第7章‐5.5 Interlude~夏恋花火~
「お待たせしましたっ」
カランコロンという下駄の音とともに、小走りで駆け寄ってくる浴衣姿の女の子。
「お、おう」
「待ちましたか?」
「いいや全然。今来たばっかりだよ」
「本当ですか? いつもそう言ってる気がしますけど……」
「そ、そんなことないよ……」
「もう……」
彼女はそう言いながら自然と俺の左手を掴んできゅっと握ってくる。そして軽く俺の腕を引っ張って、こっちを向いて
「それでは行きましょう。お兄様」
ああ、これはきっと夢だ。
だって、アイドルのしほりんが俺なんかと、こんな……そんなことあるはずがない。きっとこれは残念な頭の俺の……儚い夢物語。
「ねえ、どうです?」
そう言って隣で俺を軽く見上げてくる隣のしほりん。いや、もう今はしほりんではない。彼女はもう3年も前にアイドルを引退した、そして今はただの普通の女子高生だ。まあただの……っていうのも違う。成績優秀才色兼備そして美人で可愛くて性格も優しくて、もう非の打ちどころのない完璧美少女である。美少女……には違いないが、最近の彼女はまずます美しくなっていってて……もうあの頃から十分綺麗だったのに、さらに綺麗に、より大人っぽくなって、それでも時にあの頃、俺たちが出会った頃のような無邪気な可愛さを見せつけてくるもんだから、俺は未だにどぎまぎしてしまうのだった。それが彼女にばれたら今度こそ夢から覚めてしまうのではないか。有体に言うと見限られてしまうのではないかと怖くて怖くて、俺はそんな情けない自分がばれてしまわないように、いつも必死に平静を装っている。装っているのだが、今日の彼女はそれをどうもお気に召さないらしかった。
「な、何が?」
「とぼけないでください。どうせわかっていらっしゃるのでしょう?」
「え、えーと、その浴衣……とてもきれいだよ?」
結構勇気を出して言ったつもりの台詞だったが、頬を膨らませたままの彼女。
「綺麗なのは浴衣だけなんですか?」
「え、ええと……」
じっと目を見つめられると、息が詰まりそうだ。心臓の鼓動がますます早くなっていく。改めてしほりの浴衣を眺めてみる。紺色の生地に淡い青や桃色の朝顔が映える落ち着いた印象の浴衣だが、銀色の帯には光沢があって、決して地味な感じではない。むしろ彼女の美しさを際立たせているようにさえ感じてしまう。あと後ろで結い上げた髪に挿してある赤いかんざしは、彼女のきれいな黒髪をさらに引き立たせていて、本当によく似合っていた。いつもは見えない彼女のうなじが嫌でも目に入ってきて、本当に、目の毒だ。ちゃんと表情を引き締めなくては。
「と、とても綺麗だ……しほりの浴衣姿」
「ありがとうございますっ! お兄様もその浴衣とても似合っていますよ」
「ど、どうも……」
「でも、なんか言わせちゃったみたいで嫌なんですけど」
「そ、そんなことない! ずっと綺麗で似合ってて最高って初めから思ってたけど恥ずかしくて言えなかっただけだからっ!」
「……っ、ぁ、ありがとう……ございます」
しほりを悲しませたくなくて慌てて弁解したのだが、変に焦ってしまって、なんか変な空気になってしまった。
「あっお兄様! 金魚すくいですよっ。やっていきませんか?」
明るい彼女の声に助けられたな……そう思いながら俺は彼女の柔らかい手に引っ張られて、その幸せに身を委ねる。
射的やヨーヨー吊りといった夏祭りの定番を十分楽しんだ俺たち。しほりんの手にはりんご飴が握られている。俺とつないでいる方の手にはさっき釣ったばかりの水風船、二人でそれを仲良くポンポンしている感じ。
「お兄様、一口どうですか?」
「え、い、いいの?」
「はいっ!」
「じゃ、じゃあお言葉に甘えて……」
さくっ
うん、必要以上に甘ったるい味が口の中に広がる。
「どうですか?」
「しゃり……お、美味しい」
「よかったぁ」
俺に向かって微笑む彼女。やばい、幸せ死しそう……
「わ私も……お兄様の、その、頂いてもいい……ですか?」
上目遣いに聞いてくる彼女。やっば。可愛すぎるよオイ。
「も、もちろん……ど、どうぞ」
「で、では……いただきます」
俺が片手に持っているわたがしに顔を近づけていって……そして小さく口を開けて、
ぱくっ
はむはむと可愛く口を動かして、
「そっちも美味しいですね」
いや、可愛いかよ。
その時だった。
「あれ、今の……しほりんじゃね?」
通り過ぎた人がそう言ったのが後ろから聞こえた。
「え、誰それ?」
「ほら今すれ違ったあの……」
「だから誰よ?」
「知らねえの? ほら前アイドルやってためっちゃ可愛い子よ」
「知らんし。てかウチより可愛い感じ?」
「え、ええ、いやそんなんじゃなくてだな……」
「ウチ帰る!」
「いやちょっと待って!」
大分歩いてから恐る恐る後ろを振り返ったがもう大丈夫そうだった。
「ふう、どうにかバレなくてよかったな」
「まだ、覚えている人いるんですね……」
「そりゃしほりんは有名人だったからな」
「でもあれから3年も経つんですよ……」
そう言ってしほりんはさっきの人がいた人ごみの方に目をやった。その表情はあの頃、しほりがアイドルを辞めさせられた頃によく見ていたものに少し似ていた気がした。俺は迷ったが沈黙に耐えられなくなって口を開いた。
「もしかして……後悔してる?」
「何がですか?」
「え、ええと、その、あの時……」
「……全然。後悔なんかないです」
「……本当?」
「だって……お兄様と、こうして、お付き合いできることになったのですから」
中3の夏、しほりは卒業公演をしてグループを卒業した。しばらくの間ずっとしほりは落ち込んでいた。それを俺や亜季乃が励ました。しほりの父公認で彼女を連れだして遊びに行ったり、あとは正式に家庭教師になってしほりの家によくお邪魔するようになった。彼女が高等部の進級試験で最高クラスへの合格を決めた後、俺はしほりから告白されて彼氏彼女の関係になった。まさしく夢の様だったが、断る理由なんて何もなかった。しほり父には反対されるとは思ったが、彼にも負い目があったのか思ったよりすんなり受け入れてもらえた。女子高の彼女とはいつも会えるわけではなかったが、週2位で勉強も教えに行ったり、土日はたまにデートに出かけたり。俺が大学受験の時はさすがに自粛したが、俺が受かった直後の春休みはその反動で週7でデートを重ね、遠距離恋愛中の今は、たまに俺が地元に帰った時にいちゃいちゃするという素晴らしく充実したご都合の良すぎるハッピーライフを送っているのだった。
「アイドルは恋愛禁止ですからね。私はとっても幸せですよ?」
そう言ってはにかむ隣のしほり。
「あ、そろそろ始まるみたいですよ」
川向うから花火が上がり始めた。
どーん、どーん……花火が開く音が響く。
「綺麗ですね……」
明るく照らされる彼女の横顔に見とれてしまった。
そして、さっき言えなかった言葉が俺の頭の中で花火の音とともに反芻される。
君は本当は、満足してないんじゃないか?
俺と付き合うことでその気持ちをごまかしてるんじゃないか?
君は本当に俺のことが好きなのか?
自分の気持ちに嘘をついてはいないか?
実は今もまだアイドルやりたいんじゃないか?
決して言えるはずがない。もうあの時のようにしほりの困った顔なんて見たくないし、彼女を悲しませたくない。本心を知ったところでそれが彼女にとっていいとは限らないのだ。それは俺にとっても。もし彼女が俺と付き合うことでそれをごまかしていたとしても俺にはそれを咎めることもどうすることもできない。彼女と付き合える幸せを自ら手放すなんてありえない、ありえないのだ。本音を知ることと幸せになることは決して同義ではない。
「……お兄様?」
俺は花火を見ずずっと彼女の横顔を見つめていたようだった。それに気づいた彼女がそれを訝しんでこちらを覗き込んできた。
「あ、えーと……」
「そそんなに見つめられると照れちゃいます……」
頬をぽっと赤らめるしほり。いや、単純に花火の灯りのせいかもしれないが。絡め合ってつないだ指にきゅっと力が込められた気がした。そしてしほりがつま先立ちになって俺の方に顔を近づけてきて、そして目を閉じた。
俺は少しだけ顔を下げて、彼女の唇にそっとキスをした。
二人だけの世界に花火の音だけが響いていた。
どれだけそうしていただろう。離れていくしほりの名残惜しそうな表情。そして
「私……あなたのことが、本当に、大好きです」
しほりの目はわずかだか潤んでいるように見えた。満開の花火を背景にとびっきりの笑顔を見せる彼女。その頬に一筋の光が伝い落ちたような気がしたが、花火が逆光になってはっきりとはわからなかった。
花火の音だけが響いていた。
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