山の季節

きさらぎみやび

山の季節 

 齢も八十を超えてくると、自分の体すらもはや思い通りにならなくなってくる。付き合いもその分長いのだから、もう少し素直に言うことを聞いてくれないもんかね、とボヤいてみても、いやいやこちらもいかんともしがたいんで、と言い訳のような、あきらめのような言葉が返ってくるばかり。

 いちいち体を起こすのにも各々の部位に号令を発したのちに調子をあわせてよっこらしょ、と総動員する必要がある。

 体の節々にお伺いを立てながら野良着に着替えるのもこの頃は一苦労なのだが、いったん着替えてしまえば体がしゃんとするような気がするんだから不思議なもんだ。

 昨日の夜に一雨きたようだが、縁側から外を覗くと地面はすっかり乾いている。この分なら長靴ではなく足袋でよさそうだ。どうにも長靴は馴染むまでが歩きづらくてかなわない。上がり框に腰かけて片足ずつゆっくりと足袋を履く。

「行ってくるよ」と土間の奥に一声かけてから返事を待たずにガラガラと玄関の引き戸を開けて外に出る。向かいにある農機具小屋から鍬を一本掴んで畑に向かう。


 古くなった鶏小屋の前を過ぎようとしたとき、にゃあ、と鳴きながら一匹の黒猫が寄ってきた。

「なんだいミケ、飯は食ったのかい」

 ゴロゴロと喉を鳴らしながら畑に降りる小道の後ろをついてくる。朝日に照らされて全身の黒毛が艶やかだ。黒猫なのにミケって呼んでるの?と娘が呆れていたが、うちに来る猫はずっとミケと呼んでいる。

 この子ももう何匹目だろうか。猫はいつの間にか増えていたと思ったら、ふと気が付くとふらりと姿を消していたりする。

 餌と水を軒下に置いちゃあいるが、あんまり飼っているという自覚はない。

 猫のほうも好きに食って、好きにいなくなっている。

 息子が小さい頃は犬を飼っていたが、あっちのほうが一緒に暮らしているという実感があったものだ。

 犬と比べると猫は気ままでこいつのように人にすり寄ってくるものもいれば、人前では絶対に餌を食べないやつもいる。

 猫同士の喧嘩で血だらけになっているやつを農機具小屋の積み上げた木材の隅に見つけたときは流石に病院に連れて行こうかと思ったものだが、そいつは絶対にこっちに体を触れさせず、暗闇で目を光らせてこちらを睨みながら時折傷を舐めていた。

 あいつは結局どうなったかな。

 年を取ると猫の自由さのほうが気楽でいい。慣れあわなさにほっとする。


 畝を三つ立ててから畑の周りの雑草をむしっているとのんびりと軽トラが向かってくる。どっこいしょ、と立ち上がって声をかける。

「おおい、得ちゃん。田んぼの準備かい」

 軽トラの窓を開けて得ちゃんが顔を出す。皺と年季の入った顔は長年の農作業で赤黒く焼けている。

「茂さんも精がでるねえ」

「今年は茄子でも植えようかと思ってよ」

「そうかい。こっちは田んぼの準備が大ごとでよぅ。ほれ、せがれどもが今年は帰ってこれないもんだでよぅ」

「うちもだ。年寄ばっかでやること多くて大変さ」

「まあ今は仕方ねぇなあ。孫の顔を直接見られんのは寂しいけどなぁ」

 うちの孫も元気にしているだろうか。こうも離れているとそのうち顔を忘れられてしまうんじゃないかと心配になる。いや、心配するのは自分のほうか。こっちがむしろ孫の顔を忘れちまうかもしれんな。

 せんだっての地震の時もしばらくは孫の顔を拝めなかったものだ。あの時はどうしてたっけな。胡瓜でも植えてたんだろうか。

 軽トラが去った後、草むしりを再開しながらつらつらと思い出す。

 人間様がどんなにか大変な時でも雑草は伸びるし、花は咲く。

 今年も川べりの桜は一斉に淡いピンクの色彩を誇らしげに広げていた。唯一いつもと違ったのは周りに群がる人間の数だけだ。

 若い時分に山崩れがあったところも今じゃあすっかり林になっちまっている。毎日むしっても草はお構いなしに生えてくる。人の営みにかかわらず時は流れて季節は巡る。それが気に入らん時もあったが、今じゃあむしろありがたいと思えてくる。

 こっちの都合に関係なく動いているものを見るとなんとなくほっとするようになった。いよいよ自分も山の一部にでもなったんかね。


 畑の隅でこちらの作業を眺めていたミケがくああぁ、と一つあくびをする。

 さて、そろそろ昼飯にでもするか。なんにせよ人間様は食わなきゃ生きていかれんからな。

「お前も昼飯にするか、ミケ」

 こちらの言葉がわかっているかのように、ミケがみゃあ、と一つ返事をする。山はいつもと変わらず新緑の季節を迎え始めていた。

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