい頃からずっと一緒だった。昨日本屋に行って、彼女の家の前で別れるまで、確かに美緒は存在していたのだ。小柄で巨乳で、いつも俺に投げかけてくれた笑顔は、本物だったはずだ。


 じゃあ、彼女も異世界転生をしたのか――?


 頭によぎるその言葉こそ、俺の妄想もうそうでしかない筈なのに。

 存在すら抹消まっしょうされてしまうなんて、どこぞのラノベで良くある異世界転生のパターンじゃないか。


 だって山田の事は誰も忘れなかったし、本人も帰って来たのだ。よくよく聞くと、盲腸もうちょうをこじらせた入院だったと噂好きの女子が騒いでいた。


 じゃあ、テニス部の先輩は――?


「なぁ、木田きだ


 着替えも手につかぬまま、俺は不安を押し殺して木田の所へ行った。


「テニス部の居なくなった先輩って、どうなったか分かるか?」

「居なくなった? ウチの部の先輩が?」


 木田はやはり美緒の時と同じトーンで返事を返してくる。


「この間、言ってたじゃねぇかよ。巨乳の先輩が居なくなったって! 「おっぱいおっぱい」って泣いてたじゃねぇか!」

「はぁ?」


 俺も木田も真剣だった。

 女子がすでに更衣室へ移動していたのは幸いだ。

 取り乱して「おっぱい」を連呼した俺を、何だ何だと集まってきた男子が取り囲む。


「ちょっ、お前ふざけんな! 俺、そんなこと言って泣いてねぇし。部の先輩だって居なくなってなんかいねぇよ!」


 はっきりと言い放つ木田の顔は嘘をついているようには見えなかった。けれど、俺はその現実を受け入れる気にはなれなかった。


「何……言ってんだよ。俺は間違ったことなんか言ってねぇし……」

「お前、本当に変だぞ? 何かあったのか?」


 何かあったのは俺じゃない--出しかけた言葉を俺は強く飲み込んだ。


「何で、忘れちまうんだよ……」


 二年の先輩も、きっとこの世界に存在していたのだろう。それを、会ったこともない俺が何故か覚えている。


「とにかく、だ。いいか佑助ゆうすけ。俺がおっぱいの事を忘れるわけがないだろう?」


 木田の発言は一理あるどころかグサリと胸に刺さった。そうだ。本来ならそれは、絶対に忘れる事なんてないのだ。

 あんなに泣く程のおっぱいとの別れを、忘れてしまうこの状況こそ異常と言える。


「お前たち、まだ着替え終わってねぇのか! 乳の話してる場合か!」


 教室を覗きに来た平野にドヤされる。


「先生はどうなんですか?」と、クラスナンバーワンのエロ男と豪語ごうごしているタカシがヤジを飛ばすと、平野はニヤリと笑って教壇きょうだんから俺たちを見下ろした。


「お前等、いっつも巨乳巨乳って言うけどな、実際あれが目の前にあったらどうすんだよ。あれを使いこなせなきゃ、女に一気に見下されるんだぞ? お前等じゃ、まだ修行が足りん。あれは上級者向けだ!」


「おぉー!!!」


 もはや教師とは思えない発言に、男子たちの歓声が上がった。

 平野の高い人気票をほぼ男子が占めていることは言うまでもない。


 平野はチラリとドアが閉まっていることを確認し、少しだけ声をひそめる。元々声がデカいから、きっと廊下まで筒抜つつぬけだろうとは思うが。


ちちってのは、手に収まるよりちょっとデケぇくらいがいいんだよ。普乳ふにゅうだ、普乳!」


 自分の胸の前で勇ましく握り締める平野の手は、熊のような図体と比例して、俺たちより大分デカくてゴツい。


「俺は、普乳ふにゅう普及協会の代表だからな!!」


「決まった」とうなる平野は、人差し指を高くかかげた勝利の決めポーズで俺たちを魅了みりょうした。

 教室の盛り上がりは最高潮さいこうちょう

 平野の目尻に光る涙に、俺は過去に何かあったなと予想する。


 けど、そんなことは高1の男子高校生にはどうでもいいことだった。


「大人だ! 流石さすが、保健体育教師!」


 タカシが尊敬の眼差しで目を輝かせると、突然ガラリと前の扉が開いた。

 一瞬で空気がこおり付く。


 シンとした教室にゴホンと咳払せきばらいが響いて、その緩み切った空気をぶった切った。


「平野先生、ちょっと」


 耳覚えのある声は、きっとこの状況で最悪の相手だ。入口に顔を覗かせた女教頭のいずみは、分厚い眼鏡の奥から細い目を光らせて平野を廊下へと促した。


「は、はぃ」


 意気消沈の平野が、素直に従って教室を出る。

 俺たちはきっと悪くない……筈だ。


 乳論ちちろんで話はズレてしまったが、やっぱり美緒は異世界に行ってしまったのだろうか。

 朝、彼女の家は確かにウチの二軒隣にあった。家族は存在しているという事だろうか。

 そして、テニス部の先輩は?


「木田、俺もう帰るわ。平野に言っといてもらっていいか?」


 もうこんな気持ちで授業を受ける気にはなれなかった。


「わかった。ゆっくり休めよ?」


 そのほうがいいぞ、と木田は何度もうなずいて「じゃあ」と先に教室を出た。


 この状況を打破だはできるものが何なのかは俺には全く見当もつかなかった。

 まだ混乱したままの頭を整理したくて、まずは彼女の家に行ってみようと思う。


 学校をこっそりと抜け出そうとした矢先、俺は昇降口でもう一度美緒の下駄箱を確認した。

 水泳の授業がある女子は、もうプールへ行っていて上履きだけが残されている。


 美緒の下駄箱に入っていたのは、別の女子の名前が書かれた上履きだった。


「美緒……」


 愕然がくぜんとして崩れそうになるあしに力を込める。

 あいつはどこに行ったんだ――?


 その答えを求めて、俺は炎天下えんてんかの空の下、校門を走り出たのだ。


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