第2話 令嬢は捨てられる
その日のフィオーラは、朝から気分が明るかった。
今日は、婚約者であるヘンリーが訪れる日だ。
毎日命じられている仕事が免除されるし、それに―――――――
――――――――――ぐるるるる、と。
フィオーラの腹が鳴った。
もう丸三日間、水以外何も口にしていない。
三日前、ミリアに命じられた繕い物を終わらせられなかった罰として、食事を取り上げられていた。
粗食には慣れているフィオーラだが、さすがにこれは辛い。
ヘンリーとの茶会で出されるお茶うけが、今から待ち遠しいのだった。
恋より食欲。
食い意地の張った自分を恥ずかしく思いつつ、フィオーラは鏡を覗き込んだ。
「貧相な体つき………」
痩せこけた、枯れ枝のような体だ。
フィオーラは17歳だが、手も足も細く棒のようで、胸はほんのわずかに膨らんでいるだけだ。
豊かな胸と突き出た尻こそが美女の条件とされるこの国では、あまりにも見苦しい姿だった。
今日はヘンリーと会うため、久しぶりに化粧を許されている。
伯爵家の娘が着の身着のままの姿を晒しては家の恥となるため、安物だが最低限の化粧品は与えられていたのだった。
使用人に頭を下げ開けてもらった客室の化粧台に座り、フィオーラは身支度を整えている。
鏡に映る顔は頬がこけ、空色の大きな目玉が目立つ。
髪は薄茶で、よく異母姉のミレアから『ぼんやりとした色の気持ちの悪い目と髪ね』と嘲られていた。
「あら、フィオーラ。まだ準備ができていなかったの?」
背後から聞こえてきた声に、フィオーラは背中を緊張させた。
「
金の巻き毛と豊満な肢体を持つ、ミレアの母親のリムエラだ。
リムエラは無遠慮に部屋に入ってくると、フィオーラの顔を見下ろした。
「もうっ、ミレアったら、また頬をぶったのね」
ため息をつくリムエラ。
しかしその言葉は、決してフィオーラを思いやってのものではなかった。
「顔を傷つけると目立って面倒だって、いつも注意しているのにね?」
リムエラが、フィオーラの頬をつぅと撫でる。
三日前ミレアにぶたれた頬は、化粧により誤魔化されていたが、それでも近くで見ると、不自然な赤味が残っていた。
「泥棒猫の娘だけあって、男を欺くための化粧は上手なのね? でも、おまえに与えられた化粧品だって、ただではないことをわかっているかしら?」
「…………申し訳ありませんでした」
私はなぜ謝っているのだろう?
そんな疑問を深追いしないことが、義母と上手くやっていくコツだと、フィオーラは嫌になるほど理解していた。
右足が痛みを訴えた気がする。
もちろん幻だ。
昔、リムエラの怒りを買い、火かき棒を押し付けられた傷跡がうずきだす。
リムエラも娘のミレアと同じようにフィオーラを嫌っていたが、虐め方が巧妙だ。
顔や首と言った目立つ場所には手をあげず、普段は服で隠れている胴体や足をいたぶった。
ただでさえ貧相なフィオーラの体には、いくつもの醜い傷が残ってしまっている。
「あらフィオーラ、どうしたの? 今日は大切な婚約者様と会える日でしょう? 明るい顔をしたらどうかしら?」
リムエラはフィオーラに手をあげることも無く、珍しく上機嫌だった。
なにか良いことでもあったのだろうか?
フィオーラがいぶかしんでいると、リムエラが唇に笑みを刷く。
「今日のお茶会には、おまえの好物のアプリコットのタルトを用意させているわ。楽しみでしょう?」
「………お心遣い、ありがとうございます」
どういう風の吹き回しだろうか?
やけに優しいリムエラの言葉の理由を、フィオーラは間もなく思い知らされることになる。
それすなわち――――――――――――――
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「婚約を、破棄する………?」
フィオーラは呆然と呟いた。
震えそうになる手元を押さえ、目の前の青年、婚約者のヘンリーへと問いかける。
「ヘンリー様、どういうことですか? 私、何か粗相をしてしまいましたか?」
「…………そういったわけじゃないさ。君には、本当にすまないと思っている」
「では、どうしてですか? なぜ今になって、私との婚約を解消するとおっしゃるのですか?」
「………これはもう、決まったことなんだ。君の父上と、義母様にも話は通してある」
心苦しそうに、だがはっきりと宣言するヘンリー。
頭を殴られたように、フィオーラは目まいがした。
足元が崩れ落ちるような衝撃の中、そうか、さっきリムエラの機嫌が良かったのは、婚約破棄を知らされていたからかと納得する自分がいる。
ヘンリーが婚約者になったのは、今よりはまだフィオーラが人として伯爵家で扱われていた、四年前のことだった。
父親に決められた相手だが、優しいヘンリーをフィオーラは慕っていた。
恋というには幼い感情だったが、兄に向けるような素朴な好意を、ヘンリーに感じていたのだ。
ヘンリーの方だって、フィオーラをそれなりに好いてくれていたはずだった。
少なくとも、父のように無関心でも無く、ミレアやリムエラのように暴力を振るうことも無い。
フィオーラにとってはそれだけで好意の対象だったし、彼と二人、この先の人生を歩いて行くつもりだったのだ。
「なのに、どうして………?」
こらえきれず、言葉が口から滑り落ちる。
「もしかして、義母様のせいですか………? 義母様に婚約を破棄するよう言われ、受け入れてしまったのですか?」
「…………そんなようなところだ」
「…………っ!!」
怒りと悲しみ、そして脱力感。
フィオーラの全身から力が抜け落ちた。
ヘンリーが否定しないということは、義母リムエラの横やりがあったのは間違いない。
だがそもそも、ヘンリーとの婚約は、伯爵家の当主である父親が結んだものだ。
リムエラの横やりを、ヘンリーがまともに取り合う必要も無かったはず。
なのに、ヘンリーがフィオーラを捨てるということは、ヘンリーにとってのフィオーラが、リムエラの嫌がらせより軽いということでしかなかった。
「っ…………」
自分とヘンリーとの4年間は、いったい何だったのだろうか?
彼となら幸せになれると、そう疑いもしなかった昨日までの自分が、惨めでこっけいで仕方ない。
枯れ枝のような体、ぼんやりとした色彩の髪と瞳、胴体に残る傷跡。
女性としての魅力から程遠い自分が、夢を見たのが愚かだったのだ。
「……ヘンリー様が、私を遠ざけたくなるのも当然ですね。義母様から聞いたのでしょう? 私の体には、いくつもの醜い傷跡があると、そう聞かされたのでしょう?」
「なっ………? 君の義母様は、まさかそんなことまで…………⁉」
「胴体の傷跡について今まで黙っていてすみませんでした。こんな傷を知られた以上ヘンリー様が心変りなさるのも当然です。どうか素敵な女性を見つけ幸せになってください!」
一息に言い切ると、椅子をたちその場を後にする。
「フィオーラっ!!」
切なげに名前を呼ぶ声に、一瞬振り返る。
捨てられたのはこちらなのに、なぜそんな悲しそうな顔をするのだろう?
眉を寄せるヘンリーの顔と、テーブルの上のアプリコットのタルトが目に入る。
「………っ!!」
瞬間、吐き気がせりあがってくる。
フィオーラの好物であるアプリコットのタルト。
それをわざわざ、婚約破棄の場に用意させたのは、間違いなくリムエラの悪意だ。
今後フィオーラが好物を見るたび、婚約破棄の惨めな記憶を思い出すように。
滴るようなリムエラの悪意に、フィオーラは吐き気と寒気がした。
――――――――――義母はいったい、どこまで自分を苦しめれば満足なのだろうか?
フィオーラは吐き気をこらえつつ、なんとかその場を去ったのだった。
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