本編的なもの

 そんなこんなで、その朝、私は竜飛の漁港でバスを降りた。走り去るバスは道を一旦引き返して山上へ向かった。なるほど、その風景は、海辺の漁港に過ぎない。知識がなければ、おぼろげに見える北海道も、どこか対岸が見えているというだけのものだろう。ただ海と村を眺めていても取り立てて面白いものではないし、開いている店もないのでやることがない。ただ、風は強い。生の感覚は、絵面だけでは伝わらないだろう。長閑に見える風景の中に立っていても、MVでも撮影しているような気分になってくる。そうは言っても、山の上でもっと強い風に吹かれるよりはマシなのである。私は、潮の匂いを感じつつ、適当に散歩した。立ち止まっているよりは暖かいからだ。辺りにあるのは低い建物ばかりである。それは田舎の常なので、今更驚くことでもない。海の具合は、多少歩いたくらいでは代わり映えもしない。波と飛沫が匂う。そういえば、少し先に島があるようだが、漁港の続きのような雰囲気で、わざわざ行く所でもなさそうである。無理矢理に身体を温めてはいても、凍えそうである。

 暇な私は、小屋の陰で風を避けながら、改めてこのあたりについて調べた。目玉施設とでも言えそうな青函トンネル記念館は、冬期休業の模様である。曲りなりに屋内にいて何かを見ていられるなら、ありがたい話だ。だが、客がいないのだろう。とにかく今開いていないものはどうにもならない。他に、温泉ホテルもある。日帰り入浴もやっている。しかし…11時から始まるようだ。そして食堂は昼まで開かない。ロビーに長居するのも、なんとなくいたたまれない。だいたい、そんなことができるかどうかもわからない。場所柄を考えると、都会の高いホテルとは色々と違うだろう。ウェブによると設備の一部にラウンジとあるが、喫茶的な営業をしているかどうかはわからない。なんでこういう肝腎なことを書いていないのだろうか。

 そんなわけで、ホテルへ行くべきかどうかを逡巡していると、また強い風に煽られた。寒い。だが、今は晴れている。足元や視界は悪くない。ならば、移動はし易い。この際だ、山の上へ向かってみよう。観光客が見るようなものも、どうせ山の上にしかない。そしてその後にでもホテルを目指そう。多分時間は余る。あまりまくる。しかも、どうせ他にあてはないのだから仕方ない。私はそう考え直した。


 私は、改めてあの有名な階段国道の入口に立った。先程は何気なく通り過ぎた場所である。そこには立入禁止とある。名物なのにこういう扱いをするとはどういうことなのだろう…という怪談、ではない。そんなくだらない話のためにこんな前振りはしない。私は、それまでと違う空気のゆらぎを感じたのだ。風の音が全身をゆすってくる感じはこれまでと変わらない。だがその感じに不純物が混ざっているのだ。お陰で、落ち着かない。そうは言っても、山上への最短経路はこの階段である。車道を歩くと、かなり遠回りになる。ここは、怒られるかも知れないが行ってみるしかあるまい。そんな決意はすぐ後悔に変わった。数秒も突風に煽られながら道を登るだけでも、動悸が激しくなってくる。そして、違和感がもう少し明らかな輪郭を得始める。これは、多分、音だ。釈然としない私がこごえそうになっているのを笑うかのように、海鳥が飛び交っている。そしてそれは、声だ。先程のバスに他の客はいなかった。ならば近所の住民か。だが、誰かが大声を出しているのなら、会話が成り立つような具合になるのではないか。雰囲気は、そんな感じではない。だとしたら、幽霊の類でもいるのだろうか。そうでもないと、説明がつかない。そうか、亡霊が誘っているのか。そんな妄想をしながら、つづら折りの道の頂点にある椅子に座ってみると、はるかに霞む陸地が見える。そしてあの音というか感じは止まった。こうなってみると、それはそれですっきりしない。その異状のあればこそ、これほど見えない山上が気になったのだから。でも、まあ、平穏が戻ったのは、僥倖ではあるのかも知れない。落ち着いてみると、改めて寒さを感じる。そこで、こういうこともあろうかと朝のコンビニで仕入れておいた安ウィスキーを呷ってみた。うまくない。やたらと強い甘み、そしてケミカルな香り。カラメルたっぷりな感じも舌に触る。まあ、こんなものだろう。ただ、肴がこの景色なら悪くない。そう思い込んで、私はまた道を昇り始めた。そう、まだ、のぼりはじめたばかりだったのだ、このはてしなく遠い坂を。振り向く元気もなくなってきたが、なんとか階段の終点に着くまで、結局30分以上かけただろうか。ノーコンティニューでクリアするには、長かった。

 そこで視界は開けた。あるのは、駐車場だった。階段国道を過ぎてなんとなくまっすぐ進んだら、その先は駐車場だったのだ。数台の車がいるのを見て、それが駐車場だと判った。そうでなければ、整地された空地くらいに思えたかも知れない。そんなことを考えさせるくらい、何もない。まるっきり何もないというよりは、駐車場くらいならある、そんなところだろうか。そして今通ってきたのは、開いていない食堂の敷地だった。そんなことにも、振り返るまでは気付くこともなかった。正面だけを見ていたからである。突風と寒さの中で首をすくめ俯きがちになっていたから、そうなった。改めて辺りを見回すと、小高いところに東屋っぽい何かがあり、それよりもかなり上に灯台がある。その辺りまで歩くのは、いい加減面倒ではある。でも仕方がない。とりあえず少し上がってみよう。そうは言っても、急坂は嫌だ。もう疲れた。そこで、比較的ゆるい車道を上がってみた。田舎にありがちな適当な舗装の半急坂である。その先は展望台的な場所で、駐車場や自販機もあった。ここから適当な細い歩道に入ってみたら、半ば獣道のようなところを通って、先程の階段の終点に出てしまった。振り出しに戻ったわけである。やれやれ登り直しかとため息が出た。


 この時である。再び、あの揺らぎをはっきりと感じた。いや、それは、むしろ轟音であった。世界が揺れている。風の音と交じり合った何かは、強烈な音波だった。それはくらくら燃える火のような勢いだった。やはり、このあたりに、何かあるのだ。どうすればその正体を突き止められるのだろう。風向きの変化で音は揺らぐ。だから、風がそれを教えてくれるかも知れない。そんなことを考える私の前を、1台のレンタカーが走り去った。ゆっくりした走りとわの文字が、私にそんな細かいことを認識させた。そんなことはどうでもよい。きっと、その何かが呼んでいる。いや、あのわナンバーは、オカルトマニアの類でその現場へ向かって行ったのか、それとも現場を見てきたのか。そういう線もありえる。ヒントではあるのかも知れない。しかし手掛かりがあるわけでもない。ここは…やはり、まずは人がいるにはいるであろうホテルに向かうしかないだろう。手掛かりを得られる可能性に、賭けるしかない。そう自分に言い聞かせた。細かいことはもういい、とにかく風に当たらず過ごしたい。じっくり作戦を練るのは、その後でいい。多分そちらが本心だ。


 山上の道を吹く風は強い。風除けもない。これはきつい。だから、できるだけ急ぎたい。急ごうとすると、風が正面から押し寄せる。風の息遣いなど感じようもない。そんな道の途中に、石碑があった。それは一種の歌碑である。オカルト的な物件ではない。曲りなりに見物すべきものがあるという事実を知って、私は、ふらふらと引き寄せられた。その歌碑は、ただそこに在るだけの典型的な忘れられがちなものとは違っていた。その一部として、注意書きのついた赤いボタンがあったのだ。能書きを見る前に、私は自然にそれを押していた。絶対に押すなと言わんばかりのデザインがそうさせたのである。多分、誰もがそうする。漫画に出てくる自爆ボタンのようなものだ。これが人類の性である。


 その瞬間に、すべてが繋がった。


 それを歌碑と呼んだのは、便宜上のことでしかない。その碑は短歌にまつわるものではなく、この地が歌詞に出てくるよく知られた歌に関するものである。その歌が流れた。それは凄まじい爆音であった。圧についてはジャイアンリサイタル的だと言えばよかろう。本職の歌唱なので、巧い。だがそこは主要な問題ではない。上手な歌も、風と混ざれば、よくわからない音に化ける。最後まで残るのは圧だけなのだ。だがそれは声でもある。それが響くところも、ある。何かを感じさせることはできる。その歌声は、言ってみれば、声にならない声にもなるのだ。その歌声を発動させるこのボタンこそが怪談めいた感覚の元凶だったのだ。

 先程の車に乗っていた連中なども、このボタンを押していたのだろう。確かにバスの客はいなかったが、車なら簡単にここに寄れる。そんな客に何度か押されていたとしても、おかしくはない。謎はすべて解けた。

 試しに少し離れてみると、やはり歌声はかすれはっきりしないものになった。偶々風向きの都合で聞こえたこの歌の断片が、謎の圧の正体だった。怪異なものなどなかったのだ。否、このボタンとか音量の設定こそが怪奇というべきか。なるほど、爆音でないと間近でも聞こえないことがある。だが、その大音声の故に、遠くで疑問を育てることにもなる。


 さて、まずは歩こう。どうせバスは当分こない。ホテルで茶でも飲めたら御の字だろう。千円くらいなら喜んで払う。むしろ払わせてくれ。遠慮なく風を避けさせてくれと願う。さよなら竜飛、私は帰ります。今は、そんな気分を暖め直すしかない。

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竜飛岬のかいだん アレ @oretokaare

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