第7章-12 fragile mind

 あれから数日後、夕方の、とある町中の喫茶店に俺はいた。待ち合わせの時間にはかなり早かったが、立場的にこちらが遅れるわけには行かなかったし、考えをもう一度整理しなおす時間もほしかった。先に注文するのもどうかと思いつつお店にも悪いかなと思いとりあえず一番安いコーヒーを注文した。その苦い液体をすすりながら、昨日までに作っといたメモを見返す。窓際の席からは小さな川、水路?がよく見えており、その向こうのうっすらとした街の灯りと夕暮れの空の色をゆらゆらとその水面に輝かせていた。

 

 不意にドアベルが鳴った。


 店に入ってきた背の高いコートの男性こそ、今日の待ち人である、しほりん父であった。カウンターにいるマスターらしき人に軽く会釈をして、幾何か逡巡した後、立ち上がった俺の姿を見つけると、そのままこちらへと向かってきた。俺は思わず頭を下げた。


「待たせてすまない。少し仕事が長引いてしまってね」

「こちらこそ、今日はわざわざご足労頂きまして、ありがとうございます」

「いやいや、大したことでもないよ。それにこの店を指定させてもらってわざわざ来てもらったのはこちらだ。本当は家に呼びたかったのだけどね。遠くなかったかい?」

「大丈夫です。もともと高校に来るのに家から結構距離がありますから、ついでみたいなものです」

「そうか……私も、一杯頼んでもいいかな。話はそれからにしよう」

「はい、どうぞ」

「ありがとう……マスター、いいかい? いつもので」


 マスターが静かに返事をした。いつもの、で通じてしまうのか。おしゃれで落ち着いて見える男の姿がそこはかとなく常連感と強者感を醸しだしている。おもむろにお高そうなコートを脱ぎ壁のハンガー?にかけるその後ろ姿から、そこはかとない圧というか威圧感をひしひしと感じる。人生の修羅場を潜り抜けてきたであろうその背中がとても大きく見えてしまうのだった。ひるむな俺! 気合い入れろ俺! ビビったら終わりだぞ! しほりんのためだろ! 根性注入だごらぁ!

 椅子に座ってしほりん父はまずこちらをまっすぐに見てそして言った。


「で、今日の用事というのは一体何なのかい?」


 すげえさすがしほりん父。ノータイムで本題に切り込んでくる。これは……変な小細工している場合でもなさそうか。

「……そうですね、今日お呼び立て頂いたのはほかでもない、おたくの娘さんのことです」

「残念だが、私の意思は変わらんよ。この前と同じだ」


「……しほりさんが、会ってくれないんです」


「……ほう?」

 しほりん父がちょっと興味を持ってくれたようだ。

「実は……あのあと、一度も勉強を見ることができていません。それまでは少なくとも週に1度は家庭教師できていたんですけど……」

「……ふむ」

「一度だけお会いしたんです娘さんに。ですが、感謝と謝罪の言葉ばかり言われただけで、特に勉強の話はできませんでした。なんかこう、もう勉強みてほしいっていうような感じではないというか……少なくとも次の家庭教師の予定をお願いされることはありませんでした。今のままではもう娘さんの家庭教師はできそうにないのですが……」

「……そうか」

「でも僕は……勝手ながらしほりさんの勉強を短い間ではありますが見させていただいて、真摯に勉強に向き合う姿を見て感動しました。ここまで頑張って勉強に向き合える子がいるんだと初めて知って、素直に尊敬しているんです。だからできるならば今後もしほりさんの勉強を見てあげたい、家庭教師としてしほりさんを支えていきたい、力になりたい、と思っているんです」

「……そこまでしほりのことを評価してもらえてうれしいよ。そういうことなら、私からしほりに伝えておこう。また先生に勉強みてもらいなさい、と」


 来た! 予想通りの展開だ。さあ、ここからだ。間違えるなよ俺


「……でも、失礼ながら、現状ではそれは、難しいのではありませんか?」


「……どういうことかね?」

「しほりさんが頑張って勉強する姿を見ていたからわかります。正直彼女はもう勉強しようと思っていないように思います」

「……どうして、そう思うのかい?」


「それは……多分、勉強しても意味がないと思っているから、だと僕は思っています」


 俺は、しほりん父の目を見てそう言った。しかしまだ彼が動じている素振りは見えない。彼の目が先を促しているように思えた。俺は一気に続ける。


「しほりさんは今、勉強する意味を見失っているように思います。一種の燃え尽き症候群というか、しほりさんが勉強をあれだけ頑張れていたのはお父さんとの約束を果たして、アイドルでいることを認めてもらいたかったからでしょう。その条件をクリアして過去最高の成績をとることができたのに、なのに、後で約束をなかったことにされたら、何のために頑張ったのかわかりません。それはもう自暴自棄になっても仕方ないはずです」


 少し嫌味にもとれる言葉を使ったが、しほりん父は特に動じている風もなく、

「……確かに。ただうちの娘は賢い子だ。きっと私たちの思いもいつか理解してくれると信じている」


「ですが……実際に今、しほりさんは自暴自棄になってしまっていますよね?」


 しほりん父の目がぎろりとこっちを見た。


「まだ心の整理がついていないだけだろう。時がたてばわかってくれる。ちゃんと」


 これまでとはわずかではあるが歯切れの悪いしほりん父の様子を俺は見逃さなかった。


「……でも、長いんですよね? 予想外に」


「…………君は、何が言いたいのかい?」


「正直娘さんがここまで反抗されるとは思われなかったのではありませんか?」


「…………そうだね。確かに」


 しほりん父はゆっくりと口を開いた。


「このままでは誰にとってもよくない状況だと思います」

「だが、こればっかりは仕方がない。時間がたてば娘もきっと、きっとわかってくれる……はずだ、そう信じている」



 俺はひとつ息を吸う。


 僅かな光でも見えるのなら、


「僕に……ひとつ案があります」


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